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子 闊列堅 太子、太宗紀に果魯干、輟耕錄に果里干 缺劉堅、通鑑 續編に郭列干など書けり。古勒干の母を、卜咧惕施乃迭兒は、喇失惕を引きて、金帝の女 古克主(卽 岐國 公主)なりとし、別咧津は、忽闌 合屯なりとして、金帝の女 昆主 合屯には子なしと云へり。古勒干は、嚕西亞にて戰死せり。斡兒荅は、巴禿の兄なり。太宗紀に斡魯朶とあり、世系表には漏れたり。唐古惕 失班は、皆 巴禿の弟なり。失班は、速不台の傳に諸︀王 昔班とあり、世系表には無し。拜荅兒 唐古惕の名は、元史に見えず。


§271(12:19:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


金國征伐の議

 ​又​​マタ​ ​斡歌歹 合罕​​オゴダイ カガン​は、​察阿歹 兄​​チヤアダイ イロセ​の​處​​トコロ​に​謀​​ハカ​りて​遣​​ヤ​るには「​成吉思 合罕 額赤格​​チンギス カガン エチゲ​の​見成​​ケンセイ​[の​大位​​タイヰ​]に​坐​​スワ​れり。いかなる​才能​​サイノウ​に​依​​ヨ​りてか​坐​​スワ​れると​言​​イ​はれたり、​我​​ワレ​。​察阿歹 兄​​チヤアダイ イロセ​ ​可​​ヨシ​とせば、​我等​​ワレラ​の​皇考​​スメラミオヤ​は、​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​の​阿勒壇 罕​​アルタン カン​を​遣掛​​ヤリカ​けて(事をし掛けて)​置​​オ​きたり。​今​​イマ​ ​我​​ワレ​ ​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​出馬​​シユツバ​せん」と​謀​​ハカ​りて​遣​​ヤ​れば、​察阿歹 兄​​チヤアダイ イロセ​ ​可​​ヨシ​として「​何​​ナニ​の​妨​​サマタゲ​[か​有​​ア​らん]。​老營​​ラウエイ​の​裏​​ウチ​は​好​​ヨ​き​人​​ヒト​に​委​​ユダ​ねて​出馬​​シユツバ​せよ。​我​​ワレ​は、こゝより​軍​​イクサ​を​出​​イダ​して​遣​​ヤ​らん」と​云​​イ​ひて​遣​​ヤ​りき​大​​ダイ​ ​斡兒朶思​​オルドス​(斡兒朶の複稱)の​裏​​ウチ​は、​斡勒荅合兒 豁兒赤​​オルダカル ゴルチ​に​委​​ユダ​ねて、


§272(12:20:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


太宗の親征

 ​兔​​ウサギ​の​年​​トシ​(我が後堀河 天皇 寬喜 三年 辛卯、宋の紹定 四年、金の正大 八年、元の太宗 三年、西紀 一二三一年、太宗 四十六歲の時なり。然るに、元史 太宗紀に據るに、太宗の親征は、この年の前年、太宗 二年 庚寅より始まりたれば、本書の紀年は誤れり。兔の年は、虎の年に作るべし。)​斡歌歹 合罕​​オゴダイ カガン​は、​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​出馬​​シユツバ​して、​者︀別​​ヂエベ​を​先鋒​​センポウ​に​遣​​ヤ​りぬ。かくて​乞塔惕​​キタト​の​軍​​イクサ​を​敗​​ヤブ​りて、​爛木​​クチキ​の​積​​ツモ​れる​如​​ゴト​く​殺︀​​コロ​して、​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​を​越​​コ​えて、​處處​​トコロドコロ​に​彼等​​カレラ​の​郡城​​グンジヤウ​どもを​攻​​セ​めさせに​軍​​イクサ​を​行​​ユ​かしめて、​斡歌歹 合罕​​オゴダイ カガン​は​失喇迭克​​シラデク​(龍虎臺)に​下馬​​ゲバ​(駐蹕)せり。(者︀別は、太祖︀の時、西征より還りて閒もなく歿したるに、その幽靈の今こゝに現れたるは笑ふべし。すべて者︀別の先鋒、居庸の攻め破り、三道の侵掠、龍虎臺の駐蹕は、皆 太祖︀ 南征の時の事なれども、その事 甚 名高くして、人口に膾炙したる故に、太宗の南征にもふと誤りて書き加へたるならん。この