小泉純一は芝日蔭町 （ しばひかげちょう ） 停留場 （ ていりゅうば ） 須田町 （ すだちょう ） 追分 （ おいわけ ） 根津権現 （ ねづごんげん ） 袖浦館 （ そでうらかん ）
此処 （ ここ ） 辿 （ たど ） 処 （ ところ ） 擬西洋造 （ まがいせいようづくり ） 入口 （ いりくち ） 鴨居 （ かもい ） 嵌 （ は ）
純一は立ち留まって名前を読んで見た。自分の捜す大石狷太郎 （ けんたろう ） 襷 （ たすき ） 上 （ あが ） 口 （ くち ） 雑巾 （ ぞうきん ） 所 （ ところ ）
「大石さんにお目に掛りたいのだが」
田舎から出て来た純一は、小説で読み覚えた東京詞 （ ことば ） 不慣 （ ふなれ ）
雑巾を掴 （ つか ） 小女 （ こおんな ） 孵 （ かえ ） 雛 （ ひよこ ） 薩摩絣 （ さつまがすり ） 袷 （ あわせ ） 小倉 （ こくら ） 袴 （ はかま ） 穿 （ は ） 被物 （ かぶりもの ） 茶褐 （ ちゃかつ ） 当前 （ あたりまえ ） 昨夕 （ ゆうべ ）
「大石さんの所 （ とこ ） 午 （ ひる ） 寐 （ ね ）
「それじゃあ、少し散歩をしてから、又来るよ」
「ええ。それが好うございます」
純一は権現前の坂の方へ向いて歩き出した。二三歩すると袂 （ たもと ） 通 （ とおり ） 擦 （ す ） 往来 （ ゆきき ） 外囲 （ そとがこい ） 傍 （ そば ） 生垣 （ いけがき ） 繞 （ めぐ ） 綺麗 （ きれい ）
広い道を歩くものが自分ひとりになると共に、この頃の朝の空気の、毛髪の根を緊縮させるような渋み味を感じた。そして今小女に聞いた大石の日常の生活を思った。国から態々 （ わざわざ ） 逢 （ あ ） 朧気 （ おぼろげ ） 輪廓 （ りんかく ） 傷 （ きずつ ） 景仰 （ けいこう ） 畏怖 （ いふ ）
坂の上に出た。地図では知れないが、割合に幅の広いこの坂はＳの字をぞんざいに書いたように屈曲して附いている。純一は坂の上で足を留めて向うを見た。
灰色の薄曇をしている空の下に、同じ灰色に見えて、しかも透き徹 （ とお ） 向 （ むこ ） 岡 （ おか ） 群 （ むれ ） 大 （ おおき ） 暫 （ しばら ）
坂を降りて左側の鳥居を這入 （ はい ） 花崗岩 （ みかげいし ） 行 （ ゆ ） 磬 （ けい ） 好 （ い ） 剥 （ は ） 随身門 （ ずいじんもん ） 瑞籬 （ たまがき ） 祖母様 （ ばあさま ） 錦絵 （ にしきえ ） 屏風 （ びょうぶ ） 瑞垣 （ たまがき ） 絆纏 （ ばんてん ） 負 （ おぶ ） 手拭 （ てぬぐい ） 竦 （ すく ） 溝 （ みぞ ） 常磐木 （ ときわぎ ） 雑 （ まじ ） 厭 （ いや ）
藪下 （ やぶした ） 九尺二間 （ くしゃくにけん ） 冠木門 （ かぶきもん ） 不恰好 （ ぶかっこう ） 釘附 （ くぎづけ ） 大分 （ だいぶ ）
爪先上 （ つまさきあ ） 崖 （ がけ ） 籠塀 （ かごべい ） 鴎村 （ おうそん ） 一寸 （ ちょっと ） 駒寄 （ こまよせ ） 覗 （ のぞ ）
干からびた老人の癖に、みずみずしい青年の中にはいってまごついている人、そして愚痴と厭味とを言っている人、竿 （ さお ） 紐尺 （ ひもじゃく ） 咬 （ か ） 潰 （ つぶ ） 炭薪 （ すみまき ） 身顫 （ みぶるい ）
四辻 （ よつつじ ） 胡坐 （ あぐら ） 的 （ あて ）
時計を出して見れば、まだ八時三十分にしかならない。まだなかなか大石の目の醒 （ さ ） 好 （ い ） 穢 （ きた ） 塩煎餅 （ しおせんべい ） 開戸 （ ひらきど ） 開 （ あ ） 勾配 （ こうばい ） 芥 （ ごみ ） 淀 （ よど ） 瘠 （ や ） 哀 （ あわれ ）
曲りくねって行 （ ゆ ） 小川 （ こがわ ） 田圃 （ たんぼ ） 疎 （ まばら ） 辺 （ あたり ）
ふいと墓地の横手を谷中 （ やなか ） 廻 （ まわ ） 佇立 （ ちょりゅう ）
さっきから坂を降りて来るのが、純一が視野のはずれの方に映っていた、書生風の男がじき傍まで来たので、覚えず顔を見合せた。
「小泉じゃあないか」
先方から声を掛けた。
「瀬戸か。出し抜けに逢ったから、僕はびっくりした」
「君より僕の方が余 （ よ ） 程 （ ぽど ） 何時 （ いつ ）
「ゆうべ着いたのだ。やっぱり君は美術学校にいるのかね」
「うむ。今学校から来たのだ。モデルが病気だと云って出て来ないから、駒込 （ こまごめ ） 行 （ い ）
「そんな自由な事が出来るのかね」
「中学とは違うよ」
純一は一本参ったと思った。瀬戸速人 （ はやと ）
「どこがどんな処だか、分からないから為方 （ しかた ）
純一は厭味気 （ いやみけ ） 往 （ い ） 幸 （ さいわい ） 瞳 （ ひとみ ） 頗 （ すこぶ ）
この時十七八の、不断着で買物にでも行 （ い ） 廂髪 （ ひさしがみ ） 愛敬 （ あいきょう ） 好 （ い ）
「君はどこへ行 （ い ）
「路花 （ ろか ） 辺 （ へん ）
「大石路花か。なんでもひどく無愛想な奴だということだ。やっぱり君は小説家志願でいるのだね」
「どうなるか知れはしないよ」
「君は財産家だから、なんでも好きな事を遣 （ や ） 好 （ い ）
「うむ。君が東京へ出てから中学へ来た田中という先生があるのだ。校友会で心易くなって、僕の処へ遊びに来たのだ。その先生が大石の同窓だもんだから、紹介状を書いて貰った」
「そんなら好かろう。随分話のしにくい男だというから、ふいと行ったって駄目だろうと思ったのだ。もうそろそろ十時になるだろう。そこいらまで一しょに行 （ い ）
二人は又狭い横町を抜けて、幅の広い寂しい通を横切って、純一の一度渡った、小川に掛けた生木 （ なまき ） 千駄木下 （ せんだぎした ） 藍染橋 （ あいそめばし ） 杙 （ くい ） 仮名違 （ かなちがい ） 行 （ ゆ ）
「どこにいるのだい」
「まだ日蔭町の宿屋にいる」
「それじゃあ居所が極 （ き ）
瀬戸は名刺を出して、動坂 （ どうざか ）
「僕はここにいる。君は路花の処へ入門するのかね。盛んな事を遣って盛んな事を書いているというじゃないか」
「君は読まないか」
「小説はめったに読まないよ」
二人は藪下へ出た。瀬戸が立ち留まった。
「僕はここで失敬するが、道は分かるかね」
「ここはさっき通った処だ」
「それじゃあ、いずれその内」
「左様 （ さよう ）
瀬戸は団子坂 （ だんござか ）
二階の八畳である。東に向いている、西洋風の硝子窓 （ ガラスまど ） 向側 （ むこうがわ ） 支那 （ しな ） 印度 （ インド ） 籐 （ とう ） 廉 （ やす ） 羅氈 （ らせん ）
テエブルの足を切ったような大机が、東側の二つの窓の間の処に、少し壁から離して無造作に据えてある。何故 （ なぜ ） 目 （ ま ） 濡手 （ ぬれて ） 洗濯 （ せんだく ） 好 （ い ）
大石は今顔を洗って帰って来て、更紗 （ さらさ ） 薬鑵 （ やかん ） 敷島 （ しきしま ） 汁椀 （ しるわん ） 側 （ そば ）
「御飯を上がるのだと申しましたら、それでは待っていると仰 （ おっ ）
大石は黙って頷 （ うなず ） 傍 （ そば ） 填 （ うず ） 外 （ ほか ） 出 （ い ） 容喙 （ ようかい ） 中 （ うち ） 起 （ た ）
「お客様をお通し申しましょうか」
「うむ、来ても好 （ い ）
返事はしても、女中の方を見もしない。随分そっけなくして、笑談 （ じょうだん ） 附届 （ つけとどけ ） 銘撰 （ めいせん ） 白縮緬 （ しろちりめん ）
大石が東京新聞を見てしまって、傍に畳 （ かさ ） 拾読 （ ひろいよみ ） 縞 （ しま ）
「近藤時雄です」
鋭い目の窪 （ くぼ ） 尖 （ とが ） 湛 （ たた ） 名告 （ なの ）
「僕が大石です」
目を挙げて客の顔を見ただけで、新聞は手から置かない。用があるなら、早く言ってしまって帰れとでも云いそうな心持が見える。それでも、近藤の顔に初め見えていた微笑は消えない。主人が新聞を手から置くことを予期しないと見える。そしてあらゆる新聞雑誌に肖像の載せてある大石が、自分で名を名告ったのは、全く無用な事であって、その無用な事をしたのは、特に恩恵を施してくれたのだ位に思っているのかも知れない。
「先生。何かお話は願われますまいか」
「何の話ですか」
新聞がやっと手を離れた。
「現代思想というようなお話が伺われると好 （ い ）
「別に何も考えてはいません」
「しかし先生のお作に出ている主人公や何ぞの心持ですな。あれをみんなが色々に論じていますが、先生はどう思っていらっしゃるか分らないのです。そういう事をお話なすって下さると我々青年は為合 （ しあわ ） 片端 （ かたはし ） 宜 （ よろ ）
近藤は頻 （ しき ） 亮 （ あきら ）
「好 （ い ） 通 （ とおり ）
近藤は肉薄した。
「どうでしょう、先生、願われますまいか」
梯子 （ はしご ） 霽 （ はれ ）
「僕の書く人物に就いて言われるだけの事は、僕は小説で言っている。その外に何があるもんかね。僕はこの頃長い論文なんかは面倒だから読まないが、一体僕の書く人物がどうだと云っているかね」
始めて少し内容のあるような事を言った。それに批評家が何と云っていると云うことを、向うに話させれば、勢 （ いきおい ） 無垢 （ むく ） 韁 （ たづな ）
「批評家は大体こう云うのです。先生のお書になるものは真の告白だ。ああ云う告白をなさる厳粛な態度に服する。Aurelius （ オオレリアス ） Augustinus （ オオガスチヌス ） Jean （ ジャン ） Jaques （ ジャック ） Rousseau （ ルソオ ）
「難有 （ ありがた ） Augustinus （ オオガスチヌス ） 基督 （ クリスト ） fanatic （ ファナチック ） 懺悔 （ ざんげ ） Rousseau （ ルソオ ） 伊太利 （ イタリイ ） 別品 （ べっぴん ） 行 （ い ）
「ええ。それがえらいと云うのです。地獄はみんなが買います。地獄を買っていて、己 （ おれ ）
「それじゃあ地獄を買わない奴は、厳粛な態度は取れないと云うのかね」
「そりゃあ地獄も買うことの出来ないような偏屈な奴もありましょう。買っていても、矯飾して知らない振をしている奴もありましょう。そういう奴は内生活が貧弱です。そんな奴には芸術の趣味なんかは分かりません。小説なんぞは書けません。懺悔の為様がない。告白をする内容がない。厳粛な態度の取りようがないと云うのです」
「ふん。それじゃあ偏屈でもなくって、矯飾もしないで、芸術の趣味の分かる、製作の出来る人間はいないと云うのかね」
「そりゃあ、そんな神のようなものが有るとも無いとも、誰 （ たれ ）
