Page:成吉思汗実録.pdf/287

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ぞ。​今​​イマ​は​成吉思 合罕​​チンギス カガン​のとなりたるぞ。​汝​​ナンヂ​ ​合荅​​カダ​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​物​​モノ​を​背處​​カゲ​にて​偷​​ヌス​みて​柰何​​イカン​ぞ​與​​アタ​ふる、​汝​​ナンヂ​」と​云​​イ​ひて、​我​​ワレ​は​取​​ト​らざりき。​汪古兒​​オングル​ ​阿兒孩​​アルカイ​ ​二人​​フタリ​は、​彼​​カレ​の​與​​アタ​へたるを​取​​ト​りき」と​云​​イ​へり。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、そこに​汪古兒​​オングル​ ​阿兒孩​​アルカイ​ ​二人​​フタリ​を​甚​​イタ​く​咎​​トガ​めたり。​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​を「​大​​オホイ​なる​道理​​ダウリ​を​考​​カンガ​へけり、​汝​​ナンヂ​」と​云​​イ​ひ、​大​​オホイ​に​恩賞​​オンシヤウ​して「​視︀​​ミ​る​我​​ワ​が​目​​メ​、​聽​​キ​く​我​​ワ​が​耳​​ミヽ​となりて​居​​ヲ​らずや、​汝​​ナンヂ​」と​勅​​ミコト​ありき。(親征錄に「明安 太保入據之、遣使獻㨗。上時駐桓州、遂命忽都︀忽 那顏、與雍古兒 寶兒赤、阿兒海︀ 哈撒兒 三人、檢視︀中都︀帑藏。時金畱守 哈荅 國和 等、奉金幣、爲拜見之禮。雍古兒 哈撒兒 受之。獨 忽都︀忽 拒 不受、將哈荅 及 其物北來。上問忽都︀忽曰「哈答 等嘗與你物乎。」對曰「有之。未敢受之。」上問其故。對曰「臣嘗與哈荅言「未城時、寸帛尺縷、皆金主之物。今旣城陷、悉我君物矣。汝又安得我君物私惠乎。」」上正佳之、以爲大體。而重責 雍古兒、阿兒海︀ 哈撒兒 等、不珍也。哈荅 因見其孫榮山而還」とあり。正佳 不珍の二語は、字の誤りあらん。元史には「明安入守之」の下に、ただ「是月、避暑︀桓州涼涇、遣忽都︀忽 等、籍中都︀帑藏」とあり。


§253(11:18:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


金の質子

 ​阿勒壇 罕​​アルタン カン​は、​南京​​ナンケイ​に​入​​イ​りて、​親​​ミヅカラ​ ​降​​クダ​り​頓首​​ヌカヅキ​て、​騰格哩​​テンゲリ​と​云​​イ​ふ​子​​コ​を​百​​ヒヤク​の​従者︀​​トモビト​にて「​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​處​​トコロ​に​侍衞​​ジヱイ​になれ」とておこせけり。(金史 元史を考ふるに、金の宣宗は、質子を送りたることなし。太宗 四年(金の哀宗 天興 元年)三月、速不台 等 南京を圍みたる時、金の哀宗は、弟 荆王 守純の子 曹王 訛可を出して質たらしめ、太宗は速不台を畱めて還り、居庸を出でたることを、太祖︀ 宣宗の時の事と誤りたるに非ずや。)​彼等​​カレラ​に​降​​クダ​られて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​退​​シリゾ​かんとて​察卜赤牙勒​​チヤブチヤル​に​依​​ヨ​りそこに​退​​シリゾ​く​時​​トキ​、

​合撒兒​​カツサル​ 東略の命

​合撒兒​​カツサル​を​左手​​ヒダリテ​の​軍​​イクサ​にて​海︀​​ウミ​に​遵​​シタガ​ひて​遣​​ヤ​る​時​​トキ​、「​北京​​ホクケイ​の​城​​シロ​に​下馬​​ゲバ​せよ。​北京​​ホクケイ​の​城​​シロ​を​降​​クダ​して、​彼方​​カナタ​ ​主兒扯惕​​ヂユルチエト​の​夫合訥​​ブカヌ​を​過​​ス​ぎ​去​​サ​りて、​夫合訥​​ブカヌ​ ​反​​ソム​かんとせば、​打取​​ウチト​れ。​降​​クダ​らば、​彼​​カレ​の​邊​​ホトリ​なる​彼​​カレ​の​城​​シロ​どもを​過​​ス​ぎ、