鹿兒島縣史 第一巻/第三編 國司時代/第三章 隼人の反亂と京畿に於ける隼人


第三章 隼人の反亂と京畿に於ける隼人

 太古に於ける熊襲の反亂は、本縣北部山間を占據せしものの蠢動に過ぎなかつた事は前述した處である。 その外、隼人族征伐を傳ふるもの二三あるも、それ等は後世からの傳説的記述に過ぎないものであるかも知れない。 却つて隼人族が古くから朝廷に對して忠實に奉仕し、國家の重き儀式に缺くべからざる役目をして居た事は明白なる事實である。 大化以後に於いても、ほゞ同様であるが、一方中央の勢力の浸透するに随ひ、隼人の反亂を誘致することともなつた。 これは特に隼人の勢力發展とか、積極的な反抗と云ふものではなくして、却つて恐らく從來全く豪族の自治に任されたものが、大化以後、中央集權の強化と共に、次第にこの隼人等も種々制限を加へられ、一方他國と同様、賦役を課せられて國家の壓力を感じる等から、反抗的になつて隼人の反亂となつて現はれたものと考へられる。

 その反亂の初は、前章に述べた様に、文武天皇の四年、薩末比賣、衣君、及び肝衝氏等が肥人を從へて覔國使を剽却した事で、その後程なく起つた薩摩多褹の反亂は恐らく此の結果であつて、かなり大亂であつたと見え、太宰府管内の神社九處に祈禱し、その鎭定するや、之を神助に據るものとし、大寶二年十月幣帛を奉つて、その禱を賽してゐるのである。 而して此年八月には戸籍法を施き、吏を置き、九月には薩摩隼人討伐の軍士の勲功を賞し、又一方唱更國司の言上により、國内要害の地に柵を建て、戍兵を置く事とした。

 しかし他方には、和銅二年十二月には、薩摩隼人の郡司巳下一百八十八人が入京したので、諸國の騎兵五百人を徴して威儀を備へ、翌三年正月朔日の朝賀に列せしめ、十六日には重閣門で宴を賜ひ、また位を授けられ、禄を賜はつて居る。また日向隼人曾君細麻呂が荒俗を教諭し、聖化に馴服したと云ふので外從五位下を授けられてゐる。

 其の後三年、和銅六年七月の詔に「授くるに勲級を以てするはモト功あるに據る、若し優異せずんば何を以つて勸奨せん。 今隼賊を討伐せし将軍并に土卒等戦陣に功ありし者一千二百八十餘人に、宜しく勞を随つて勲を授くべし」とあるのは、大寶年間の征伐に對する恩賞であらうか。 既に天皇の御代も替り、更に大寶から十數年を經過して居り、しかも此の詔に今隼賊を討伐すとある處を見れば、或は別に和銅年間にも重ねて隼人征伐があつたかとも推測されるのである。 翌七年三月の勅にも、「隼人は昏荒、野心にして未だ憲法に習はず、因りて豊前國の民二百戸を移して勸導せしむ」と仰せられて居る。 和名抄に、大隅國桑原郡に豊國郷が見えるが、恐らく豊前國民を移した地であつて、これ等の事から考へると、和銅年間の隼人平定も否定出來ず、その反亂の地域は北大隅であつたかと考へられるのである。

 その後、霊龜二年五月に、太宰府から、「薩摩大隅二國、隼人を貢して巳に八歳を經過して居るが、道路遥に隔り、去來便ならず、或は父母老疾し、或は妻子貧しく、故に貢人を六年交替にしたい」と願つて許されて居る、これは八年前の和銅二年の隼人の入朝を指すのであつて、翌養老元年四月に、大隅・薩摩二國の隼人が入朝して、風俗歌舞を奏し、授位賜禄の榮に浴して居るのは其の結果である。

