を逐オひて追逼オヒセマりて、彼等カレラの中軍チウグンに合アはしめ、その亂ミダレの裏ウチに戰タヽカはば成らんか」と建言ケンゲンしたれば、この言コトバを善ヨしとして、成吉思 合罕チンギス カガン 勅ミコトあるには「かく便スナハち火ヒを燒タかしめよ」とて、軍士イクサビトどもに號令ガウレイを傳ツタへたり。かくて撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに廣ヒロがり下營カエイして、命イノチあるだけの人ヒト[毎ゴトに]五處イツトコロに火ヒを燒タかしめたり。夜ヨル 乃蠻ナイマンの斥候モノミは康合兒罕 山カンカルカン ザンの頂イタヾキより夜ヨルあまたの火ヒを見ミて、「忙豁勒モンゴルを、少スクナしとは云イはざりしか。星ホシより多オホき火ヒあり」と云イひ、塔陽 罕タヤン カンに惡アしき鞍クラある靑馬アヲウマの小馬コウマを送オクりて遣ヤりて、「忙豁勒モンゴルの軍士イクサビトども撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに滿ミつるまで下營カエイしたり。晝ヒルの內ウチに增マしたらんか。星ホシより多オホき火ヒあり」と云イひて遣ヤりき。
§194(07:26:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
斥候モノミのこの報シラセに到イタられて、塔陽 罕タヤン カンは 康孩 山カンガイ ザン(親征錄杭海︀ 山ハンガイ ザン、元史 太祖︀紀 沆海︀ 山、世祖︀紀 十四 康里 脫脫の傳 杭海︀、今の杭愛 山)の合池兒 兀孫カチル ウスン(合池兒の水、親征錄哈只兒 兀孫 河ハデル ウスン ガハ)にありしが、この報シラセを致イタさるゝと、古出魯克 罕グチエルク カン〈[#ルビの「グチエルク カン」はママ。他の節︀ではすべて「グチユルク カン」。昭和18年復刻版もここだけ「グチエルク カン」]〉(親征錄 屈出律 可汗、又 曲出律 可汗、元史 屈出律 罕、抄思の傳 曲書律)なる子コの處トコロに吿ツげて遣ヤるには「忙豁勒モンゴルの騸馬センバども瘦ヤせたり。星ホシより多オホき火ヒありと云イへり。忙豁勒モンゴル 多オホく有アり。今イマ 我等ワレラ 合アひ畢ヲへば、離ハナるゝこと難︀カタくならんか(明譯今若イマモシ與ト㆑他カレ連ツラネバ㆑兵ヘイヲ、後必ノチカナラズ難︀ガタケン㆑解トケ)。合ア含禿敦ひ畢ヲへば、その黑クロ合喇き目メを瞬マジロ喜兒篾思き做ナさず、その腮ホヽ合察兒を刺サ合惕忽黑荅さるとも、黑クロ合喇き血チ 出イ合嚕づとも、避サ合勒塔里勒くること無ナき剛ガウ合堂斤なる忙豁勒モンゴルに合アはば、成ナらん