Page:成吉思汗実録.pdf/74

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窠は、窩の誤りならん。輟耕錄は、又 笛不の二字に誤れり。)[​次​​ツギ​は]​巴兒壇 巴阿禿兒​​バルタン バアトル​(元史​八哩丹​​バリダン​、蒙古 源流​巴爾達木 巴圖兒​​バルダム バートル​)、​忽禿黑禿 蒙古兒​​クトクト モングル​(卷四に古を列とせり。親征錄​忽都︀徒 忙納兒​​フドト モンナル​、元史​忽都︀魯 咩聶兒​​フドル メネル​)、​忽圖剌 合罕​​クトラ カガン​(忽圖剌 大君。親征錄​忽脫蘭 可汗​​フトラン カガン​、世系表​忽魯剌 罕​​フルラ ハン​)、​忽闌​​クラン​(親征錄 世系表​忽蘭​​フラン​)、​合荅安​​カダアン​(世系表​合丹 八都︀兒​​カダン バードル​)、​脫朶延 斡惕赤斤​​トドエン オツチギン​、(親征錄​脫端​​トドン​、世系表​掇端 斡赤斤​​トドン オチギン​。斡惕赤斤は、竈なり。轉じて家產の義となる。蒙古の俗、少子は父の遺產を受くる故に、斡惕赤斤 卽ち 竈君と稱す。元史には、斡赤斤、斡眞、斡嗔、斡陳など書けり。)この​七人​​ナヽタリ​ありき。


§49(01:30:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​斡勤 巴兒合黑​​オキン バルカク​の​胤​​タネ​なる​禹兒乞​​ユルキ​ ​姓​​ウヂ​

 ​斡勤 巴兒合黑​​オキン バルカク​の​子​​コ​ ​忽禿黑禿 禹兒乞​​クトクト ユルキ​ありき。(この人は、卷三にも卷四にも莎兒合禿 主兒乞とあれば、忽禿黑禿は、莎兒合禿の誤りにして、忽禿黑禿 蒙古兒と混じたるなり)​忽禿黑禿 禹兒乞​​クトクト ユルキ​の​子​​コ​、​薛扯 別乞​​セチエ ベキ​(別乞は、族長の稱。親征錄 元史 本紀​薛徹 別吉​​セチエ ベギ​)、​台出​​タイチユ​(親征錄、元史 本紀、​大丑​​タイチウ​)​二人​​フタリ​ありき。​禹兒乞​​ユルキ​(親征錄​月兒斤​​ユルキン​)​姓​​ウヂ​と​彼等​​カレラ​は​爲​​ナ​れり。


§50(01:31:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​巴兒壇​​バルタン​の四子

 ​巴兒壇 巴阿禿兒​​バルタン バアトル​の​子​​コ​、​忙格禿 乞顏​​モンゲト キヤン​(乞顏は、合不勒 合罕の子孫、蒙古の嫡流の姓なり。孛兒只斤は、孛端察兒の子孫 總體の姓にして、我が經基王の子孫みな源氏と稱するが如く乞顏は、その宗家に限られ、我が 新田 足利 德川の如し。元史 本紀の​奇渥溫​​キヤウン​は、音 正しからず。世系表​蒙奇睹 黑顏​​モンキト キヤン​、蒙古 源流​孟格圖 徹辰​​ムンゲト チエチエン​)、​捏坤 太石​​ネクン タイシ​(太石は、漢︀語 太師の轉にして、遼代 以來 北人の美稱となれり。今は台吉と書き、タイヂと呼びて、蒙古の爵の名となれり。明本 音譯に太子と書けるは、譯人の誤りなり。蒙古には儲君なし。太子は、儲君にして、タイツと呼び、音 義みな違ふ。後來 元帝の諸︀子をみな太子と稱するは、皇子の義にして、太石とは又 別なり。世系表​聶昆 太司​​ネグン タイシ​、蒙古 源流​訥衮 泰實​​ネグン タイシ​)、​也速該 巴阿禿兒​​エスガイ バアトル​(親征錄 元史​烈祖︀ 神︀元 皇帝 也速該​​レツソ シンゲン クワウテイ エスガイ​、蒙古 源流​伊蘇凱 巴圖兒​​イスガイ バートル​)、​荅哩台 斡惕赤斤​​ダリタイ オツチギン​、(親征錄​荅里台​​ダリタイ​、元史 本紀​荅力台​​ダリタイ​、世系表​荅里眞​​ダリヂン​。眞は、直の誤りか。然らざれば、里眞の閒に台斡の二字脫ちたるなり。蒙古 源流​達哩岱 諤濟錦​​ダリダイ オヂギン​)、この​四人​​ヨタリ​ありき。

​忽禿黑禿 蒙古兒​​クトクト モングル​の子

​忽禿黑禿 蒙古兒​​クトクト モングル​の​子​​コ​ ​不哩 孛闊​​ブリ ボコ​(不哩 力士)ありき。​斡難︀​​オナン​の​林​​ハヤシ​(斡難︀ 河原の林)に​筵會​​ウタゲ​せる​時​​トキ​、​別勒古台​​ベルグタイ​(成吉思 汗の弟)の​肩​​カタ​を​劈​​サ​き​斫​​キ​り