Page:成吉思汗実録.pdf/297

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​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​に​金​​コガネ​の​縻繩​​ハヅナ​を​斷​​タ​たれて​折證​​セツシヨウ​せんと​出馬​​シユツバ​せり、​我​​ワレ​。​右​​ミギ​の​手​​テ​となりて​出馬​​シユツバ​せよ」と​云​​イ​ひ​遣​​ヤ​りたれば、​不兒罕​​ブルカン​ ​聲​​コヱ​を​出​​イダ​さざるに、まづ​阿沙敢不​​アシヤガンブ​ ​言​​イハ​く

​阿沙敢不​​アシヤガンブ​の大言

「​力​​チカラ​ ​足​​タ​らざる​內​​ウチ​に​罕​​カン​と​爲​​ナ​りつゝ​何​​ナニ​」と​云​​イ​ひて、​軍​​イクサ​を​添​​ソ​へず、​大​​オホイ​なる​言​​コトバ​を​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​りき。そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​宣​​ノリタマ​はく「​阿沙敢不​​アシヤガンブ​にいかでか かく​言​​イ​はれたりしと​考​​カンガ​へ、​彼等​​カレラ​の​處​​トコロ​に​便​​スナハチ​ ​翻​​カヘ​りて​指​​サ​して​往​​ユ​かば、​何​​ナン​の​難︀​​カタ​きことかあらん。​別​​ベツ​に​卽​​スナハチ​ ​人​​ヒト​の​處​​トコロ​に​向​​ムカ​ひて​居​​ヲ​る​時​​トキ​なるぞ。[​罷​​ヤ​めん]その​事​​コト​を。​長生​​トコヨ​の​上帝​​アマツカミ​に​祐︀護​​イウゴ​せられば、​金​​コガネ​の​牽胷​​ムナガイ​ ​堅固​​ケンゴ​なるを​扯​​ヒ​きて​來​​コ​ば、そこに​卽​​スナハチ​ ​成就​​ジヤウジユ​せよ、その​事​​コト​を」と​宣​​ノリタマ​ひて、(この時の不兒罕は、夏の神︀宗 李遵頊なり。襄宗 安全は太祖︀ 六年に殂し、族人なる遵頊 位を嗣げり。元史 太祖︀紀には、十三年 戊寅、卽 西域征伐の前年、「是歲、伐西夏、圍其王城。夏主李遵頊出走西涼」とあれども、祕史の趣にては、釁隙 開けたるのみにて、征伐は無かりし樣なり。親征錄 集史にも、その年 西夏を伐ちたることを載せず。


§257(11:36:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​忽闌 合屯​​クラン カトン​の隨行 ​斡惕赤斤​​オツチギン​の畱守

 ​兔​​ウサギ​の​年​​トシ​(我が順德 天皇 承久 元年 己卯、宋の嘉定 十二年、金の宣宗 興定 三年、元の太祖︀ 十四年、西紀 一二一九年、太祖︀ 五十八歲の時)、​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​阿喇亦​​アライ​に​依​​ヨ​り​越​​コ​え​出馬​​シユツバ​するに、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​合屯​​カトン​より​忽闌 合屯​​クラン カトン​を​伴​​ツ​れ​進​​スヽ​み、​弟​​オトヽ​だちより​斡惕赤斤 那顏​​オツチギン ノヤン​を​大老營​​タイラウエイ​に​畱守​​ルス​せしめて​出馬​​シユツバ​せり。(

諸︀書 異辭なき己卯の西征

耶律 楚材の西游錄に「戊寅春三月、出雲中、抵天山、渉大磧、踰沙漠、達行在所。明年、大擧西伐〈[#底本では「伐」のあとに不正な返点「一」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉。」元史 耶律 楚材の傳にも「己卯夏六月、帝西討回回國。」親征錄「己卯、上總兵征西域。」太祖︀紀「十四年己卯夏六月、西域殺︀使者︀、帝率師親征。」使者︀の殺︀されたるは戊寅の年にして、己卯の年に出征したるなり。多遜の史は、主吠尼に本づきて、「一二一八年に使者︀ 殺︀され、その冬 成吉思 汗は斡兒朶を發し、弟 兀主堅(斡惕赤斤)に國の政を委ね、一二一九年の夏、亦兒的失の河邊に駐りて、馬を養ひ軍を整へ、委古兒の君(巴兒主克)、阿勒馬里克の君 昔固納克 帖勤、合兒魯克の阿兒思闌 罕みな會し、秋、師 進み、六十萬と云はれたり。闊喇自姆 王 懼れて、何の計もえせず、蒙古の軍 昔渾 河に至るまで、抗