三合 拔都︀㆒、師㆓蒙古 軍萬騎㆒、由㆓西夏㆒、抵㆓京兆㆒、出㆓潼關㆒、破㆓嵩汝等郡㆒、直趨㆓汴梁㆒、至㆓杏花營㆒、大掠㆓河南㆒、回至㆓陝州㆒。適河冰合、遂渡而北」とあり。
撒木合 巴阿禿兒サムカ バアトル 南侵の委しき事實
元史 太祖︀紀は「十一年 丙子 秋、撒里知兀䚟 三摸合 拔都︀魯 率㆑師、由㆓西夏㆒趨㆓關中㆒、遂越㆓潼關㆒、獲㆓金西安軍節︀度使 尼龎古 蒲魯虎㆒、拔㆓汝州等郡㆒、抵㆓汴京㆒而還」とありて、親征錄と年 違へり。金史は、この戰の始末を叙ぶること最 詳なり。今 宣宗 本紀、必蘭 阿魯帶、完顏 仲元、朮虎 高琪、胥鼎、尼龎古 蒲魯虎 等の諸︀傳を合せ考ふるに、「貞祐︀四年(太祖︀ 十一年)秋八月丙子、元兵攻㆓延安㆒。九月辛巳朔、元兵攻㆓防州㆒。以㆓簽樞密院事永錫㆒爲㆓御史大夫㆒、領㆑兵赴㆓陝西㆒、便宜從㆑事。冬十月癸未、招㆘射生獵戶、練︀㆓習武藝㆒、知㆓山徑㆒者︀㆖、分㆓屯陝虢要地㆒。命㆓遙授知歸德府事 完顏 仲元㆒、率㆓山東花帽軍㆒、徙軍㆓盧氏㆒、改㆓商州經略使㆒、權㆓元帥右都︀監㆒。元兵攻㆓潼關㆒、由㆓禁坑㆒出。戍卒皆潰、西安軍節︀度使 尼龎古 蒲魯虎 禦戰、兵敗死㆑焉」禁坑は、一名 禁谷、今の潼關廳の南にあり。元の兵は、この閒道より遶り出でて、潼關を破れり。「戊辰、元兵 徇㆓汝州㆒。仲元軍趨㆓商虢㆒、復至㆓嵩汝㆒、皆弗㆑及。河東南路行省胥鼎、聞㆓元兵已越㆒㆑關、庚午、遣㆓潞州元帥左監軍 必蘭 阿魯帶㆒領㆓軍一萬㆒、孟州經略使 徒單 百家、領㆓兵五千㆒、自㆓便道㆒濟㆑河趣㆓關陝㆒、自將㆓平陽精︀兵㆒、赴援㆓京師㆒。十一月壬午、胥鼎入㆓京師㆒、拜㆓尙書左丞㆒、兼㆓樞密副使㆒。乙酉、元兵至㆓沔池㆒。右副元帥 蒲察 阿里不孫、軍潰而逃、阿魯帶 亦被㆑創、元兵過㆓陝州㆒、由㆓三門集津㆒北渡而去。戊戌、華州元帥府復㆓潼關㆒。十二月癸亥、元兵攻㆓平陽㆒。胥鼎遣㆑兵拒戰。元兵不㆑利、乃去。」金國志は、親征錄の如く、誤りてこの役を一年前の事とし「貞祐︀三年八月、大軍自㆓河東㆒渡㆑河、攻㆓潼關㆒、不㆑能㆑下。乃由㆓嵩山小路㆒、趨㆓汝州㆒。遇㆓山㵎㆒、輒以㆓鐵鎗㆒相鎖、連接爲㆑橋以渡。于㆑是潼關失㆑守。金主急召㆓花帽軍于山東㆒。十月、大軍至㆓杏花營㆒、距㆓汴京㆒二十里。花帽軍擊敗㆑之。大軍復取㆓潼關㆒、自㆓三門析津㆒、乘㆓河冰合㆒、布㆑灰引㆑兵而渡。自㆑是不㆓復出㆒」とあり。年月は金史と違へれども、事實は大槪 合へり。「攻㆓潼關㆒不㆑能㆑下」と云へるは、竟に下らざるに非ず、禁坑より遶り出でられて、戌卒 潰えたる故に、下に「潼關失㆑守」とあり。その「由㆓嵩山小路㆒」と云へるは、潼關を遶れる閒道に非ず、潼關を越えたる後に汝州に趨ける山徑なり。「召㆓花帽軍于山東㆒」は、完顏 仲元に命じて入り援はしめたることなり。
金史 元史に記せる丙子の役と一事なること、疑ふべきなし。然るに商輅の續 綱目は、金國志 親征錄に據り、乙亥の年に三合 拔都︀ 南侵の事を記して、「潼關失㆑守」「自㆑是不㆓復出㆒」の二句を省き、又 丙子の年に金史 元史に據りて「冬十月、蒙古兵克㆓金潼關㆒、次㆓嵩汝閒㆒、云云」と書きて、三合 拔都︀の名を省きたるは、金國志の紀年の誤に因り、一事を兩事としたるにて、謂はゆる誤に因りて更に誤れるなり。畢沅の續 資治 通鑑も續 綱目の誤に襲れり。この二史は、人の信用する書なるが故に、その誤をかく辨じ置くなり。さて又 丙子の役は、金の腹地を荒したれども、さほどの大㨗もなかりしに、祕史には金軍の殲滅 窮餓の狀を事事しく叙ぶるを見れば、太宗 三年 拖雷の陝西より入りて汴京に迫りたる三峯山の大㨗、元史に「流血 被㆑道、資仗委積、金之精︀銳、盡㆓於此㆒矣」とあるものと混じたるに似たり。然らば亦列 合荅は、三峯山の敗將 移剌 蒲阿 完顏 合達なるべし。豁孛格禿兒に似たる名は見えず。忠孝軍の總領 完顏 陳和尙の稱號などにてやあらん。)
§252(11:14:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
失喇 客額兒シラ ケエルの駐蹕チウヒツ
成吉思 合罕チンギス カガンは、河西務カセイムを下クダすと、中都︀チウトの失喇 客額兒シラ ケエルに下馬ゲバせり。(河西務は、鎭の名、今の順天府 武淸縣の北、白河の支流なる新引河の西にあり。失喇 客額兒は、黃なる原の義なれば、中都︀の近郊を呼べる