 斯様に隼人入京の事は從來通りに行はれて居るけれど、養老四年に又も大亂が起つて居る。 それは此の歳二月に隼人が反して、大隅國守陽候史麻呂を殺したに端を發して居る。 陽候史は、新撰姓氏録に隋煬帝の後とあつて、歸化人の後であるが、その一族が、大隅守となつて任にあつたと云ふことは、百済王の一族が陸奥守となつてゐたことゝ共に、朝廷の歸化人の後に對する方策と邊國統治の一面とを窺ふに足るものであらう。 而して比度の反亂も大隅北方の隼人であつたと推察されるが、朝廷では三月、中納言大伴宿禰旅人を征隼人持節大将軍と爲し、授刀助笠朝臣御室と民部少輔巨勢朝臣眞人とを副将軍と爲して征途に就かしめた。 六月には

蠻夷の害を爲すこと古より之あり、漢五将を命じて驕胡臣服し、周再駕を勞して荒俗來王す。 今西隅の小賊、怙亂を怙み、化に逆て、屢良民を害す。 因て持節将軍正四位下中納言兼中務卿大伴宿禰旅人を遣はして、其の罪を誅罰し、彼の巣居を蓋さしむ。兵を治め、衆を率ゐて兇徒を剪り掃ひ、酋帥面縛せられて命を下吏に請ふ、寇黨叩頭して争うて敦風に靡く。 然れども将軍原野に暴露して久しく旬月を延ぶ時は盛熱に屬す、豈に艱苦なからんや。 使を遣はして慰問せしめ、宜しく忠勤を念ふべし。

と優詔を将軍らに賜ふた。 かくして、八月には旅人は歸京したが、亂未だ全く平がざるを以て、猶ほ副将軍巳下を留めて征伐に當らしめられた。 九月には亂逆の治平を宇佐宮に祈請し給ふ事などあり、翌養老五年七月に至り、漸く副将軍二人も歸還し、斬首獲虜合せて千四百餘人と稱せられ、翌六年四月、其の将軍以下は、蝦夷征伐に從つた人々と共に勲位を授けられて居る。 また同七年四月に、太宰府は、「日向・大隅・薩摩の三國の士卒、隼賊を征討し、頻に軍役に遇ひ、兼ねて年穀登らずして、交々も飢寒に迫る。 謹んで故事を案ずるに、兵役以後、望むらくは天恩を降し、復三年を給へ」と奏して之を許され、從軍の士卒に三年の免租を賜つて居る。

〈 〔補説〕 承和十一年六月十七日の宇佐八幡宮彌勒寺建立縁起に、「養老四年大隅日向兩國。有征罰事。大御神詫波豆米宣。隼人等多殺報。毎年放生會可之」とあり、また扶桑略記には「大隅日向兩國亂逆、公家訴請於宇佐宮其禰宜辛嶋勝代豆米相率神軍。行征彼國、打平其敵」と記し、宇佐宮の禰宜が親しく神軍を率ゐて出征した事を述べ、次いで大神が託宣して放生を修せしめたと云ふ。 水鏡はこの扶桑略記の文を受けて殆んど同じ様な事を傳へてゐる。

宇佐託宣集には、之を養老三年に誤つて居るが、此の時、隼人が、奴久良・幸原・牛屎・志加平・曾於之石城・比賣城に據るなどあるは、幾分の事實であらうか。 〉

 而して、一方、養老七年五月、大隅薩摩二國の隼人等六百二十四人が入京し、餐を賜ひ、各其の風俗歌舞を奏し、酋帥三十四人が叙位賜禄の榮に浴し、六月歸郷して居る。 これは六年交替の貢上隼人であつて、それから六年目の天平元年の六月にも、薩摩隼人等調物を奉り、太極殿閤門にて風俗歌舞を天覧に供して、授位賜禄の榮に浴し、翌七月には、大隅隼人調物を貢し、大隅隼人姶羅郡少領從七位下勲七等加志君和多利及び外從七位上佐須岐君夜麻等久々賣とが外從五位下に叙せられ、自餘の者も叙位賜禄の榮に浴した。 次いで天平七年七月、大隅・薩摩二國の隼人二百九十六人入朝して調物を獻じて居るのも、六年交替の入京であるが、例の如く太極殿にて方樂を奏し、二國の隼人三百八十二人が爵并に禄を賜はつた。

