高昌国の紀年に就て
高昌国延昌卅二年氾崇慶墓表 縦横失記
文尾に之焉也の助字ある者
【NDLJP:170 】高昌国の紀年に就て 西本願寺光瑞前法主が派遣せる西域探検一行の発掘品中に高昌国人の墓表十数種あり、羅叔言参事は其の十種に拠りて、高昌国の紀年を推算し之を国学叢刊に載せたり。即ち(1)延昌四年甲申歳
三月己未朔十七日
乙亥虎牙将軍後遷
明威将軍遥遥郡徐
寧周妻金城張氏之
墓表
(2)延昌廿年庚子
歳九月朔癸未
廿五日丙午開
郭恩子妻解氏
之墓表
(3)延昌廿二年壬寅歳
二月朔乙亥廿一日
乙未虎牙将軍相上
将賈買苟妻索氏謙
儀之墓表
(4)延昌廿六年丙午歳
四月朔辛巳十一日
辛卯虎牙将軍後遷
相上将追贈宣威将
軍賈買苟之墓表【NDLJP:171 】(5)延昌廿九年己
酉歳十一月朔
庚寅十八日丁
未虎牙将軍郭
恩子之墓表
(6)延昌卅二年壬子歳
閏正月丁未朔十七
日水亥新除内直主
薄後遷内直参軍追
贈鑿中将軍氾崇慶
之墓表之焉也
(7)延昌卅八年戊
午歳二月壬寅
朔二日癸卯新
除虎牙□□追贈
殿中□□□□伯
□之□□
(8)延昌冊年庚申歳閏
二月辛酉朔十九日
己卯新除箱上将後
遷為曲尺将後遷為
巷中将金城麴麴孝
嵩妻張氏之墓表
(9)延和九年庚午歳正
月十一日新除鹿門
子弟将遷鑿中中
郎将追贈壁中将
軍麴孝嵩之墓表
(10)延寿十一年歳次
甲午五月壬申朔
廿九日庚子新除
領兵将遷兵部参
軍侯慶伯春秋五
十有八殯葬斯墓
羅氏は以上の墓表により、高昌麴氏年表を作り、
周保定元年辛巳〈陣天嘉二年 〉 是年建号延昌元年
四年甲申〈陳天嘉五年 〉 延昌四年
大象二年庚子〈陳太建十二年〉 延昌二十年
隋開皇二年壬寅〈陳太建十四年〉 延昌二十二年
六年丙午〈陳至徳四年 〉 延昌二十六年
九年己酉〈陳禎明三年 〉 延昌二十九年
十二年壬子 延昌三十二年
十八年戊午 延昌三十八年
二十年庚申 延昌四十年
仁寿二年壬戌 改元延和
大業六年庚午 延和九年
唐武徳七年甲申 改元延寿
貞観八年甲午 延寿十一年
と擬定せり。但だ麴氏の建号を延昌に始まるとするは未だ当らざるが如し。余は嚮に本願寺の野村氏が携へ帰れる発掘品を考査せし時、其中に写本維摩義記巻【NDLJP:172 】第四の断片ありて、跋に建昌二年丙子の数字あるを見たりき。此の断片は他の高昌の年号ある写経断片と共に吐峪溝より出でたれば、同じく高昌の年号なること疑なし。尤も建昌の年号は晋代に秦の張琚にも之あれども、其元年は晋の永和八年に当り、歳次壬子にして、且つ是歳五月に尽きたれば、定めて此の跋の建昌にはあらじ。又柔然の醜奴、即ち豆羅伏跋豆伐可汗も建昌の年号を建てたれども、其の立てるは北魏の永平元年戊子以後に在りて、其の死せるは神亀元年戊戌に在れば、其間に丙子の年なし。然るに高昌の田地公茂〈高昌の爵に田地公あり〉が立て王と為りしは西魏の恭帝二年乙亥〈梁天成元年〉にて、二年は丙子に当り、しかも延昌元年の前五年に在れば、高昌の建号が麴茂が立ちし年に在りと見ん方妥当なるに似たり。
