して、殺︀コロすべき理コトワリあるをば殺︀コロし、罰ツミナふべき理コトワリあるをば罰ツミナへ」とて、
普アマネき上等ジヤウトウの札兒忽ヂヤルク(最も高き斷事、卽ち最高 裁判)を任ヨサし給タマへり。(黑韃 事略の徐霆の補證に「韃人本無㆓字書㆒云云。其俗淳而心專、故言語不㆑差。其法說㆑謊者︀死、故莫㆓敢詐僞㆒。雖㆑無㆓字書㆒、自可㆑立㆑國、」また「霆見㆓其一法最好㆒、說㆑謊者︀死」とあり。謊は、詐僞なり。札兒忽を掌る者︀を札兒忽赤と云ひ、漢︀語に譯すれば斷事官と云ふ。失吉 忽禿忽は、初任の斷事官なり。馬祖︀常の撰れる月合乃の碑に「國朝天造之始、總㆓裁庶政㆒、悉由㆓斷事官㆒」と云ひ、元史 百官志 一に「元太祖︀起㆑自㆓朔土㆒、統㆓有其眾㆒、部落野處、非㆑有㆓城郭之制㆒、國俗敦厚、非㆑有㆓庶事之繁㆒、惟以㆓萬戶㆒統㆓軍旅㆒、以㆓斷事官㆒治㆓政刑㆒、任用者︀、不㆑過㆓一二親貴重臣㆒耳」と云ひ、元史 紀事本末に「太祖︀時、設㆑官甚簡、以㆓斷事官㆒爲㆓至重之任㆒、位㆓三公上㆒」ともあり。又 百官志 三に「國初未㆑有㆓官制㆒、首置㆓斷事官㆒、曰㆓札魯忽赤㆒、會㆓決庶務㆒。凡諸︀王駙馬投下 蒙古 色目人等應㆑犯一切公事、及漢︀人姦盜詐僞、蠱毒厭魅、誘掠逃驅、輕重罪囚、及邊遠出征、官吏每歲從㆑駕、分㆓司上都︀㆒、存畱住冬諸︀事、悉掌之」とあるは、漢︀地を幷せたる後の職掌をも兼ね擧げたるなり。)又マタ「普アマネき民タミの割附ワリツケを割附ワリツけたる事コトを裁斷サイダンを裁斷サイダンしたる事コトを靑アヲき迭卜帖兒デブテル(靑册)に書物カキモノ必赤克に書カ必赤きて記錄キロク迭卜帖兒列して、子孫ウミノコの子孫ヤソツギツギに至イタるまで、失吉 忽禿忽シギ クトクの我ワレに謀ハカりて論アゲツラひて、靑アヲき書物カキモノ 白シロき紙カミに記錄キロクしたるを勿ナ 改アラタめそ。改アラタむる人ヒトは、罪ツミあるとなれ」と勅ミコトありき。
失吉 忽禿忽シギ クトク 言イはく「我ワが如ゴトき末スエの弟オトヽは、一樣イチヤウに齊等ヒトシナミに分前ワケマヘをいかんぞ取トらん。恩賜オンシせば、土ツチの牆カキある城シロより賜タマはらん事コトを合罕カガンの恩賜オンシにて知シしめせ」と奏マウしけり。(土の牆ある城とは、乞塔惕 唐兀惕などの都︀邑を云ふ。羽︀柴秀吉の「海︀外にて領地を賜はれ」〈[#「海︀外にて領地を賜はれ」は底本では「始めかぎ括弧」がない]〉と信長公に申したるに意 同じ。)この言コトバにつき、「己オノが身ミを汝ナンヂは斟酌シンシヤクせり(身の程を善く考へたり)。汝ナンヂ 知シれ(自ら取りて支配せよ)」と宣ノリタマへり。失吉 忽禿忽シギ クトクは己オノレにかく恩賜オンシせしめ了ヲへて、出イでて孛斡兒出ボオルチユ 木合黎ムカリ 等ラの官人クワンニンを喚ヨびて入イらしめけり。
§204(08:33:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
そこに成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトありて蒙力克 額赤格モンリク エチゲ〈[#「蒙力克 額赤格」は底本では「蒙力克 額亦格」。昭和18年復刻版に倣い修正]〉に宣ノリタマはく