鹿兒島縣史 第一巻/第三編 國司時代/第二章 南島經營と多褹國廢止


第二章 南島經營と多褹國廃止

 南島に關する事は、我が國の文獻には推古天皇以前全く見えてない。 併し隋書の流求國傳に據ると、隋の煬帝は将を遣はして之を討ち、都に進軍して其の宮室を焚き、男女數千人を虜としたと記して居る。 隋の大業三年は我が推古天皇十五年であつて、日本書紀に據れば、この年七月、小野妹子・鞍作福利等が隋に遣はされ、翌十六年に歸朝し、同年九月、妹子復び隋に使し、十七年隋の大業五年九月に妹子は歸朝したが、福利は猶ほ彼の國に止つたと見える。 然らば隋書に云ふ所の倭國の使とは妹子等を指す事が明白である。 よつて伊地知季安の南聘紀考は、隋書に載する所の流求は夷邪久國、即ち掖玖であると説いて居る。 併しながら、倭國の使が云つた夷邪久が掖玖を意味してゐるとしても、隋の征服した流求が正しく掖玖であると云ふ推定は餘りに即斷過ぎる、器具の如きは南島諸國多くの類似のものを用ゐて居たであらうから、單に布甲の同一を以つて、兩者を同一と見る事は甚だ危險である。 併しこれに據つて、妹子等我が國中央の官人が、南島に關する相當な知識を持つて居た事だけは確實と見ねばならぬ。 從つて我が國の朝廷と南島との交通は、可なり古い時代から開けてをり、南島諸國は史籍に記録される以前、既に我が國に屬して居たと見なければならない。

 その後、日本書紀に據れば、推古天皇の廿四年三月、掖玖人三口歸化し、五月には夜句人七口來朝し、七月又掖玖人廿口來朝して、前後合して卅人、大和の朴井に安置したが、歸國せずして皆死んだと見える。 夜句と掖玖とは同一で、隋書の夷邪久に當る事も争ふ餘地がない。 併し、斯く數回に亘つて渡來し、其の跡、廿八年八月に、掖玖人二口が伊豆國に漂流した事などは何に因つてゞあらうか。 南聘紀考には、前述の如く、隋が流求を征伐したのを惡み、愈皇國に服した爲だとしてゐる。

 併し、此の隋の流求征伐なるものは可なり大規模のもので、南方諸國人を率ゐ、崑崙人を通辨とし、其の都に進軍して宮室を焚き、数千人を虜としたと云ふのであるから、南島としては前古未聞の大事件であつたに違ひない。 從つて、其の事は流求以北の島々に喧傳されたであらう。 掖玖人が三月・五月・七月と相次いで來朝したのも、或は南聘紀考の推測した如く、我が國に頼らんとした結果であるかも知れぬ。 但し前述の如く、此れ以前も屢來朝してをり、又我が國の使臣が隋に於いて、南島人の布甲を以て、直ちに掖玖人のものと即斷した程であつたのだから、突如として此の時初めて來朝したのでない事も明白である。

 その後十年を經て、舒野天皇の元年四月、田部連が掖玖に遣はされてゐる。 何の爲に遣はされたのか何等の記載もないが、翌年九月に歸朝し、その翌三年二月に掖玖人の來朝して居る處を見ると、前述、推古天皇の御代の來朝と關聯するものであつて、掖玖が我が國に頼らんとして、何事かを奏する處があつた爲であらうと考へられる。 勿論、田部連とは朝廷の御田の事に關係する氏であるが、その派遣は視察と云ふ事が主たる任であつたらう。