又羅氏は高昌王麴伯雅が嗣位の年、北史及び隋書の高昌伝に均しく明記せず、但だ開皇十年以後に書せるを以て、高昌の制度が支那に做ひて、新君即位すれば、年を踰えて改元するならんとの理由より、延和元年を伯雅の紀元と推定したり。然るに又野村氏の将来せし古写経跋には、延昌二十七年、卅三年、卅七年、冊年のものありて、中にも卅三年癸丑冊年庚申の両跋[1]は干支を具したるが、卅三年の分は仁王経巻上の跋にて、其文左の如し。
延昌卅三年癸丑歳八月十五日白衣弟子高昌王麴�〈以下残欠、以上第一行〉」竟道俶通康信可期至理宴会精感必応〈以下残欠、以上第二行〉」国処辺□勢迫間摂疫病致流有増无損〈以下残欠、以上第三行〉」将来保元世於□日哉是以謹尋斯趣敬〈以下残欠、以上第四行〉」〈第五行首欠〉歳豊国彊民逸㓂□潜声〈以下残欠、以上第五行〉」〈第六行首欠〉□□安吉又願七世先霊考妣往識済〈以下残欠、以上第六行〉」〈第七行首欠〉傷同証常楽
�字は不明なれども光瑞前法主は之を読て伯の別字とし、即ち麴伯雅の跋なりとせるは当れるが如し。されば麴伯雅の嗣位は延昌卅三年即ち隋の開皇十三年以前に在り、又開皇十年即ち延昌三十年以後に在りて、延和改元とは関係なき者の如し。然れども此の跋は延昌が高昌の年号たることを確定すべき的証にして、かの墓表の紀年及び月朔の干支によりて、推し当てに定むる者に比し、遥かに有力なれば、高昌紀年の資料としては、此の一跋を等開に看過すべからざるなり。
此の考定の結果により、高昌王麴茂嗣立の年、即ち西魏の恭帝二年乙亥を以て、高昌の建号、建昌元年とし其の治世を延昌三十年まで三十六年間とし、麴伯雅の治世を延昌卅一年より延和二十二年まで三十三年間とする方、当を得るに近し。経跋【NDLJP:173 】には又延寿二年乙酉、延寿十四年丁酉の二種ありて、墓表と相参照すべく、殊に其書法は著しく唐様を帯びて、其の時代を想定する資料とするに足れり。是も亦見逸すべからざる者なり。
頃ろ西域考古図譜の出板成りたるを以て、翻閱の次、嚮に考へ得たる一二事を挙げて以て羅氏の考訂を補ふことゝせり。
附記
氾崇慶の墓表の尾に之焉也の三字を附書したるは、亦注意すべきことなり。六朝隋唐の古写本に、注文の末に此等の無意義なる助字を附書することは、屢々見る例にて、考訂家は此種の助字ある写本を以て、其の源流の古きことを証するに足るとせり[2]。然るに墓表に此種の助字あることは実に此の氾氏墓表を以て唯一の資料とす。時代の風習は、典籍にも、金石にも、一様に行はれ居りし奇異の例とすべし。西域考古図譜に此の墓表を略して載せざりしは惜むべし。
(大正四年十一月芸文第六巻第十一号)
附註
- ↑ 延昌卌年庚申の経跋は左の如し
大品般若〈下欠〉
延昌卌年度申歳六月九日使持〈下欠〉」毀弥体伊離地□□陁豆〈下欠〉」命常住三宝蓋聞慧日□□間燭重昏円教□□〈下欠〉」真音未宜而�俗失且是以如来慇彼迷徒長寝巨夜〈下欠〉」使含議之類望風趣嚮弟子仰惟斯宗内懐感属〈下欠〉」旱吐屯発教写八時般若波羅密経八部冀読誦者〈下欠〉」憑斯福願国祚水隆蕃不明□惟茂聴県所生面〈下欠〉」
