麒麟 (谷崎潤一郎)

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鳳兮鳳兮。何德之衰。
往者不可諫。來者猶可追。己而。己而。今之從政者殆而。


西曆紀元前四百九十三年。左丘明さきうめい孟軻まうか司馬遷しばせん等の記錄によれば、定公ていこうが十三年目のかうの祭を行はれた春の始め、孔子こうしは數人の弟子達を車の左右に從へて、其の故郷の魯の國から傳道の途に上つた。
泗水しすゐの河のほとりには、芳草が靑々と芽ぐみ、防山ぼうざん尼丘ぢきう五峯ごほういたゞきの雪は溶けても、沙漠の砂を摑むで來る匈奴きようどのやうな北風は、いまだに烈しい冬の名殘なごりを吹き送つた。元氣の好い子路しろは紫のてんかはごろもを飜して、一行の先頭に進んだ。考深い眼つきをした顔淵がんえん、篤實らしい風采の曾參そうしんが、麻のくつを穿いて其の後に續いた。正直者の御者ぎよしや樊遲はんちは、駟馬しばくつわを執りながら、時々車上の夫子ふうしが老顏をぬすみ視て、いたましい放浪の師の身の上に涙を流した。
或る日、いよ一行が、魯の國境までやつて来ると、誰も彼も名殘惜しさうに、故郷ふるさとの方を振りかへつたが、通つて來た路は龜山きざんの蔭にかくれて見えなかつた。すると孔子は琴を執つて、
われ魯を望まんと欲すれば、
龜山之をおほひたり。
手に斧柯ふかなし、
龜山を奈何いかにせばや。
かう云つて、さびた、皺嗄しわがれた聲でうたつた。


それからまた北へ北へと三日ばかり旅を續けると、ひろとした野に、安らかな、屈托くつたくのない歌の聲が聞えた。それは鹿の裘になはの帶をしめた老人が、畦路あぜみち遺穗おちほを拾ひながら、唄つて居るのであつた。
いうや、お前にはあの歌がどう聞える。」
と、孔子は子路を顧みて訊ねた。
「あの老人の歌からは、先生の歌のやうな哀れなひゞきが聞えません。大空を飛ぶ小鳥のやうな、ほしいまゝな聲で唄うて居ります。」
「さもあらう。あれこそいにしへ老子らうしの門弟ぢや。林類りんるゐと云うて、もはや百歳になるであらうが、あの通り春が來れば畦に出て、何年となく歌を唄うては穗を拾うて居る。誰か彼處あすこへ行つて話をして見るがよい。」
かう云はれて、弟子の一人の子貢しこうは、畑のくろへ走つて行つて老人を迎え、尋ねて云ふには、
「先生は、さうして歌を唄うては、遺穗を拾つていらつしやるが、何も悔いる所はありませぬか。」
しかし、ろうじんは振り向きもせず、餘念もなく遺穗を拾ひながら、一步一步に歌を唄つて止まなかつた。子貢が猶も其の跡を追うて聲をかけると、漸く老人は唄ふことをやめて、子貢の姿をつくと眺めた後、
「わしに何のくいがあらう。」
と云つた。
「先生は幼い時におこなひを勤めず、長じて時をきそはず、老いて妻子つまこもなく、漸く死期しきが近づいて居るのに、何を樂しみに穗を拾つては、歌を唄うておいでなさる。」
すると老人は、からと笑つて、
「わしの樂しみとするものは、世間の人が皆持つて居て、却つて憂として居る。幼い時に行を勤めず、長じて時と競はず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居る。それだから此のやうに樂しんで居る。」
「人は見な長壽ながいきを望み、死を悲しむで居るのに、先生はどうして、死を樂しむ事が出來ますか。」
と、子貢は重ねて訊いた。
「死と生とは、一度往つて一度かへるのぢや。此處で死ぬのは、彼處かしこで生れるのぢや。わしは、生を求めて齷齪あくせくするのはまどひぢやと云ふ事を知つて居る。今死ぬるも昔死ぬるも昔生れたのと變りはないと思うて居る。」
老人は斯く答へて、また歌を唄ひ出した。子貢には言葉の意味が解らなかつたが、戾つて來て其れを師に告げると、
「なか話せる老人であるが、然し其れはまだ道を得て、至り盡さぬ者と見える。」
と、孔子が云つた。