「人間は皆地獄を買うのかね」
「先生。僕を冷かしては行 （ い ）
「冷かしなんぞはしない」大石は睫毛 （ まつげ ）
帳場のぼんぼん時計が、前触 （ まえぶれ ） 鍋 （ なべ ） 大業 （ おおぎょう ） 留所 （ とめど ）
近藤は気の附いたような様子をして云った。
「お邪魔をいたしました。又伺います」
「さようなら。こっちのお客が待たせてあるから、お見送りはしませんよ」
「どう致しまして」近藤は席を立った。
大石は暫くじっと純一の顔を見ていて、気色 （ けしき ）
「君ひどく待たせたねえ。飯前じゃないか」
「まだ食べたくありません」
「何時に朝飯を食ったのだい」
「六時半です」
「なんだ。君のような壮 （ さか ） 午 （ ひる ） 嘘 （ うそ ）
語気が頗る鋭い。純一は一寸不意に出られてまごついたが、主人の顔を仰いでいる目は逸 （ そら ） 中 （ うち ） 空辞儀 （ からじぎ ） 行 （ い ） 籠 （ こ ）
「僕が悪うございました。食べたくないと云ったのは嘘です」
「はははは。君は素直で好 （ い ） 旨 （ うま ）
誂 （ あつら ） 初 （ はじめ ） 呑 （ の ） 迹 （ あと ） 考 （ かんがえ ） 一人 （ いちにん ） 何処 （ どこ ） attribute （ アトリビュウト ） 須 （ もち ）
飯が済んで、女中が膳を持って降りた。その時大石はついと立って、戸棚から羽織を出して着ながらこう云った。
「僕は今から新聞社に行くから、又遊びに来給え。夜は行 （ い ）
机の上の書類を取って懐 （ ふところ ） 長押 （ なげし ） 転瞬倏忽 （ てんしゅんしゅくこつ ） 呆 （ あき ） 攫 （ つか ） 後 （ あと ）
初めて大石を尋ねた翌日の事である。純一は居所を極めようと思って宿屋を出た。
袖浦館を見てから、下宿屋というものが厭になっているので、どこか静かな処 （ ところ ）
博物館の門に突き当って、根岸の方へ行 （ ゆ ） 暫 （ しばら ）
今日も風のない好 （ い ） 銀杏 （ いちょう ） 初音町 （ はつねちょう ）
人通りの少い広々とした町に、生垣を結い繞 （ めぐ ） 自然木 （ しぜんぼく ） 門柱 （ もんばしら ） 柴折戸 （ しおりど ）
純一がその門の前に立ち留まって、垣の内を覗いていると、隣の植木鉢を沢山入口 （ いりくち ） 白髪 （ しらが ） 倅 （ せがれ ） 娵 （ よめ ） 這入 （ はい ） 借 （ か ） 明家 （ あきや ） 若 （ も ） 好 （ い ）
婆あさんの質樸 （ しつぼく ） 身綺麗 （ みぎれい ） 好 （ い ） 戴 （ いただ ）
「まあ、とにかく御覧なすって下さい」と云って、婆あさんは柴折戸を開けた。純一は国のお祖母 （ ば ） 巌乗 （ がんじょう ） 好 （ い ） 蹲 （ つくば ） 手水鉢 （ ちょうずばち ） 茶道口 （ ちゃどうぐち ）
純一は、これまで、茶室というと陰気な、厭な感じが伴うように思っていた。国の家には、旧藩時代に殿様がお出 （ いで ） 拵 （ こしら ） 晴晴 （ はればれ ） 蹂口 （ にじりぐち ）
話はいつ極まるともなく極まったという工合である。一巡 （ ひとまわり ） 鞍馬石 （ くらまいし ） 午 （ ひる ） 好 （ い ） 傍 （ そば ） 苔 （ こけ ） 撮 （ つま ）
隣の植木屋との間は、低い竹垣になっていて、丁度純一の立っている向うの処に、花の散ってしまった萩 （ はぎ ） 円 （ まる ） 雑 （ まじ ） 擡 （ もた ）
婆あさんは純一の視線を辿 （ たど ）
「お客さま」
答を待たない問の調子で娘は云って、にっこり笑った。そして萩の茂みに隠れてしまった。
純一は午後越して来る約束をして、忙がしそうにこの家の門を出た。植木屋の前を通るとき、ダアリアの咲いているあたりを見たが、四枚並べて敷いてある御蔭石 （ みかげいし ）
初音町に引き越してから、一週間目が天長節であった。
瀬戸の処へは、越した晩に葉書を出して、近い事だから直ぐにも来るかと思ったが、まだ来ない。大石の処へは、二度目に尋ねて行って、詩人になりたい、小説が書いて見たいと云う志願を話して見た。詩人は生れるもので、己 （ おれ ） 好 （ い ） 稽古 （ けいこ ） 仮名違 （ かなちがい ） 頓着 （ とんじゃく ） 遣 （ や ） 為事 （ しごと ） 一廉 （ ひとかど ） 刺戟 （ しげき ） 掴 （ つか ） 稍 （ や ） 家主 （ いえぬし ） 植長 （ うえちょう ） 唐机 （ とうづくえ ） 著手 （ ちゃくしゅ ） 好 （ い ）
天長節の朝であった。目が醒 （ さ ） 隙 （ すき ） 塵 （ ちり ） 活溌 （ かっぱつ ） 跳 （ おど ）
純一は国にいるとき、学校へ御真影を拝みに行ったことを思い出した。そしてふいと青山の練兵場 （ ば ）
そのうち婆あさんが朝飯を運んで来たので、純一が食べていると、「お婆あさん」と、優しい声で呼ぶのが聞えた。純一の目は婆あさんの目と一しょに、その声の方角を辿って、南側の戸口の処から外へ、ダアリアの花のあたりまで行くと、この家を借りた日に見た少女の頭が、同じ処に見えている。リボンはやはりクリイム色で容赦なく睜 （ みひら ） 詣 （ まい ） 閾 （ しきい ）
「おや、いらっしゃいまし。安 （ やす ） 直 （ じき ） 一寸 （ ちょっと ）
「往 （ い ）
「ええええ。あちらから廻っていらっしゃいまし」
少女の頭は萩の茂みの蔭に隠れた。婆あさんは純一に、少女が中沢という銀行頭取の娘で、近所の別荘にいるということ、娵の安がもと別荘で小間使をしていて娘と仲好 （ なかよし ）
その隙 （ ひま ）
婆あさんが、「この方が今度越していらっしゃった小泉さんという方でございます」というと、お雪さんは黙ってお辞儀をして、純一の顔をじいっと見て立っている。着物も羽織もくすんだ色の銘撰 （ めいせん ） 八口 （ やつくち ） 緋縮緬 （ ひぢりめん ） 襦袢 （ じゅばん ） 飜 （ こぼ ）
飲み掛けた茶を下に置いて、これも黙ってお辞儀をした純一の顔は赤くなったが、お雪さんの方は却 （ かえ ） 稍々 （ やや ） 逼 （ せま ） 戦 （ たたかい ）
純一は何とか云わなくてはならないと思ったが、どうも詞 （ ことば ）
「お嬢様は好く画を見にいらっしゃいましたが、小泉さんは御本をお読みなさるのですから、折々いらっしゃって御本のお話をお聞きなさいますと宜しゅうございます。御本のお話はお好きでございましょう」
「ええ」
純一は、「僕は本は余り読みません」と云った。言って了 （ しま ） 気色 （ けしき ） 湛 （ たた ）
その微笑が又純一には気になった。それはどうも自分を見下 （ みくだ ）
純一はどうにかして名誉を恢復 （ かいふく ）
「どうです。少しお掛なすっては」
「難有 （ ありがと ）
右の草履が碾磑 （ ひきうす ） 皴 （ しゅん ） 沓脱 （ くつぬぎ ） 一捩 （ ひとねじ ）
諺 （ ことわざ ） 目映 （ まぶ ） 眉刷毛 （ まゆばけ ） 細面 （ ほそおもて ） 斜 （ ななめ ） 掠 （ かす ）
「あなたお国からいらっしった方のようじゃあないわ」
純一は笑いながら顔を赤くした。そして顔の赤くなるのを意識して、ひどく忌々しがった。それに出し抜けに、美中に刺 （ し ） 浴 （ あび ） 怪 （ け ）
婆あさんはお鉢を持って、起 （ た ）
垣の外を、毛皮の衿 （ えり ） 外套 （ がいとう ）
とうとう婆あさんが膳を下げに来るまで、純一は何の詞をも見出 （ みいだ ） 見競 （ みくら ） 大相 （ たいそう ） 静 （ しずか ）
蹲の向うの山茶花 （ さざんか ） 解 （ ほど ）
「雀が水を飲んでいますね」
「黙っていらっしゃいよ」
純一は起って閾際まで出た。雀はついと飛んで行った。お雪さんは純一の顔を仰いで見た。
「あら、とうとう逃がしておしまいなすってね」
「なに、僕が来なくたって逃げたのです」大分遠慮は無くなったが、下手な役者が台詞 （ せりふ ）
「そうじゃないわ」詞遣は急劇に親密の度を加えて来る。少し間を置いて、「わたし又来てよ」と云うかと思うと、大きい目の閃 （ ひらめき ）
純一は机の上にある仏蘭西 （ フランス ） 初 （ はじめ ） 暁星 （ ぎょうせい ） 巴里 （ パリイ ）
開けた処には、セガンチニの死ぬるところが書いてある。氷山を隣に持った小屋のような田舎屋である。ろくな煖炉 （ だんろ ） 瀕 （ ひん ） 停 （ とど ） 巓 （ いただき ）
純一は巻を掩 （ おお ） 画 （ え ） 好 （ い ） 蔦蘿 （ つたかずら ） 甲斐 （ かい ）
今東京で社会の表面に立っている人に、国の人は沢山ある。世はＹ県の世である。国を立つとき某元老に紹介して遣ろう、某大臣に紹介して遣ろうと云った人があったのを皆ことわった。それはそういう人達がどんなに偉大であろうが、どんなに権勢があろうが、そんな事は自分の目中 （ もくちゅう ） 開 （ あ ） 容 （ い ）
自分は東京に来ているには違ない。しかしこんなにしていて、東京が分かるだろうか。こうしていては国の書斎にいるのも同じ事ではあるまいか。同じ事なら、まだ好 （ い ） 留 （ とど ） 為 （ し ） 行 （ ゆ ）
そう思い立ってから語学を教えて貰っている教師のベルタンさんに色々な事を問うて見たが、この人は巴里の空気を呼吸していた人の癖に、そんな方面の消息は少しも知らない。本業で読んでいる筈 （ はず ） 啻 （ ただ ） 観 （ み ） 楽 （ たのし ） 煩瑣 （ はんさ ） 偶々 （ たまたま ） 謂 （ い ） 珈琲卓 （ コオフィイづくえ ） 一人 （ いちにん ） 厭 （ いや ） 思 （ おもい ） 書肆 （ しょし ）
こんな事を思っている内に、故郷の町はずれの、田圃 （ たんぼ ） 不恰好 （ ぶかっこう ） 瓦 （ かわら ） 百合 （ ゆり ） 季 （ すえ ） 覚束 （ おぼつか ） 胡蘿蔔 （ にんじん ） 瘠 （ や ）
その奥の、搏風 （ はふ ） 賽 （ まがい ） 行 （ ゆ ） 稍 （ やや ） 彼処 （ かしこ ） 埃 （ ほこり ） 鼠 （ ねずみ ）
ベルタンさんは長崎から買って来たという大きいデスクに、千八百五十何年などという年号の書いてある、クロオスの色の赤だか黒だか分からなくなった書物を、乱雑に積み上げて置いている。その側には食い掛けた腸詰や乾酪 （ かんらく ） Figaro （ フィガロ ） 反古 （ ほご ） 被 （ かぶ ） 虎斑 （ とらふ ） 匀 （ におい ） 嗅 （ か ）
その向うに、茶褐色の長い髪を、白い広い額から、背後 （ うしろ ） 掻 （ か ） 祖父 （ じい ） 誰 （ たれ ） 松真木 （ まつまき ） 燻 （ くすぶ ）
