まゝに譯したれども、さつぱり分らず。善く讀む人の判斷 又は改譯を竢つ。明の譯官も困りたりと見えて、只タヾ 恐オソラクハ 後世コウセイ 子孫シソン 不才フサイニシテ、不ザラン㆑能アタハ㆓承繼ウケツグヿ㆒と約めて、大意だけを譯せり。)これだけをぞ申マウさん。別ベツに何ナニをか申マウさん、我ワレ」と云イへり。この言コトバにつき成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトあるには「斡歌歹オゴダイかゝる言コトバを言イふならば、可ヨきぞ」と宣ノリタマへり。又マタ「拖雷トルイは何ナニをか云イふ。言イへ」と宣ノリタマへり。
拖雷トルイ 言イく「我ワレは、合罕 額赤格カガン エチゲの名ナざしたる兄アニに、前マヘに居ヰて、忘ワス兀馬兒塔黑散れたるを心附コヽロヅけて、睡ネム溫塔喇黑散りたるを喚覺ヨビサマして、然諾ゼンダク者︀の伴、赤馬アカウマ者︀額兒迭の鞭ムチとなりて、然諾ゼンダク者︀より後オクれず、班列ハンレツ者︀兒格より缺カけず、長ナガ兀兒禿き出征シユツセイに出征シユツセイして、短ミジカ斡豁兒〈[#ルビの「斡豁兒」は底本では「斜豁兒」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§255(11:32:08)の漢︀字音訳に倣い修正]〉き(劇しき)戰タヽカヒを戰タヽカひて與アタへん」と言イへば、成吉思 合罕チンギス カガンは善ヨしとし、勅ミコトあるには
「合撒兒カツサルの子孫シソン 一人ヒトリに[その位クラヰを]知シらしめ、阿勒赤歹アルチダイの子孫シソン 一人ヒトリに知シらしめ、斡惕赤斤オツチギンの子孫シソン 一人ヒトリに知シらしめ、別勒古台ベルグタイの子孫シソン 一人ヒトリに知シらしめん。かく思オモひて、我ワが子孫シソン 一人ヒトリに知シらしめて、我ワが勅ミコトは、別コトに爲ナさず(變へず)毀ヤブらざれば、違タガはざれ、失ウシナはざれ、汝等ナンヂラ。斡歌歹オゴダイの子孫シソンに、靑草オアヲクサ斡郞に裹ツヽむとも牛ウシに喫クはれざる、膏アブラ斡兀坤に裹ツヽむとも狗イヌに喫クはれざる[もの]生ウマれば、我ワが子孫シソンの內ウチに一人ヒトリも善ヨきもの生ウマれずやはあらん」と勅ミコトありて、(合撒兒 阿勒赤歹 斡惕赤斤 別勒古台 四人の子孫の相續の事と太祖︀の子孫 卽 元帝 金帳 罕 察合台 罕 亦勒罕の相續の事とは、編末の附錄に述ぶべし。)
§256(11:35:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
成吉思 合罕チンギス カガン 出馬シユツバするに、唐兀惕タングトの民タミの不兒罕ブルカンの處トコロに使ツカヒを遣ヤり、「汝ナンヂの右ミギの手テと爲ナらんと云イひたりき、汝ナンヂ。