それからまた幾日、長い旅を續けて、箕水きすゐの流をわたつた。夫子が戴く緇布くろぬのの冠はほこりにまびれ、狐の裘は雨風に色褪せた。
「魯の國から孔丘と云ふ聖人が來た。彼の人は暴虐な私達のきみきさきに、さいはひな敎と賢いまつりごととを授けてくれるであらう。」
ゑいの國のみやこに入ると、巷の人々はかう云つて一行の車を指した。其の人々はうゑつかれせ衰へ、家々の壁はなげきとかなしみの色を堪へて居た。其の國の麗しい花は、宮殿の妃の眼を喜ばす爲めに移し植ゑられ、肥えたるゐのこは、妃の舌をつちかふ爲めに召し上げられ、のどかな春の日が、灰色のさびれた街をいたづらに照らした。さうして、都の中央の丘の上には、五彩の虹をひ出した宮殿が、血に飽いた猛獣の如くに、屍骸のやうな街を俯下みおろして居た。其の宮殿の奥で打ち鳴らす鐘の響は、猛獣のうそぶくやうに國の四方へ轟いた。
「由や、お前にはあの鐘の音がどう聞える。」
と、孔子はまた子路に訊ねた。
「あの鐘の音は、天に訴へるやうな果敢はかない先生の調しらべとも違ひ、天にうち任せたやうな自由な林類の歌とも違つて、天に背いた歡樂をたゝへる、恐ろしい意味こゝろを歌うて居ります。」
「さもあらう。あれは昔ゑい襄公じやうこうが、國中のたからと汗とを絞り取つて造らせた、林鐘りんしようと云ふものぢや。その鐘が鳴る時は、御苑ぎよゑんの林から林へ反響こだまして、あのやうな物凄い音を出す。また暴政にさいなまされた人々の呪と涙とが封じられて居て、あのやうな恐ろしい音を出す。」
と、孔子が敎へた。


衞の君の靈公は、國原くなばらを見晴るかす靈臺れいだいの欄に近く、雲母の硬屏ついたて瑪瑙めなうたふを運ばせて、靑雲せいうんころもを纏ひ、白霓はくげい裳裾もすそを垂れた婦人の南子と、香の高い秬鬯きよちやうを酌み交はしながら、深い霞の底に眠る野山の春を眺めて居た。
「天にも地にも、うらゝかな光が泉のやうに流れて居るのに、何故私の國の民家では美しい花の色も見えず、こゝろよい鳥の聲も聞えないのであらう。」
かう云つて、公は不審の眉をひそめた。
「それは此の國の人民が、わがきみの仁德と、わが夫人の美容とを讃へるあまり、美しい花とあれば、悉く獻上して宮殿の園生そのふかきに移し植ゑ、國中の小鳥までが、一羽も殘らず花の香を慕うて、園生のめぐりに集る爲めでございます。」
と、君側に控へた宦者くわんじや雍渠ようきよが答へた。すると、其の時、さびれた街の靜かさを破つて、靈臺の下を過ぎる孔子の車の玉鑾ぎよくらん珊珊さんと鳴つた。
「あの車に乘つて通る者は誰であらう。あの男の額はげうに似て居る。あの男の目はしゆんに似て居る。あの男のうなじ皐陶かうえうに似て居る。肩は子産しさんに類し、腰から下がに及ばぬこと三寸ばかりである。」
と、これもかたわら伺候しこうして居た將軍の王孫賈わうそんかが、驚きの眼を見張つた。
「しかし、まあの男は、何と云ふ悲しい顏をして居るのだらう。將軍、おまへ物識ものしりだから、彼の男が何處から來たか、わたしに敎へてくれたがよい。」
かう云つて、南子夫人は將軍を顧み、走り行く車の影を指した。
「私は若き頃、諸國を遍歷しましたが、周の史官を務めて居た老聃らうたんと云ふ男の他には、まだれ程立派な相貌の男を見たことがありませぬ。あれこそ、故國の政に志を得ないで、傳道の途に上つた魯の聖人の孔子であらう。其の男の生れた時、魯の國には麒麟きりんが現れ、天には和樂わがくおとが聞えて、神女しんによ天降あまくだつたと云ふ。其の男は牛の如き唇と、虎の如きてのひらと、龜の如き背とを持ち、たけが九尺六寸あつて、文王の容體かたちを備へて居ると云ふ。彼こそ其の男にちがひありませぬ。」
かう王孫賈が説明した。
「其の孔子と云ふ聖人は、人に如何なる術を敎へる者である。」
と、靈公は手に持つた盃を乾して、將軍に問うた。
「聖人と云ふ者は、世の中の凡べての智識の鍵を握つて居ります。然し、あの人は、專ら家をとゝのへ、国を富まし、天下を平げる政の道を、諸國の君に授けると申します。」
將軍が再びかう説明した。
「わたしは世の中の美色を求めて南子を得た。また四方の財寶をあつめて此の宮殿を造つた。此の上は天下にを唱へて、此の夫人と宮殿とにふさはしい權威を持ちたく思うて居る。どうかして其の聖人を此處へ呼び入れて、天下を平げる術を授かりたいものぢや。」
と、公は卓を隔てゝ對して居る夫人の唇をうかゞつた。何となれば、平生公の心を云ひ表はすものは、彼自身の言葉でなくつて、南子夫人の唇から洩れる言葉であつたから。
「妾は世の中の不思議と云ふ者に遇つて見たい。あの悲しい顏をした男がまことの聖人なら、妾にいろの不思議を見せてくれるであらう。」
かう云つて、夫人は夢みる如き瞳を上げて、遥に隔たり行く車の跡を眺めた。


