東路に隸し、今の直隸 河閒府 任邱縣にして、中都︀より蒙古に赴く路にあらざれば、この二字 誤あらん。親征錄の野麻池も、地志に見えず。これも池の名には非ずして、山の名 又は地の名なるべし。二書の地名につきて考ふるに、莫州 撫州は倒置にて、撫州の莫州と云ふ觜とありしを誤り、その莫州は又 野麻池の野を脫して、麻池を州の諸︀將 如く音譯したるには非ずや。元史 太祖︀紀に「九年甲戌春三月、駐㆓蹕中都︀北郊㆒〈[#底本では「名の」が混入している。昭和18年復刻版に倣い修正]〉請㆓乘㆑勝破㆒㆑燕、帝不從。乃遣㆑使諭㆓金主㆒曰「汝山東河北郡縣、悉爲㆓我有㆒。汝所㆑守唯燕京耳。天旣弱㆑汝、我復迫㆓汝於險㆒、天其謂㆓我何㆒。我今還㆑軍、汝不㆑能㆔犒㆑師、以弭㆓我諸︀將之怒耶㆒耶。」金主遂遣㆑使求和㆑、奉㆓衞紹王女岐國公主及金帛童男女五百馬三千㆒以獻。仍遣㆓其丞相 完顏 福︀興㆒、送㆑帝出㆓居庸㆒」とあるは、親征錄と金史の紀傳とに依りて書けるなり。岐國 公主は、金史 宣宗紀に公主 皇后の稱あり。喇失惕の史に昆主 哈屯とある昆主は、公主を訛れるなり。)
§249(11:08:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
かく出征シユツセイしたるに依ヨり合申カシンの民タミの處トコロに去サれり。指サして到イタれば、合申カシンの民タミの不兒罕ブルカン 降クダらんと「爾ナガミコトの右ミギの手テとなりて力チカラを與アタへん」と云イひ、察合チヤカと云イふ女ムスメを成吉思 合罕チンギス カガンに出イダして獻タテマツれり。(不兒罕は、蒙古語にては神︀また佛の義なれども、唐兀惕の國にては國主の稱號に用ひたりと見ゆ。この時の不兒罕は、夏の桓宗 李純佑の族弟にして、元の太祖︀ 元年に純佑を廢して簒立したる襄宗 安全なり。察合は、親征錄も集史も元史も、みな名を略けり。后妃表 第三 斡兒朶の察兒 皇后は、察合の誤りかとも思はる。しかれども喇失惕は、唐古惕の人にて名の知れざる哈屯を擧げて、自注に「速哈惕これを得んと願ひ、成吉思 汗 卽 贈︀れり」と附記したれば、后妃の列を脫したる故に、表には載せられざるならん。)
又マタ 不兒罕ブルカン 言イハく「成吉思 合罕チンギス カガンの名ナ 聲コヱを聞キきて畏オソれて居ヲりき、我等ワレラ。今イマ 威靈ミイツある爾ナガミコトの身ミ 到イタりて來コられて、威靈ミイツを畏オソれたり。畏オソれて、我等ワレラ 唐兀惕タングトの民タミは、「爾ナガミコトの右ミギの手テとなりて力チカラを與アタへん」と申マウせり。力チカラを與アタへんにも、動ウゴ嫩只かぬ營盤イヘヰ嫩禿黑ある、築キヅ那都︀克先きたる城シロある者︀モノなるぞ。伴トモ那可扯なひて、疾ハヤ忽兒敦き出征シユツセイに出征シユツセイする時トキ、鋭スルド忽兒察き戰タヽカひを戰タヽカふ時トキ、疾ハヤ忽兒敦き出征シユツセイに追附オヒツ癸亦躔くことぞ能アタはぬぞ。鋭スルド忽兒察き戰タヽカひに戰タヽカふことぞ能アタはぬぞ、我等ワレラ。成吉思 合罕チンギス カガン 恩賜オンシせば、我等ワレラ 唐兀惕タングトの民タミは、