 さて此處に注目する必要のあるは、我が國史の南島に關する記事が、掖玖に始り、大化以後に於いては、大體多褹が中心となつて居る事實である。隋書の記事に據つて、掖玖を直ちに流求とするの危險なことは上述の通りであるが、さりとて、當時掖玖とある記事を以つて、單に今日の屋久島のみの事とする時は、より九州に近く、且つ面積大にして海岸線に富む多褹島が、何が故に古く國史に現はれないかを説明する事が出來ぬ。 單に此の一事を以つてするも、掖玖は少くとも薩・隅に近い島々の總名であつたのでなからうかと想像され、大化以降、多褹が中心となつて居るのは、多褹が最も九州に接近し、統治上便利であると云ふ事から、國府を此の島に置いた爲に外ならないと思ふ。 而して天平五年六月に至り、多褹島熊毛郡の大領安志託等が多褹の後の國造の姓を、益救郡の大領加理伽等が多褹直の姓を賜はつてゐるが、多褹島の南なる掖玖島の郡と考へられる益救郡の大領が、國造の家柄たりしを表章する多褹直の姓を賜ひ、多褹島内なる熊毛郡の大領が多褹の後國造の姓を賜はつたのは何故であらうか。 思ふにこれは前述の如く、初め掖玖島が此の群島の中心をなして、國造と稱したか否かは詳かでないにしても、兎に角、國造に匹敵する豪族が此島にゐて、他の諸國と同様、後に郡領に補せれた爲であらう。 また多褹島なる熊毛郡の大領が後國造となつた事は、多褹島が國府の所在地となつた爲であらう、後なる語が時代の前後を指す事は、三野の前後の國造の例に據つて知る事が出來る。

〈 〔補説〕 國の前後は、筑前・筑後・肥前・肥後の如く、多く京都よりの距離の遠近に據るを例としてゐる、若しこれによれば「多褹後」の語も「多褹前」に對する語であらう。 然るに多褹の後の國造となつた熊毛郡大領が多褹島の南半に居り、多褹直となつた益救郡の大領がその北半にゐたとは考へることが出來ない。熊毛郡と益救郡との關係に就いては後章に説かなければならないが、熊毛郡が多褹後である場合に、多褹前なる地は地理上存在し難い。即ち此の語は國にかゝるものでなくして、國造にかゝる前後と考へなければならない。 國造本紀の三野の前後國造についても數説あるが、西濃、即美濃平野中、西部の本巣附近を前國とし、東部の厚見附近を後國と見なければならない、兩者の距離は近く、殊に神社及び古代の氏族の分布より見るも、三野國六郡の地は、後國造の勢力なりし事實甚だ顕著であり、なほ前國造にかゝるにあらずして、國造にかゝる語なるを知り、多褹後國造も同様に解禁したいのである。 〉

 尚ほ南島唯一の式内社益救神社が掖玖島に鎮座する事も、掖玖が古く當地方群島の中心たりし一の證と見るべきもので、當社は古く國造の宗社であつたかと考へられるのである。さて日本書紀には孝徳天皇の白雉五年夏四月、吐火羅国の男女各二人と、舎衛の女一人とが日向に漂着し、斉明天皇の三年七月にも、覩貨邏國の男二人、女四人が、初め海見アマミ島に漂着し、次いで筑紫に着いたので、之を上京せしめて餐を賜うたと云ふ。 海見島は後に云ふ阿麻彌、菴美(奄美)に同じであらうから、覩貨邏は其れよりもつと遠い國と考へられる。 然るに、斉明天皇五年三月の條に、吐火羅人がその妻舎衛婦人と共に來り、翌六年七月、都貨羅人乾豆波斯達阿なる者、本土に歸らんと欲して送使を請ひ、後に再び來朝するの表として妻を留め、數十人と共に、西海の路に入るとあるが、之は日本書紀天武天皇四年正月の條に舎衛女が、大學寮諸學生・陰陽寮・外藥寮及び堕羅女・百済王善光・新羅仕丁等と共に、藥及び珍異の物を捧ぐとあることと關聯して考へる事が出來よう。而して此等の記事中、海見島を奄美大島としても、舎衛や吐火羅(覩貨邏・都貨羅)は何處を指すか判明しないが、恐らく餘り遠からざる國の如く思はれる故、南島中の一地方でなからうか。 トカラは寶で寶七島の事であらうとも説かれて居る。 此の七島中、寶島は其の南に偏在し、奄美大島、即ち海見島に最も接近して居るのである。

