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たるは、この​人​​ヒト​の[​業​​ワザ​]なりき。(この事、卷四にあり。


§51(01:31:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​忽圖剌 合罕​​クトラ カガン​の三子

 ​忽圖剌 合罕​​クトラ カガン​の​子​​コ​、​拙赤​​ヂユチ​(親征錄​搠只 可汗​​シユヂ カガン​)、​吉兒馬兀​​ギルマウ​、​阿勒壇​​アルタン​(親征錄、元史本紀、​按壇​​アンタン​、また​按彈​​アンタン​)​三人​​ミタリ​ありき。

​忽蘭​​クラン​の子

​忽蘭 巴阿禿兒​​クラン バアトル​(世系表​忽蘭 八都︀兒​​フラン バードル​)の​子​​コ​ ​也客 扯嗹​​エケ チエレン​ありき。​巴歹​​バダイ​、​乞失黎黑​​キシリク​ ​二人​​フタリ​の​荅兒罕​​ダルカン​の​官人​​クワンニン​は、この人の[​家人​​ケニン​]なりき。(この二人の事は、卷五 卷六にあり。)​合荅安​​カダアン​、​脫朶延​​トドエン​ ​二人​​フタリ​は、​子孫​​ウミノコ​なかりき。


§52(01:32:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​合不勒​​カブル​の後 ​俺巴孩​​アンバカイ​の​管​​ウシハ​き

 ​普​​アマネ​き​忙豁勒​​モンゴル​(全 蒙古 部)を​合不勒 合罕​​カブル カガン​ ​管​​ウシハ​きたり。(蒙古の酋長は、合不勒に至り始めて合罕と稱したり。大金 國志の熙宗 皇統 七年の處に「朦骨 酋長 熬羅 孛極烈、自稱祖︀元 皇帝」とある熬羅は、卽ち合不勒なり。金の皇統 七年は、我が近衞 天皇 久安 三年 丁卯、宋の高宗 紹興 十七年、西紀 一一四四年、成吉思 汗の生るゝより十五年前なり。)​合不勒 合罕​​カブル カガン​の​後​​ノチ​、​合不勒 合罕​​カブル カガン​の​言​​コトバ​にて、その​七人​​ナヽタリ​の​子​​コ​あれども、​想昆 必勒格​​シヤングン ビルゲ​の​子​​コ​ ​俺巴孩 合罕​​アンバカイ カガン​は、​普​​アマネ​き​忙豁勒​​モンゴル​を​管​​ウシハ​きたり。(忙豁勒の名は、甚だ古し。唐書 室韋の傳の蒙兀 室韋、松漠 紀聞の盲骨子、朦古、契丹 國志の蒙骨、蒙古里、遼史の萌古、蒙韃 備錄の蒙古斯、大金 國志の蒙骨子、朦骨、萌骨 等は、皆この忙豁勒なり。


§53(01:32:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​俺巴孩​​アンバカイ​の​拏​​トラ​はれ

 ​不余兒 納兀兒​​ブユル ナウル​、​闊連 納兀兒​​コレン ナウル​(納兀兒は湖水。今の​布伊爾 諾爾​​ブイル ノール​、​呼倫 諾爾​​フルン ノール​)​二湖​​ニコ​の​閒​​アヒダ​なる​兀兒失溫 木嗹​​ウルシウン ムレン​(今の​烏爾順 河​​ウルシユン ガハ​)に​居​​ヲ​る​阿亦里兀惕​​アイリウト​、​備嚕兀惕​​ビルウト​(二姓)なる​塔塔兒​​タタル​の​民​​タミ​に、​俺巴孩 合罕​​アンバカイ カガン​は、​女​​ムスメ​を​與​​アタ​へて、​自​​ミヅカ​らその​女​​ムスメ​を​送​​オク​りて​往​​ユ​きたるに、​塔塔兒​​タタル​の​主因​​ヂユイン​(種姓)の​民​​タミ​は、​俺巴孩 合罕​​アンバカイ カガン​を​拏​​トラ​へて、​乞塔惕​​キタト​の(契丹の複稱。蒙古人は、支那人を乞塔惕と云ひ、契丹人を合喇 乞塔惕と云ふ。)​阿勒壇 合罕​​アルタン カガン​に(阿勒壇は、黃金なり。蒙語 乞塔敦 阿勒壇 合罕は、支那の金 皇帝、云ふに同じ。この金 皇帝は、廢帝 亮なるべし。)​率​​ヰ​て​往​​ユ​く​時​​トキ​、​俺巴孩 合罕​​アンバカイ カガン​は、​別速惕​​ベスト​の​人​​ヒト​ ​巴剌合赤​​バラカチ​なる​使​​ツカヒ​もて​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るに、「​合不勒 合罕​​カブル カガン​の​七子​​シチシ​の​中​​ナカ​