この文中第二行跋弥礼伊離地云云及び第六行早吐屯発は皆高昌語にして、下に録せる麹斌造寺碑文中の麹乾固の官名と同じきに注意すべし - ↑ 久しく巳に上梓せられたる古書にして、篇末に此等の助字を存せるは、余が諸たる限りにては、漢の王符の潜夫論志氏姓篇とす。潜夫論の箋を作りし清の汪継培の如きも、其の古写本通有の助字たるを知らざりしが如し。今奉連之を記して以て考に備ふ。
附記一
国学論叢刊巻七(甲寅七)巻八(甲寅八)巻十八(乙卯十)参照
附記二
此の小篇は羅叔言参事が甲寅歳(大正三年)国学叢刊第八巻に載せたる麴氏年表によりて、私見を述べたる者なるが、羅氏は大正八年に於て国に帰り津沽に住し、其秋余に左の書を贈り、余が前説を証すべき新資料の出土せることを報じたり。
【NDLJP:174 】湖南先生閣下。小児帰来。具道候履吉羊。至慰至慰。並承恵貴大学石造象拓本三紙及古印鎌印本。拝収謝謝。比秋爽作。起居益勝。定慰下忱。弟労労如旧。惟去国八年。敵邦所出古器物。未嘗寓目者不少。多可資学術之研究。即以石刻一端言之。新疆有高昌麴斌造寺銘。其陰載高昌王麴宝茂名。石即立于宝茂之元年乙亥。元年上泐二字。宝茂即田地公茂。元年上所泐。以大谷伯所得維摩義記巻四後署建昌二年丙子考之。則是建昌二字。可為公往者所考高昌国紀年之証。又中州出唐百済王子扶余隆墓誌。頗可訂正新旧唐書。此誌弟得拓本二。敬以其一奉贈。又溟中出晋石一。(惜太泐)無年月。又唐碑一。皆前賢所未及知者也。弟以蔵書尚未整理。造述之事。尚未著手。(中略)前観李氏所蔵西陲古巻軸。頗有可観。已略述子致子温兄書中。祈取観為荷。専此奉申。即請箸安。弟玉頓首。既にして羅氏は麴斌造寺碑文を手録し、並びに一跋尾を作りて贈致されたり。其跋尾は後に羅氏の雪堂金石文字跋尾に全録せられ、学者の容易に見るを得べくなりたれば、略して此に転録せざれども、其の碑文は近年刻せられし新疆図志金石部に載せられたる者、碑陽と碑陰とを分ちて二碑とし、剰さへ最も考史に必要なる元年二字の上、妄りに延昌の二字を填せる等、恣意竄改の跡ありて信じがたき者あれば、こゝに羅氏の手録せる本を主とし、図志の所録を参考して、左に録出することゝしたり。
高昌麴斌造寺碑
高四尺五寸広三尺六寸陽面三十一行行三十八字陰面三十一行行四十一字並正書宣統初出吐魯番○図志作吐魯番三堡新興県即高昌国新興鎮
寧朔将軍綰曹郎□□□□□□□□寺銘夫法身妙�。而□□□□□。至韻希夷。乃為衆談之本。相成。真儀所以斯著。□□ 迭顕。玄□□」以弥彰。用能陶□□□。□□万有。汪哉洋哉。何莫由之。然華生昏朦。長寝巨夜。出入三塗之中。□□」六道之境。沈溺□□。□□□済。是以能仁垂法母之慈。均猶子之愛。降跡天宮。誕形帝宇。現□□□。」権成大覚。演四諦□□□。」六度於霊府。揚道品以光時。闡波若以啓俗。峨峨乎高不可量。湛湛乎?□□」淵不可測。悟物既□。 □□浄域。天人悲慕。哀感山河。於是有生之徒。望二林以歔欷。含気之□。□□」樹而楚目。故鐫□□□。□既往之形。丹青布綵。