孔子の一行が北宮ほくきゆうの前にさしかゝつた時、賢い相を持つた一人の官人が、多勢の供を從へ、屈産くつさん駟馬しば鞭撻むちうち、車の右の席を空けて、うやしく一行を迎へた。
「私は靈公の命をうけて、先生をお迎へに出た仲叔圉ちゆうしゆくぎよと申す者でございます。先生が此の度傳道の途に上られた事は、四方の國々までも聞えて居ります。長い旅路に先生の翡翠ひすゐがいは風に綻び、車のくびきからは濁つた音が響きます。願はくは此の新しき車に召し替へられ、宮殿に駕をげて、民を安んじ、國を治める先王の道を我等のきみに授け給へ。先生の疲勞を癒やす爲めには、西圃さいほの南に水晶のやうな溫泉が沸々と沸騰たぎつて居ります。先生の咽喉をうるほす爲めには、御苑の園生に、かんばしいゆずだい、橘が、甘い汁を含んで實つて居ります。先生の舌を慰める爲めには、園🈶ゑんいうの檻の中に、肥え太つたゐのこ、熊、豹、牛、羊がしとねのやうな腹を抱へて眠つて居ります。願はくは、二月も、三月も、一年も、十年も、此の國に車をめて、愚な私達の曇りたる心をひらき、ひたる眼を開き給へ。」
と、仲叔圉は車を下りて、慇懃に挨拶をした。
「私の望む所は、莊嚴な宮殿を持つ王者の富よりは、三王の道を慕ふ君公の誠であります。萬乘の位も桀紂けつちうの奢の爲めには尚足らず、百里の國も堯舜の政を布くに狹くはありませぬ。靈公がまことに天下の禍を除き、庶民の幸をはかる御志ならば、此の國の土に私の骨を埋めても悔いませぬ。
斯く孔子が答へた。
やがて一行は導かれて、宮殿の奥深く進んだ。一行の黑塗の沓は、塵も止めぬ砥石の床に戛々かつと鳴つた。
摻々さんたる女手ぢよしゆ
以てしやうを縫ふ可し。
と、聲をそろへて歌ひながら、多數の女官が、をさの音たかく錦を織つてえ居る織室しよくしつの前も通つた。錦のやうに咲きこぼれた桃の林の蔭からは、苑🈶の牛のものうげに呻る聲も聞えた。
靈公は賢人仲叔圉のはからひを聽いて、夫人を始め一切の女を遠ざけ、歡樂の酒の沁みた唇をそゝぎ、衣冠正しく孔子を一室に招じて、國を富まし、兵を强くし、天下に王となる道をたゞした。
しかし、聖人は人の國を傷け、人の命のそこなふ戰の事に就いては、一言も答へなかつた。また民の血を絞り、民の財を奪ふ富の事に就いても敎へなかつた。さうして、軍事よりも、産業よりも、第一に道德の貴い事をおごそかに語つた。力を以て諸國を屈服する覇者の道と、仁を以て天下をなづける王者の道との區別を知らせた。
「公がまことに王者の德を慕ふならば、何よりも先づ私の慾に打ち克ち給へ。」
これが聖人のいましめであつた。


