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に玉兒格 塔伊兒とありと云へり。卜咧惕施乃迭兒 曰く「嚕西亞の史に據れば、玻羅物次(乞魄察克)の汗の一人、名は玉哩 晃察喀威赤と云へるもの、一二二三年 蒙古 人に殺︀されたり。」阿里吉 河は、喀勒喀 河の訛なるべし。大小 密赤思老は、乞額甫の君と徹兒尼郭甫の君となり。

​曷思麥里​​フス メリク​の傳

又 曷思麥里の傳に「帝遣使趣哲伯、疾馳以討欽察、云云。進圍斡羅思於 鐵兒山之、獲其國主 密只思臘。哲伯 命曷思麥里、獻諸︀ 尤赤 太子之。尋征康里、至孛子八里 城、與其主 霍脫思 罕戰、又 敗其軍。進至欽察、亦平之。軍還、哲伯 卒」とあり。鐵兒山は、哲別 補傳に孩耳桑と書き、嚕西亞の北軍 大敗の地とし、その自注に「鐵兒山、乃地名、非山名」と云へり。この密只思臘は、徹兒尼郭甫の君なり。康里を征したるは、不勒噶兒より回れる時の事なるべければ、「進至欽察」とあるは非なり。

十一部の內 八部の征伏

さて本書に列ねたる十一部落、馬札兒と客喇勒とは同國なりとして十部落の內、乞卜察兀惕 卽 乞魄察克 玻羅物次、斡嚕速惕 卽 嚕西亞、阿速惕 卽 阿闌、撒速惕 卽 撒喀新、薛兒客速惕 卽 徹兒客思、孛剌兒 卽 不勒噶兒の六部の名は、珀兒沙 嚕西亞の舊史なる二將 西征の條に見え、巴只吉惕 卽 巴施客兒篤の名はそこに見えざれども、不勒噶兒と康克里との間にあれば、不勒噶兒より回れる時 從へたるならん。康鄰 卽 康里を征したることは、上に引ける曷思麥里の傳に見えたり。唯 馬札兒の國 卽 洪噶哩亞は、二將の至らざるのみならず、出征の目的の中に加へられたりとも思はれざれば、太宗 八年の西征の時の事と混じて誤り加へたるに似たり。又 客失米兒 卽 喀施米兒は、二將 出征の路とは遙に隔たれゝば、これも誤りならん。


§263(11:50:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​荅嚕合赤​​ダルガチ​の設け

 ​又​​マタ​ ​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​を​取​​ト​り​畢​​ヲ​へて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あり、​城城​​シロジロ​に​荅嚕合臣​​ダルガチン​を​置​​オ​きて、(親征錄 癸未の夏 八魯彎 川 避暑︀の處に「時上旣定西域、置達魯花赤 於各城、監治之〈[#返点の「一」は底本では、なし。昭和18年復刻版に倣い修正]〉」と云ひ、元史も同じ。荅嚕合臣は、荅嚕合赤とも云ひ、元史は常に達魯花赤と書き、明譯には鎭守官とあり、蒙語 荅嚕忽は、壓ふる 鎭むるの義あるより、その語尾を變へて、一州一局を統ぶる官の名とせり。趙翼の二十二史 劄記に曰く「達魯花赤、掌印辨事之官。不職之文武大小、或路府或州縣、皆設此官。太祖︀時、授札八兒 黃河以北鐵門以南天下都︀ 達魯花赤、木華黎 以谷里夾打元帥 達魯花赤。又 帖木兒補化 爲鞏昌都︀總帥 達魯花赤。世祖︀以別的因屯田府 達魯花赤、唵木海︀ 爲隨路砲手 達魯花赤。多 蒙古 人 爲之、漢︀人亦有此者︀。劉好禮爲永熙路 達魯花赤、張炤爲鎭江路 達魯花赤、張君佐爲黃州 達魯花赤、張賁亨爲處州 達魯花赤。」珀兒沙にては荅魯合赤の赤を略きて呼びたりと見えて、喇失惕の史には荅兒噶とあり。珀兒沙の亦勒罕すら自ら荅嚕噶と稱し、その頃 鑄たる貨幣に大汗 卽 元帝の名を書きて、その下に荅嚕噶の稱を加へたりと(多遜)云ふ。)​兀嚨格赤​​ウロンゲチ​の​城​​シロ​より

​忽嚕姆石​​クルムシ​ 姓の父子

​牙剌哇赤​​ヤラワチ​ ​馬思忽惕​​マスクト​と​云​​イ​ふ​父子​​オヤコ​ ​二人​​フタリ​、​忽嚕木石​​クルムシ​の​姓​​ウヂ​ある​撒兒塔兀勒​​サルタウル​ ​來​​キ​て、​城​​シロ​の​緣故​​エンコ​ ​體例​​タイレイ​を​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​奏​​マウ​して、「​緣故​​コトノモト​に​遵​​シタガ​ひ​知​​シ​らせ」と​云​​イ​はれて、その​子​​コ​を​馬思忽惕 忽嚕木石​​マスクト クルムシ​を、​我等​​ワレラ​の​荅嚕合思​​ダルガス​(荅嚕合赤の複稱