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§258(11:41:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


三皇子の​兀兒堅只​​ウルゲンチ​攻め

 かくて​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​巴嚕安 原​​バルアン バラ​より​回​​カヘ​りて、​拙赤​​ヂユチ​ ​察阿歹​​チヤアダイ​ ​斡歌歹​​オゴダイ​ ​三人​​ミタリ​の​子​​ミコ​だちを、​右手​​ミギテ​の​軍​​イクサ​にて、​阿梅︀ 木嗹​​アムイ ムレン​を​渡​​ワタ​りて​兀嚨格赤​​ウロンゲチ​の​城​​シロ​に​下營​​カエイ​せよとて​遣​​ヤ​りぬ。(巴嚕安 原より回りてと云ふは、叙事の順序 違へり。三皇子の派遣を命ぜられたるは、太祖︀の者︀剌列丁を追ひて南下する前、十五年 庚辰の春 撒馬兒罕を攻め落したる後、その秋 速勒壇 駐夏の地に太祖の駐まりし時の事なり。親征錄は、庚辰を誤りて明年 辛巳とし、「是夏、上駐軍於西域 速里壇 避暑︀之地忽都︀忽 那顏前鋒。秋、分遣大太子二太子三太子、率左軍玉龍傑赤 之城」と云へり。左軍は、右軍の誤なり。集史にも右軍とあり。

​阿木 荅哩牙​​アム ダリヤ​の古名

阿梅︀ 木嗹は、卽 阿木 荅哩牙にて、西游記に阿母 沒輦、劉郁の撰れる常德の西使記に暗木 河、元史に阿母 河 阿木 河などあり。木嗹は河の蒙古語、荅哩牙は河の突︀兒克語なり。額篤哩昔の地誌に哇黑施と云へるは、この河の古名にして、希臘人の斡克速思、漢︀書の嬀水、隋書 唐書の烏滸 水、唐 西域記の縛芻 河は、皆 哇黑施の轉なり。哇黑施の名は、今 阿木 河の上流なる北源の一大河の名に殘れり。阿喇必亞 人は只渾 河と云ひ、突︀兒克 人は阿木 河と云ふ。孛合喇の西南に當り、河の左岸、今の察兒錐の邊に、阿抹勒と云ふ城ありしに由り、阿木 河の名は起れり。阿抹勒を阿木也とも云ひたれば、河をも阿木也 河と云ひたること、中世の抹哈篾惕 敎徒の記錄に見ゆ。阿梅︀は、卽 阿木也の轉なり。

​兀兒堅只​​ウルゲンチ​の所在

兀嚨格赤は、親征錄 元史 本紀にも玉龍傑赤とあれども、正しくは兀兒堅只と云ふべし。耶律 楚材の西游錄に云く「蒲華 之西有大河、西入於海︀。其西有五里犍城、梭里檀 母后所居。富庶又盛於 蒲華。」五里犍は、卽 兀兒堅只の訛略、梭里檀 母后は速勒壇 抹哈篾惕の母 突︀兒罕 合屯なり。曷思麥里の傳に月亦心揭赤とあるは、月戀揭赤の寫し誤りなり。兀兒堅只は、闊喇自姆 國の舊都︀にして、今の希哇 城の西北、鹹海︀の南やゝ西、阿木 河の下流の西 二十七 英里にありき。阿木 河は、古は希哇 城の北にて二派に分れ、一派は今の如く北に流れて鹹海︀に入り、一派は西に流れ、折れて西南に流れ、裏海︀に入りき。兀兒堅只の城は、その西派の兩岸に立ち、橋にて續きたり。西紀 一五七五年の頃より西派は沙 壅がりて流れず、城も久しく廢れて、只 舊址のみ殘り、嚕西亞の地圖には庫尼牙(舊) 兀兒堅只と名づけて、也尼(新) 兀兒堅只に別てり。新 兀兒堅只は、元代 以後に起れる城にして、舊 兀兒堅只の東南 九十 英里ほどにあり、希哇 城の東北に當り、阿木 河の西岸に接し、希哇 國の商都︀なり。淸 一統志に烏爾根齊 城とあるは、卽 新 兀兒堅只なり。

​突︀兒罕 合屯​​テルケン カトン​の事略

多遜に據れば、突︀兒罕 合屯は、康克里の部長の女なるが故に、康克里の將士 從ひて閣喇自姆に入りたるもの多く、抹哈篾惕の征戰 常にその力に倚れり。それが爲に康克里の諸︀將 驕橫 跋扈し、突︀兒罕の權もその子に埓しか