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に嫁ぎたるのみならず、猶その前に阿剌忽失に嫁ぎたるなるべし。多遜は、阿剌忽失の辭みたることを云へども、辭みたらんには、古咧堅 卽ち駙馬と呼ばるべき筈なし。卷十に阿剌合 別乞を汪古惕に與へたりとあるは、阿剌忽失に與へたるなり。蒙韃 備錄に阿里黑 百因とあるは、卽ち阿剌合 別乞の訛なれば、元史に阿剌兀思の妻 阿里黑と云へるは卽ちこの阿里黑、又卽ち阿剌合なり。蒙古は再醮 三醮を諱まざるのみならず、父 死してその後 母を妻とし、兄 死してその嫂を妻とするは、匈奴 突︀厥を初として、塞北の俗 皆 然り。孛要合は、蓋 阿剌合の生めるにはあらで、前妻の子なるべし。阿剌忽失の殺︀されたる時は、孛要合なほ幼かりし故に、阿剌合は夫の姪なる鎭國に嫁ぎ、鎭國 死して後に我が子の如き孛要合を夫としたるなり。蒙古 源流に滿都︀古勒 汗の寡婦 滿都︀該 徹辰 哈屯は、節︀を守りて他族に嫁がず、夫の從曾孫(姪の孫)なる達延 汗を育ててその哈屯となれる奇談あり。漢︀人ならば瀆倫と云ふべきことを蒙古にては貞烈とするほどなれば、阿剌合の三醮などは珍しきことに非ず。然るに閻復の駙馬 高唐王 闊里吉思(阿剌忽失の曾孫)の碑に至りては、曾祖︀母と祖︀母と同じ人なりとは直書しかねて、阿剌忽失の妻をば曾祖︀妣 阿里黑、孛要合の妻をば祖︀妣 皇曾祖︀姑 阿剌海︀ 別吉と書きて、別人の如くし、阿里黑は何姓とも誰の女とも云はず、只まぎらかせり。元史の本傳は、全くこの碑文に本づける故に筆 執れる人も、阿里黑の卽ち阿剌海︀なることを知らざりしなり。)​林​​ハヤシ​の​民​​タミ​より​外​​ホカ​なる​忙豁勒​​モンゴル​の​國​​クニ​の​千戶​​センコ​の​官人​​クワンニン​を​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​名​​ナ​ざしたる

九十五の千戶

​九十五​​クジフゴ​の​千戶​​センコ​の​官人​​クワンニン​ ​成​​ナ​れり。(林の民とは、斡亦喇惕 乞兒吉速惕などを云ふ。卷十に見ゆ。阿勒赤、不禿、阿剌忽失 的吉惕忽哩の三人は、三人にて十の千戶となりたれば、千戶は九十五なれども、功臣は八十八人なり。

八十八の功臣

明譯に「除駙馬外、復授同開國有功者︀九十五人千戶」とあり。駙馬を除くも九十五人も、皆譯し誤りなり。又 元史 朮赤台の傳に「朔方旣定、擧六十五人千夫長」とある六は九の誤寫 又は誤刻にして、これも千戶の數 九十五なるを功臣の數と誤解したるなり。


§203(08:27:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


功臣の恩賞

 ​古咧格惕​​グレゲト​(駙馬なる古咧堅の複稱)と​一處​​イツシヨ​[なる​人人​​ヒトビト​]に(この句の意 明かならざるが爲に、明の譯人は、駙馬を除きて九十五の功臣ありと誤解せり。蓋この句の意は、駙馬を込めたる諸︀功臣にと云ふことにて、功臣の外なる駙馬を加へてと云ふことには非ず。)​又​​マタ​ ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あり「この​名​​ナ​ざしたる​九十五​​クジフゴ​の​千戶​​センコ​の​官人​​クワンニン​に​千戶​​センコ​を​任​​ヨサ​したるその​內​​ウチ​にて​功​​イワヲ​ある​者︀​​モノ​に​恩賞​​オンシヤウ​を​與​​アタ​へん」とて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あり(この句は、原本にては「功ある者︀」の上に在り。恐らくは傳鈔の間に起れる錯誤ならん。今 假にこゝに移したれども、實はこの句なくとも通ずる處なり。)「​孛斡兒出​​ボオルチユ​ ​木合黎​​ムカリ​ ​等​​ラ​の​官人​​クワンニン​どもをおこせよ」と​宣​​ノリタマ​ふ​時​​トキ​に、​房​​ヘヤ​の​內​​ウチ​に​失吉 忽禿忽​​シギ クトク​