 斯くの如く、大隅・薩摩兩國の隼人も次第に皇化に浴して事なき状態であつたが、藤原廣嗣の亂が起ると共に、兩國の隼人は官賊兩軍に屬して相闘ふ事となつた。 天平十に年八月太宰少貮藤原廣嗣上表して、時政の得失を論じ、遂に兵を起して反するや、九月三日、朝廷即ち大野朝臣東人を大将軍と爲し、紀朝臣飯麻呂を副将軍とし、軍監・軍曹各四人、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の軍一萬七千人を徴發したが、翌四日には、特に在京隼人二十四人を召し、右大臣橘諸兄が勅を宣べて位を授け、又服を賜ひ、之を激勵して戦地に向はしめて居る。

 戦闘は豊前國に起り、官軍相次いで豊前に渡り、隼人二十四人と軍士四千人とは、九月二十二日勅使佐伯禰常人・安倍朝臣虫麻呂等に率ゐられて渡海し、板櫃營に鎭した。附近の諸豪族も各兵を率ゐて集り、各地に於て賊徒を鎭定に力めた。 またその間、大将軍東人に命じて宇佐八幡宮に兵亂の平定を祈請せしめた。 廣嗣の方でも一萬餘騎を率ゐて、板櫃河に到り、自らも隼人軍を率ゐて前鋒と爲り、木を編みて船と爲し、将に河を渡らんとしたが、官軍佐伯安倍の二将の兵が弩を發して之を射たので退いて河西に陣し、河東の佐伯等の軍士六千と相對した。 この時官軍では、隼人等をして大聲を以て、「逆人廣嗣に随ひて官軍を拒捍する者は、直に其の身を滅するのみならず、罪は妻子親族に及ばん」と叫ばしめたところ、廣嗣方の隼人并に兵士之を聞いて、敢へて箭を發しようともしない。 佐伯常人等も亦、遥に廣嗣を呼ぶ事十度、廣嗣、猶ほ答へなかつたが、やがて馬に乗つて出で來り、常人等の勅使たるを知つて馬から下り、兩段再拝して、「朝命に逆ふのではない、朝廷の亂人玄〈[口と方]〉法師と吉備眞備との二人を請ふのみである」と答へたが、更に常人「勅符を賜らんがために太宰典巳上を召喚するに、何が故に兵を發したか」と咎めたに對して、廣嗣遂に辭窮し、馬に乗つて却いた。 時に賊中の隼人三人、直に河を泳いで降服せんとしたので、朝廷方の隼人は之を扶け救つて、遂に岸に著くを得たが、續いて隼人二十人、廣嗣の配下十騎許も歸順した。 此の時降服した隼人囎唹君多理志佐は、「廣嗣自ら大隅・薩摩・筑前・豊後等の軍兵五千を率ゐて鞍手道より進み、網手は筑後・肥前などの兵五千を率ゐて豊後國より進み、多胡古麻呂は田河道より進まむとしたが、網手古麻呂の兵は未だ來ない」と云つて、賊軍の策戦の状況を報じて居る。 かくて賊軍全く潰え、廣嗣は肥前に逃れ、十月二十三日、松浦郡値嘉島長野村に於いて、進士兂位安倍黒麿の爲に捕へられて、十一月一日に至り、網手と共に斬られ、其の徒相次いで罪科に處せられて、兵亂こゝに鎭定した。 大将軍大野東人以下官軍の将士皆賞に與り、曾乃君多理志佐等も外正六位上から外從五位下に叙せられて居る。 即ち此の廣嗣の反亂に當つては、大隅・薩摩の軍兵多く之れに從つたであらうが、また官軍を勝利に導いたものは實に隼人の力であり、殊に歸降の隼人囎唹君多理志佐であつたと見なければならない。

