に太祖︀の語氣として、「我」の字を末に加へたるは誤りならん。)
§243(10:25:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
母ハヽに斡惕赤斤オツチギンに萬マンの民タミを與アタへて、官人クワンニンどもより古出グチユ 闊闊出ココチユ 種賽チユンサイ 豁兒合孫ゴルカスン(八十八の功臣の中にて第十七 第十八 第三十三 第十九)四人ヨタリを傅ツけたり。拙赤ヂユチには忽難︀クナン 蒙客兀兒モンケウル 客帖ケテ(功臣の第七 第三十九 第五十)三人ミタリを傳ツけたり。察阿歹チヤアダイには合喇察兒カラチヤル 蒙客モンケ 亦多忽歹イドクダイ(功臣の第二十九 第三十七 第六十六)三人ミタリを傅ツけたり。又マタ 成吉思 合罕チンギス カガン 宣ノリタマはく「察阿歹チヤアダイは、猛タケくあり。細コマヤカなる性サガあるなり。闊客搠思コケシユス(卽 闊闊搠思、功臣の第三十)は、晩オソく早ハヤく(朝夕に)前マヘに居ヰて、思オモへる事コトを語カタりて居ヲれ」と勅ミコトありき。(明譯又マタ 說イハク、察阿歹チヤアダイハ 性セイ 剛コハシ。子細コマヤカニ 敎シム㆓闊客搠思コケシユス 早晩ハヤクオソク 根前マヘニテ 說話モノガタリセ㆒者︀ベシとあるに據れば、原文「細なる性あるなり」の「なり」は、衍字にて、「細なる性ある」は、闊客搠思に係る詞ならん。)斡歌歹オゴダイには亦魯格イルゲ(卽 亦魯該)迭該デガイ(功臣の第五 第十一)二人フタリを傅ツけたり。拖雷トルイには哲歹ヂエダイ(功臣の第二十三なる者︀台)巴剌バラ(功臣の第三十五なる巴剌 斡囉納兒台 又は第四十九なる巴剌 扯兒必)二人フタリを傅ツけたり。合撒兒カツサルには者︀卜客ヂエブケ(功臣の第四十四)を傅ツけたり。阿勒赤歹アルチダイには察兀兒孩チヤウルカイ(功臣の第五十八)を傅ツけたり。
§244(10:26:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
晃豁塔惕コンゴタトに合撒兒カツサルの打たれ
晃豁塔惕コンゴタト(晃豁壇の複稱)の蒙力克 額赤格モンリク エチゲの子コども七人ナヽタリありき。七人ナヽタリの中ナカに闊闊出 帖卜騰格哩ココチユ テブテンゲリ(闊闊出と云ふ神︀巫)ありき(元史 憲宗紀の「初に母曰㆓莊聖 太后 怯烈 氏㆒、歲 戊辰 十二月三日、生㆑帝。時 有㆘黃忽荅 部 知㆓天象㆒者︀㆖、言㆓帝後必大貴㆒、故以㆓蒙哥㆒爲㆑名。蒙哥、華言 長生 也」とあり。黃忽荅は、卽 晃豁塔惕にして、いはゆる天象を知れる者︀は、卽この帖卜騰格哩なり。歲 戊辰は、太祖︀ 卽位の三年なれば、この晃豁壇の騷動は、三年 以後に起れる事なるべし。)その七人ナヽタリの晃豁壇コンゴタンは、合撒兒カツサルを黨イチミして打ウちたりき。合撒兒カツサルは「七人ナヽタリの晃豁壇コンゴタンに、黨イチミして打ウたれたり」と成吉思 合罕チンギス カガンに愬ウタへたれば、