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は、​同等​​ドウトウ​の​敵​​テキ​に​男​​ヲトコ​の​背​​セナカ​、​騸馬​​センバ​の​臀​​シリ​を​見​​ミ​せざりき。​今​​イマ​ ​爾​​ナムチ​ ​朝早​​アサハヤ​く​便​​スナハ​ち いかんぞ​心​​コヽロ​ ​怖​​オ​ぢたる、​爾​​ナムチ​。(「朝氣銳、畫氣惰、暮氣歸」と孫子 曰へり。今 早朝にして惰歸の氣あるは、恇怯 甚しきなり。)​爾​​ナムチ​をかく​心​​コヽロ​ ​怖​​オ​づるを​知​​シ​りたらば、​合屯​​カトン​の​人​​ヒト​にもあれども、​爾​​ナムチ​の​母​​ハヽ​を​古兒別速​​グルベス​を​伴​​ツ​れ​來​​キ​て​軍​​イクサ​を​治​​ヲサ​めしめざらんや。(親征錄「昔君父 亦年 可汗、勇戰不回。士背馬後、未嘗使人見也。今何怯邪。果懼之、何不菊兒八速 來。」この譯は、簡にして質なり。元史は修飾を加へ「先王戰伐、勇進不回。馬尾人背、不使敵人見之。今爲此遷延之計、得心中有懼乎。苟懼之、何不后妃來統軍也」と改め、頗る雅馴なる文となれり。)​嗟​​アヽ​ ​惜​​ヲシ​けくも​可克薛兀 撒卜喇黑​​コクセウ サブラク​に​老​​オ​いられたり。いかにも​我​​ワ​が​軍​​イクサ​の​法度​​ハフド​は​怠慢​​タイマン​になれり。​忙豁勒​​モンゴル​の​天時​​テンジ​ ​氣運​​キウン​とぞ​爲​​ナ​れるに​非​​アラ​ずや、​嗚呼​​アヽ​、​懦​​オヂナ​き​塔陽​​タヤン​、​臆病​​オクビヤウ​の​如​​ゴト​くのみあり、​爾​​ナムチ​」と​云​​イ​ひて、その​箭筒​​ヤナグヒ​を​打​​ウ​ちて​別​​ワカ​れ​驅​​カ​け​去​​サ​れり。


§195(07:31:02)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​塔陽 罕​​タヤン カン​の奮進

 その​時​​トキ​ ​塔陽 罕​​タヤン カン​ ​怒​​イカ​りて​言​​イハ​く「​死​​シ​ぬる​命​​イノチ​、​苦​​クルシ​む​身​​ミ​は、すべて​一​​ヒト​つなるぞ(苦まんよりは死なん との意)。しかあらば​戰​​タヽカ​はん(明譯​人死​​ヒトシヌル​的 ​性命​​イノチ​ ​辛苦​​クルシム​ 的 ​身軀​​ミ​ ​都︀​​スベテ​ ​一般​​オナジ​。​您​​ナンヂラ​ ​那般​​シカ​ ​說呵​​イハバ​、​咱​​ワレラ​​迎去​​ムカヘユキ​​與​​ト​​他​​カレ​ ​厮殺︀​​タヽカハン​)」と​云​​イ​ひて、​合池兒​​カチル​の​水​​ミヅ​より​動​​ウゴ​きて、​塔米兒 河​​タミル ガハ​(水道 提綱の他米勒 河、會典の圖の塔米爾 河)に​沿​​シタガ​ひ​行​​ユ​きて、​斡兒桓 河​​オルゴン ガハ​を​渡​​ワタ​りて、​納忽​​ナク​の​崖​​ガケ​の​東​​ヒガシ​の​裾​​スソ​を​過​​ス​ぎ、​察乞兒馬兀惕​​チヤキルマウト​に​到​​イタ​りて​來​​キ​つる​時​​トキ​、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​斥候​​モノミ​ ​見​​ミ​て、「​乃蠻​​ナイマン​ ​到​​イタ​りて​來​​キ​つ」と​云​​イ​ふ​報​​シラセ​を​致​​イタ​したれば、この​報​​シラセ​を​致​​イタ​さるゝと、

逆戰の​敕​​ミコト​

​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​勅​​ミコト​あるには「​多​​オホ​きよりは​多​​オホ​く、​少​​スクナ​きよりは​少​​スクナ​く​損失​​ソンシツ​になるぞ(多き乃蠻には死傷 多く、寡き蒙古には死傷 寡からん)」と​云​​イ​ひて、「​彼等​​カレラ​の​迎​​ムカ​へに​出馬​​シユツバ​して、​彼等​​カレラ​の​斥候​​モノミ​