其の日から靈公の心を左右するものは、夫人の言葉でなくつて聖人の言葉であつた。朝には廟堂べうだうに參して正しいまつりごとの道を孔子に尋ね、夕には靈臺に臨んで天文四時てんもんしじの運行を、孔子に學び、夫人のねやを訪れる夜とてはなかつた。錦を織る織室の梭の音は、六藝りくげいを學ぶ官人の弓弦ゆづるの音、蹄の響、篳篥ひちりきの聲に變つた。一日、公は朝早く獨り靈臺に上つて、國中を眺めると、野山には美しい小鳥が囀り、民家には麗しい花が開き、百姓は畑に出て公の德を讃へ歌ひながら、耕作にいそしんで居るのを見た。公の眼からは、熱い感激の涙が流れた。
「あなたは、何を其のやうに泣いていらつしやる。」
其の時、ふと、かう云ふ聲が聞えて、魂をそゝるやうな甘い香が、公の鼻をなぶつた。其れは南子夫人が口中に含む鷄舌香けいぜつかうと、常に衣を振り懸けて居る西域せいゐきの香料、薔薇水しやうびすゐの匂であつた。久しく忘れて居た美婦人の體から放つ香氣の魔力は、無殘むざんにも玉のやうな公の心に、鋭い爪を打ち込まうとした。
何卒どうぞお前の其の不思議な眼で、私の瞳をにらめてくれるな。其の柔いかひなで、私の體をしばつてくれるな。私は聖人から罪惡に打ち克つ道を敎はつたが、まだ美しきものゝの力を防ぐ術を知らないから。」
と、靈公は夫人の手を拂ひ除けて、顏を背けた。
「あゝ、あの孔丘と云ふ男は、何時の間にかあなたを妾の手から奪つて了つた。妾が昔からあなたを愛して居なかつたのに不思議はない。しかし、あなたが妾を愛さぬと云ふ法はありませぬ。」
かう云つた南子の唇は、激しい怒に燃えて居た。夫人には此の國にとつぐ前から、宋の公子の宋朝そうてうと云ふ密夫みつぷがあつた。夫人の怒は、夫の愛情の衰へた事よりも、夫の心を支配する力を失つた事にあつた。
「私はお前を愛さぬと云ふではない。今日から私は、夫が妻を愛するやうにお前を愛しよう。今迄私は、奴隷が主につかへるやうに、人間が神をあがめるやうに、お前を愛して居た。私の國を捧げ、私の富を捧げ、私の民を捧げ、私の命を捧げて、お前のよろこびをあがなふ事が、私の今迄の仕事であつた。けれども聖人の言葉によつて、其れよりも貴い仕事のある事を知つた。今迄はお前の肉體の美しさが、私に取つて最上の力であつた。しかし、聖人の心の響は、お前の肉體よりも更に强い力を私にへた。」
この勇ましい決心を語るうちに、公は知らず識らず額を上げ肩をそびやかして、怒れる夫人の顏に面した。
「あなたは決して妾の言葉に逆ふやうな、强い方ではありませぬ。あなたはほんたうにあはれな人だ。世の中に自分の力を持つて居ない人程、哀な人はありますまい。妾はあなたを直ちに孔子のから取り戻すことが出來ます。あなたの舌は、たつた今立派な言を云つた癖に、あなたの瞳は、もう恍惚うつとりと妾の顏に注がれて居るではありませんか。妾は總べての男の魂を奪ふすべを得て居ます。妾はやがての孔丘と云ふ聖人をも、妾の捕虜とりこにして見せませう。」
と、夫人は誇りかに微笑ほゝゑみながら、公を流眄ながしめに見て、衣摺れの音荒く靈臺を去つた。
其の日まで平静を保つて居た公の心には、卽に二つの力が相鬩あいせめいで居た。