或日稽古の時間より三十分ばかり早く行ったので、ベルタンさんといろいろな話をした。その時教師がお前は何になる積りかと問うたので、正直に Romancier （ ロマンシェエ ） 好 （ い ）
純一は読み掛けた雑誌も読まずにこんな回想に耽 （ ふけ ） 頻 （ しき ）
天長節の日の午前はこんな風で立ってしまった。婆あさんの運んで来た昼食 （ ひるしょく ） 速人 （ はやと ）
婆あさんが倅の長次郎に白 （ しら ） 持 （ も ） 好 （ い ） 周囲 （ まわり ） 皺 （ しわ ） 家主 （ いえぬし ） 最少 （ もすこ ） 艶々 （ つやつや ）
「ひどくしゃれた内を見附けたもんだなあ」
「そうかねえ」
「そうかねえもないもんだ。一体君は人に無邪気な青年だと云われる癖に、食えない人だよ。田舎から飛び出して来て、大抵の人間ならまごついているんだが、誰 （ だれ ）
「君、東京は百年前にはなかったよ」
「それだ。君のそう云う方面は馬鹿な奴には分からないのだ。君はずるいよ」
瀬戸は頻りにずるいよを振り廻して、純一の知己を以て自ら任じているという風である。それからこんな事を言った。今日の午後は暇なので、純一がどこか行きたい処でもあるなら、一しょに行っても好 （ い ） 倶楽部 （ クラブ ） 極 （ ごく ） 拊石 （ ふせき ）
純一は画なんぞを見るには、分かっても分からなくても、人と一しょに見るのが嫌 （ きらい ）
二人は初音町を出て、上野の山をぶらぶら通り抜けた。博物館の前にも、展覧会の前にも、馬車が幾つも停めてある。精養軒の東照宮の方に近い入口の前には、立派な自動車が一台ある。瀬戸が云った。
「汽車はタアナアがかいたので画になったが、まだ自動車の名画というものは聞かないね」
「そうかねえ。文章にはもう大分あるようだが」
「旨 （ うま ）
「小説にも脚本にも沢山書いてあるのだが、只使ってあるというだけのようだ。旨く書いたのはやっぱりマアテルリンクの小品位のものだろう」
「ふん。一体自動車というものは幾ら位するだろう」
「五六千円から、少し好 （ い ）
「それじゃあ、僕なんぞは一生画をかいても、自動車は買えそうもない」
瀬戸は火の消えた朝日を、人のぞろぞろ歩いている足元へ無遠慮に投げて、苦笑をした。笑うとひどく醜くなる顔である。
広小路に出た。国旗をぶっちがえにして立てた電車が幾台も来るが、皆満員である。瀬戸が無理に人を押し分けて乗るので、純一も為方なしに附いて乗った。
須田町で乗り換えて、錦町で降りた。横町へ曲って、赤煉瓦の神田区役所の向いの処に来ると、瀬戸が立ち留まった。
この辺には木造のけちな家ばかり並んでいる。その一軒の庇 （ ひさし ） 羅馬 （ ロオマ ） DIDASKALIA （ ジダスカリア ） 竪 （ たて ）
「ここだよ。二階へ上がるのだ」
瀬戸は下駄や半靴の乱雑に脱ぎ散らしてある中へ、薩摩下駄を跳ね飛ばして、正面の梯子 （ はしご ） 行 （ い ） 背後 （ うしろ ） 二十 （ はたち ） 蒼 （ あお ） 赧顔 （ あからがお ） 襷 （ たすき ） 膝 （ ひざ ） 褌 （ ふんどし ） 轡虫 （ くつわむし ）
二階は広くてきたない。一方の壁の前に、卓 （ テエブル ） 泣菫 （ きゅうきん ） 所謂 （ いわゆる ） 乾反葉 （ ひそりば ）
十四五人ばかりの客が、二つ三つの火鉢を中心にして、よごれた座布団の上にすわっている。間々にばら蒔 （ ま ）
客は大抵紺飛白 （ こんがすり ） 小倉袴 （ こくらばかま ）
会話は大分盛んである。
丁度純一が上がって来たとき、上 （ あが ） 口 （ くち ） 一群 （ ひとむれ ） 誰 （ たれ ） 声高 （ こわだか ）
「とにかく、君、ライフとアアトが別々になっている奴は駄目だよ」
純一は知れ切った事を、仰山らしく云っているものだと思いながら、瀬戸が人にでも引き合わせてくれるのかと、少し躊躇 （ ちゅうちょ ） 忙 （ せわ ）
この群では、識 （ し ）
話題に上っているのは、今夜演説に来る拊石である。老成らしい一人 （ いちにん ） 列 （ なら ） 嫌 （ いや ） 纏 （ まと ） 痩男 （ やせおとこ ） 傍 （ そば ） 喙 （ くちばし ）
「それでも教員を罷 （ や ）
「分かるもんか」
目金 （ めがね ）
今まで黙っている一人の怜悧 （ れいり ）
「しかし教員を罷めただけでも、鴎村なんぞのように、役人をしているのに比べて見ると、余程芸術家らしいかも知れないね」
話題は拊石から鴎村に移った。
純一は拊石の物などは、多少興味を持って読んだことがあるが、鴎村の物では、アンデルセンの飜訳 （ ほんやく ） 暇潰 （ ひまつぶ ）
会話はいよいよ栄 （ さか ） 笑声 （ わらいごえ ） 雑 （ まじ ）
「厭味だと云われるのが気になると見えて、自分で厭味だと書いて、その書いたのを厭味だと云われているなんぞは、随分みじめだね」と、怜悧らしい男が云って、外の人と一しょになって笑ったのだけが、偶然純一の耳に止まった。
純一はそれが耳に止まったので、それまで独 （ ひとり ） 極 （ き ） 敢 （ あえ ） 無頓着 （ むとんちゃく ） 客観 （ かくかん ）
瀬戸が座敷の奥の方から、「小泉君」と呼んだ。純一がその方を見ると、瀬戸はもう初めの所にはいない。隅の方に、子供の手習机を据えて、その上に書類を散らかしている男と、火鉢を隔てて、向き合っているのである。
席を起ってそこへ行って見れば、机の上には一円札やら小さい銀貨やらが、書類の側に置いてある。純一はそこで七十銭の会費を払った。
「席料と弁当代だよ」瀬戸は純一にこう云って聞せながら、机を構えている男に、「今日は菓子は出ないのかい」と云った。
まだ返辞をしないうちに、例の赭顔の女中が大きい盆に一人前 （ ひとりまえ ）
配ってしまうと、大きい土瓶に番茶を入れたのを、所々に置いて行 （ ゆ ）
純一が受け取った菓子を手に持ったまま、会計をしている人の机の傍にいると、「おい、瀬戸」と呼び掛けられて、瀬戸は忙がしそうに立って行った。呼んだのは、初め這入ったとき瀬戸が話をしていた男である。髪を長く伸 （ のば ）
人が次第に殖えて来て、それが必ずこの机の傍に来るので、純一は元の席に帰った。余り上 （ あが ） 口 （ ぐち ） 袂 （ たもと ）
「畳が驚くでしょう」
こう云って茶碗の主は、純一が銀座のどこやらの店で、ふいと一番善いのをと云って買った、フランドルのバチストで拵 （ こしら ） 注 （ つ ） 倚 （ よ ）
一寸 （ ちょっと ） 遣 （ や ）
純一はこう云って、名刺を学生にわたした。学生は、「名刺があったかしらん」とつぶやきながら隠しを探って、小さい名刺を出して純一にくれた。大村荘之助としてある。大村はこう云った。
「僕は医者になるのだが、文学好だもんだから、折々出掛けて来ますよ。君は外国語は何を遣っています」
「フランスを少しばかり習いました」
「何を読んでいます」
「フロオベル、モオパッサン、それから、ブウルジェエ、ベルジックのマアテルリンクなんぞを些 （ すこし ）
「らくに読めますか」
「ええ。マアテルリンクなんぞは、脚本は分りますが、論文はむつかしくて困ります」
「どうむつかしいのです」
「なんだか要点が掴 （ つか ）
「そうでしょう」
大村の顔を、微 （ かす ） 掠 （ かす ） 嘲 （ あざけり ） 何故 （ なにゆえ ） 画 （ えが ） 巌 （ いわ ） 独逸 （ ドイツ ） 咄嗟 （ とっさ ） 己 （ おれ ） 流 （ ながれ ） 瞳 （ ひとみ ） 透 （ とお ）
この時梯子の下で、「諸君、平田先生が見えました」と呼ぶ声がした。平田というのは拊石の氏 （ うじ ）
幹事らしい男に案内せられて、梯子を登って来る、拊石という人を、どんな人かと思って、純一は見ていた。
少し古びた黒の羅紗服 （ らしゃふく ） 継子 （ ままこ ） 八字髭 （ はちじひげ ） 上向 （ うえむき ） 捩 （ ね ）
拊石は上 （ あが ） 口 （ ぐち ）
「どうも持って行って見て戴くようなものは出来ません」
「ちっと無遠慮に世間へ出して見給え。活字は自由になる世の中だ」
「余り自由になり過ぎて困ります」
「活字は自由でも、思想は自由でないからね」
緩 （ ゆるや ） 詞附 （ ことばつき ）
拊石は会計掛の机の側へ案内せられて、座布団の上へ胡坐 （ あぐら ） 呑 （ の ） 卓 （ たく ）
拊石は不精らしく体を卓の向うへ運んだ。方々の話声の鎮まるのを、暫 （ しばら ）
「諸君からイブセンの話をして貰いたいという事でありました。わたくしもイブセンに就いて、別に深く考えたことはない。イブセンに就いてのわたくしの智識は、諸君の既に有しておられる智識以上に何物もあるまいと思う。しかし知らない事を聞くのは骨が折れる。知っていることを聞くの気楽なるに如 （ し ）
こんな調子である。声色 （ せいしょく ） 雪嶺 （ せつれい ） 訥弁 （ とつべん ） 中 （ うち ）
大分話が進んで来てから、こんな事を言った。「イブセンは初め諾威 （ ノオルウェイ ） 欧羅巴 （ ヨオロッパ ） 跳 （ おど ） 弄 （ もてあそ ） 入 （ い ） 剛 （ こわ ） 山鹿素行 （ やまがそこう ）
それから新しい事でもなんでもないが、純一がこれまで蓄えて持っている思想の中心を動かされたのは拊石が諷刺 （ ふうし ） 忽然 （ こつぜん ） 先 （ ま ） 縛 （ いましめ ） 所謂 （ いわゆる ） 閲 （ けみ ） 棹 （ さお ） Peer （ ペエル ） Gynt （ ギント ） 放縦 （ ほうじゅう ） 行 （ ゆ ） Brand （ ブラント ） 索 （ つな ） 泥土 （ でいど ） 委 （ ゆだ ） 拘 （ かかわ ） 舳先 （ へさき ） 旋 （ めぐ ） 溯 （ さかのぼ ） 耽 （ ふけ ）
譬 （ たと ） 掻 （ か ） 固 （ もと ）
純一はこの雑音を聞いているうちに、ふと聴衆の動揺を感じて、殆ど無意識に耳を欹 （ そばだ ）
「ゾラの Claude （ クロオド ） 藪睨 （ やぶにらみ ） 悉皆 （ しっかい ） 出 （ い ） 行 （ ゆ ） 遵奉 （ じゅんぽう ） 一言 （ いちげん ） Autonomie （ オオトノミイ ）
拊石はこう云ってしまって、聴衆は結論だかなんだか分らずにいるうちに、ぶらりとテエブルを離れて前に据わっていた座布団の上に戻った。
あちこちに拍手するものがあったが、はたが応ぜないので、すぐに止 （ や ）
幹事が閉会を告げた。
下女が鰻飯 （ うなぎめし ） 丼 （ どんぶり ） 縛 （ いましめ ）
幹事が拊石を送り出すを相図に、会員はそろそろ帰り始めた。
純一が梯子段の処に立っていると、瀬戸が忙 （ いそが ）
「君、もうすぐに帰るか」
「帰る」
「それじゃあ、僕は寄って行 （ い ）
門口 （ かどぐち ） 行 （ ゆ ）
純一が小川町 （ おがわまち ） 背後 （ うしろ ） 大股 （ おおまた ）
「君はどっちへ帰るのです」
「谷中にいます」
