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§254(11:20:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


西域征伐の始まり

 その後 ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ は、​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​に​兀忽納​​ウクナ​が​頭​​カシラ​たる​百​​ヒヤク​の​使​​ツカヒ​を​拘​​トラ​へて​殺︀​​コロ​されて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​宣​​ノリタマ​はく「​金​​コガネ​の​縻繩​​ハヅナ​を​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​にいかでか​斷​​タ​たしめたりし」とて、「​兀忽納​​ウクナ​が​頭​​カシラ​たる​百​​ヒヤク​の​使​​ツカヒ​[の​爲​​タメ​]に、​讎​​アタ​​斡雪勒​ ​復​​カヘ​​斡旋​し​怨​​ウラミ​​乞撒勒​ ​報​​ムク​​乞三​いに、​撒兒塔兀勒​​サルタウル​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​出馬​​シユツバ​せん」とて​出馬​​シユツバ​する​時​​トキ​、(

​闊喇自姆​​コラズム​の異稱

この撒兒塔兀勒は、闊喇自姆 朝を云へるなり。闊喇自姆 朝の管內には撒兒惕 人 卽 抹哈篾惕 敎徒 多きが故に、蒙古 人は撒兒塔兀勒の國と云へり。親征錄 元史 本紀には西域の汎稱を用ひ、列傳には回紇 回鶻 又は回回と云ふ。回回も、回紇の轉なり。唐の回紇の遺種は、實に畏兀兒にして、畏兀兒も回紇の轉なり。元人は回紇の遺種を呼ぶに畏兀兒の新名を用ふるは善けれども、回紇の舊名を闊喇自姆 朝に當てたるは誤れり。長春の西游記には、畏兀兒をも撤兒塔兀勒をも皆 回紇と云へり。闊喇自姆 朝の本土は、鹹海︀の南、裏海︀の東に在り、今の希哇の地にして、玄弉の西域記に貨利習彌伽、隋書 西域傳に穆國、新唐書 西域傳に「火尋、或曰貨利習彌、曰過利、」元史 地理志に花剌子模と云ひ、西人は合喇自姆とも闊哇咧自姆とも忽哇咧自姆とも云ふ。闊喇自姆 朝の興亡と蒙古 西征の事蹟とは、主吠尼 喇失惕の記載 甚 詳かなり。北宋の時、薛勒主克 王 馬里克沙の僕

​闊喇自姆​​コラズム​ 朝の興り

努施 特勤、始めて闊喇自姆 部の酋長となり、その子 庫惕別丁 抹哈篾惕は、闊喇自姆 沙と稱し、西遼 興りて、庫惕別丁の子 阿次思は、その屬國となれり。阿次思の子 亦牙勒 阿兒思闌は、闊喇散を取り、その嗣子 塔喀施は、宋の光宗 紹熙 五年(西紀 一一九四年)薛勒主克 朝を滅し、亦喇克 阿者︀姆を取り、巴固荅惕の合里發より册封を受けたり。宋の寧宗 慶元 六年(西紀 一二〇〇年)塔喀施の子 阿剌 額丁 抹哈篾惕 嗣ぎ立ち、巴勒黑 赫喇惕 馬贊迭㘓 乞兒曼を幷せ、乞魄察克を打破り、元の太祖︀ 四年(一二〇九年)西遼に叛き、その西境を奪ひ、八年(一二一三年)河閒の國(西 回紇)を滅し、撒馬兒罕に新都︀を建て、闊喇自姆の兀兒堅只 城を舊都︀と云へり。又 誥兒の國を幷せ、その後 噶自納の地を定めたる時、合里發 納資兒より誥兒の君に與へて闊喇自姆を圖らしむる密書を得て、大に怒り、納資兒を廢せんと欲し、大軍を率ゐて西征し、路にて發兒思 阿在兒拜展を降し、太祖︀ 十三年 戊寅(一二一八年)合里發の領地に入りたれども、大雪に遭ひ、又 土兵に襲はれ、利あらずして退けり。還りて孛合喇に到れば、西域の商侶 蒙古より歸り、太祖︀の贈︀物を上り、通商を求むる辭を傳へ、阿剌 額丁はいやいやながらそれを許せり。

兩大國の​釁端​​キンタン​

旣にして太祖︀は諸︀王 官人に命じて各貨を出さしめ、畏兀兒 人 四百餘人を發して、西域の商侶に從ひ往きて、その產物を求めしめたり。然るに斡惕喇兒 城に到れる時、城將 亦納勒主克 該兒罕は悉く拘へて、蒙古より細作を遣せりと王に吿げたれば、王は命じて悉く殺︀さしめ、惟一人 逸︀げ歸りたり。捏撒腓は「その中 四人は使にて、外は皆 商人なり。それらを殺︀せるは、亦納勒主克の意にして、王の命に非ず」と云へり。耶律 楚材の西游錄に「苦盞 西北五百里、有訛打剌 城。此城渠酋、嘗殺︀命吏數人、商賈百數、盡掠其財貨。西伐之擧由是也」とあり。命吏 數人は、捏撒腓の使 四人と云へる