鹿兒島縣史 第一巻/第三編 國司時代/第六章 騷路と海上交通


第六章 驛路と海上交通

 驛逓の制は中央集權に缺くべからざるもので、大化改新の後着々實施せられ、律令の制定と共に整備されたもので、兵部省の管する處である。 即ち大體三十里(今の五里)に一驛の規定であるが、地勢の阻險及び水草の有無に從つて便宜に置き、必ずしも規定の里數に限らない。驛には驛長一人、驛戸を定め、道路の階級に從つて飼養の驛馬の數を規定し驛田を以てその經費に當て、郡家には傳馬を置き、官使の地位官職によつて驛馬傳馬を使用するに制限があつた。 事の重大且つ急なる場合には驛馬に乗り、緩なる場合には傳馬に乗ることゝ定められ、延喜式には新任國司は大宰府から傳馬に乗つて赴任すとなつてゐる。 驛路の邊には菓樹を植ゑて往還人の休息に便ならしめ、水なき處には井を掘つて行旅の便を計つたものである。 而して延喜式に傳馬直法を載せ、大隅・薩摩兩國は上馬四百束、中馬三百束、下馬二百束とあつて、驛馬の閾失に際して購買補充することゝなつてゐた事と考へられる。

 驛路は國府とを聯絡するもので、調庸を輸して薩・隅兩國から大宰府に至るに各十二日と定め、歸途は六日と規定されてゐる。 併し時代の經過と共に必ずしもその規定通りには行かず、種々變更された事は云ふまでもない。

 薩隅兩國の驛としては、延暦二十三年初見の大隅國桑原郡蒲生驛及び薩摩國薩摩郡田尻驛と櫟野驛とであるが、延喜式兵部に、

大隅國  驛馬  蒲生・大水各五疋
薩摩國  驛馬  市來・英禰・網津・田後・櫟野・高來各五疋
       傳馬  市來・英禰・網津・田後驛各五疋

と記載してゐる。

日向國兒湯郡妻町に推定される日向國府から大隅國に入るには、延喜式兵部に據つて、當磨・廣田・救麻・救貮・亞椰・野後・夷守・眞斫・水俣・島津の諸驛を經たものと考へられるが、その地點の推定説には難點が多い。 而して先づ當磨・救麻を經て救貮に達するが、救貮は建久圖田帳の救仁院の地方、志布志かと云はれるが、地理上難點があり、恐らく圖田帳の救仁郷にして、宮崎郡田野村七野の邊に擬すべきかと云はれてゐる。 次に北諸縣郡山之口村・高城村の邊に擬定される水俣驛を經て、島津驛に達するが、島津驛は都城の北に位する沖水村大字郡元Page:Kagoshima pref book 1.pdf/116Page:Kagoshima pref book 1.pdf/117Page:Kagoshima pref book 1.pdf/118Page:Kagoshima pref book 1.pdf/119

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