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ば、​從​​シタガ​はざりき、​汝​​ナンヂ​」と​言​​イ​へ。「​今​​イマ​ ​汝​​ナンヂ​の​言​​コトバ​により、​血​​チ​を​出​​イダ​さず​逝​​イ​なせん」と​言​​イ​へ」と​云​​イ​ひて、「​血​​チ​を​出​​イ​さず​逝​​イ​なせて、​彼​​カレ​の​骨​​ホネ​を​面前​​マノアタリ​に​勿​​ナ​ ​棄​​ス​てそ。​善​​ヨ​きに​取​​ト​れ」とありき。​札木合​​ヂヤムカ​をそこに​逝​​イ​なせて、​彼​​カレ​の​骨​​ホネ​を​取​​ト​らしめたり(明譯​仍​​ヨツテ​​似​​モテ​​禮​​レイヲ​​厚葬了​​アツクハウムレリ​)。


§202(08:24:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​斡難︀ 河​​オナン ガハ​の源なる​二​​フタ​たびの卽位

 かく​毛氈​​モウセン​の​帳裙​​チヤウクン​ある​國民​​クニタミ​を​平​​タヒラ​げて、​虎​​トラ​の​年​​トシ​(我が土御門天皇 建永 元年 丙寅、宋の寧宗 開禧 二年、金の泰和 六年、西紀 一二〇六年、太祖︀ 四十五歲の時)、

九脚の白纛

​斡難︀ 河​​オナン ガハ​の​源​​ミナモト​に​聚會​​ツドヒ​して、​九​​コヽノ​つの​脚​​アシ​ある​白​​シロ​き​纛​​トウ​を​立​​タ​てて、(親征錄 元史 みな九斿の白旗とあり、喇失惕を洪鈞の重譯したるにも九脚の白旗とあれども、洪鈞は之を打消して「白き馬の尾九つを旄纛とせるにて、旗に非ず」と云へり。脚とは、白旄の垂れたるを云へるにて、斿に非ず。蒙古 源流に、九人の烏爾魯克 卽ち九猛將の稱ありて、親軍 九隊の帥を云へり。訶渥兒斯は、これに依りて「大なる纛を建て、白旄 九つを重ねて繋けて、九 烏爾魯克を表したるなり」と云へり。されども九 烏爾魯克の稱は、他の書に更に見えざれば、信じ難︀し。阿不勒嘎自の書に「蒙古は九の數を尙ぶが故に、贈︀物にも九を用ふ。その制は、突︀兒克より出でたり」とあれば、白旄の九つなるも、ただ めでたき數を用ひたるなるべし。)​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​罕​​カン​の​號​​ナ​をそこに​奉​​タテマツ​れり。(

二次卽位の考證

これにて成吉思 汗は、二たび合罕の位に陞れり。元史 本紀に「元年丙寅、帝大會諸︀王羣臣、建九斿白旗。卽皇帝位於 斡難︀ 河之源。諸︀王羣臣、共上尊號成吉思 皇帝」とあり。錢大昕の祕史の跋に「當太祖︀幼時、勢甚徵弱、賴王罕 札木合 二人、假以徒眾、羽︀翼漸成、始立名號。紀但云「丙寅歲、羣臣上尊號成吉思 皇帝、」不成吉思 罕 之號、蓋已久矣。其後遣使誚責 案彈 火察兒 等、謂昔者︀吾國無主、汝等推戴吾之主者︀、正指此事也。先稱合罕者︀、一部之主。後稱皇帝、乃爲羣部之主。豈可罕一節︀而不書乎」と云へるは、洵に卓見なり。但 錢氏は前後の名號を合罕と皇帝とに分けたれども、この丙寅の卽位も皇帝と稱したるにはあらで、前と同じく合罕と云へるなり。親征錄 元史のみならず、宋人の記錄などにも、成吉思 皇帝とあるは、當時 蒙古に仕へたる漢︀臣 等の漢︀譯したるに本づきたるにて、蒙古にてしか稱したるには非ず。先後の合罕の異なる所は、先には蒙古部の主となり、今は迭列該(天下)の主、卽ち眞の合木渾 合罕となれるなり。すべて創業 開國の君にして二たび卽位の禮を行へるは、珍しき事に非ず。晉の代の羣雄には、初に天王の位に卽き、後に皇帝の位に卽きたる人 甚だ多し。後魏の道武帝は初に魏王と稱し、登國と建元し、後に皇帝となれり。遼の太祖︀は、初に契丹 可汗の位を嗣ぎ、後に天皇王となりて神︀册と建元せり。淸の太祖︀は初に金國汗の位に卽き、天命と建元