Page:成吉思汗実録.pdf/316

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の外に堅き案ありしが如くなれども、多遜に據れば、奴思咧惕庫は卽 塔列干の寨なり。錄に只 塔里寒 寨とあれば、恐らくは別咧津の誤れるならん。

​篾嚕察克​​メルチヤク​

錄の馬魯察葉可は、喇失惕の篾嚕察克にして、古くは篾嚕 阿勒 嚕篤と云へり。阿喇必亞の地理家に據れば、馬嚕 又は篾嚕と云ふ所 二所あり。大なるを篾嚕 沙希展と云ひ、その屬邑を篾嚕 阿勒 嚕篤と云ひ、共に篾嚕 嚕篤(木兒噶卜)河の濱に在りき。今も篾嚕察克と云ひて、篾兒甫の東南 百十 英里、嚕西亞 阿富汗の界に近き所に在り。

​篾嚕​​メル​

錄の馬盧は、西史の篾嚕 卽 馬嚕 沙希展にして、今の篾兒甫なり。篾嚕は古き名城にして、漢︀書 西域傳に「安息東界 木鹿 城、號爲小 安息」とあり。中世は闊喇散 四大城の一となれり。新唐書 大食の傳に呼羅珊 木鹿とあるは、闊喇散の篾嚕なり。

​撒喇黑思​​サラクス​

錄の昔剌思は、西史の薛喇黑思 又は撒喇黑思にして、元史 地理志に撒剌哈西とあり。遺址は、篾兒甫の西南、赫哩 嚕篤 河の東岸に在り、嚕西亞に屬せり。西岸に新 撒喇黑思と云ふ堡あり、珀兒沙に屬せり。

​捏撒​​ネサ​

西史の捏撒は、薛喇黑思の西北、禿思の東北に在り。

​禿思​​トス​

錄の徒思は、西史の禿思にして、元史 地理志に途思とあり。思思は、名高き古城にして、名君 哈㖮 阿勒 喇失惕はこゝに崩じ、詩人 費兒都︀昔 星學の大家 納思咧丁はこゝの人なりき。遺址は、篾舍惕の西北 十七 英里にあり。錄の泥沙兀兒 恩察兀兒は、祕史の亦薛不兒、西史の你沙不兒、前の注に見えたり。祕史の昔思田は、西史の昔思壇 又 薛亦思壇なり。然れども昔思壇に入りたるは、拖雷の兄 斡歌歹 明年 壬午の事なれば、この昔思田は、庫希思壇の誤なるべし。

​木剌希荅​​ムラヒダ​

錄の木剌夷は、元史 太祖︀紀は同じく、太宗紀に木羅夷、憲宗紀に沒里奚、郭侃の傳に木乃兮、常德の西使記に木乃奚とあり。正しくは木剌希荅にして、國の名に非ず、抹哈篾惕 敎徒の一派より成れる部落の名なり。亦思馬額勒を祖︀とするが故に、亦思馬額勒 宗徒とも云ふ。元史 譯文 證補に木剌夷 補傳ありて、その興亡を委しく述べたり。裏海︀の南なる額勒不兒思 連山の城寨に據り、その領土は庫希思壇の地に及べり。故に拖雷の庫希思壇を荒せることを錄に木剌夷を掠むと云へり。

​出黑扯嗹​​チユクチエレン​

出黑扯嗹の城は、喇失惕の札只㘓なり。錄の搠搠蘭 河は、舍哩弗丁の「咱弗兒 納篾」に見えたる卓克卓㘓 河にして、出黑址嗹と音 近ければ、地の名を取りて河に名づけたるものなるべし。咱弗兒 納篾に據れば、この河は、你沙不兒より安篤恢に往く路にて、木兒噶卜 河の西にあり。然らば赫哩 嚕篤 河の異名なるべし。喇失惕の庫姆者︀㘓 河も、赫哩 嚕篤 河の外にはあるまじ。名のわけは知らず。錄の也里 野里は、祕史の亦嚕、西史の赫喇惕、前の注に見えたり。


§260(11:44:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の我儘

 ​拙赤​​ヂユチ​ ​察阿歹​​チヤアダイ​ ​斡歌歹​​オゴダイ​ ​三人​​ミタリ​の​子​​ミコ​だちは、​斡嚨格赤​​オロンゲチ​の​城​​シロ​を​降​​クダ​して、​三人​​ミタリ​にて​城​​シロ​の​民​​タミ​を​分​​ワカ​け​合​​ア​ひて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​分前​​ワケマヘ​を​出​​イダ​さざりき。(剌失惕 曰く「斡歌台は、軍を統ぶることを命ぜられ、二人の兄に和解せしめたれば、軍 又 振ひ、力を合せて攻め落し、民を分けて軍士に與へ、一人にて二十四人づつを得たり」とありて、太祖︀に民を分たずとはなし。)この​三人​​ミタリ​の​子​​ミコ​だち​下馬​​ゲバ​して​來​​キ​ぬれば、

太祖︀の怒り

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​拙赤​​ヂユチ​ ​察阿歹​​チヤアダイ​ ​斡歌歹​​オゴダイ​