「瀬戸は君の親友ですか」
「いいえ。親友というわけではないのですが、国で中学を一しょに遣ったものですから」
なんだか言いわけらしい返事である。血色の好 （ い ） 巌乗 （ がんじょう ）
両側の店にはもう明りが附いている。少し風が出て、土埃 （ ほこり ）
「僕は少し歩こうと思います」
「元気だねえ。それじゃあ、僕も不精をしないで歩くとしようか。しかし君は本郷へ廻っては損でしょう」
「いいえ。大した違いはありません」
又暫く詞が絶えた。大村が歩度を加減しているらしいので、純一はなるたけ大股に歩こうとしている。しかし純一は、大村が無理をして縮める歩度は整っているのに、自分の強いて伸べようとする歩度は乱れ勝になるように感ずるのである。そしてそれが歩度ばかりではない。只なんとなく大村という男の全体は平衡を保っているのに、自分は動揺しているように感ずるのである。
この動揺の性質を純一は分析して見ようとしている。ところが、それがひどくむずかしい。先頃大石に逢った時を顧みれば、彼を大きく思って、自分を小さく思ったに違いない。しかし彼が何物をか有しているとは思わない。自分も相応に因襲や前極めを破壊している積りでいたのに、大石に逢って見れば、彼の破壊は自分なんぞより周到であるらしい。自分も今一洗濯 （ ひとせんたく ） 然 （ しか ） 髣髴 （ ほうふつ ）
「一体新人というのは、どんな人を指して言うのでしょう」
大村は純一の顔をちょいと見た。そして目と口との周囲に微笑の影が閃 （ ひらめ ）
「さっき拊石さんがイブセンを新しい人だと云ったから、そう云うのですね。拊石さんは妙な人ですよ。新人というのが嫌いで、わざわざ新しい人と云っているのです。僕がいつか新人と云うと、新人とは漢語で花娵 （ はなよめ ）
話が横道へ逸 （ そ ）
「なる程旧人と新人ということは、女の事にばかり云ってあるようですね。そんなら僕も新しい人と云いましょう。新しい人はつまり道徳や宗教の理想なんぞに捕われていない人なんでしょうか。それとも何か別の物を有している人なんでしょうか」
微笑が又閃く。
「消極的新人と積極的新人と、どっちが本当の新人かと云うことになりますね」
「ええ。まあ、そうです。その積極的新人というものがあるでしょうか」
微笑が又閃く。
「そうですねえ。有るか無いか知らないが、有る筈 （ はず ）
「哲学に就いては、少し読んで見ました。哲学その物はなんにも読みません」正直に、躊躇せずに答えたのである。
「そうでしょう」
夕 （ ゆうべ ） 雑沓 （ ざっとう ） 咽喉 （ いんこう ） 扼 （ やく ） 狭隘 （ きょうあい ） 埃 （ ほこり ） 群集 （ ぐんじゅ ） 忙 （ せわ ） 摩 （ す ）
「哲学が幾度建設せられても、その度毎に破壊せられるように、新人も積極的になって、何物かを建設したら、又その何物かに捕われるのではないでしょうか」
「捕われるのですとも。縄が新しくなると、当分当りどころが違うから、縛 （ いましめ ）
「そんなら寧 （ むし ）
「懐疑が安住でしょうか」
純一は一寸窮した。「安住と云ったのは、矛盾でした。つまり永遠の懐疑です」
「なんだか咀 （ のろ ）
「いいえ。懐疑と云ったのも当っていません。永遠に求めるのです。永遠の希求です」
「まあ、そんなものでしょう」
大村の詞はひどく冷澹 （ れいたん ） 温 （ あたたか ） 籠 （ こも ）
「さっき倶楽部でもお話をしたようですが、僕はマアテルリンクを大抵読んで見ました。それから同じ学校にいた友達だというので、Verhaeren （ フェルハアレン ） La （ ラ ） Multiple （ ミュルチプル ） Splendeur （ スプランドヨオル ） 敬虔 （ けいけん ） 解 （ ほど ） 行 （ ゆ ） 通 （ かよ ）
「小さいのですとも。あれは Clique （ クリク ） 恬然 （ てんぜん ）
銘々勝手な事を考えて、二人は本郷の通を歩いた。大村の方では田舎もなかなか馬鹿にはならない、自分の知っている文科の学生の或るものよりは、この独学の青年の方が、眼識も能力も優れていると思うのである。
大学前から、道幅のまだ広げられない森川町に掛かるとき、大村が突然こう云った。
「君、瀬戸には気を着けて交際し給えよ」
「ええ。分かっています。Bohème （ ボエエム ）
「うん。それが分かっていれば好 （ い ）
近いうちに大村の西片町の下宿を尋ねる約束をして、純一は高等学校の角を曲った。
十一月二十七日に有楽座でイブセンの John （ ジョン ） Gabriel （ ガブリエル ） Borkmann （ ボルクマン ）
これは時代思潮の上から観 （ み ） 縦 （ たと ） 旨 （ うま ） 俳諧 （ はいかい ） 勿論 （ もちろん ） 刺戟 （ しげき ） 前 （ ぜん ） 屋鋪町 （ やしきまち ） 肋骨服 （ ろっこつふく ） 佩 （ お ） 衣裳 （ いしょう ）
二十七日の晩に、電車で数寄屋橋 （ すきやばし ） 這入 （ はい ） 揃 （ そろ ）
東京に始めて出来て、珍らしいものに言い囃 （ はや ） 画 （ え ） 駭 （ おどろ ）
純一の席の近処は、女客ばかりであった。左に二人並んでいるのは、まだどこかの学校にでも通っていそうな廂髪 （ ひさしがみ ） 縹色 （ はなだいろ ） 袴 （ はかま ） 菫色 （ すみれいろ ） 穿 （ は ） skunks （ スカンクス ）
純一が座に着くと、何やら首を聚 （ あつ ） 胡桃 （ くるみ ） 噬 （ か ） 凄 （ すご ） 黒目勝 （ くろめがち ） 媚 （ こび ） 誰 （ たれ ） 良 （ や ）
「そら、幕が開 （ あ ） 入 （ い ）
桟敷が闇 （ くら ） 止 （ や ） 惹 （ ひ ） 理窟 （ りくつ ） 倅 （ せがれ ） 脆 （ もろ ） 屏 （ つ ） 煩悶 （ はんもん ）
見物の席がぱっと明るくなった。
「ボルクマン夫人の転がるのが、さぞ可笑 （ おか ）
「ええ。可笑しかなくってよ。とにかく、変っていて面白いわね」と縹色が答えた。
右の奥さんは、幕になるとすぐ立ったが、間もなく襟巻とコオトなしになって戻って来た。空気が暖 （ あたたか ） 鶉縮緬 （ うずらちりめん ） 金春式唐織 （ こんぱるしきからおり ） 膝 （ ひざ ） 指環 （ ゆびわ ）
奥さんの目は又純一の顔に注がれた。
「あなたは脚本を読んでいらっしゃるのでしょう。次の幕はどんな処でございますの」
落ち着いた、はっきりした声である。そしてなんとなく金石 （ きんせき ） 笑 （ えみ ） 詞 （ ことば ）
「こん度の脚本は読みませんが、フランス訳で読んだことがあります。次の幕はあの足音のした二階を見せることになっています」
「おや、あなたフランス学者」奥さんはこう云って、何か思うことあるらしく、にっこり笑った。
丁度この時幕が開いたので、答うることを須 （ もち ）
舞台では檻 （ おり ） 狼 （ おおかみ ） 萌芽 （ ほうが ） 囀 （ さえず ） 可哀 （ かわゆ ） 籠 （ かご ）
「まあ、可哀 （ かわい ） 咡 （ ささや ）
小鳥のようなフリイダが帰って、親鳥の失敗詩人が来る。それも帰る。そこへ昔命に懸けて愛した男を、冷酷なきょうだいに夫にせられて、不治の病に体のしんに食い込まれているエルラが、燭 （ しょく ） 秉 （ と ） 巾 （ きれ ） 爪牙 （ そうが ） 洞窟 （ どうくつ ） 行 （ ゆ ）
又見物の席が明るくなる。ざわざわと、風が林をゆするように、人の話声が聞えて来る。純一は又奥さんの目が自分の方に向いたのを知覚した。
「これからどうなりますの」
「こん度は又二階の下です。もうこん度で、あらかた解決が附いてしまいます」
奥さんに詞を掛けられてから後 （ のち ） 余所 （ よそ ） 項 （ うなじ ） 中 （ あた ） Spiritisme （ スピリチスム ） 周囲 （ まわり ） 背後 （ うしろ ） 誰 （ たれ ） 背後 （ はいご ）
幕が開 （ あ ） 覿面 （ てきめん ） 姑息 （ こそく ） 獣 （ けもの ） 鷸蚌 （ いっぽう ） 獲 （ え ） 情誼 （ じょうぎ ） 数多 （ あまた ） 喝采 （ かっさい ） 萎 （ しお ） 限 （ かぎり ） 橇 （ そり ） 行 （ ゆ ）
この次の幕間 （ まくあい ） 微 （ かすか ） parfum （ パルフュウム ） 匀 （ におい ）
奥さんは振り向いて、目で笑った。純一は何を笑ったとも解 （ かい ）
廊下に出た。純一は人が疎 （ まばら ） 傍 （ そば ） 幾何 （ いくばく ）
「あなたフランス語をなさるのなら、宅に書物が沢山ございますから、見にいらっしゃいまし。新しい物ばかり御覧になるのかも知れませんが、古い本にだって、宜 （ よろ ） 内 （ うち ）
前から識 （ し ） 窘迫 （ きんぱく ）
「わたくしは国から出て参ったばかりで、谷中に家を借りておりますが、本は殆どなんにも持っていないと云っても宜しい位です。もし文学の本がございますのですと、少し古い本で見たいものが沢山ございます」
「そうですか。文学の本がございますの。全集というような物が揃えてございますの。その外は歴史のような物が多いのでしょう。亡くなった主人は法律学者でしたが、その方の本は大学の図書館に納めてしまいましたの」
奥さんが未亡人 （ びぼうじん ） 一寸 （ ちょっと ） 繻珍 （ しゅちん ）
「Ｙ県です」
「おや、それでは亡くなった主人と御同国でございますのね。東京へお出 （ いで ）
「いいえ。折々出ます」
奥さんの名刺には坂井れい子と書いてあった。純一はそれを見ると、すぐ「坂井恒 （ こう ）
「宅を御存じでございましたの」
「いいえ。お名前だけ承知していましたのです」
坂井先生はＹ県出身の学者として名高い人であった。Montesquieu （ モンテスキュウ ） Esprit （ エスプリイ ） des （ デ ） lois （ ロア ） Code （ コオド ） Napoléon （ ナポレオン ） 飜訳 （ ほんやく ） 好 （ い ） 脊髄 （ せきずい ） 噂 （ うわさ ）
噂はそれのみではない。先生は本職の法科大学教授としてよりは、代々の当路者から種々 （ いろいろ ） 一廉 （ ひとかど ） 誰 （ たれ ） villa （ ヴィルラ ） 存生 （ ぞんじょう ） 一 （ いつ ）
純一が青年の空想は、国でこの噂話を聞いた時、種々 （ いろいろ ）
純一は坂井先生の名を聞いていたという返事をして、奥さんの顔を見ると、その顔には又さっきの無意味な、若 （ もし ） 掩 （ おお ） 佇 （ たたず ）
「上へ上がって見ましょうか」と奥さんが云った。
「ええ」
二人は階段を登った。
その時上の廊下から、「小泉君じゃあないか」と声を掛けるものがある。上から四五段目の処まで登っていた純一が、仰向いて見ると、声の主は大村であった。
