1


 上野の博覧会で軽気球が上げられた。軽気球はまるで古風な銅版画の景色の如く、青々と光るはつ夏の大空に浮かんだ。

 この軽気球はそもそも商店の広告なぞではなく、一時間一円で博覧会のお客を乗せる目的から備えつけられたものである。

 私は非常に幼い頃、父に連れられて、何かの博覧会を見物したが、その時の会場には大きなフェアリイ・ランドがあって、観覧車やウォタア・シュウトなぞの新奇な乗物とともに、やはり軽気球がお客を満載して上野の杜の天辺に浮かんでいた。(風船なんて危いものはもっての外だ――)と云って、年寄の父はいくら私が強請せがんでも乗らしてくれなかった。それ以後「風船」は私の最も大きな願望の一つとなった。何もない中空で、一片の雲のように易々と、停っていられると云う道理は、人生の曙に於いて、はじめて私が直面した記念すべき謎であった。

 二十年も過ぎて、乗物の風船が、再び現われた。

 私は久しい宿望を叶えられる喜びのあまり、お天気の日ならば必らず博覧会の門をくぐった。

 風船は、併しちっとも人気がなかった。

 私の幼い心と共に最早や時世から取残されてしまったものと見える。一月と経たない中に、日にたった数人のお客しか呼べない場合があった。

 私はそれで、それをば幸いに、殆ど自分がその風船の主ででもあるかのように、寛いだ気持で空の楽しい一時間を費すことが出来た。

 地上五百米突メートルの高さから見晴した文明都市の光景は、それこそ一番素晴らしいパノラマの眺めである。凡そあらゆる速力と物音とを失って、麗らかな日ざしを宿したうす塵埃ぼこりのかげろうの底で、静かに蠕動するそのたあいもない姿を、私はこの上もなく愛した。


 2


 私は搭乗券を売る娘と顔なじみになった。

 私たちはお互に挨拶をした。

 ――正直なところ、なんだってそう毎日々々、こんな風船に乗りにいらっしゃるのだか、あたしにはもうすっかり考えようがなくなってしまったわ。」

 或る日、その娘は、軽気球から降りて帰りかけた私をとらえて、そう云った。

 ――それは、君に会いたいばかりにさ。」と私は答えた。

 ――まあ! 憎いことを仰有るのね。でもあたし、はじめは鳥渡そんな気がしないでもなかったけれど。ふ、ふ、ふ、ふ……。」

 娘は蓮葉な声で笑いかけたのを周章てて呑み込むと、居住いを直しながら、低声こごえで私に注意した。

 ――おや、あなたの相棒がいらしたわよ。」

 この上天気に雨傘を携えた丈の高い西洋人が私共の方へ近づいて来た。西洋人もまた軽気球に乗りに来たのであった。

 私は彼の雨傘とそれから灰色の立派な顎髯とに見憶えがあった。私はびっくりして娘に訊ねた。

 ――あの異人さんも、時々来るのかね?」

 ――毎日いらっしゃるわ。だから、あなたの相棒だって、そう云うの。」

 ――はてな?」

 ――ことによると、やっぱりあたしを張ってるのかもわからないわね。ふ、ふ、ふ、ふ……。」

 ――僕は、あしたから、あの異人さんと一緒に乗せて貰うよ。」と私は云った。

 私は帰る途々、西洋人について仔細に考えてみた。そう云われればなる程、恰度この位の時間に帰るおりなら、会場の出口迄の間の何処かで、大抵その人と出会ったように思われた。私はただ、博覧会の事務所にでも関係のある人だろう位に考えて、別して深く気をとめたこともなかったが。――どうも、西洋人ともあろうものが、しかもあの年輩をして、風船なぞへ乗って楽しむなんて、なかなか信じ難い話だ。何か重大なる理由がなくては叶わぬ。……


 3


 翌日私はわざと何時もより一回分、つまり一時間だけ遅らせて行った。

 ――異人さん、もう乗っていらっしやるわよ。」

 と娘に教えられる迄もなく、私は切符を買いながらそっと、軽気球の籠をまたぎかけている背の延びた岱赭色たいしゃいろの洋服を見てとった、私はいそいそとそのあとに従った。