 その後天平十五年七月三日、聖武天皇石原宮に御し給ひて、特に隼人に餐を賜ひ、外從五位下曾乃君多利志佐は外正五位上に、外正六位上前君乎佐は外從五位下に、外從五位上佐須岐君夜麻等久々賣は外正五位上に叙せられて居るが、これは恐らく前年の戰功によつてでなく、六年毎の隼人貢上としての入京の故であらう。 隼人の交代の入京が、戰亂によつて時期が少しく延びたが、ここにまた從前の如く行はれることゝとなり、この年から六年目の天平勝寶元年八月にも、大隅・薩摩兩國の隼人が御調を奉り、士風歌舞を奏して居るが、この時、前の曾乃君多利志佐は從五位下に、外從五位下前君乎佐は外從五位上に、外正六位上曾縣主志自羽志・岐直加禰保佐は外從五位上に叙せられて居る。 併し天平勝寶元年以後十數年間は、續日本紀に、隼人交替の記事が見えないが、天平寶字七年正月、朝堂に於て、隼人が唐・吐羅・林邑・東國人と共に樂をなし、翌八年正月には隼人相替の記事がある、蓋し中間一回分だけが國史から漏れたものであらう。 この時には外從五位上前公乎佐が外正五位下に、外正六位上薩摩公鷹白、薩摩公宇志が外從五位下に叙せられた。 然るにその後三年、神護景雲元年九月には慶雲の瑞祥により、隼人司の隼人百十六人も、有位無位を論せず爵一級を賜はつた。 また同三年十一月、大隅・薩摩の隼人が俗伎を天覧に供へ、外從五位下薩摩公鷹白、加志公島麻呂は、共に外從五位上に、正六位上甑隼人麻比古、外正六位上薩摩公久奈都、曾公足麻呂・大住直倭・上正六位上大住忌寸三行等は外從五位下に叙せられ、其の外の隼人等にも各賜物の事があつた。 また寶龜七年二月、大隅・薩摩の隼人が南門にて俗伎を天覧に供し、外從五位下大住忌寸三行、大住直倭は外從五位上、外正六位上薩摩公豊繼は外從五位下に叙せられ、その他八人にも叙位の事あり、越えて延暦二年正月、大隅・薩摩兩國の隼人は、朝堂に於て餐を賜ひ、天皇臨御あらせられ、叙位・賜物等當例の如く、同十二年二月にも曾於郡大領外正六位上曾乃公牛養が隼人を率ゐて入京し、外從五位下に叙せられた。

 以上は皆六年交替の制に據つたものであつた。 然るに、恰も次の交替の期、延暦二十年に至つて、六月十二日太宰府に命じて、隼人を進むることを停めしめられ、更に廿四年正月に、自今永く大替隼人の風俗歌舞を奏することが停められた。 かくて上古以來の例典が此處に終を告げ、その代り、大同三年十二月に、これより後、定額の隼人の闕員は之を京畿在住の隼人より補ひ、衣服粮料も簡單にして、衛士に准ずる事となつた。

 而して、在京隼人の爲めには隼人司が置かれてあつて、大寶令の規定では、衛門府の管下とし、正一人・佑一人・令史一人・使部十人・直丁一人等の職員が置かれてあつた。 隼人正は其の長官で、隼人の檢校及び名帳、歌舞の教習、竹笠の造作等の事を掌つて居た。 令義解や令集解に據ると、隼人は一年交代で、班を分つて奉祀し、非番在家の者は課役・兵役等、常人に同じであつた。 寶龜二年三月隼人の帯劍が停められたが、之はこの隼人司の下の隼人の事である。 隼人司は其の後、大同三年正月、衛門府に併せられたが、同年八月衛門府を廢するに當つて、再び隼人司を置き、兵部省に隷し、その佑一員と使部二人とを廢したが、翌四年三月には、史生二員を置き、元慶元年十二月に至つてまた佑一員を復する事となつた。