「大村君ですか」
この返事をすると、奥さんは頤 （ あご ）
純一は大村と階段の上り口に立っている。丁度 Buffet （ ビュッフェエ ）
「好く丁度一しょになったものですね。不思議なようです」
「なに、不思議なものかね。興行は二日しかない。我々は是非とも来る。そうして見ると、二分の一の probabilité （ プロバビリテエ ）
「瀬戸も来ていますかしらん」
「いたようでしたよ」
「これ程立派な劇場ですから、foyer （ フォアイエエ ） 場 （ ば ）
「出来ていないのですよ。先 （ ま ）
純一の左の方にいた令嬢二人が、手を繋 （ つな ） 頻 （ しき ） 種々 （ いろいろ ） 誰 （ たれ ）
それから純一は、大村と話しながら、食堂の入口まで歩いて行って、おもちゃ店 （ みせ ） 暫 （ しばら ） 出入 （ でいり ）
純一が大村に別れて、階段を降りて、自分の席へ行 （ ゆ ） parfum （ パルフュウム ） 香 （ か ） 謎 （ なぞ ）
雪の門口 （ かどぐち ） 開 （ あ ） 跳飛 （ はねと ） 尚 （ なお ） 燈 （ ともしび ） 下 （ もと ） 瞑目 （ めいもく ） 屍 （ かばね ）
出口が込み合うからと思って、純一は暫く廊下に立ち留まって、舞台の方を見ていた。舞台では、一旦卸した幕を上げて、俳優が大詰の道具の中で、大詰の姿勢を取って、写真を写させている。
「左様なら。御本はいつでもお出 （ いで ）
純一が見返る暇に、坂井夫人の後姿は、出口の人込みの中にまぎれ入ってしまった。返事も出来なかったのである。純一は跡を見送りながら、ふいと思った。「どうも己 （ おれ ）
帰るときに気を附けていたが、大村にも瀬戸にも逢はなかった。左隣にいたお嬢さん二人が頻りに車夫の名を呼んでいるのを見た。
純一が日記の断片
十一月三十日。晴。毎日几帳面 （ きちょうめん ） 種々 （ いろいろ ） 好 （ い ） 齷齪 （ あくそく ）
作る。製作する。神が万物を製作したように製作する。これが最初の考えであった。しかしそれが出来ない。「下宿の二階に転がっていて、何が書けるか」などという批評家の詞を見る度に、そんなら世界を周遊したら、誰にでもえらい作が出来るかと反問して遣 （ や ） 怯懦 （ きょうだ ） 萌 （ きざ ） Titanos （ チタノス ） 擲 （ なげう ） 尖 （ とが ） 被 （ かぶ ） 蹙 （ しか ）
そんならどうしたら好 （ い ）
生きる。生活する。
答は簡単である。しかしその内容は簡単どころではない。
一体日本人は生きるということを知っているだろうか。小学校の門を潜 （ くぐ ） 為 （ な ）
現在は過去と未来との間に劃 （ かく ）
そこで己は何をしている。
今日はもう半夜を過ぎている。もう今日ではなくなっている。しかし変に気が澄んでいて、寐 （ ね ）
その今日でなくなった今日には閲歴がある。それが人生の閲歴、生活の閲歴でなくてはならない筈 （ はず ） 徒 （ いたずら ） 留 （ とど ）
しかし己の書いている事は、何を書いているのだか分からない。実は書くべき事が大いにある筈で、それが殆ど無いのである。やはり空虚な数字のみにして置いた方が増しかも知れないと思う位である。
朝は平凡な朝であった。極 （ き ） 祖母 （ ば ） 食物 （ しょくもつ ） 障 （ さわ ）
それから日曜だというので、瀬戸が遣って来た。ひどく知己らしい事を言う。何か己とあの男と秘密を共有していて、それを同心戮力 （ りくりょく ） 隠蔽 （ いんぺい ） 消遣策 （ しょうけんさく ） une （ ユヌ ） direction （ ジレクション ） dominante （ ドミナント ）
己にはかれの要求を満足させることは、さほどむずかしくはなかった。しかし己は中学時代に早く得ている経験を繰り返したくなかった。「君こないだのもまだ返さないで、甚だ済まないが」と云うのは尤 （ もっと ） 難有 （ ありがと ） 振 （ ふる ） 端 （ はし ） 纏 （ まと ） 闕 （ か ） 然 （ しか ） 衝 （ つ ）
つい国を立つすぐ前である。やはりこんな風に心中でとつ置いつした結果、「君これは返さなくても好 （ い ） 潰 （ つぶ ） 好 （ よ ）
己は勇気を出して瀬戸にこう云った。「僕はこれまで悪い経験をしている。君と僕との間には金銭上の関係を生ぜさせたくない。どうぞその事だけは已 （ や ） 廃 （ や ） 却 （ かえっ ）
しかし己はこんな事を書く積りで、日記を開 （ あ ） 不慥 （ ふたしか ） 故 （ ことさ ） 迂路 （ うろ ）
午後から坂井夫人を訪ねて見た。有楽座で識りあいになってから、今日尋ねて行 （ ゆ ） 往 （ い ） 得 （ え ） 邸 （ やしき ） 行 （ ゆ ） pro （ プロウ ） contra （ コントラ ） 容喙 （ ようかい ）
己はあの奥さんの目の奥の秘密が知りたかったのだ。
有楽座から帰ってから、己はあの目を折々思出した。どうかすると半ば意識せずに思い出していて、それを意識してはっと思ったこともある。言わばあの目が己を追い掛けていた。或 （ あるい ） 好 （ い ） 争 （ あらそい ） 顛倒 （ てんどう ） 抗抵 （ こうてい ）
とうとうその抗抵に意志の打ち勝ってしまったのが今日であった。己は根岸へ出掛けた。
家 （ うち ） 苅 （ か ） 櫧 （ かし ） 聳 （ そび ） 門柱 （ もんばしら ） 開 （ あ ） 籠塀 （ かごべい ） 為切 （ しき ） 這入 （ はい ）
通されたのは二階の西洋間であった。一番先に目に附いたのは Watteau （ ワットオ ） gobelins （ ゴブラン ） 園 （ その ） 接吻 （ せっぷん ） 眩 （ まば ） 好 （ い ）
小間使が茶をもて来て、「奥様が直ぐにいらっしゃいます」と云って、出て行った。茶を一口飲んで、書籍の立て並べてある棚の前に行って見た。
書棚の中にある本は大抵己のあるだろうと予期していた本であった。Corneille （ コルネイユ ） Racine （ ラシイヌ ） Molière （ モリエエル ） Voltaire （ ヴォルテエル ） Hugo （ ユウゴオ ）
背革の文字をあちこち見ているところへ、奥さんが出て来られた。
己は謎らしい目を再び見た。己は誰も云いそうな、簡単で平凡な詞 （ ことば ） 女子 （ おんな ）
己は奥さんとどんな会話をしたかを記憶しない。この記憶の消え失せたのはインテレクトの上の余り大きい損耗ではないに違いない。しかし奇妙な事には、己の記憶は決して空虚ではない。談話を忘れる癖に或る単語を覚えている。今一層適切に言えば、言語を忘れて音響を忘れないでいる。或る単語が幾つか耳の根に附いているようなのは、音響として附いているのである。
記憶の今一つの内容は奥さんの挙動である。体の運動である。どうして立っておられたか、どうして腰を掛けられたか、又指の尖 （ さき ） 敏捷 （ びんしょう ）
こういう音響や運動の記憶が、その順序の不確 （ ふたしか ）
ここに可笑 （ おか ） 頗 （ すこぶ ） 朧気 （ おぼろげ ） 爺 （ じじ ） 誰 （ たれ ）
そんなら奥さんの着物に就いて、どれだけの事を覚えているか。これがいよいよ覚束 （ おぼつか ） 余所行 （ よそゆき ） 始 （ はじめ ） 容姿 （ すがた ）
己の日記の筆はまだ迂路を取っている。己は怯懦である。
久しく棄てて顧みなかったこの日記を開いて、筆を把 （ と ） 敢 （ あえ ） 漫 （ みだ ）
己は根岸の家の鉄の扉を走って出たときは血が涌 （ わ ） 爽快 （ そうかい ） 魚 （ うお ）
しかしそれは体の感じであって、思想は混沌 （ こんとん ） 大股 （ おおまた ） 鶯坂 （ うぐいすざか ） 石燈籠 （ いしどうろう ） 霊屋 （ たまや ） 膚 （ はだえ ） 蒼 （ あお ） 粟 （ あわ ） 恢復 （ かいふく ） 譬 （ たと ） paroxysme （ パロクシスム ） 後 （ のち ） 安堵 （ あんど ） 行 （ い ） 逞 （ たくましゅ ）
突然妙な事が己の記憶から浮き上がった。それは奥さんの或る姿勢である。己がラシイヌを借りて帰ろうとすると、寒いからというので、小間使に言い付けて、燗 （ かん ） 葡萄酒 （ ぶどうしゅ ） 前屈 （ まえかが ） 穿 （ は ）
あれを思い出すと同時に、己は往 （ ゆ ） Aude （ オオド ） frivole （ フリヴオル ）
己は今日の日記を書くのに、目的地に向って迂路を取ると云ったが、これでは遂に目的地を避けて、その外辺を一周したようなものである。しかし己は知らざる人であったのが、今日知る人になったのである。そしてその一時涌き立った波が忽 （ たちま ） 斂 （ おさ ）
予期していなかったのはそればかりではない。己が知る人になるのに、こんな機縁で知る人になろうとも予期していなかった。己は必ず恋愛を待って、始て知る人になろうとも思わなかったが、又恋愛というものなしに、自衛心が容易に打ち勝たれてしまおうとも思わなかった。そしてあの坂井夫人は決して決して己の恋愛の対象ではないのである。
己に内面からの衝動、本能の策励 （ さくれい ） 已 （ すで ） 繹 （ たず ） 所々 （ しょしょ ） Gautier （ ゴオチエエ ） Mademoiselle （ マドモアセユ ） Maupin （ モオパン ） 咎 （ とが ） 嘲 （ あざけ ） aventure （ アヴァンチュウル ） 好 （ い ） 委 （ ゆだ ） 刹那 （ せつな ） 遇 （ あ ） 慰藉 （ いしゃ ） 交 （ まじわり ） 汚涜 （ おとく ） 繰延 （ くりのべ ） 閾 （ しきい ） 踰 （ こ ） 醒 （ さ ）
しかしとにかく内面からの衝動はあった。そして外面からの誘惑もないことはなかった。己は小さい時から人に可哀 （ かわゆ ） 好 （ い ） 識 （ し ） vanité （ ヴァニテエ ） 脆 （ もろ ） 媚 （ こび ） 大丈夫 （ だいじょうふ ） 宦官 （ かんがん ） 寧 （ むし ） 畸形 （ きけい ） 滅 （ ほろぼ ） raffiné （ ラフィネエ ） 就中 （ なかんずく ） 防遏 （ ぼうあつ ）
今日の出来事はこう云う畠に生えた苗に過ぎない。
己はこの出来事のあったのを後悔してはいない。なぜというに、現社会に僅有絶無 （ きんゆうぜつむ ） 縦 （ たと ） 歯牙 （ しが ） 蔽 （ おお ） 頸 （ くび ） 好 （ よ ）
とにかく己は利己主義の上から、或る損失を招いたということを自覚する。そしてこれから後 （ のち ）
苦みはない。そんなら甘みがあるかというに、それもない。あのとき一時発現した力の感じ、発揚の心状は、すぐに迹 （ あと ） 係恋 （ あこがれ ）