〈 〔補説〕 但し吐火羅はタガロであつて、タガロ人と考へられる事から、これをフイリツピン人の來朝とする學者もありが、吐火羅を寶と説き、即ち寶七島の古名であるとする學者が最も多い故、今暫く之に從ふのである。 〉

また日本書紀所引伊吉博徳の書に、斉明天皇五年九月、博徳等が唐に向ふの途中、百済の南方で逆風に遭い、南海なる爾加委島に漂着し、島人の爲に滅され、内五人が漸く島人の船を盗んで支那に渡つたと載せて居る。 この爾加委島は喜界島かと説かれて居る。

 その後、天武天皇六年二月に、初めて多禰島人が飛鳥寺に於いて餐を賜はつた事が傳へられてゐる。 多禰は多褹とも作り、今日の種子島であつて、屋久(掖玖)よりもなほ近く、大隅半島と海を隔てゝ隣して居る點から、古く、日向より大隅東海岸に進んだ中央文化は、其の餘波として此の島を經て、次に掖玖に及んだものと想像するに難くない。 從つて此の島人も、掖玖人の來朝と遠からざる時期に來朝したのであらうが、前述の如く、古く此の邊の群島が掖玖の名によつて代表されて居た爲に、其の名が比較的遅く史上に見えるのであらうと考へられる。 しかし、道順から云つても、此の島の方が近く、南島統治上、此の島を中心とする事が最も得策である爲に、國府を此の島に置くに至つた。 かくて多褹を以つて南島の總稱に用ひ、他の諸島と相對する時には、一島のみを表はすやうになつたと考へられるのである。

 次に日本書紀天武天皇の八年十一月の條に、大乙下倭馬飼部造連を大使とし、小乙下上村主光欠を小使として多禰島に遣はすと載せ、翌々年八月歸京して多禰國の圖を奉つて居る。 約二ヶ年も要して居る事から、多褹一島ではなく、附近の諸島を隈なく調査したものと考へられ、奉つた圖も國圖とあるので、一國の地圖であつた事は云ふ迄もあるまい。 而して、その使人は「其の國は京を去る五千餘里、筑紫の南海中に居り、髪を切つて草の裳を着たり。 粳稲イネ常に豊かなり、一度えて兩度収む。 土毛には支子クチナシ莞子カマ及び種々の海物等多し」と報告して居る。 此處に五千餘里とある里數より見るも、一葅兩収と云う事が琉球諸島でなければ見られぬ現象であると云う事から考ふるも、此の報告に云うところは南島中でも、主として琉球の事であらうと説かれて居るが、長い報告中、特に注目に値する部分のみを載せたのであるとすれば、或はさうとも見られるかも知れない。 なほ翌月、多禰島人等が飛鳥寺の西の河邊に於て餐應されてゐるが、之は使人に從つて入京した人達であらう。 次いで翌十一年七月に、多禰人・掖玖人・阿麻彌人に禄を賜はつてゐるが、郷里に歸るに際しての賜禄であり、彼等が先に南島に派遣せられた使人に随伴して入京したものであるとすれば、南島派遣の使人は多禰・阿麻彌を視察したと思はれる。 日本書紀には更に十二年三月の條に、多禰に遣せし使人の歸つて來た記事があるのは、恐らく多禰人を送つて行つた使人の歸朝を指してゐるのであらう。