 延喜式隼人司の條に據れは、元日・即位及び蕃客入朝等の儀式には、隼人司の官人三人・史生二人が、大衣二人・番上の隼人廿人・今來の隼人廿人・白丁隼人一百卅二人を率ゐて應天門外の左右に陣し、群官初入の際、胡床より起ち、今來隼人が、吠聲三節を發するのであつた。 但し蕃客入朝の儀式には吠聲は用ゐられない。 その服装は、官人は位階相當、横刀を帯し、大衣及び在番の隼人は、横刀・白赤の木綿・耳形鬢を著け、自餘の隼人は大横布衫・布袴緋帛の肩巾・横刀・白赤の木綿・耳形鬢を著け、楯槍を執つて胡床に坐するのである。 且つ五畿内■に近江・丹波・紀伊等の諸國は、毎年大帳使に附して隼人の計帳を官に進め、更に班田の年には同じく田籍を進めしむることゝなつてゐた。

 右の官人三人とは正・佑・令史の三人を指し、史生二人とは大同年間新置のものである。 次に大衣オホキヌとは隼人の首領であつて、隼人を教導し、雑物を催造する事等を掌る者で、左右各一人、左大衣は大隅隼人より、右大衣は阿多隼人から出で、共に譜第の内から擇ばれ、家系が定まつて居たのである。新撰姓氏録に、山城の神別に阿多隼人、大和の神別に大角隼人とあるのが即ちこれであつて、承和三年六月には、山城國人右大衣阿多隼人逆足が阿多忌寸姓を賜はつて居るのは、大隅隼人が、早くも天武天皇の御代に忌寸姓を賜ふたのに相對するものである。

 次に在番の隼人、即ち番上隼人とは、續日本紀霊龜二年五月の條に、六年相替隼人と載せ、又天平寶字八年正月の條に大隅・薩摩等の隼人相替るとあり、更に日本後紀延暦廿四年正月に大替隼人とあるものの名残で、前述の如く、六年毎に薩隅兩國から進めて居たが、その廢止後は、五畿内及び近江・丹波・紀伊等の國に居住して居る隼人の内から、優良なる者を選んで之に任ずるのであつて、最上級に位するが、時服及び食糧などは賜はらない。

 次に今來隼人とは、新來の隼人の意で、男子と女子とあり、始め新に薩・隅兩國から入京した隼人を指したのであるが、後には職名に過ぎない事となつた。 その任とする所は、前述の元日・即位等の外踐柞・大嘗等の大儀及び行幸に供奉して吠聲を發するものである。 延暦二十四年十二月、經費節減のため、冗員を淘汰した際、隼人男女各四十人であつたものを、二十人づゝに減じてゐるが、それは今來の隼人のみの事か、或は番上隼人を含めての事かとも考へられるが、確な事は詳かでない。なほ缺員は畿内の隼人から補ひ、大衣に教育され、地位は番上の隼人よりも低く、時服・食料等を支給されるのであつた。

 白丁隼人は、元日・即位・踐柞・大嘗及び蕃客入朝等の際にのみ召集するのであつて、其の前に豫め隼人司が太政官に申して諸國の隼人を召し集め、其の期間中は食料を賜ふのである。 そして踐柞・大嘗等の儀に際しては應天門の左右に陣し、北向に立つて風俗歌舞を奏するのである。

 隼人召集は延喜以後も同様で、北山抄には、大嘗會に召さるゝ隼人のことを載せて、大和十人・河内十二人・和泉七人・攝津二十人・丹波二十四人、伊勢七人と見える。 而して此の北山抄に記された召さるゝ隼人の數は、後世永く踏襲されたかと考へられるのである。

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