「此の衞の國に來る四方の君子は、何を措いても必ず妾に拜謁を願はぬ者はない。聖人は禮を重んずる者と聞いて居るのに、何故姿を見せないのであらう。」
斯く、宦者の雍渠ようきよが夫人の旨を傳へた時に、謙譲な聖人は、其れに逆ふことが出來なかつた。
孔子は一行の弟子と共に、南子の宮殿に伺候して北面稽首ほくめんけいしゆした。南に面する錦繡きんしうまくの奥には、僅に夫人の繡履しうりがほの見えた。夫人が項を下げて一行の禮に答ふる時、頸飾の步搖ほえうと腕鐶の瓔珞やうらくの珠の、相搏つ響が聞えた。
「この衞の國を訪れて、妾の顏を見た人は、誰も彼も『夫人のひたひ妲己だつきに似て居る。夫人の目は褒似ほうじに似て居る。』と云つて驚かぬ者はない。先生がまことの聖人であるならば、三王五帝の古から、妾より美しい女が地上に居たかどうかを、妾に敎へては呉れまいか。」
かう云つて、夫人は帷を排して晴れやかに笑ひながら、一行を膝近く招いた。鳳凰ほうわうの冠を戴き、黄金のかんざし玳瑁たいまいかうがいを挿して、鱗衣霓裳りんいげいしやうを纏つた南子の笑顔は、日輪の輝く如くであつた。
「私は高い德を持つた人の事を聞いて居ります。しかし、美しい顏を持つた人の事を知りませぬ。」
と孔子が云つた。さうして南子が再び尋ねるには、
「妾は世の中の不思議なもの、珍らしいものを集めて居る。妾のくらには大屈の金もある。垂棘すゐきよくの玉もある。妾の庭には僂句るくの龜も居る。崑崙こんろんの鶴も居る。けれども妾はまだ、聖人の生れる時に現れた麒麟と云ふものを見た事がない。また聖人の胸にある七つのあなも見た事がない。先生がまことの聖人であるならば、妾に其れを見せてはくれまいか。」
すると、孔子はおもてを改めて、嚴格な調子で、
「私は珍らしいもの、不思議なものを知りませぬ。私の學んだ事は、匹夫匹婦ひつぷひつぷも知つて居り、又知つて居らねばならぬ事ばかりでございます。」
と答へた。夫人は更に言葉を柔げて、
「妾の顏を見、妾の聲を聞いた男は、ひそめたる眉をも開き、曇りたる顏をも晴れやかにするのが常であるのに、先生は何故いつまでも其のやうに、悲しい顏をして居られるのであらう。妾には悲しい顏は凡べて醜く見える。妾は宋の國の宋朝と云ふ若者を知つて居るが、其の男は先生のやうな氣高い額を持たぬ代りに、春の空のやうなうらゝかな瞳を持つて居る。また妾の近侍に、雍渠と云ふ宦者が居るが、其の男は先生のやうなおごそかな聲を持たぬ代りに、春の鳥のやうな輕い舌を持つて居る。先生がまことの聖人であるならば、豐かな心にふさはしい、麗かな顏を持たねばなるまい。妾は今先生の顏の憂の雲を拂ひ、惱ましい影を拭うて上げる。」
と、左右の近侍を顧みて、一つのはこを取り寄せた。
「妾はいろの香を持つて居る。此の香氣を惱める胸に吸ふ時は、人はひたすら美しい幻の國に憧れるであらう。」
かく云ふ言葉の下に、金冠を戴き、蓮花の帶をしめた七人の女官は、七つの香爐を捧げて、聖人の周圍を取りいた。
夫人は香函かうばこを開いて、さまの香を一つ一つ香爐に投げた。七すぢの重い煙は、金繡の帷を這うて靜に上つた。或は黃に、或は紫に、或は白き檀香だんかうの煙には、南の海の底の、幾百年に亙るしき夢がこもつて居た。十二種の鬱金香うつこんかうは、春の霞にはぐゝまれた芳草の精の、凝つたものであつた。大石口だいせきこうの澤中に住む龍のよだれを、練り固めた龍涎香りゆうぜんかうかをり、交州に生るゝ密香樹みつかうじゆの根より造つた沈香ぢんかうの氣は、人の心を、遠く甘い想像の國に誘ふ力があつた。しかし、聖人の顏の曇は深くなるばかりであつた。
夫人はにこやかに笑つて、
