へるに據れば、この闕字は、必ず一の字なるべし。「妃 怯烈 氏、子十一人。長憲宗、次四則世祖︀也。憲宗立、追諡曰㆓英武皇帝㆒、廟號㆓睿宗㆒。二年、合㆓祭昊天后土㆒、以㆓太祖︀睿宗㆒配享。世祖︀至元二年、改諡㆓景襄皇帝㆒。」祭祀志 一「憲宗之二年秋八月八日、始以㆓冕服㆒拜㆓天於日月山㆒、其十二日、合㆓祭昊天后土㆒、始大合㆑樂、作㆓牌位㆒、以㆓太祖︀睿宗㆒配享。」祭祀志 三「武宗至大二年十月、以㆑將㆑加㆓諡太祖︀睿宗㆒、擇㆑日請㆓太祖︀睿宗尊諡于天㆒、改㆓製金表神︀主㆒、題㆓寫尊諡廟號㆒。十二月乙卯、親享㆓太廟㆒、奉㆓玉册玉寶㆒、加㆓上太祖︀聖武皇帝尊諡㆒曰㆓法天啓運㆒、加㆓上睿宗景襄皇帝㆒曰㆓仁聖㆒、」
拖雷の身替りの事は、喇失惕の史にも記せり。只 禱りの辭は、祕史と稍 異なり。「拖里は、斡歌台の床に近づき、師巫の聖水を盛れる木の器︀を捧げて、神︀に白さく「常世の大神︀よ。もし爾は人の罪に隨ひて罰なふならば、我は斡歌台よりも多く罰なはるべきことを爾は知り給はん。我は、軍にて多くの民を殺︀せり。我は、多くの女ども兒どもを驅り立てたり。我は多くの父ども母どもに淚を流させたり。もし爾は爾の羣僕の中よりその美好の爲に召し上げんとならば、我は又 斡歌台よりも立派なるを主張せん。斡歌台の代りに我を取りて、彼の病を我に移し給へ」と祈︀りたれば、斡歌台は疾 愈えて、拖里は久しからず歿りぬ」とあり。)
§273(12:25:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かくて阿勒壇 罕アルタン カンを窮キハめて、薛兀薛セウセ(明譯、小厮 卽 こもの)と云イふ名ナを與アタへて、彼カレの金コガネ 銀シロカネ 金キンあり紋アヤある織物オリモノ 財タカラ 阿剌沙思アラシヤス(明譯淮馬ワイバ)薛兀薛思セウセス(小者︀ども)を收ヲサめて、先手サキテの探馬臣タンマチンを置オきて、南京ナンキン 中都︀チウトの處處トコロドコロに城シロの裏ウチに荅嚕合臣ダルガチンを置オきて、平タヒラけく回カヘりて、合喇 豁嚕木カラ ゴルムに下馬ゲバせり。(
探馬臣は、探馬赤とも云ふ。荅嚕合臣を荅嚕合赤とも云ふが如し。元史 兵志 一に「若㆓夫軍士㆒、則初有㆓蒙古 軍 探馬赤 軍㆒。蒙古 軍皆國人、探馬赤 軍則諸︀部族也。」兵志 二 鎭戍の條に「世祖︀之時、海︀宇混一、然後命㆓宗王㆒將㆑兵鎭㆓邊徼襟喉之地㆒。河洛山東據㆓天下腹心㆒、則以㆓蒙古 探馬赤 軍㆒、列㆓大府㆒以屯㆑之」とあれば、探馬赤 軍は、藩地に鎭戍する諸︀部族の兵にして、探馬臣の官は、その將帥なり。
闊闊不花の傳に「歲庚寅、太祖︀㆓命太師 木華黎㆒伐㆑金、分㆓探馬赤㆒爲㆓五部㆒、各置㆓將一人㆒、闊闊不花 爲㆓五部前鋒都︀元帥㆒、云云。歲丙申、太宗命㆓五部將㆒、分鎭㆓中原㆒、闊闊不花鎭㆓益都︀濟南㆒、按察兒 鎭㆓平陽太原㆒、孛羅 鎭㆓眞定㆒、肖乃台 鎭㆓大名㆒、怯烈台 鎭㆓東平㆒。」庚寅は、戊寅(太祖︀ 十三年)の誤なり。木華黎の傳に「丁丑(太祖︀ 十二年)八月、詔封㆓太師國王㆒、云云。分㆓弘吉剌 亦乞烈思 兀魯兀 忙兀 等十軍、及 吾也 而 契丹 蕃漢︀等軍㆒、竝屬㆓麾下㆒〈[#返点の「一」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉」とある契丹 蕃漢︀等軍は、卽 探馬赤 軍にて、親征錄 集史は、皆この事を戊寅の年(卽 西紀 一二一八年)の事とせり。「丙申(太宗八年)、命㆓五部將㆒分鎭㆓中原㆒」は、卽 本書 探馬臣を置くの事なり。この五部將の名は、兵志 一 世祖︀ 中統 三年 三月の詔に「眞定 彰德 那州 洛 磁 東平 大名 平陽 太原 衞輝懷孟等路各處、有㆘舊屬㆓按札兒、孛羅、笑乃䚟、闊闊不花、不里合 拔都︀兒 等官所管㆒探馬赤 軍人㆖、乙卯歲(憲宗 五年)籍爲㆓民戶㆒、云云、」石高山の傳に「昔太祖︀皇帝所集 按察兒 孛羅 窟里台 孛羅海︀ 拔都︀ 闊闊