斡兒訥兀 山オルヌウ ザンの半崖ハンガイより乃蠻ナイマンの民タミの處トコロに出馬シユツバしたるに、
§193(07:22:05)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
鼠ネズミの年トシ(我が土御門 天皇 元久 元年 甲子、宋の嘉泰 四年、金の泰和 四年、西紀 一二〇四年、成吉思 汗 四十三歲の時)、夏ナツの首ハジメの月ツキの第十六ダイジフロクの日ヒの紅アカき光ヒカリに、纛トウを祭マツりて出馬シユツバしたるに、客魯嗹 河ケルレン ガハに泝サカノボり、者︀別ヂエベ 忽必來クビライ(親征錄 元史虎必來フビライ 哲別ヂエベ)二人フタリを先鋒センポウとして行ユき、撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに到イタれば、康合兒罕 山カンカルカン ザンの頂イタヾキに乃蠻ナイマンの斥候モノミそこにありき。(康合兒罕 山 は、露西亞の地圖に見ゆる布爾林 達班 嶺なるべし。康合兒罕と云ふ名は、今の地圖には見えざれども、その嶺の東なる古の撒阿哩 客額兒の地を袞古魯台 草地と云ひ、その嶺の西南を渾呼魯台 戈壁と云ひ、袞古魯も渾呼魯も康合兒に近ければ、古は、その嶺 又はその嶺の一部を康合兒罕と云ひしならん。)
我等ワレラの斥候モノミと逐オひ合アひて、我等ワレラの斥候モノミより、一匹ヒトツの靑馬アヲウマに惡アしき鞍クラあるを、乃蠻ナイマンの斥候モノミに取トられき。乃蠻ナイマンの斥候モノミは、その馬ウマを取トりて語カタり合アへらく「忙豁勒モンゴルの騸馬センバ 瘦ヤせたり」と云イひ合アひけり。我等ワレラの[軍イクサ]は、撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに到イタりて、そこに止トヾまりて「いかにせん」と云イひ合アへば、
そこに朶歹 扯兒必ドダイ チエルビは、成吉思 合罕チンギス カガンに建言ケンゲンすらく「我等ワレラは但タヾ 少スクナくあり。少スクナきが上ウヘに疲ツカれて來キぬ。かくも止トヾまりて騸馬センバどもを飽アかせつゝ、この撒阿哩 客額兒サアリ ケエルに廣ヒロがり下營カエイして、命イノチあるだけの人ヒト毎ゴトに(この間に「男の」と譯すべき語あり。文法上の關係 確かならず。)五處イツトコロに火ヒを燒タきて、火ヒにて嚇オドカさん。乃蠻ナイマンの民タミは多オホしと云イはれたり。彼等カレラの罕カンは家イヘより出イでざりし弱ヨワき[人ヒト]と云イはれたり。火ヒにて惑マドはする閒アヒダに、我等ワレラの騸馬センバどもも飽アけらんぞ。騸馬センバどもを飽アかしめ、乃蠻ナイマンの斥候モノミ