一体こんな閲歴が生活であろうか。どうもそうは思われない。真の充実した生活では慥にない。
己には真の生活は出来ないのであろうか。己もデカダンスの沼に生えた、根のない浮草で、花は咲いても、夢のような蒼白い花に過ぎないのであろうか。
もう書く程の事もない。夜の明けないうちに少し寐ようか。しかし寐られれば好 （ い ） 最早 （ もはや ）
純一の根岸に行った翌日は、前日と同じような好 （ い ）
純一はいつも随分夜をふかして本なぞを読むことがあっても、朝起きて爽快を覚えないことはないのであるが、今朝、日の当っている障子の前にすわって見れば、鈍い頭痛がしていて、目に羞明 （ しゅうめい ）
細かい水蒸気を含んでいる朝の空気に浸されて、物が皆青白い調子に見える。暇があるからだと云って、長次郎が松葉を敷いてくれた蹲 （ つくば ） 界 （ さかい ）
ふいと庭下駄を穿いて門に出て、しゃがんで往来を見ていた。絆纏 （ はんてん ）
暫 （ しばら ） 楊枝 （ ようじ ） 埃 （ ほこり ）
顔を急いで洗って、部屋に這入って見ると、綺麗 （ きれい ） 惹 （ ひ ）
ゆうべの出来事はゆうべだけの出来事ではない。これから先きはどうなるだろう。自分の方に恋愛のないのは事実である。しかしあの奥さんに、もう自分を引き寄せる力がないかどうだか、それは余程疑わしい。ゆうべ何もかも過ぎ去ったように思ったのは、瘧 （ おこり ） 後 （ のち ） 類 （ るい ） 謎 （ なぞ ）
それに宿主なしに勘定は出来ない。問題はこっちがどう思うかというばかりではない。向うの思わくも勘定に入れなくてはならない。有楽座で始て逢ってから、向うは目的に向って一直線に進んで来ている。自分は受身である。これから先きを自分がどうしようかというよりは、向うがどうしてくれるかという方が問題かも知れない。恋愛があるのないのと生利 （ なまぎき ） 固 （ もと ）
こんな事を思っている処へ、婆あさんが朝飯を運んで来たので、純一は箸 （ はし ）
「昨晩は大相 （ たいそう ）
「ええ。友達の処へ本を借りに行って、つい話が長くなってしまって、遅く帰って来て、それから少し為事をしたもんですから」
言いわけらしい返事をして、これがこの内へ来てからの、嘘 （ うそ ） 厭 （ いや ）
食事が済むと、婆あさんは火鉢に炭をついで置いて帰った。
純一はゆうべ借りて来たラシイヌを出して、一二枚開けて見たが、読む気になれなかった。そこでこんなクラッシックなものは、気分のもっと平穏な時に読むべきものだと、自分で自分に言いわけをした。それから二三日前に、神田の三才社 （ さんさいしゃ ） Huysmans （ ヒュイスマンス ）
小説家たる主人公と医者の客との対話が書いてある。話題は過ぎ去ったものとしての自然主義の得失である。次第次第に実世間に遠ざかって、しまいには殆ど縁の切れたようになった文芸を、ともかくも再び血のあり肉のあるものにしたのは、この主義の功績である。しかし煩瑣 （ はんさ ） 文字 （ もんじ ） 卑猥 （ ひわい ）
自然主義の功績を称 （ とな ）
純一は日本での en （ アン ） miniature （ ミニアチュウル ） 贔屓目 （ ひいきめ ） 難有 （ ありがた ） 渇仰 （ かっこう ）
対話が済んで客が帰る。主人公が独りで物を考えている。そこにこんな事が書いてある。「材料の真実な事、部分部分の詳密な事、それから豊富で神経質な言語、これ等は写実主義の保存せられなくてはならない側である。しかしその上に霊的価値を汲 （ く ） 奇蹟 （ きせき ） 体 （ たい ） 鎔合 （ ようごう ） 混淆 （ こんこう ） 反応 （ はんおう ） 葛藤 （ かっとう ） 一言 （ いちごん ） 穿 （ うが ） 行 （ ゆ ） 徒 （ いたず ）
純一はここまで読んで来て、ふいと自分の思想が書物を離れて動き出した。目には文字 （ もんじ ）
それは自分のきのうの閲歴が体だけの閲歴であって、自分の霊は別に空中の道を歩いていると思ったのが始で、それから本に書いてある事が余所になってしまったのである。
あの霊を離れた交を、坂井夫人はいつまで継続しようとするだろうか。きのうも既に心に浮かんだオオドのように、いつまでも己に附き纏 （ まと ） 初 （ はじめ ）
こう思うと、なんだかその手紙が待たれるような気がする。その人が待たれるような気がする。あのお雪さんは度々この部屋へ来た。いくら親しくしても、気が置かれて、帰ったあとでほっと息を衝く。あの奥さんは始めて顔を見た時から気が置けない。この部屋へでもずっと這入って来て、どんなにか自然らしく振舞うだろう。何を話そうかと気苦労をするような事はあるまい。話なんぞはしなくても分かっているというような風をするだろう。
純一はここまで考えて、空想の次第に放縦になって来るのに心附いた。そして自分を腑甲斐 （ ふがい ）
自分は男子ではないか。経験のない為めに、これまでは受身になっていたにしても、何もいつまでも受身になっている筈 （ はず ） 好 （ い ）
純一はここまで考えて、それが自分に出来るだろうかと反省して見た。そして躊躇 （ ちゅうちょ ） 極 （ き ） 起 （ た ） 抹殺 （ まっさつ ） 吾嬬 （ あづま ）
純一はふと気が附いて、自分で自分を嘲って、又 Huysmans （ ヒュイスマンス ） Durtal （ ドュルタル ） 途 （ みち ） 愛想 （ あいそ ） 幾度 （ いくたび ） 踵 （ くびす ） 旋 （ めぐ ） 堪 （ た ） 悪業 （ あくぎょう ） 梯 （ はしご ） 降 （ くだ ） 行 （ ゆ ） 禍 （ わざわい ） 跪 （ ひざまず ） 業 （ わざ ） 三位一体 （ さんみいったい ）
純一は顔を蹙 （ しか ） 厭世 （ えんせい ）
十一時半頃に大村が尋ねて来た。月曜日の午前の最終一時間の講義と、午後の臨床講義とは某教授の受持であるのに、その人が事故があって休むので、今日は遠足でもしようかと思うということである。純一はすぐに同意して云った。
「僕はまだちっとも近郊の様子を知らないのです。天気もひどく好 （ い ） 行 （ い ）
「天気はこの頃の事さ。外国人が岡目八目で、やっぱり冬寒くなる前が一番好 （ い ）
「そうですかねえ。どっちの方へ行 （ い ）
「そうさ。僕もまだ極めてはいないのです。とにかく上野から汽車に乗ることにするさ」
「もうすぐ午 （ ひる ）
「上野で食って出掛けるさ」
純一が袴 （ はかま ）
「大変なものを読んでいるね」
「そうですかね。まだ初めの方を見ているのですが、なんだかひどく厭世的な事が書いてあります」
「そうそう。行 （ ゆ ）
「ええ。そこまで見たのです。一体先きはどうなるのですか」
こう云いながら、純一は袴を穿いてしまって、鳥打帽を手に持った。大村も立って戸口に行って腰を掛けて、編上沓 （ あみあげぐつ ）
「まあ、歩きながら話すから待ち給え」
純一は先きへ下駄を引っ掛けて、植木屋の裏口を覗 （ のぞ ） 午食 （ ひる ） 動 （ やや ） 巌乗 （ がんじょう ）
純一の感じが伝わりでもしたように、大村は一寸 （ ちょっと ）
「ゆっくり行 （ い ）
なんだか譲歩するような、庇護 （ ひご ）
「さっきの小説の先きはどうなるのですか」と、純一が問うた。
「いや。大変なわけさ。相手に出て来る女主人公は正真正銘の sataniste （ サタニスト ）
「ええ。つい読む機会がなかったのです。あの本も註文して買ったのではないのです。瀬戸が三才社に大分沢山フランスの小説が来ていると云ったので、往って見たとき、ふいと買ったのです」
「瀬戸はフランスは読めないでしょう」
「読めないのです。学校で奨励しているので、会話かなんかを買いに行ったとき、見て来て話したのです」
「そんな事でしょう。まあ、読んで見給え。随分猛烈な事が書いてあるのだ。一体青年の読む本ではないね」
目で笑って純一の顔を見た。純一は黙って歩いている。
天王寺前の通に出た。天気の好 （ い ） 墓参 （ はかまいり ） 行 （ い ） 莚蓆 （ むしろ ）
動物園前から、東照宮の一の鳥居の内を横切って、精養軒の裏口から這入った。
帳場の前を横切って食堂に這入ると、丁度客が一人もないので、給仕が二三人煖炉 （ だんろ ） 卓 （ テエブル ） 誂 （ あつら ）
酒はと問われて、大村は麦酒 （ ビイル ）
「酒も飲めないことはないのですが、構えて飲むという程好きでないのです」
「そんなら勧めたら飲むのですか」
この詞が純一の耳には妙に痛切に響いた。「ええ。どうも僕は passif （ パッシイフ ） 行 （ い ）
「誰だってあらゆる方面に actif （ アクチイフ ） agressif （ アグレッシイフ ） 遣 （ や ） 行 （ い ）
給仕がスウプを持って来た。二人は暫く食事をしながら、雑談をしているうちに、何の連絡もなしに、純一が云った。
「男子の貞操という問題はどういうものでしょう」
「そうさ。僕は医学生だが、男子は生理上に、女子よりも貞操が保ちにくく出来ているだけは、事実らしいのだね。しかし保つことが不可能でもなければ、保つのが有害でも無論ないということだ。御相談とあれば、僕は保つ方を賛成するね」
純一は少し顔の赤くなるのを感じた。「僕だって保ちたいと思っているのです。しかし貞操なんというものは、利己的の意義しかないように思うのですが、どうでしょう」
「なぜ」
「つまり自己を愛惜するに過ぎないのではないでしょうか」
大村は何やら一寸考えるらしかったが、こう云った。「そう云えば云われないことはないね。僕の分からないと思ったのは、生活の衝動とか、種族の継続とかいうような意義から考えたからです。その方から見れば、生活の衝動を抑制しているのだから、egoistique （ エゴイスチック ） altrustique （ アルトリュスチック ）
純一は手に持っていたフォオクを置いて、目をかがやかした。「なる程そうです。どうぞ僕の希望ですから、哲学談をして下さい。僕は国にいた頃からなんでも因襲に囚 （ とら ）
給仕が大村の前にあるフライの皿を引いて、純一の前へ来て顔を覗 （ のぞ ） 好 （ い ） 行 （ い ） 凡 （ すべ ） 好 （ い ） 行 （ い ）
大村の顔には、憎らしくない微笑が浮んだ。「そこで自己を犠牲にして、恋愛を得ようと思ったというのですか」
「いいえ。そうではないのです。それは僕だって恋愛というものを期待していないことはないのです。しかし恋愛というものを人生の総てだとは思いませんから、恋愛を成就するのが、積極的新人の面目だとも思いません」純一は稍 （ や ） 笑 （ わらい ）
「なる程。人間のする事は、殊に善と云われる側の事になると、同じ事をしても、利己の動機でするのもあろうし、利他の動機でするのもあろうし、両方の動機を有しているのもあるでしょう。そこで新人だって積極的なものを求めて、道徳を構成しようとか、宗教を構成しようとかいうことになれば、それはどうせ利己では行 （ い ）