 私と西洋人との他に、丸髷に結った田舎者らしい女の人が、少しばかり蒼ざめた顔をして、その連れの中学生と二人で乗っていた。

 西洋人は籠の外へ顔をそらした儘、パイプの煙草を吸った。

 やがて、新しい瓦斯を充満した軽気球は砂袋を落として、静かに身をゆすぶりながら上騰しはじめた。すると丸髷の女の人は声を立てて中学生の肩へしがみついた。そのために、均合をはずした籠がドシンと大きく傾いたので、西洋人もおどろいて振り返った。

 西洋人は無精髯を一っぱい生やしていたが、それでもツルゲエネフのような優しい顔であった。そして薄い茶色の眼は、ひょっとしたら愁しげな光を含んでいるように、私は感じた。

 ――おろしてくんねえかな!」と丸髷の女の人は泣き出しそうになって云った。

 ――駄目だよ。いごくから余計と揺れるんだ。ちっともおっかねえもんかね。」と中学生は狼狽うろたえて相手を叱った。だが、中学生もやっぱり、茫漠と涯しもない天空のただ中で、小さな籠一つへ身を托したことが、そぞろ恐ろしくなって来たに違いなく、歯の根をカチカチ鳴らしていた。

 ――じっとして坐っていらっしやい。もっと高く上ってしまうと、却って怖くなくなりますよ。」と私が二人をなぐさめると、西洋人はちらりと私の方を見たようであった。

 軽気球はそれを繋留する綱の長さだけ上りつくして、さて止った。空の上のことだから、どんな日和にしても、必ず目に見えない風が流れていて、私共もそれに従って右や左に多少は揺られるのであった。田舎の女の人と中学生とはすっかり勇気をなくしてしまって、籠の底に坐ったまま到頭起き上がろうとしなかった。

 西洋人は、上衣の下へ斜めに懸けた革のサックから双眼鏡をとり出して下界を眺めた。けれどもそれは単なる風光の見晴しが目的ではなく、正しく何か探し物をしているのであった。細長い指を苛立たしげに慄わせて、幾度となく焦点を更えては、何時迄も、何時迄も、大東京の市街の表に刻まれた一つ一つの物蔭を丹念に漁るつもりらしかった。

 私は、自分の娯しみを全く等閑なおざりにして、ひたすら西洋人の態度をぬすみみた。だが、そのツァイスの精巧なレンズの目標が、果してどの見当であるかさえ、皆目推量もつかなかった。

 ――一体全体どんな情景をこのブリキとカンナ屑の都から摘出しようとこころみているのかしら?……


 その翌日も、私は西洋人と一緒に風船へ乗った。西洋人は矢張り双眼鏡ばかり覗いた。

 そして更に、その翌日も全く同じ事が繰り返された。

 その次の日も。

 次の日も。

 …………


 4


 私の好奇心は加速度的に膨れ上って、遂にはこの西洋人は何処かの軍事探偵ではないかしらと云う容易ならぬ仮想迄発展して行った。こうなると最早や私一個の風船に対するあどけない興味なぞは心の隅に追い込められてしまった。

 西洋人の方でも、私を訝しく思ったに違いない。一日、西洋人はためらいながら口を開いた。

 ――毎日同じ時間にお目にかかりますね。」

 ――為事しごとの都合でこれ以上早くは来られないのです。」と私は答えた。

 ――軽気球をそれ程お好きですか?」

 ――そうです。軽気球から眺めた景色はどんな上手な風景画よりも美しいと思います。」

 ――天国により近いせいで、地上のすべての汚れが浄められて見えるかも知れませんね。」そう云って西洋人は微笑した。

 私は思い切って訊き返した。

 ――それでは、あなたの毎日探して居られる秘密について教えて下さい。」

 すると西洋人は忽ち狼狽した。

 ――いやいや、これだけはうっかりお話しするわけに参りません、そう、しいて云うならば地上の宝です。は、は、は、は……」

 彼はそれからふいと慍ったような顔をして、くるりと背中を向けると、再び双眼鏡を覗きはじめた。

 だが、その後間もなく、私は途方もない不徳な誤解を、西洋人に対して抱いていることを知るに致った。

 軍事探偵なぞと云うものは、内気なツルゲエネフのような顔をしていたり、またそんな子供の運動帽子みたいな色彩をした風船に乗っていたりするものではない――と私は、心のうちでひそかにくやんだことであった。


