ぞ。(合剌只 原。高寶銓の說に、今の哈拉 河の下流の東北岸の地ならんと云へり。)今イマ 我等ワレラは、直タヾチに乞勒豁 木嗹キルゴ ムレン(乞勒豁 河、水道 提綱の啓兒活 河)を橫ヨコ輕古思ぎるに猪︀鬃草チヨソウサウ撒合勒伯顏は何處イヅクにも有アれ、筏イカダ撒勒忽牙 組クみて入イらん。彼カの遽アワて驚オドロく脫黑脫阿トクトアの天窻ソラマド額嚕格の上ウヘより入イりて、彼カレの緊要キンエウ額兒勤なる帳房骨チヤウバウコツ額額迭を倒タフ唵不囉すべく衝ツきて、彼カレの妻子ツマコ額篾可溫を盡ツ額出勤くるまで虜︀トラへん。彼カレの福︀神︀フクノカミ忽禿黑の帳房骨チヤウバウコツ(大黑柱と云ふが如き者︀)を折ヲ忽忽嚕るべく衝ツきて、彼カレの都︀スベ豁脫剌ての部眾ブシウを空ムナ豁斡孫しくなるまで虜︀トラへん。」
§106(03:07:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
札木合ヂヤムカが出陣のしらせ約會ヤククワイの地トコロ
札木合ヂヤムカ 又マタ 言イはく「帖木眞 安荅テムヂン アンダ、脫斡哩勒 罕 阿合トオリル カン アカ(脫斡哩勒 罕なる兄)二人フタリに言イへ」とて言イはく「我ワレには、遠トホ合喇阿禿く見ミゆる纛トウを祭マツれり、我ワレ。黑クロ合喇き强牛キヤウギウ不合の皮カハにて張ハ不哩克先りたる鼕鼕トウトウ不兒乞嗹たる音オトある鼓ツヾミ可兀兒格を打ウてり、我ワレ。黑クロ合喇き快馬ハヤキウマに乘ノれり、我ワレ。硬カタ合唐忽き衣裳イシヤウを被キたり、我ワレ。鋼ハガネ合壇の鎗ヤリを執トれり、我ワレ。挑皮テウヒ合惕忽喇速ある箭ヤを扣カけたり、我。合阿惕 篾兒乞惕カアト メルキトの處トコロに戰タヽカ合惕忽勒敦ひに出馬シユツバせん便スナハちと言イへ。長ナガ兀兒圖き遠トホく見ミゆる纛トウを祭マツれり、我ワレ。牛ウシ忽客兒の皮カハにて張ハりたる濁ニゴ斡惕刊れる聲コヱある鼓ツヾミを打ウてり、我ワレ。脊黑セグロ斡囉黑の快馬ハヤキウマに乘ノ兀訥れり、我ワレ。革カハ忽迭速禿 被キせたる鎧ヨロヒ忽牙克を被キたり、我ワレ。柄ツカ汪吉ある環刀クワンタウ兀勒都︀を執トれり、我ワレ。扣子コウシ斡那兒ある箭ヤを扣カ斡那剌けたり、我ワレ。兀都︀亦惕ウドイト、[兀洼思ウワス]篾兒乞惕メルキトの處トコロに死シ兀忽勒都︀牙に合アはん(死戰せん)便スナハちと言イへ。脫斡哩勒 罕トオリル カン 兄アニ 出馬シユツバするには不兒罕 獄ブルカン ダケの前マヘより帖木眞 安荅テムヂン アンダを過スぎて來キて、斡難︀ 河オナン ガハの源ミナモトに孛脫罕 孛斡兒只ボドカン ボオルヂに約會ヤククワイせん。此處コヽより出馬シユツバするには、斡難︀ 河オナン ガハに泝サカノボり、―安荅アンダの部眾ブシウ 此處コヽに在アり。―安荅アンダの部眾ブシウより一萬人イチマンニン、我ワレ 此處コヽ