Page:成吉思汗実録.pdf/261

このページはまだ校正されていません

て​來​​キ​ぬ」とて​恩賜​​オンシ​して、​彼​​カレ​の​子​​コ​ ​亦納勒赤​​イナルチ​に​扯扯亦干​​チエチエイゲン​を​與​​アタ​へたり。​亦納勒赤​​イナルチ​の​兄​​アニ​ ​脫咧勒赤​​トレルチ​に​拙赤​​ヂユチ​の​女​​ムスメ​ ​豁雷罕​​ゴルイカン​を​與​​アタ​へたり。(

​脫咧勒赤​​トレルチ​と​哈荅​​ハダ​との同異

喇失惕は「成吉思 汗の第二の女 扯扯干は、忽禿合 別乞の子 脫喇勒赤に嫁げり」と云へり。扯扯干は卽 扯扯亦干なれども、脫喇勒赤は亦納勒赤に非ずして、却てその兄 脫咧勒赤に似たり。公主表もそれに同じく、延安 公主 位の處に「闊闊干 公主、適脫亦列赤 駙馬」とあり。然らば豁雷罕の夫を亦納勒赤とするかと云ふに、然らず。闊闊干 公主の前に「火魯 公主、適哈答 駙馬」とありて、火魯は、豁雷罕の下略に似たれども、哈荅は、亦納勒赤にも脫咧勒赤にも似ず。錢大昕の氏族表は、祕史と元史とを折衷し、「哈荅、一作脫劣勒赤、尙太祖︀ 孫女 火雷 公主、」「脫亦列赤、一作亦納勒赤、尙太祖︀ 女 闊闊干 公主」と書きたれども、哈荅は、八十八 功臣の內に旣に合歹 古咧堅とありて、卷十二にも合歹あり、親征錄の哈台、憲宗紀の合荅、多遜の喀荅克など、みなこの哈荅なるべく、脫咧勒赤は、八十八 功臣の定まりたる後に降附して駙馬となれる人なれば、その別人なること明なり。然れども哈荅 合歹を脫咧勒赤に非ずとし、火魯 火雷を豁雷罕に非ずとすれば、又 不都︀合なることあり。火魯 公主は、闊闊干 公主と共に、公主表 延安 公主 位の初に擧げられ、その次に公主 三人ありて、末に「延安 公主、適延安王 也不干」とあり、食貨志には「火雷 公主 位、丙申 年、分撥 延安府 九千七百九十六戶」とあり。闊闊干は、卽 扯扯干 扯扯亦干にして、斡亦喇惕の忽都︀合 別乞の子に嫁ぎたること確なる上は、延安王の家は、卽 忽都︀合の子孫にして、火雷 公主は、始めてその家に嫁ぎたる人なれば、その夫は必ず斡亦喇惕の首領なるべし。然らずば延安 公主 位を火雷 公主 位とも云ふべき筈なし。然らば哈荅 合歹は、果して脫咧勒赤なるか。この疑ひはいかに考へても解き得ず。

​汪古惕​​オングト​の​駙馬​​ムコギミ​

​阿剌合 別乞​​アラカ ベキ​(元史の阿剌海︀ 別吉 公主)を​汪古惕​​オングト​(汪古惕の阿剌忽失 的吉惕忽哩 古咧堅)に​與​​アタ​へたり。(この事につきては、卷八に委しく論じたり。九十五の千戶を定められたる時は、まだ公主を娶らざりし時なれども、後の稱號に依り古咧堅と書きたるなり。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、

​拙赤​​ヂユチ​ 初陣の​功​​イサヲ​

​拙赤​​ヂユチ​を​恩賞​​オンシヤウ​して​宣​​ノリタマ​はく「​我​​ワ​が​子​​コ​どもの​兄​​アニ​なる​汝​​ナンヂ​は、​家​​イヘ​より​纔​​ワヅカ​に​出​​イ​でて、​道​​ミチ​ ​好​​ヨ​くある(道の遠き)​往​​ユ​きたる​地​​トコロ​に、​男​​ヲトコ​ ​騸馬​​センバ​を​傷​​キズツ​けず​苦​​クルシ​めずして、​福︀​​サイハヒ​ある​林​​ハヤシ​の​民​​タミ​を​降​​クダ​して​來​​キ​ぬ。​民​​タミ​を​與​​アタ​へん」と​勅​​ミコト​ありき。


§240(10:17:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​孛囉忽勒​​ボロクル​の​禿馬惕​​トマト​ 征伐

 ​又​​マタ​ ​孛囉忽勒 那顏​​ボロクル ノヤン​(親征錄 博羅渾 那顏、元史 太祖︀紀 鉢魯完)を​豁哩 禿馬惕​​ゴリ トマト​の​民​​タミ​の​處​​トコロ​に​出征​​シユツセイ​せしめたり。(豁哩 禿馬惕は、卷一に見えたり。豁哩は、善と云ふ美稱なれば、常には略きて只 禿馬惕と云ふ。親征