 5


 開期三ヶ月の博覧会も終りに近づくと、季節はだんだん梅雨時へかかって来た。雨が降れば勿論軽気球は上がらなかった。そして私はしめった不健康な家の中で、まるで羽衣を失った天人のように、みじめに圧しつぶされて、所在なく寝ころんでいるばかりであった。

 朝の中は薄日が当っていても、午後になって欝陶しいつゆ空に変って、やがてビショビショと降り初めると、軽気球は折角出かけて行った私共の前で悲しくつぼんでしまうようなことさえ幾度かあった。私と西洋人とは、諦め難く、永い間どんな小さな雲の切れ目でも見付け出そうとして待ちあぐんだ果に、いよいよ本降りになった雨の中をお互に慰さめ合うような苦笑を洩しながら肩をならべて帰った。

 彼がスフィンクスであったにしても、私共はともかくその位の親密な体裁にはいきおいならざるを得なかった。ミハエル某と云う彼の名前も私はおぼえた。

 その日もひどく覚束ない空模様で、天気予報も雨天を報じているのに拘らず未練がましく出かけて行った私が、電車を降りた時にはすでに、霧雨がしんしんと不忍池の面をこめて降っていた。私はレインコオトの襟を立て、池の縁にあるからたちの垣根の前にぼんやり佇んだが、すぐに電車道に沿って色の褪せた博覧会の正門の方から、洋傘を阿弥陀に傾けながら、私の方へ向かって歩いて来る我がミハエルの姿が目に入った。先方では私に気がついたらしく、何時もするように優しく微笑してうなずいて見せた。

