出イダして]裁斷サイダンを共トモに聽キけ」と宣ノリタマへり。「宿衞シユクヱイより箭筒ヤナグヒ 弓ユミ 甲カブト 器︀械キカイを調トヽノへて配クバり合アへ。騸馬センバを調トヽノへて網索マウサクを駄ツけて行ユけ」と宣ノリタマへり。「宿衞シユクヱイより扯兒賓︀チエルビンと共トモに段匹タンモノを配クバれ」と宣ノリタマへり。
斡兒朶オルドの右左前なる箭筒士セントウシ 侍衞ジヱイの屯營
「箭筒士セントウシ 侍衞ジヱイの營タムロを吿ツぐる(定むる)には、也孫 帖額エスン テエ 不吉歹ブギダイ 等ラの箭筒士セントウシ、阿勒赤歹アルチダイ 斡歌列オゲレ 阿忽台アクタイ 等ラの侍衞ジヱイは、斡兒朶オルドの右ミギの邊ホトリに行ユけ」と宣ノリタマへり。「[豁兒忽荅黑ゴルクダク 剌卜剌合ラブラカ 等ラの箭筒士セントウシ、]不合ブカ、朶歹 扯兒必ドダイ チエルビ、多豁勒忽 扯兒必ドゴルク チエルビ、察乃チヤナイ 等ラの侍衞ジヱイは、斡兒朶オルドの左ヒダリの邊ホトリに行ユけ」と宣ノリタマへり。「阿兒孩アルカイの勇士ユウシどもは、斡兒朶オルドの前マヘに行ユけ」と宣ノリタマへり。「宿衞シユクヱイは、斡兒朶オルドの家イヘ 車クルマを調トヽノへて、斡兒朶オルドの前マヘの左ヒダリの邊ホトリに行ユけ」と宣ノリタマへり。(明譯には帳殿チヤウデンノ 根前マヘノ 左ヒダリ 右ミギとあり。原文 左の下に右の字 脫ちたるなるべし。)
「許多アマタの番直バンチヨクする侍衞ジヱイを、斡兒朶オルドの周圍マハリ、斡兒朶オルドの家僮イヘノコを、馬飼︀ウマカヒ(蒙語阿都︀兀臣アドウチン)羊飼︀ヒツジカイ(蒙語豁你臣ゴニチン、元史 兵志に「牧㆑羊者︀曰㆓火你赤㆒」とあり。)駱駝飼︀ラクダカヒ 牛飼︀ウシカヒを、常ツネに朶歹 扯兒必ドダイ チエルビ、氣キを付フけて居ヲれ」と任コトヨサし給タマへり。「朶歹 扯兒必ドダイ チエルビは、常ツネに居イて、斡兒朶オルドの後ウシロ豁亦納より枯草カレクサ豁黑を喫クひて乾糞カンプン豁馬兀兒を燒ヤきて行ユけ」と勅ミコトありき。(末の一語は、掃除せよとの意なるべきか。確ならず。朶歹 扯兒必は、一千の侍衞の長にて、番直の宿老 卽ち四 怯薛 長の一人となり、兼ねて殿中監の職務をも執れるなり。この職務は、太祖︀ 始めて合罕となれる時「家の內の婢僕どもを統べん」と云へるに同じ。)
§235(10:10:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
忽必來 那顏クビライ ノヤンに合兒魯兀惕カルルウトを征コトムけさせたり。合兒魯兀惕カルルウトの阿兒思闌 罕アルスラン カンは忽必來クビライに降クダり來キぬ。忽必來 那顏クビライ ノヤンは、阿兒思闌 罕アルスラン カンを率ヒキゐ來キて、成吉思 合罕チンギス カガンに見マミえさせたり。敵對テキタイせ