「おゝ、先生の顏は漸く美しう輝いて来た。妾はいろの酒と杯とを持つて居る。香の煙が、先生の苦い魂に甘い汁を吸はせたやうに、酒のしたゝりは、先生のいかめしい體に、くつろいだ安樂をへるであらう。」
斯く云ふ言葉の下に、銀冠を戴き、蒲桃ほたうの帶を結んだ七人の女官は、樣々の酒と杯とを恭々しく卓上に運んだ。
夫人は、一つ一つ珍奇な杯に酒を酌むで、一行にすゝめた。其の味はひのたへなる働きは、人々に正しきもののあたひを卑しみ、美しき者の値をづる心を與へた。碧光へきくわうを放つて好き徹る碧瑶へきえうの杯に盛られた酒は、人間の嘗て味はぬ天の歡樂を傳へた甘露の如くであつた。紙のやうに薄い靑玉色の自暖じだんの杯に、冷えたる酒を注ぐ時は、少傾せうけいにして沸々ふつと熱し、悲しき人のはらわたをも燒いた。南海のえびかしらを以て作つた鰕魚頭かぎよとうの杯は、怒れる如く紅き數尺のひげを伸ばして、浪の飛沫しぶきの玉のやうに金銀を鏤めて居た。しかし、聖人の眉の顰みは濃くなるばかりであつた。
夫人はいよにこやかに笑つて、
「先生の顏は、更に美しう輝いて來た。妾はいろの鳥と獣との肉を持つて居る。香の煙に魂の惱みをそゝぎ、酒の力に體のくゝりをゆるめた人は、豐かな食物を舌につちかはねばならぬ。」
かく云ふ言葉の下に、珠冠しゆくわんを戴き、菜莄さいかうの帶を結んだ七人の女官は、さまの鳥と獣との肉を、皿に盛つて卓上に運んだ。
夫人はまた其の皿の一つ一つを一行いつかうにすゝめた。その中には玄豹げんぺうはらゝごもあつた。丹穴たんけつすうもあつた。昆山龍こんざんりゆうほしにく、封獣のあしにくもあつた。其の甘い肉の一ひらを口にふくむ時は、人の心に凡べての善と惡とを考へるいとまはなかつた。しかし、聖人の顏の曇は晴れなかつた。
夫人は三度にこやかに笑つて、
「あゝ、先生の姿は益立派に、先生の顏は愈美しい。あの幽妙な香を嗅ぎ、あの辛辣な酒を味はひ、あの濃厚な肉をくらうた人は、凡界の者の夢みぬ、强く、激しく、美しき荒唐な世界に生きて、此の世の憂と悶とを逃れることが出來る。妾は今先生の眼の前に、其の世界を見せて上げよう。」
かく云ひ終るや、近侍の宦者を顧みて、室の正面を一杯にしきつたとばりの蔭を指し示した。深い皺を疊んでどさりと垂れた錦のまくは、中欧から二つに割れて左右へ開かれた。
帳の彼方は庭に面するきざはしであつた。階の下、芳草の靑々と萌ゆる地の上に、暖な春の日に照らされて或は天を仰ぎ、或は地につくばひ、躍りかゝるやうな、鬪ふやうな、さまな形をした姿のものが、數知れずまろび合ひ、重なり合うてうごめいて居た。さうして或る時は太く、或る時は細く、哀な物凄い叫びとさへづりが聞えた。ある者は咲き誇れる牡丹の如くあけに染み、ある者はきずつける鳩の如くおのゝいて居た。其れはなかばは此の國の嚴しい法律を犯した爲め、半は此の夫人の眼の刺戟となるが爲めに、酷刑を施さるゝ罪人の群であつた。一人として衣を纏へる者もなく、完き膚の者もなかつた。其の中には夫人の惡德を口にしたばかりに炮焙はうらくに顏をこぼたれ、頸に長枷ちやうかめて、耳を貫かれた男達もあつた。靈公の心を惹いたばかりに夫人の嫉妬を買つて、鼻をがれ、兩足をたれ、鉄の鎖に繫がれた美女もあつた。其の光景を恍惚と眺め入る南子の顏は、詩人の如く美しく、哲人の如く嚴肅であつた。
「妾は時々靈公と共に車を驅つて、此の都の街々を過ぎる。さうして、若し靈公が情ある眼つきで、流眄ながしめを與へた往來の女があれば、皆召し捕へてあのやうな運命を授ける。妾は今日も公と先生とを伴つて都の市中を通つて見たい。あの罪人達を見たならば、先生も妾の心に逆ふ事はなさるまい。」
かう云つた夫人の言葉には、人を壓し付けるやうな威力が潜むで居た。優しい眼つきをして、むごい言葉を述べるのが、此の夫人の常であつた。