「それではどうしても又因襲のような或る物に縛 （ ばく ）
「大変な事を記憶していましたね。僕はまあ、こんな風に思っているのです。因襲というのは、その縛 （ いましめ ） 縛 （ いましめ ） 縛 （ ばく ） 縛 （ いましめ ） 語 （ ことば ）
大村が自分で云って置いて、自分が無遠慮に笑うので、純一も一しょになって笑った。暫くしてから純一が云った。
「そうして見ると、その道徳というものは自己が造るものでありながら、利他的であり、social （ ソシアル ）
「無論そうさ。自己が造った個人的道徳が公共的になるのを、飛躍だの、復活だのと云うのだね。だから積極的新人が出来れば、社会問題も内部から解決せられるわけでしょう」
二人は暫く詞が絶えた。料理は小鳥の炙 （ あぶり ） 萵苣 （ ちさ ） 珈琲 （ コオフィイ ）
勘定を済ませて、快い冬の日を角帽と鳥打帽とに受けて、東京に珍らしい、乾いた空気を呼吸しながら二人は精養軒を出た。
二人は山を横切って、常磐華壇 （ ときわかだん ） 場 （ ば ） 這入 （ はい ） 好 （ い ） 草鞋 （ わらじ ） 風炉敷包 （ ふろしきづつみ ）
「どこにしようか」と、大村が云った。
「王子も僕はまだ行ったことがないのです」と純一が云った。
「王子は余り近過ぎるね。大宮にしよう」大村はこう云って、二等待合の方に廻って、一等の札を二枚買った。
時間はまだ二十分程ある。大村が三等客の待つベンチのある処の片隅で、煙草を買っている間に、純一は一等待合に這入って見た。
ここで或る珍らしい光景が純一の目に映じた。
中央に据えてある卓 （ テエブル ） 傍 （ わき ） 鼠色 （ ねずみいろ ） 領巻 （ えりまき ） 駭 （ おどろ ）
先 （ ま ） cercle （ セルクル ） 切口状 （ きりこうじょう ） 脣 （ くちびる ） 凛 （ りん ） 曖昧 （ あいまい ） 行 （ ゆ ） 喇叭 （ ラッパ ） 口吻 （ こうふん ）
純一は心のうちで、この未知の夫人と坂井夫人とを比較することを禁じ得なかった。どちらも目に立つ女であって、どこか技巧を弄 （ ろう ） 外 （ ほか ） maniérisme （ マニエリスム ） 怜悧 （ れいり ） 女丈夫 （ じょじょうふ ）
そこへ、純一はどこへ行ったかと見廻しているような様子で、大村が外から覗いたので、純一はすぐに出て行って、一しょに三等客の待っているベンチの側 （ そば ）
「今一等待合にいた夫人は、当り前の女ではないようでしたが、君は気が附きませんでしたか」
「気が附かなくて。あれは、君、有名な高畠詠子 （ たかばたけえいこ ）
「そうですか」と云った純一は、心の中 （ うち ） 頷 （ うなず ） 毀誉褒貶 （ きよほうへん ） 退 （ しりぞ ） 一時 （ いちじ ） 級 （ クラス ） 一人 （ いちにん ） 下 （ もと ）
「女丈夫だとは聞いていましたが、一寸見てもあれ程態度の目立つ人だとは思わなかったのです」
「うん。態度の représentative （ ルプレザンタチイヴ ）
「それに実際えらいのでしょう」
「えらいのですとも。君、オオトリシアンで、まだ若いのに自殺した学者があったね。Otto （ オットオ ） Weininger （ ワイニンゲル ） 後 （ のち ） 動 （ うごか ） 好 （ い ）
「そんなら詠子さんはMを余程沢山持っているのでしょう」と云いながら、純一は自分には大分Wがありそうだと思って、いやな心持がした。
風炉敷包を持った連中は、もうさっきから黒い木札の立ててある改札口に押し掛けている。埒 （ らち ） 開 （ あ ） 退 （ の ） 群集 （ ぐんじゅ ） 行 （ ゆ ）
一等室に這入って見れば、二人が先登 （ せんとう ） 革包 （ かばん ） 駱駝 （ らくだ ） 膝掛 （ ひざかけ ） 傍 （ そば ） 鋪 （ し ） 後 （ うしろ ）
続いて町のものらしい婆あさんと、若い女とが這入って来た。物馴れない純一にも、銀杏返 （ いちょうがえ ） 珊瑚珠 （ さんごじゅ ） 根掛 （ ねがけ ） symétrique （ シメトリック ） 縁 （ へり ）
芸者らしい女は平気でこっちを見ている。純一は少し間の悪いような心持がしたので、救 （ すくい ） 馳 （ は ）
乗るだけの客が大抵乗ってしまった頃に、詠子さんが同じ室 （ しつ ） 開 （ ひら ）
発車の笛が鳴った。「御機嫌宜 （ よろ ） 愛相 （ あいそう ） 好 （ よ ） 囀 （ さえず ） 頤 （ あご ） 中 （ うち ） 痩 （ や ） 活溌 （ かっぱつ ）
詠子さんは静かに膝掛の上に腰を卸して、マッフに両手を入れて、端然としている。
暫 （ しばら ） 誰 （ だれ ） 日暮里 （ にっぽり ） 場 （ ば ） 黒 （ くろ ） 女連 （ おんなづれ ） 往 （ い ）
大村が黙っているので、純一も遠慮して黙っている。詠子さんはやはり端然としている。
窓の外は同じような田圃道 （ たんぼみち ） 鴉 （ からす ） 嘴 （ くちばし ） 開 （ あ ） 啼 （ な ）
室内は、左の窓から日の差し込んでいる処に、小さい塵 （ ちり ） 跳 （ おど ）
黒人 （ くろうと ）
王子を過ぎるとき、窓から外を見ていた純一が、「ここが王子ですね」と云うと、大村は「この列車は留まらないのだよ」と云ったきり、又黙ってしまった。
赤羽で駅員が一人這入って来て、卓 （ テエブル ） 障 （ さわ ） 蕨 （ わらび ） 出入 （ でいり ）
三時過ぎに大宮に着いた。駅員に切符を半分折り取らせて、停車場を出るとき、大村がさも楽々したという調子で云った。
「ああ苦しかった」
「なぜです」
「馬鹿げているけれどね、僕は或る種類の人間には、なるべく自己を観察して貰いたくないのだ」
「その種類の人間に詠子さんが属しているのですか」
大村は笑った。「まあ、そうだね」
「一体どういう種類なのでしょう」
「そうさね。一寸説明に窮するね。要するに自己を誤解せられる虞 （ おそれ ） 好 （ い ） 睜 （ みは ） 所謂 （ いわゆる ）
「あ。分かりました。つまり hypocrites （ イポクリイト ）
大村は又笑った。「そりゃあ、あんまり酷だよ。僕だってそれ程教育家を悪く思っていやしないが、人を鋳型に㟛 （ は ） 拵 （ こしら ） 誰 （ だれ ）
こんな事を話しながら、二人は公園の門を這入った。常磐木の間に、葉の黄ばんだ雑木の交っている茂みを見込む、二本柱の門に、大宮公園と大字で書いた木札の、稍古びたのが掛かっているのである。
落葉の散らばっている、幅の広い道に、人の影も見えない。なる程大村の散歩に来そうな処だと、純一は思った。只どこからか微 （ かす ） 三味線 （ しゃみせん ） 音 （ ね ）
「さっきお話しのワイニンゲルなんぞは女性をどう見ているのですか」
「女性ですか。それは余程振 （ ふる ） 母 （ ぼ ） 東京 （ とうけい ） 親爺 （ おやじ ） 娼妓 （ しょうぎ ） 耗 （ へ ） 質 （ たち ） antisociale （ アンチソシアル ） 幸 （ さいわい ） 母 （ はは ） 可哀 （ かわい ） 娵 （ よめ ） 行 （ い ） 尤 （ もっと ） 好 （ い ）
「それでは女子が独立していろいろの職業を営んで行 （ い ）
「あれはM>Wの女と看做 （ みな ） 好 （ い ）
「なる程。そこで恋愛はどうなるのです。母の型の女を対象にしては恋愛の満足は出来ないでしょうし、娼妓の型の女を対象にしたら、それは堕落ではないでしょうか」
「そうです。だから恋愛の希望を前途に持っているという君なんぞの為めには、ワイニンゲルの論は残酷を極めているのです。女には恋愛というようなものはない。娼妓の型には色欲がある。母の型には繁殖の欲があるに過ぎない。恋愛の対象というものは、凡 （ すべ ）
「なる程」と云った純一は、暫く詞もなかった。坂井の奥さんが娼妓の型の代表者として、彼れの想像の上に浮ぶ。饜 （ あ ） polype （ ポリイプ ） 餌 （ え ） 抱 （ いだ ）
「そんな事を考えると、厭世 （ えんせい ）
「そうさ。ワイニンゲルなんぞの足跡 （ そくせき ） 行 （ い ） 酔 （ えい ） Ivresse （ イヴレス ） 鴉片 （ アヘン ） Haschisch （ アッシシュ ） Dionisos （ ジオニソス ） Apollon （ アポルロン ） 奈何 （ いかん ）
二人は氷川 （ ひかわ ） 社 （ やしろ ）
落葉の散らばっている小道の向うに、木立に囲まれた離れのような家が見える。三味線の音はそこからする。四五人のとよめき笑う声と女の歌う声とが交って来る。
音締 （ ねじめ ） 一群 （ ひとむれ ）
社の東側の沼の畔 （ ほとり ） 葦簀 （ よしず ） 繞 （ めぐ ）
「好 （ い ）
「好かろう」と、大村は無邪気に得意らしく云って、腰掛けに掛けた。
大村が紙巻煙草に火を附ける間、純一は沼の上を見わたしている。僅か二三間先きに、枯葦 （ かれあし ） 杙 （ くい ） 一羽 （ いちわ ）
大村が突然云った。「まだ何も書いて見ないのですか」
「ええ。蜚 （ と ）
「好く文学者の成功の事を、大いなる coup （ クウ ） 采 （ さい ） 擲 （ なげう ） 賭博 （ とばく ） censure （ サンシュウル ） 起 （ た ）
「そうでしょうか」
「僕なんぞはそういう問題では、非常に楽天的に考えていますよ。どんなに手広に新聞雑誌を利用している clique （ クリク ） 脱殻 （ ぬけがら ） 縋 （ すが ）
「しかし相談相手になって貰われる先輩というようなものは欲しいと思うのですが」
「そりゃああっても好 （ い ） 行 （ い ）
こんな話をしているうちに、三味線や歌が聞え已 （ や ）
「もう五時を大分過ぎています」
「道理で少し寒くなって来た」と云って、大村が立った。
鴉が一声啼いて森の方へ飛んで行った。その行方を見送れば、いつの間にか鼠色の薄い雲が空を掩 （ おお ）
二人は暫く落葉の道を歩いて上りの汽車に乗った。
純一が日記は又白い処ばかり多くなった。いつの間にか十二月も半ばを過ぎている。珍らしい晴天続きで、国で噂 （ うわさ ）
植長の庭の菊も切られてしまって、久しく咲いていた山茶花 （ さざんか ） 常磐樹 （ ときわぎ ）
中沢のお雪さんが余り久しく見えないと思いながら、問いもせずにいると、或る日婆あさんがこんな事を話した。お雪さんに小さい妹がある。それがジフテリイになって大学の病院に這入った。ジフテリイは血清注射で直ったが、跡が腎臓炎になって、なかなか退院することが出来ない。お雪さんは稽古 （ けいこ ） 好 （ い ）
この頃純一は久し振りで一度大石路花を尋ねた。下宿が小石川の富坂上 （ とみざかうえ ） 纏 （ まと ） 若 （ も ） 行 （ い ） 寧 （ むし ） 搆 （ かま ） 已 （ や ） 詞 （ ことば ） 痛癢 （ つうよう ） 誰 （ だれ ）
