Page:成吉思汗実録.pdf/282

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​高​​タカ​​溫都︀兒​き​迭咧孫​​デレスン​(良き牧草の名、明 語譯 蓆棘草)の​蔭​​カゲ​に​長​​タ​​斡思格​けさせて、​多​​オホ​​斡欒​き​駱駝​​ラクダ​を​出​​イダ​​合兒合​して、​係綰​​ケイワン​​合​となりて​獻​​タテマツ​​斡克速​らん。​毛段​​ケドンス​​斡兒篾格​を​織​​オ​りて、​段物​​タンモノ​​阿兀喇孫​となして​獻​​タテマツ​​斡克速​らん。​放​​ハナ​​斡斡兒忽​つ​鷹​​タカ​を​馴​​ナ​らして、​聚​​アツ​​忽喇兀勒​めてその​好​​ヨ​きを​致​​イタ​​古兒格兀侖​さしめ​居​​ヲ​らん」と​奏​​マウ​したり。[かく]​言​​イ​ひて、その​言​​コトバ​に​遵​​シタガ​ひ、​唐兀惕​​タングト​の​民​​タミ​より​駱駝​​ラクダ​を​取立​​トリタ​てて​趕​​オ​ふこと​能​​アタ​はぬまで​持​​モ​ち​來​​キ​て​獻​​タテマツ​れり。(

三回の西夏 征伐

この唐兀惕 征伐は、親征錄に據れば、一回の役に非ず。旣に太祖︀ 卽位の前の年に「乙丑、征西夏、攻破 力吉里 寨 經落思 城、大掠人民、多獲橐駝以還」とあり、元史も同じ。駱駝を獲たるは、西夏 降服の後なるを、前に繰上げて分捕とせり。次に太祖︀ 二年 丁卯には「秋、再征西夏。冬、克斡羅孩 城。」三年 戊辰には「春、班師至西夏。」元史も同じ。五年 庚午には「秋、復征西夏、入孛王廟。其主 失都︀兒忽 出降、獻女爲好」とあるを、元史は、一年前なる四年 己巳に繰上げて「帝入河西。夏主李安全、遣其世子、率師來戰。敗之、獲其副元帥高 令公、克兀剌海︀ 城、俘其太傅 西壁 氏、進至克夷門、復敗夏師、獲其將 嵬名 令公、薄中興府、引河水之。堤決、水外潰。遂撤圍還、遺太傅 訛荅中興、招諭夏主。夏主納女請和」と委しく記せり。兀剌海︀ 城は、卽 斡羅孩 城なり。丁卯の年 克ちて守らず、今 再 入りたるなり。また西夏 書事 嘉定 四年(太祖︀ 六年 辛未)五月の處に「塔坦 有黑白二種。時 黑塔坦 王 白厮波 强盛、兼倂諸︀族地、起兵攻夏河西州郡。安全親率兵拒戰大敗、失其公主、遺使請臣禮。塔坦 方退。自是國勢益衰」とあり。黑塔坦は、卽 黑韃靼にして蒙古なり。公主を失ふは、察合を與へたる事なり。白厮波は、白韃靼の阿剌兀思 惕吉忽里の姪 鎭國、蒙韃 備錄の白四部、黑韃 事略の白厮馬にして、鐵木眞と云ふべきを何故にか誤れり。又 金國志にも「大安 三年(辛未)春、西夏始爲大軍所攻、遣使求援。金主新立、不援。大軍至興靈而反。夏人恨之、遂叛」とあり。西夏の降服は、元史の己巳と親征錄 集史の庚午と金國志 西夏 書事の辛未と三說ありて、いづれか是なるを知らす。いづれにしても金の降服よりは前に在れば、祕史の記載の順序は違へるに似たり。


§250(11:10:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


辛未の一擧に二國の降服

 ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、かく​出征​​シユツセイ​したる時、​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​の​阿勒壇 罕​​アルタン カン​を​降​​クダ​して、​多​​オホ​き​段物​​タンモノ​を​取​​ト​りて、​合申​​カシン​の​民​​タミ​の​不兒罕​​ブルカン​を​降​​クダ​して、​多​​オホ​き​駱駝​​ラクダ​を​取​​ト​りて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​羊​​ヒツジ​の​年​​トシ​(この卷の初にある太祖︀ 六年 辛未の歲)かく​出征​​シユツセイ​したる​時​​トキ​、​乞塔惕​​キタト​の​民​​タミ​の​阿忽台​​アクタイ​と​云​​イ​へる​阿勒壇 罕​​アルタン カン​を​降​​クダ​して、​唐兀惕​​タングト​の​民​​タミ​の​亦魯忽 不兒罕​​イルク ブルカン​を