表如在之像。爰有至道君子寧朔将軍綰曹朗中麴」斌者。河州金城郡□□□之従叔也。樹填根於姫水。挺玉柯於天枝。幼有琳琅之風。長□□□之跡。」天姿秀発。英略□□。□□瑚璉。操刀斯任。年十九。擢拝威遠将軍横【NDLJP:175 】截令。徳如風被。化若神行。□撻」勿加。政平訟息。固不足称。呉隠之教。豈或能擬。尋転折衝将軍新興令。勧課□□。利尽三」農。桑麻条暢。倉□□□。道之以徳。斉之以体。民知栄辱。義譲興焉。其後属突厥雄彊。威振□□。治兵」練卒。侵我北鄙。□□□□軍之委。承厝勝之策。鷹揚閫外。虎歩敵境。兵鋒暫交。応機退散。主□ □□」数之期。深知□□□□。□安慮危。見機而作。為欲与之交好。永固邦疆。以専対之才。非人莫□。遂遣」君厭庭。遠和□□。□□□之以機弁。陳之以禍福。厥主欽其英規。土衆長其雄略。遂同盟結婚。□□」而帰。自是辺□□□。□□无虞。干戈載戦。弓矢斯韜。皆君之力也。以功進爵。逎遷振武将軍民□□長」史。寔乃柱石之□□□□。□鉉□社稷之器。苞剛柔於智衿。備文武於懐抱。名不□称。斯其膺矣。□□愛」慕玄宗。渋□ □。□□□�。洞達空有。雖躬宰時務。而志存静嘿。身羈俗網。而心遊物表。鍾□幽 □。」幽与理会。弟□□□□□軍領都官事暄。風韻高竒。機鑒頴悟。豈惟則哲。抑亦其神。邴原在漢。既不」足栄。潘尼処晋。□□□□。聴訟恕己之心。哀矜折獄之志。榜 笞?苔不忘其恩。刖足猶感其恵。体亮閑邃。」標上清遠。故能仰遵仏事。乃於所領城西顕望之処。馨捨珍財。建茲霊刹。因其定□。□□」構宇。銀繁切漢。□□□□□ 踊。金鍾振響。似香山之美楽。房廊周匝。勢方祇洹?恒。禅室連局。秘如兜率。」園樹含煙。百卉□□。□□□粲。競日争鮮。碧水遄波而雅響。青風触樹而気気。信聖者之神居。息心」之妙所矣。功業□□。□□□委嗣子虎威将軍新興令亮。慨折新於既往。感負荷之在慈。登□山以」哀慕。眷蓼義而傷□。□□□之日遠。嗟景行之不追。豎豊碑以䘳徳。冀万祀而伝徽。其銘云爾。」
霊覚恢廓。非有非无。□□□□。亦実亦虚。形无定方。従来豈劬。言非常韻。随時□ 舒。哀網之鳥。□鑊」之魚。天堂降跡。帝宮□□。□□斯応。開示玄途。徳被大千。誘以三車。功遂身退。化感返諸。羣生□□。」罔知攸居。精金練玉。□□□□。藉茲福慶。永証無余。猗歟麴君。傑気陵漢。入登皇朝。出臨蕃□。仁義」所珍。財帛是賤。恩同春 □。□□秋雲。矜貧恤寡。褒賢賞善。敬授民時。五穀豊衍。武略既加。文事斯煥。」連鑣?䮽五臣。比轍十乱。空□□□。真偽双貫。分□廃寝。永夜味旦。昧旦伊何。仰探玄宗。傾珍竭宝。敬□」聖容。功窮世巧。麗亜天工?□。□□□地飛□□空。園流雅水。林扇香風。尽美尽善。歌詠无窮。敢竪□□。」勒此玄功。僻蹈不□。□□□□。」
延昌十五年乙□歳九月 句刊訖
【NDLJP:176 】〈上欠〉令虎威麴貞令
〈上欠〉伏波麴喧
〈上欠〉郎中麴斌
〈上欠〉□綰曹郎中麴仁
〈上欠〉海高氏之像
〈上欠〉使氏之像
〈上欠〉孟氏之像
弟妻辛氏之像〈此入行在文之上方以上碑陽○図志云案以上麹氏像旁之題字在碑之額〉