西曆紀元前四百九十三年の春の某の日、黃河と淇水きすゐとの間に挾まれる商墟しやうきよの地、衞の國都の街を駟馬しばに煉らせる二輛の車があつた。兩人の女孺によじゆを捧げて左右に立ち、多數の文官女官を周圍に從へた第一の車には、衞の靈公、宦者雍渠と共に、妲己褒衣だつきはうじの心を心とする南子夫人が乘つて居た。數人の弟子に前後を擁せられて、第二の車に乘る者は、堯舜げうしゆんの心を心とするすうの田舎の聖人孔子であつた。
「あゝ、彼の聖人の德も、あの夫人の暴虐には及ばぬと見える。今日からまた、あの夫人の言葉が此の衞の國の法律となるであらう。」
「あの聖人は、何と云ふ悲しい姿をして居るのだらう。あの夫人は何と云ふたかぶつた風をして居るのだらう。しかし、今日程夫人の顏の美しく見えた事はない。」
ちまたたゝずむ庶民の群は、口々にかう云つて、行列の過ぎ行くのを仰ぎ見た。


其の夕、夫人は殊更美しく化粧して、夜更くるまで自分のねやの錦繍の蓐に、身を横へて待つて居ると、やがて忍びやかなくつの音がして、戸をほとと叩く者があつた。
「あゝ、たうとうあなたは戾つて來た。あなたは再び、さうしてとこしへに、妾の抱擁から逃れてはなりませぬ。」
と、夫人は兩手を擴げて、長き袂のうちへ靈公をかゝへた。其の酒氣に燃えてるしなやかなかひなは、結んで解けざるいましめの如くに、靈公の體を抱いた。
「私はお前を憎むで居る。お前は恐ろしい女だ。お前は私を亡ぼす惡魔だ。しかし私はどうしても、お前から離れる事が出來ない。」
と、靈公の聲はふるへて居た。夫人の眼は惡の誇に輝いて居た。


翌くる日の朝、孔子の一行は、さうの國をさして再び傳道の途に上つた。
吾未見好德如好色者也われいまだとくをこのむこといろをこのむがごとくなるものをみざるなり。」
これが衞の國を去る時の、聖人の最後の言葉であつた。此の言葉は、彼の貴い論語と云ふ書物に載せられて、今日迄傳はつて居る。


一幕

関連項目 編集

  • 盈虚 - 中島敦の小説。この作品の靈公の息子、荘公蒯聵の物語。
  • 弟子‎ - 中島敦の小説。この作品に出ている子路が主人公。
 

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