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諸︀將於 禿兀剌 河之黑林、問誰能爲我征滅里吉者︀。速不台請行。帝壯而許之。乃選裨將 阿里出、領百人先行、覘其虛實。速不台 繼進云云。己卯、大軍至蟾河、與滅里吉遇、一戰而獲其二將、盡降其眾、其部主 霍都︀ 奔欽察。速不台 追之、與欽察于 玉峪〈[#「峪」は底本では「山+容」。昭和18年復刻版では「山+客」。「元史(四庫全書本)卷一百二十一、第2丁、蘇布特(速不台)の傳」では「峪」]〉之」とあり。丙子は十二年 丁丑の前年、己卯は丁丑の二年後にして、親征錄 集史と年紀 合はず。多遜は、嶄河を哲姆 河と書き、その戰を一二一六年 卽ち丙子の事とせり。諸︀書を合せ考ふるに、蓋 子の年に軍を出し、丑の年に垂河に戰ひ、卯の年に餘孽 悉く平ぎたるならん。

​康鄰​​カングリン​に​奔​​ハシ​れる​忽都︀​​クド​

親征錄の嶄河、喇失惕の眞河、多遜の哲姆 河、速不台の傳の蟾河は、祕史の垂河と同じきか異なるか、知らず。霍都︀の欽察に奔れることは、卷八にも「忽都︀ 合惕 赤剌溫 等の篾兒乞惕は、康鄰 欽察兀惕を過ぎ去りき」と云ひ、土土哈の傳には「太祖︀ 征蔑里乞、其主 火都︀ 奔欽察。欽察 國主 亦納思 納之。太祖︀ 遣使諭之 云云。亦納思 答 云云。太祖︀ 乃命將 討之」とあれども、西域の諸︀史には更にその事なし。喇失惕は「忽都︀は乞魄察克に奔らんとしたるを、蒙古の軍に捕へ殺︀されたり」と(別咧津 卷一 第七十三頁に)云ひ、多遜の史には「篾兒乞惕の酋 禿克脫干は、蒙古に逐はれ、眾を率ゐて氈篤の北に走り、その下に殺︀され、蒙古はその眾を海︀哩 哈米赤 兩河の間に敗りて滅ぼせり」とあれば、篾兒乞惕の走りて康鄰の地に入りたるは、實らしけれども、欽察に奔れりと云へるは、傳聞の誤りなるべし。


§237(10:11:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​古出魯克 罕​​グチユルク カン​の​𠞰滅​​サウメツ​

 ​者︀別​​ヂエベ​は、​乃蠻​​ナイマン​の​古出魯克 罕​​グチユルク カン​を​追​​オ​ひて、​撒哩黑昆​​サリクグン​に​追詰​​オヒツ​めて、​古出魯克​​グチユルク​を​窮​​キハ​めて​來​​キ​ぬ。(親征錄 戊寅(太祖︀ 十三年) 木華黎 國王 南征の次に「別遣大將 哲別、攻曲出律 可汗、至撒里桓 地之」とありて、その簡略なること祕史と同じ。

​古出魯克​​グチユルク​の西遼 簒奪

遼史 天祚紀の末に西遼の興亡を附記し、遼の德宗 耶律 大石の自立より大石の妻 感天 太后 塔不煙、その子 仁宗 夷列、夷列の妹 承天 太后 普速完を歷て、夷列の子 直魯古に至り、「直魯古 卽位、改元 天禧、在位三十四年。時秋出獵、乃蠻 主 屈出律、以伏兵八千之、而據其位、襲遼衣冠、尊直魯古太上皇、皇后爲皇太后、朝夕問起居、以侍終焉。直魯古 死、遼絕」とあり。屈出律は、卽ち古出魯克にして、その西遼に奔れるは、親征錄 主吠尼に據るに、太祖︀ 三年 戊辰、西紀 一二〇八年にあり。古出魯克の西遼を簒へるは、錢大昕の考證と主吠尼の史とに據るに、太祖︀ 六年 辛未、西紀 一二一一年にあり。直魯古の死は、主吠尼 喇失惕の書に據るに、國を奪はれて憂悶し、二年を歷て病死したるなり。長春の西游記に「自金師破遼、大石 林牙 領眾數千西北、移徙十餘年、方至此地云云。延袤萬里、傳國幾百年。乃滿 失國依大石、士馬復振、盜據其土。繼而 算端 西削其地。天兵至、乃滿 尋滅、算端 亦亡」と云へり。林牙は、學士を呼ぶ契丹語にして、耶律 大石の舊官なり。乃滿 失國依大石とは、乃蠻の古出魯克 逃げて大石の立てたる國に依れるを云ふ。算端 西削其地とは、闊喇自姆の君 速勒壇 抹哈篾惕、西遼の舊境 失兒 河 以南を取れるを云ふ。乃滿 尋滅は、古出魯克の滅びたるなり。算端 亦亡は、この戊寅の年より二年後にあり。撒哩黑昆は、集史に撒哩黑庫勒とあり。今は撒哩庫勒と呼び、葉兒羌 河の上流にあり、西は直に露西亞の領地に接す。古出魯克の事蹟は、主吠尼 喇失惕の二書に詳なり。

​曷思麥里​​フス メリク​の​傳​​デン​の​考證​​カウシヨウ​

元史には只 曷思麥里の傳に「曷思麥里、西域 谷則 斡兒朶 人。初爲西遼 闊兒罕 近侍、後爲谷則 斡兒朶 所屬 可散 八思哈 長官。太祖︀西征、曷思麥里 率 可散 等城酋長迎降。大將 哲伯 以聞。帝 命曷思麥里、從哲伯先鋒、攻乃蠻之、斬其主 曲出律