□□元年乙亥歳十二月廿三日白衣弟子?□□折衝将軍新興令麴斌芝稽首。□□□□□□□□境内一切」
□□衆僧啓明王殿下白。文武僚佐。並□如来啓。□□□方。梵音演響。理高万品。是□三途含?□霊。資□楽□」□依。六趣抱識。果我浄而廻向。仁化洽□大千。恵沢潤於□界。魔耶之俗漸□。調御之風勃興。五濁処成厳」□。泥梨革為道場。及偃駕双林、潜光鷲□。虚懐敬信者。建刹図形。鏤崖積土。鎔金刊木。触処争与。随方競□。」□
是像廟星羅。僧攬雲布。怖魔乞士?土。□烏棲憑 礼懺消愆。精勤獲果。諒摂生之勝業。弘道之妙術也。□之宜」□霊祇。早丁禍罰。二親棄背。无所怙□。毎夙夜悲慕。感風樹之歎。思立冥福。報顧負之恩。謹割生資。□汲□」思。於新興県城西。造立一寺。覆匱之
□。粗有端緒。園田備?□具。未蒙署記。恐浮年易遷。軀命難保。冀及□存。為」素書一通。条列施意。伝之永代。寺□田卌畝沢東詣道。南枕谷次寺北沢。北与潘守智独塔、周耀真菜園共」限。東与鎮家菜園、子得師菜園同□。寺下園田。悉用漫水漑。次寺下潢田。南詣張□田。東詣坑。西詣□。次秦」城沢中潰。東詣已忠玄受鎮家□□渠渠。南詣堺中道。西詣秦城沢。北詣苟居潢□忠部田。次平上□三分。」北詣道。西詣卜家潢。次三亭潰□□分。北詣渠。西詣侯千歳田。南詣東武安潢子。東詣平上演田。次□家潢」中壱分。次城中里舎壱区。西詣□。□詣孫寺。東詣城壁。南詣辛衆祐舎。右?有上所条。悉用奉施。永充斎供。冀健」鳴長響。法事恒新。賢明相承。功業不替。庶廻斯福。仰願明王殿下。譬二儀以斉栄。方四序而等秀。恒明命於」東晷。仁寿□於南山。至徳日昇。玄□歳達。玉枝国葉。文武僚佐。皆乗信懐忠。竭誠尽節。透通自公。百揆時叙。」殊方悦慕。異類帰風。又願照武王已下五王之霊。済愛欲之河。登解脱之岸。優遊浄土。常与仏会。又願考妣」亡魂。宗眷往魄。皆越三途。遊神□界。面聖湌音。獲菩提果。身及親属。一切【NDLJP:177 】羣生。普蒙斯慶。永保来祥。後若有」不消子孫。内姓外族。依倚勢力。□侵寺物。及寺主不良。費用非理。令千載之福。断於当時。済飡僧供。絶於一」人。罪釁之科。如経誠言。兼以□□罸黄金廿斤。十斤入時主。十斤入寺。罰負既竟。施意如故。□□道衆。流慈」聖上。降恵賢僚良佐。賜署一□。令取験当時。伝証後代。福報之弘。豈不偉歟。弟子麹斌芝和南□白。
高昌大僧 上坐 中坐 □□ 毗尼都斅問斎主願泰典録 維那 弘道都斅問斎主 法師維那」平事 禅師 平事 法師 平事 禅師 法師 禅師 法師 禅師
使持節驃騎大大軍軍開府儀同三?□司都督瓜州諸軍事侍中瓜州刺史西平郡開国公希□□多浮跌无亥」希利発高昌王麴宝茂 右衛将軍多波旱鍮屯発高昌令尹麴乾固
冠軍将軍兼屯田事帯寧□県麴紹徽 奮威将軍横截太守兼宿衛 事麴広威将軍綰曹郎中麴」 長史建武将軍領兵部事□ 長史虎威将軍領庫部事麴 長史威遠将軍領都官事麴凌江将」軍麴 長史威遠将軍領□部事馬 長史威遠将軍領祀部事陰 長史平漢将軍領主客事汜」長史和 民部司馬張 □威将軍都官司馬高 主客司馬高 倉部司馬厳 兵部司馬高」祀部司馬麴 倉部司馬□ 門下校郎焦 門下校郎鞏 通事舎人張 通事舎人 □