 私共は一本の傘に入って山下の方へ出た。

 ――今夜おひまですか?」とミハエルはふとそんなことを訊いた。

 ――ええ、別に。」と私は答えた。

 ――それでは、今晩はお酒を飲みましょう。」

 ――いいですね。」

 私は彼の唐突な言葉に些か驚いたが、彼と一晩酒をのんでいろいろ語り合うことはもとより願うところであった。

 私共はそれから、程近い郊外にある私の心やすい小いさな酒場バアへ行った。雨が降っているし、学生は大方試験最中だし、酒場は静かであった。

 私共は、可愛い男刈りの頭をした女の子に、我々がえくぼウイスキイと呼んでいる先ず上等の種類のウイスキイを誂えて飲んだ。

 ――あしたも雨でしょうか?」と私が云えば、

 ――怪しいもんですね。」とミハエルは答えた

 ――博覧会もあと一週間きりですが、運が悪いとこれっきり晴れずにしまうかも知れませんな。」

 ――ああ!」ミハエルは、何杯目かのグラスを一気に飲み干して、大きな溜息を吐いた。

 ――で、結局あなたの地上の宝とやらは見つからないのですか?」と私は切り出した。

 するとミハエルの眼に、急に大きな泪が溢れて、それが白い滑かな頬を伝って、茫々たる髯の中へ流れ込んだ。

 ――酔っぱらいましたね。」と私は笑った。

 ――酔っぱらいました、そこで私は私の地上の宝について、いよいよあなたにお話して差し上げようと思うのです。」と彼は云った。

 ――有難う。もう一杯おあがりなさい。」

 私は彼のグラスへ新しくウイスキイを注がせた。

 ――これは恋の話です。」と彼は云った。「地上の宝とは、それこそ天地に掛け更えもない、私のたった一人の恋人なのです。」

 ――恋物語だったのですか――なんとねえ!」と私は少からず面喰った。

 ――神様の啓示です。聞いて下さい。……もう殆ど三月も前のことですが、故国から訪ねて来た友達を案内して、瀬戸内海の方へ見物旅行に出かけるつもりだったので、M百貨店へ行って買物をしてついでに双眼鏡を一つ買いました。そして、その買いたての双眼鏡をもって、私はM百貨店の屋上から初覗きに東京中の景色を眺めまわしてみました。晴れた日の午さがりで、大きな貨物船の沢山浮かんだ碧い品川の海や、数え切れない程の煙突や、とたん屋根や、洗濯物が一っぱいかかっている物干しや、いろんなものが見えました。上野の山の青空に風船が浮かんで、その下に散りかけた桜の花が煤けた古綿のように汚ならしく見えました。それから、その次にレンズを動かしたはずみに、大ぜいの市井まちの人々の姿が映りました、その中に、ふと私は非常に綺麗な娘さんの顔を見つけました。純然たる日本の髪を結った少女で、東洋的美しさの典型とも云いたい、仏さまのような優しい清らかな顔でした。私は一眼見てはげしく心を打たれてしまいました。たとえようもない無二無三な恋慕の情がするどく胸をかきむしりました。私は幾度もピントを合せ直しました、併し、あまり焦立ったために、却って最初の正しい焦点をなくして一層うろたえている中に、情ないことにも、彼女の姿はやがて行き交う人々の蔭へかくれてしまいました。そして、どんなに追求しても無駄でした。私はあらゆる努力を払って彼女をもう一度探し出そうと固く決心しました。それで瀬戸内海行も中止してその日以来、縁あるものならば永い間には再び会えぬ筈はないと信じて、M百貨店の屋根で、その日と同じ刻限には必ず見張りに立つことにしたのです。が、考えて見れば、彼女の姿の見えたところが上野の方向に当っていたことだけは確なのだから、これは博覧会の風船の方がずっと有利であると覚って、早速計画を変更して軽気球へ乗りました。けれども一月経っても、二月経っても、私の果敢ない恋が何の報いられるところもなかったことは御存知の通りです。博覧会はいよいよおしまいになります。今更M百貨店の屋上へもどる勇気も失せてしまいました。私の恋としたことがたとえばシベリアの大森林の中へ落下してそのまま落葉の底深く永遠に埋もれてしまった隕石の運命の如くに、よくよく不仕合せなものかも知れません。」

 西洋人はすすり泣きに泣いた。

 ――それは、それは……」とそう云って私もつい悲しくなった。

 私はよろめきながら周章てて立ち上って女の子を呼んだ。

 ――おけいちゃん、おけいちゃん! えくぼウイスキイのお代りじや!」


 6


 博覧会の閉会の日は、珍しく日本晴のお天気であった。晴れさえすれば、もう真夏の紺青の空が目にしみて輝き渡るのである。

 軽気球も千秋楽ではあるし、久し振りで、だんだら染の伊達な姿を景気よく天へ浮かべた。

 私と西洋人とは軽気球の上で握手した。

 ――もうすっかり諦めてはいたのですが、一番最後の日になって、こんなに滅法すばらしく晴れ渡ったのを見ると、私はどうも今日こそはひどく奇蹟的な幸運に恵まれそうな気持を感じました。」

 西洋人はサックから双眼鏡を取り出しながら、そう去った。

 ――若し、本当にそうだったら、私だってどんなにか嬉しいでしょう!」と私は答えた。

 西洋人は平常の倍も亢奮して、双眼鏡を覗いた。

 ところが! 到頭その奇蹟がはじまったのである。

 ――おお! いました、いました!」と西洋人は突如叫んだ。「あすこに見える。正しく彼女だ! 髪や着物迄何一つ異いはしない。今度こそ見逃すものか!」

 私も遉にギクリとした。

 ――いましたか!? ほんとうですか? 何処にいました?」

 ミハエルは感動のあまり、我を忘れて籠から半ば体を乗り出した。私はおどろいて、それを抱き止めた。

 ――おお、地上の宝よ! 私の生命よ!」ミハエルは叫ぶのである。

 ――どれどれ! 何処にいるのですか? 私にも見せて下さい。」と私は云った。

 ミハエルは漸く私に双眼鏡を手渡しながら早口に説明した。

 ――すぐ下です。博覧会の真中です。大きな赤い旗と緑色の天幕との間にある象の形をした建物の前です。印袢天を着た男達の中にたった一人まじっている女がそうです。……わかりましたか?」

 私は彼の云うが儘に焦点を定めた。すると果して一人の美しい女の顔を発見することが出来た。だが、よくよく見るならば、ああ! 私はそこで危く双眼鏡を取り落とすところであった。

 何故と云って――私の見出したところのその美しいミハエルの恋人たるや、何と今しも印袢天を着た会場整理の人足共に依って擔ぎ出された、何処か呉服屋でも出品したらしい飾り付け人形であったではないか!

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