 その後、持統天皇の九年三月、務廣貮文忌寸博勢(博士)、進博参下譯語緒田等を多禰に遣はし、蠻の所居を求めしむと日本書紀に見えてゐるが、色々の都合によつて、事實出發したのは、文武天皇の二年で、此年四月になつて、覔國使人文博勢及び刑部眞木等八人に戎器を賜はつて居る。 この使人派遣の結果、翌三年七月、多褹・夜久・奄美・度感等の人が朝宰に從つて來朝し、方物を獻じ、位を授けられて居る。 度感は此の時初めて來朝したと云ふが、度感は徳之島であらう、奄美大島の南に位して、博勢等は此の島まで行つたので、恐らくそれ以南には及ばなかつた事と想像される。

 斯くの如く、南島經營は着々成功し、文武天皇三年八月には、南島の獻上物を伊勢大神宮以下諸社に奉られ、十一月には文博勢、刑部眞木等が南島から歸京して位を進められた。 而して此の覔國使派遣中、察末比賣・久賣・波豆・衣評督衣君縣・助督衣君弓自美及び肝衝難波等が、肥人を從へて刑部眞木等を剽却した事の故に、四年六月竺志惣領をして之を罪せられた。 衣君は前述の如く、薩摩の南端の肝衝氏は大隅の南端の豪族であり、薩未比賣・久賣・波豆の事は詳かでないが、恐らく衣君と共に薩摩の南方のものであらう。 恐らく此等の豪族は、地方の土豪として威を張つてゐたものが、これまで中央の力は北から彼等の地方に波及してゐたのに、今や南島の經營着々進められ、南島に派遣された覔國使が轉じて大隅・薩摩半島の南端まで巡視すると云ふ様になつた爲めに、遂に覔國使に對して事を企てたものであらう。 若し然りとすれば、この事件の發生を見るに至つた程南島の經營が發展しつゝあつたと看取し得るであらう。 尚ほ此の事件が原因となり、又衣君、肝衝氏等の動揺に基くのであらうか、この後薩摩多褹が反亂した爲め兵を發して征討し、遂に大寶二年八月戸を校し吏を置くことゝなつた。 南島が始めて一國となり、多褹島には國府を置いたのは此の時以後のことであらう。

 その後、慶雲四年七には、使を太宰府に遣はして南島人に位を授け、物を賜ひ、和銅二年六月の勅には明白に多禰國司とあり、同七年四月には多褹島印を賜つてゐる。 またその十二月には、太朝臣遠建治等が、奄美・信覺及び球美等の島人五十二人を率ゐて南島より歸り、翌霊龜元年正月には、奄美・夜久・度感・信覺・球美等の使者が、各朱雀門より入りて方物を獻じ、次いで位を授けられて居るのであるが、之によつて考へるに、使人太朝臣は、奄美・度感より更に南西行して球美・信覺に達したのである、その球美は今の久米島であつて、沖繩島の西にあり、信覺は今の石垣島であらうが、沖繩より更に西南に在り、寧ろ臺灣に近い。 乃ち太朝臣が石垣島まで行つてゐることから考へれば、既に沖繩が我が國に服して居た事も争ふ餘地がない。

 奄美はその阿麻彌嶽が琉求國始祖阿摩美久の天降した地と傳へられ、斉明天皇の御代以來屢見えてゐるのみならず、和銅年間使人派遣の時には、我が勢力が更に遠く球美・信覺に及んだのであるが、遂に郡制が施かれなかつた處を見ると、奄美は多褹・掖玖等とは趣を異にし、單に朝貢國であつたに過ぎない事が知られるのである。 その住民は、令集解所引の古記に、夷人雑類の中に阿麻彌人を載せて、毛人や肥人と同じく異種族と見做されてゐた。

 次に沖繩島の事は、唐大和上東征傳に

(十一月)十六日發。○廿一日戊牛。第一第二兩舟。同到阿兒奈波島。在多禰島西南。第三舟昨夜巳泊同處。○十二月六日。南風起。第一舟着石不動。第二舟發向多禰去。○七日、至益救島。○十八日。自益救發。○十九日。風雨大發。不四方。午時。浪上見山頂。○廿日乙酉午時。第二舟着薩摩國阿多郡都秋妻屋浦