新興県僧上坐 中坐 下坐 典録 法師 禅師 法師 禅師 維那新興□□ 〈上欠〉兵曹録事□ 田曹録事衛 客曹参軍戴 客曹参軍斉 田曹参軍□
〈上欠〉散望将□将軍陰 虎牙将軍衛 子弟将呂 田曹主簿馮 兵曹〈下欠〉 〈以上碑陰〉
註 ◎は羅録に無くして図志に有る所
△は図志に無くして羅録に有る所
●二本異なりて羅録に従ふ者
○は二本異なりて図志に従ふ者
余が私案は字傍に小註して?を附せり
以上の碑文及び維摩義記巻四残巻後署によりて、羅氏は高昌麴氏年表を改訂し、其の壬戌新刻永豊郷人稿に収め、且つ云ふ、
高昌紀年。見於石刻外。又於西江李氏許。見敦煌石室高昌人書維摩義記巻二。末署甘露二年正月二十七日沙門静志写記。不署干支。不知当何代。附箸於此以俟考。
此も亦一異聞なれば、併せて此に記す。
附て云ふ、碑陰中云ふ所の照武王は即ち高昌麴氏の初代麴嘉なり、五王の名は史伝の載【NDLJP:178 】する所備はらず、猶羅表を参攷すべし。
余は又去年夏に於て、某氏の蔵せる高昌写維摩経巻下に左の跋文ある者を見たり。
維摩詰経巻下
経生 令狐善歓 写
曹法師 法慧 校
法筆斎主大僧平事沙門法煥 定
延寿十四年歳次丁酉五月三日清信女 稽首帰命常住三宝。盖聞剥」皮析骨。記大士之半言。喪体捐軀。求般若之妙旨。是知金文玉牒。聖教真風。」難見風聞。既尊且貴。弟子託生宗胤。長自深宮。頼王父之仁慈。蒙妃母之」訓誨。重霑法潤。為写斯経。冀以日近帰依。朝夕誦念。以斯微福。持奉父王。願」聖体休和。所求如意。先亡久遠同気連枝。見仏聞法。往生浄土。増太妃之余算。」益王妃之光華。世子諸公推延推寿。冦賊退散疫癘消亡。百姓被煦育之」慈。蒼生蒙栄潤之楽。含霊抱識。有気之倫。等出苦源。同昇妙果。」
此と同じき維摩経の跋尾断片は大谷伯の西域考古図譜にも出でたり、恐らくは其上巻なるべし。是れ高昌最後の王麴文泰の時にして、唐の太宗貞観十一年なり。父王とは文泰にして、王妃は即ち文泰の妻宇文氏、旧唐書に唐の太宗より宗親の列に加へられ、李氏を賜りて、常楽公主に封ぜられし者なるべく、太妃とは前王麴伯雅の妻、隋の宗女華容公主〈実は成属字文氏の女〉にして、世子とは文泰の後に立ちて唐に降りし智盛なるべし。〈羅氏云ふ、智盛本名は智茂なるべしと〉而して此経の願主は文泰の女なり。
又王樹柑の新疆訪古録には、殊書古専墓誌が吐魯番にて三種発見せられたることを記し、其一なる医人の誌を載せて曰く、
□□□□□□□人也建莫蓋於上世表□質於今辰歴代名医流芳三世精窮薬性□□岐伯之風誦侯廃方善□和編之術宜延遐寿救済□苦天不愁遺以延寿十?□七年庚子歳三月五日奄然殞命 □使君上痛惜朝野嗟傷□親悲□城市宝撲春秋五十有七鳴呼哀哉
此れ実に高昌の亡滅せる年なり。以上の経跋及び墓博は高昌紀年に関して、新史料と称すべきほどの者にあらざれども、附載して高昌の事を考ふるに資するのみ。
(昭和四年三月記)
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