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​云​​イ​はるゝは、​彼​​カレ​なるぞ」と​云​​イ​ひき。それより​塔陽 罕​​タヤン カン​ ​言​​イ​はく「​但​​タヾ​ ​然​​シカ​あらば、​山​​ヤマ​の​高​​タカ​みを​爭​​アラソ​はん。​上​​ウヘ​へ​登​​ノボ​れ」と​云​​イ​ひて、​山​​ヤマ​に​登​​ノボ​り​立​​タ​てり。​又​​マタ​ ​塔陽 罕​​タヤン カン​は、​札木合​​ヂヤムカ​に​問​​ト​ふに「​彼​​カレ​の​後​​ウシロ​より​來​​キ​ぬるは、​誰​​タレ​なる」と​云​​イ​ひき。

肝ある​斡惕赤斤​​オツチギン​

​札木合​​ヂヤムカ​ ​言​​イ​はく「​彼​​カレ​は、​訶額侖 額客​​ホエルン エケ​の​末​​スエ​の​子​​コ​ ​斡惕赤斤​​オツチギン​、​肝​​カン​ありと​云​​イ​はるゝなり。​早​​ハヤ​く​睡​​ネム​り​曉​​アカツキ​に​起​​オ​き、​黑闇​​クラヤミ​​巴嚕安​よりも​後​​オク​れたること​無​​ナ​く、​立處​​タチドコロ​​巴亦荅勒​よりも​後​​オク​れたること​無​​ナ​し」と​云​​イ​ひき。​塔陽 罕​​タヤン カン​ ​言​​イ​はく「​然​​シカ​あらば、​山​​ヤマ​の​頂​​イタヾキ​の​上​​ウヘ​に​上​​ノボ​らん」と​云​​イ​ひけり。


§196(07:42:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​札木合​​ヂヤムカ​の心がはり

 ​札木合​​ヂヤムカ​は、​塔陽​​タヤン​にこの​言​​コトバ​をかく​言​​イ​ふと、​乃蠻​​ナイマン​より​離​​ハナ​れ、​別​​ワカ​れて​出​​イ​でて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​報吿​​ハウコク​を​入​​イ​れて​遣​​ヤ​るに、「​安荅​​アンダ​に​言​​イ​へ」とて​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るに「​塔陽 罕​​タヤン カン​は、​我​​ワ​が​言​​コトバ​​兀格​に​昏​​クラ​​兀窟惕古​みて、​上​​ノボ​​斡額迭​り​爭​​アラソ​ひ​驚​​オドロ​​兀兒古​きて​上​​アガ​れり。​口​​クチ​​阿馬阿兒​にて​殺︀​​コロ​​阿剌黑荅​されて、​怕​​オソ​​阿余​れて​山​​ヤマ​​阿兀剌​に​登​​ノボ​​阿巴鄰​り​上​​アガ​れり。​安荅​​アンダ​ ​戒愼​​カイシン​せよ。​彼等​​カレラ​は、​山​​ヤマ​に​上​​アガ​れり。この​人​​ヒト​どもは、​逆​​ムカ​ふる​氣色​​ケシキ​なし。​我​​ワレ​こそは、​乃蠻​​ナイマン​より​離​​ハナ​れたれ」と​云​​イ​ひて​遣​​ヤ​りき。​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​日晩​​ヒクレ​になられて、​納忽​​ナク​の​崖​​ガケ​の​山​​ヤマ​を​取卷​​トリマ​き​軍立​​イクサダチ​して​宿​​ヤド​れり。

​乃蠻​​ナイマン​の​潰敗​​カイハイ​

その​夜​​ヨル​ ​乃蠻​​ナイマン​は​躱​​ノガ​れ​動​​ウゴ​かんとし、​納忽​​ナク​の​上​​ウヘ​より​墜​​オ​ちて、​上​​ウヘ​に​上​​ウヘ​に​重​​カサ​なり​合​​ア​ひて、​骨髮​​ホネカミ​を​碎​​クダ​き​倒​​タフ​れ​合​​ア​ひて、​爛木​​クチキ​[の​如​​ゴト​く]​立​​タ​つまで​壓​​オ​し​合​​ア​ひて​死​​シ​に​合​​ア​ひけり。

​塔陽​​タヤン​の​虜︀​​トラ​はれ ​古出魯克​​グチユルク​の走り 諸︀部落の降り

その​明朝​​アシタ​ ​塔陽 罕​​タヤン カン​を​窮​​キハ​めて​拿​​トラ​へたり。​古出魯克 罕​​グチユルク カン​は、​別​​ベツ​に​居​​ヰ​たるにより、​僅​​ワヅカ​の​人​​ヒト​にて​背​​ソム​