と見えて居る。 阿兒奈波(阿兒奈波は阿鬼奈波の誤寫かとも云ふ)は沖繩島であらうが、益救は掖玖、益久である事は云ふ迄もなく、此の記事は續日本紀天平勝寶六年正月の條に、唐僧鑑眞等を随へたる入唐使吉備眞備等が、去年二月七日、益久島に來著したとあるに符合するものであるが、かく我が遣唐使の三船が、前後何れも阿兒奈波島、即ち沖繩に碇泊して居るので、古くから我が國に知られて居た事は云ふ迄もない。

 さて太朝臣派遣の後、養老四年十一月、南島人二百三十二人に位を授け、神龜四年十一月には南島人百三十二人が來朝して位を授けられ、天平五年六月多褹島熊毛郡大領外從七位下安志託等十一人に多褹後國造の姓を、益救郡大領外從六位下加理伽等一百三十六人に多褹直を、その他、能滿郡少領外從八位上栗麻呂等九百六十九人には居に因つて直姓を賜はつた、位階のみならず、内地の豪族と同様に氏姓を授けられた譯である。 郡司には、同じ郡内では同姓の人を用ふる事が出來ないが、延喜式式部によれば、馭謨・熊毛郡の郡司は、神郡のそれと同様、同性でも同時に併任せられ、又天平十四年八月特に制して多褹国の擬郡司并に成選人、即ち叙位候補者等は壹岐・對馬と等しく、當島に留りてその名を筑前國を通して申達することゝと定められて、種々他地方と異なる特點が存して居た。

 斯くの如く南島經營は着々進行して居たが、かくの如き進展は、また我が國と唐との通交の問題とも至大の關係がある。 而して一方、天平七年には太宰大貮小野老は高橋牛養を南島に遣はし、牌を各島に樹てゝ、島名、泊船處、有水處、及び附近への行程等を記し、遥かに島名を見て、漂着の船をして歸向する所を知らしめたが、更に其の跡、此の牌が朽壊したので、天平勝寶六年二月太宰府に勅して、舊に依つて樹てかへさせて、以て航海の便を計つたのは南島との往來、殊に遣唐使節の便を計つたものである。 日唐通交上、朝鮮沿岸經由の所謂北路は、南朝鮮が我が國の勢力下にあつた時は安全であつたが、新羅の興隆と共に我が國との關係も昔日の如くなくなれば、朝鮮半島經由の航路は大なる脅威を感ずるものがあり、使節の安全を期するために南路を取つて支那と交通を開く必要を生ずるのである。 こゝ益朝廷の南島經營が積極的に力を致されたものと云はねばならない。

 然るに、平安朝時代に入つては、國内の種々の事情から唐との通交も漸く消極的となり、果ては公式の交渉を斷つに至るのであるから、自づと南島に對する朝廷の關心も減少して行つたに相違ない。 而も第四章で述ぶる如く、多褹島の財政は貧弱で、島司に支給の稲も太宰府管内諸國の地子を割く程であつたから、遂に淳和天皇の天長元年九月に至り、その「南海中に在つて、人兵乏弱、國家の扜城に非ず、又島司一年の給物は准稲三萬六千餘束にして、しかも其の島の貢調は鹿皮一百餘領のみで、更に別物が無く、名有つて實無く、損多く益少し」と云う理由によつて多褹國を廢して大隅國に隷し、更に「其の課口を計るに一郷に足らず、其の土地を量るに一郡に餘りあるから、從來四郡であつたが、能滿を馭謨に合せ、益救を熊毛に合わせて二郡にするを便宜とす」と云つて、遂に大隅國内の二郡に過ぎない事となつた。 茲に我が南島經營は、殆んど中止の姿の如くになつたと云つてもよい程度に變つてしまつた。

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