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の​報​​シラセ​につき、​圍獵​​マキガリ​の​上​​ウヘ​にて​便​​スナハ​ち「いかにかせん、​我等​​ワレラ​」と​云​​イ​ひ​合​​ア​へれば、

​乃蠻​​ナイマン​ 征伐の評議

​多​​オホ​くの​人​​ヒト​ ​言​​イ​はく「​我等​​ワレラ​の​騸馬​​センバ​ども​瘦​​ヤ​せたり。​今​​イマ​ ​何​​ナニ​かせん、​我等​​ワレラ​」と​云​​イ​ひ​合​​ア​ひき。その​時​​トキ​ ​斡惕赤斤 那顏​​オツチギン ノヤン​(卽 帖木格 斡惕赤斤)​言​​イ​はく「​騸馬​​センバ​とも​瘦​​ヤ​せたりとて、いかんぞ​辭​​イナ​まれん。​我​​ワ​が​騸馬​​センバ​どもは​肥​​コ​えたり。かゝる​言​​コトバ​を​聞​​キ​きて、いかんぞ​坐​​スワ​られん」と​云​​イ​へり。​又​​マタ​ ​別勒古台 那顏​​ベルグタイ ノヤン​ ​言​​イ​はく「​生​​イ​きて​居​​ヲ​る​閒​​アヒダ​に​家人​​ケニン​ ​箭筒​​ヤナグヒ​を​取​​ト​られば、​生​​ウマ​きて​何​​ナニ​の​詮​​カヒ​か​有​​ア​らん。​生​​ウマ​れたる​丈夫​​ヲトコ​、​死​​シ​なば​又​​マタ​ ​箭筒​​ヤナグヒ​ ​弓​​ユミ​と​骸​​カバネ​と​一​​ヒト​つに​臥​​フ​さば​善​​ヨ​からずや。​乃蠻​​ナイマン​の​民​​タミ​は、​國​​クニ​ ​大​​オホキ​く​民​​タミ​ ​多​​オホ​しとて、​大​​オホキ​なる​言​​コトバ​を​言​​イ​ひたり。​我等​​ワレラ​、この​彼等​​カレラ​の​大​​オホキ​なる​言​​コトバ​に​倚​​ヨ​り、​出馬​​シユツバ​して​往​​ユ​きて、​彼等​​カレラ​の​箭筒​​ヤナグヒ​を​取​​ト​らば、​難︀​​カタ​きことあらんや。​往​​ユ​​斡都︀​かば、​彼等​​カレラ​の​あまた​​斡欒​の​馬羣​​バグン​は、​止​​トヾ​まりて​殘​​ノコ​らざらんや。​彼等​​カレラ​の​宮室​​キウシツ​​斡兒朶格兒​は、​空​​カラ​になりて​殘​​ノコ​らざらんや。​彼等​​カレラ​の​あまた​​斡欒​の​部眾​​ブシウ​は、​高​​タカ​き​處​​トコロ​に​遁​​ノガ​れて​上​​ノボ​らざらんや。​彼等​​カレラ​にこのかゝる​大​​オホキ​なる​言​​コトバ​を​言​​イ​はしめて、いかんぞ​坐​​スワ​られん。​出馬​​シユツバ​せん、​便​​スナハ​ち」と​云​​イ​へり。


§191(07:18:01)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​斡兒訥兀 山​​オルヌウ ザン​の​半崖​​ハンガイ​の​駐營​​チウエイ​

 ​別勒古台 那顏​​ベルグタイ ノヤン​の​此​​コ​の​言​​コトバ​を​善​​ヨ​しとして、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​圍獵​​マキガリ​を​罷​​ヤ​めて、​阿卜只合 闊帖格兒​​アブヂカ コテゲル​(前の阿卜只阿 闊迭格兒)より​動​​ウゴ​きて、​合勒合 河​​カルカ ガハ​の​斡兒訥兀 山​​オルヌウ ザン​の​半崖​​ハンガイ​に​下馬​​ゲバ​して、(半崖は、蒙語​客勒帖該 合荅​​ケルテガイ カダ​。卷六の客勒帖該 合勒都︀惕〈[#「合勒都︀惕」は底本では「合勒 都︀惕」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§164(05:36:03)のローマ字音訳「qaldud-ta」に倣い修正]〉と義 同じ。卽ち忽亦勒荅兒を葬りたる處なり。親征錄には哈勒合 河 建忒垓 山、元史には建忒該 山とありて、斡兒訥兀なる山の