降クダして、回カヘりて、撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに下馬ゲバせり。(阿忽台は、金の宣宗 珣なり。宣宗の國語の名は、金史 本紀に吾賭補とあれば、阿忽台は、國語の名にもあらず、蒙古人の附けたる あだな なるべし。亦魯忽は、不兒罕 李安全の國語の名なるべし。親征錄に失都︀兒忽とあるは、次の卷に見ゆる末帝 李睍〈[#「目+見」は底本では「日+見」。以後同じ]〉の一名を誤り書きたるに似たり。)
§251(11:11:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタその後ノチ 趙官チヤウカンの處トコロに(趙官は、宋の蒙語なり。趙家の轉訛か。又は趙氏の官家の義か)和親ワシンに遣ヤりたる主卜罕ヂユブカンを頭カシラとせるあまたの使ツカヒを乞塔惕キタトの民タミの阿忽台アクタイなる阿勒壇 罕アルタン カンに妨サマタげられて、成吉思 合罕チンギス カガンは、狗イヌの年トシ(我が順德 天皇 建保 二年 甲戌、宋の嘉定 七年、金の宣宗 貞祐︀ 二年 元の太祖︀ 九年、西紀 一二一四年、太祖︀ 五十三歲の時)、乞塔惕キタトの民タミの處トコロに再フタタビ 出馬シユツバせり。(
主卜罕の拘へられたる事は、親征錄 集史 みな載せず。元史は、主卜罕を搠不罕 と書きて、太宗紀に三年 辛卯 夏「命㆓拖雷㆒出㆓師寶鶏㆒、遣㆓搠不罕㆒使㆑宋假㆑道、宋殺︀㆑之。復遣㆓李國昌㆒使㆑宋需㆑糧」と云ひ、睿宗の傳に辛卯「拖雷 總㆓右軍㆒、自㆓鳳翔㆒渡㆓渭水㆒、過㆓寶雞㆒、入㆓小潼關㆒、渉㆓宋人之境㆒、沿㆓漢︀水㆒而下、遣㆓搠不罕㆒詣㆑宋假㆑道、且約㆑合㆑兵。宋殺︀㆓使者︀㆒。拖雷 大怒曰「彼昔遣㆓苟夢玉㆒來通㆑好、遽自食㆑言背㆑盟乎。」乃分㆑兵攻㆓宋諸︀城堡㆒、長驅入㆓漢︀中㆒、進入㆓四川㆒、陷㆓閬州㆒、過㆓南部㆒而還」と云へり。然れば搠不罕 卽ち主卜罕は、金人に拘へられたるに非ずして、宋人に殺︀されたるなり。その殺︀されたるは、この年の事に非ずして、この年より十七年 後なる太宗 三年の事なり。されども元史は已に誤り多く、且 陳桎の通鑑 續編には「搠不罕 至㆓靑野原㆒、金統制張宣殺︀㆑之」とあるに據り、
高寶銓は、祕史を誤れりとはせず、「元史曰㆓宋殺︀㆒、蓋金殺︀㆑之、而諉爲㆓宋殺︀㆒也」と云ひ、又 太宗紀に搠不罕の事を載せたるをも「彼紀、蓋因㆘遣㆓李國昌㆒需㆖㆑糧、追㆓溯太祖︀時遣㆑使之事㆒耳。不㆑然、豈有㆓假㆑道被㆑殺︀、復遣㆑使需㆒㆑糧乎」と云へり。この考も一說に備ふべし。但 甲戌の再征は、太祖︀ 自ら出馬したるに非ず。太祖︀は塞外に駐り、諸︀將を遣して中都︀を攻めしめたるなり。太祖︀紀に、九年 甲戌、太祖︀ 居庸關を出でたる後
「夏五月、金主遷㆑汴、以㆓完顏 福︀興 及參政 抹撚 盡忠㆒、輔㆓其太子守忠㆒、畱㆓守中都︀㆒。六月、金乣軍 斫荅 等、殺︀㆓其主帥㆒、率㆑眾來降。詔㆓三摸合 石抹 明安㆒、與㆓斫荅 等㆒圍㆓中都︀㆒。帝避㆓暑︀魚兒濼㆒。秋七月、金太子守忠走㆑汴」とあり。親征錄も略同じくして、甚だ委し。又 通鑑 續編には「五月、金主遷㆑汴。蒙古 主聞㆑之怒曰「旣和而遷、是有㆓疑心㆒、而特以㆑和款㆑我耳。」複圖㆓南侵㆒」とあり。いづれに據りても、甲戌の再征は、金の宣宗の遁れたる後にあるを、祕史にこの再征に由りて金帝 遁れ出でたりと云へるは誤れり。)「降クダり畢ヲへて趙官チヤウクワンの處トコロに遣ヤりたる使ツカヒをいかでか妨サマタげたる」と云イひ出馬シユツバするに、
成吉思 合罕チンギス カガンは、潼關トウクワンの口クチを指サして、者︀別ヂエベをば察卜赤牙勒チヤブチヤルに依ヨり[進スヽま]しめたり。(潼關 は、河南 陜