路花の書いている東京新聞は、初め社会の下層を読者にして、平易な事を平易な文で書いていた小新聞 （ こしんぶん ） 好 （ い ） 識 （ し ） 故 （ もと ） 腕 （ かいな ） 揮 （ ふる ） 背 （ せい ） 巴里為立 （ パリイじた ） 湛 （ たた ） 誉田 （ ほんだ ） 欧羅巴 （ ヨオロッパ ） Corps （ コオル ） diplomatique （ ジプロマチック ） 伎倆 （ ぎりょう ） 逞 （ たくましゅ ） 羅致 （ らち ） académique （ アカデミック ） 謂 （ い ） 下 （ もと ） 鳥瞰図 （ ちょうかんず ） 燻 （ くすぶ ） 縁 （ ふち ） 傍 （ そば ） 硝子 （ ガラス ） 好 （ い ） 中 （ うち ） 杯 （ さかずき ） 嘗 （ な ）
純一は著作の邪魔なぞをしてはならないと思ったので、そこそこに暇乞 （ いとまごい ） 推戴 （ すいたい ） 荼毒 （ とどく ） 好 （ い ） 赫 （ かく ） 緑青 （ ろくしょう ） 反応 （ はんおう ） 萎弱 （ いじゃく ） 筈 （ はず ） 指 （ さす ） 谷 （ や ）
十二月は残り少なになった。前月の中頃から、四十日 （ しじゅうにち ） 食機 （ しょくき ） 三崎町 （ さんさきちょう ） 人気 （ ひとけ ）
或るそういう晩の事であった。両大師の横を曲がって石燈籠 （ いしどうろう ） 鶯坂 （ うぐいすざか ） 霊屋 （ たまや ）
純一の視線は根岸の人家の黒い屋根の上を辿 （ たど ） 灌木 （ かんぼく ）
坂井夫人の家はどの辺だろうと、ふと思った。そして温い血の波が湧 （ わ ） 尖 （ さき ） 漲 （ みなぎ ）
坂井夫人を尋ねてから、もう二十日ばかりになっている。純一は内に据わっていても、外を歩いていても、おりおり空想がその人の俤 （ おもかげ ） 係恋 （ あこがれ ）
身の周囲 （ まわり ） 籠 （ こ ） 領 （ えり ） 潜 （ もぐ ） 己 （ おれ ） courte-pointe （ クウルト ポアント ）
純一は忽 （ たちま ） 粟立 （ あわだ ） 刹那 （ せつな ） 妄想 （ もうそう ） 慙 （ は ）
馬鹿な。己はどこまでおめでたい人間だろう。芝居で只一度逢って、只一度尋ねて行っただけの己ではないか。己が幾人かの中の一人に過ぎないということは、殆ど問うことを須 （ ま ） 便 （ たより ） 徒 （ いたず ） 蹴飛 （ けと ） 穿 （ うが ） 崖 （ がけ ） 墜 （ お ） 揮 （ ふ ）
＊ ＊ ＊
純一が夜上野の山を歩いた翌日は、十二月二十二日であった。朝晴れていた空が、午後は薄曇になっている。読みさした雑誌を置いて、純一は締めた障子を見詰めてぼんやりしている。己はいつかラシイヌを読もうと思っていて、まだ少しも読まないと、ふと思ったのが縁になって、遮り留めようとしている人の俤が意地悪く念頭に浮かんで来る。「いつでも取り換えにいらっしゃいよ。そう申して置きますから、わたくしがいなかったら、ずんずん上がって取り換えていらっしゃって宜しゅうございます」と坂井の奥さんは云った。その権利をこちらではまだ一度も用に立てないでいるのである。葉書でも来はすまいかと、待ちたくないと戒めながら、心の底で待っていたが、あれは顛倒 （ てんどう ） frivole （ フリヴオル ） 縦 （ はな ） 却 （ かえ ） 擒 （ とりこ ） 好 （ い ） 器 （ うつわ ） 咽 （ のど ） 霑 （ うるお ）
この時飛石を踏む静かな音がした。
「いらっしって」女の声である。
純一ははっと思った。ちゃんと机の前に据わっているのだから、誰 （ たれ ） 好 （ い ） 咎 （ とが ）
「どなたです」と云って、内から障子を開けた。
にっこり笑って立っているのはお雪さんである。きょうは廂髪 （ ひさしがみ ） 三組 （ みつぐみ ） 銘撰 （ めいせん ） 鑒別 （ かんべつ ）
「どうぞお掛けなさい。それとも寒いなら、お上がんなさいまし。お妹御さんが悪かったのですってね。もうお直りになったのですか」純一はお雪さんに物を言うとなると、これまで苦しいのを勉 （ つと ）
「よく御存じね。婆あやがお話ししたのでしょう。腎臓の方はどうせ急には直らないのだということですから、きのう退院して参りましたの。もう十日も前から婆あやにも安 （ やす ） 徐 （ しず ） 来 （ こ ） 好 （ い ）
「なぜそう思ったのです」
「なぜですか」と無意味に云ったが、暫くして「ただそう思ったの」と少しぞんざいに言い足した。
雲の絶間から、傾き掛かった日がさして、四目垣の向うの檜 （ ひのき ） 縁 （ えん ）
「わたくしこんな事をしていると、あなた風を引いておしまいなさるわ」細い指をちょいと縁に衝 （ つ ）
「這入 （ はい ）
「好くって」返事を待たずに千代田草履を脱ぎ棄てて這入った。
障子はこの似つかわしい二人を狭い一間に押し籠めて、外界との縁を断ってしまった。しかしこういう事はこれが始めではない。今までも度々あって、その度毎に純一は胸を躍らせたのである。
「画があるでしょう。ちょいと拝見」
純一と並んで据わって、机の上にあった西洋雑誌をひっくり返して見ている。
お召の羽織の裾がしっとりした jet （ ジェエ ） de （ ド ） la （ ラ ） draperie （ ドラプリイ ） 委積 （ たたな ） 一握 （ ひとつか ）
頬から、腮 （ あご ） 頸 （ くび ） 窪 （ くぼ ） 鵇色 （ ときいろ ） 翻 （ かえ ） 抉 （ えぐ ） 往反 （ おうへん ）
風景画なんぞは、どんなに美しい色を出して製版してあっても、お雪さんの注意を惹 （ ひ ）
袖と袖と相触れる。何やらの化粧品の香 （ か ） 匀 （ におい ） 綺麗 （ きれい ）
それを感ずるや否や、純一は無意識に、殆ど反射的に坐を起って、大分遠くへ押し遣 （ や ） 傍 （ そば ） 火箸 （ ひばし ）
「わたくしそんなに寒かないわ」極めて穏かな調子である。なぜ純一が坐を移したか、少しも感ぜないと見える。
「こんなに大きな帽子があるでしょうか」と云うのを、火をいじりながら覗 （ のぞ ）
「そんなのが流行 （ はやり ） 被 （ かぶ ）
お雪さんは雑誌を見てしまった。そして両手で頬杖 （ ほおづえ ）
「わたくしあなたにお目に掛かったら、いろんな事をお話ししなくてはならないと思ったのですが、どうしたんでしょう、みんな忘れてしまってよ」
「病院のお話でしょう」
「ええ。それもあってよ」病院の話が始まった。お医者は一週間も二週間も先きの事を言っているのに、妹は這入った日から、毎日内へ帰ることばかし云っているのである。一日毎に新しく望 （ のぞみ ） 属 （ ぞく ） 空 （ むな ） 寐入 （ ねい ） 好 （ い ）
話を聞きながら、純一はお雪さんの顔を見ている。譬 （ たと ） 微 （ かす ）
そして純一はこう云うことに気が附いた。お雪さんは自分を見られることを意識しているということに気が附いた。それは当り前の事であるのに、純一の為めには、そう思った刹那に、大いなる発見をしたように感ぜられたのである。なぜかというに、この娘が人の見るに任す心持は、同時に人の為 （ な ） 退 （ しりぞ ） 守勢 （ しゅぜい ） 出 （ い ）
純一はこう思うと同時に、この娘を或る破砕し易い物、こわれ物、危殆 （ きたい ） 危 （ あやう ） 間 （ ま ）
火鉢の灰を掻 （ か ） 頓 （ とみ ） 諦 （ あきら ）
「またこん度遊びに来ましょうね」何か悪い事でもしたのをあやまるように云って、坐を立った。
「ええ。お出 （ いで ） 償 （ つぐの ）
この日の夕方であった。純一は忙 （ いそがわ ）
純一が日記の断片
恥辱を語るペエジを日記に添えたくはない。しかし事実はどうもすることが出来ない。
己は部屋を出るとき、ラシイヌの一巻を手に取りながら、こんな事を思った。読もうと思う本を持って散歩に出ることは、これまでも度々あった。今日はラシイヌを持って出る。この本が外の本と違うのは、あの坂井夫人の所へ行くことの出来る possibilité （ ポッシビリテエ ） 行 （ ゆ ）
こんな考えは自 （ みずか ）
実は余程前から或る希求に伴う不安の念が、次第に強くなって来た。己は極力それを卻 （ しりぞ ）
大村はこの希求を抑制するのが、健康を害するものではないと云った。害せないかも知れぬが、己は殆どその煩わしさに堪えなくなった。そしてある時は、こんなうるさい生活は人間の dignité （ ジグニテエ ） 傷 （ きずつ ）
大村は神経質の遺伝のあるものには、この抑制が出来なくて、それを無理に抑制すると病気になると云った。己はそれを思い出して、我 （ わが ）
己の自制力の一角を破壊したものは、久し振に尋ねて来たお雪さんである。
お雪さんと並んで据わっていたとき、自然が己に投げ掛けようとした弶 （ わな ） 閃 （ ひらめ ）
お雪さんもあの弶を見たには違いない。しかしそれを遁 （ のが ）
そして己は自分のそれを遁れようとするのを智なりとして、お雪さんを見下 （ みく ）
その時己は我自制力を讃美していて、丁度それと同時に我自制力の一角が破壊せられるのに心附かずにいた。一たび繋 （ つな ） 堅靭 （ けんじん ） 索 （ なわ ） 脆弱 （ ぜいじゃく ） 弛廃 （ しはい ）
無智なる、可憐 （ かれん ） 敢 （ あえ ） 曉 （ さと ）
もしお雪さんが来なかったら、己は部屋を出るとき、ラシイヌを持って出なかっただろう。
己はラシイヌを手に持って、当てもなく上野の山をあちこち歩き廻っているうちに、不安の念が次第に増長して来て、脈搏 （ みゃくはく ） 酔 （ えい ） 循 （ めぐ ）
公園の入口まで来て、何となく物騒がしい広小路の夕暮を見渡していたとき、己は熱を病んでいるように、気が遠くなって、脚が体の重りに堪えないようになった。
何を思うともなしに引き返して、弁天へ降りる石段の上まで来て、又立ち留まった。ベンチの明いているのが一つあるので、それに腰を掛けて、ラシイヌを翻 （ ひるがえ ） 昏 （ くら ） Phèdre （ フェエドル ）
ふいと気が附いて見ると、石段の傍にある街燈に火が附いていた。形が妙に大きくて、不愉快な黄色に見える街燈であった。まさかあんな色の色硝子 （ いろガラス ）
人間の心理状態は可笑 （ おか ）
根岸へ向いて歩き出してからは、己はぐんぐん歩いた。歩度は次第に急になった。そして見覚えのある生垣や門が見えるようになってからも、先方の思わくに気兼をして、歩度を緩めるような事はなかった。あの奥さんがどう迎えてくれるかとは思ったが、その迎えかたにこっちが困るような事があろうとは思わなかったのである。
門には表札の上の処に小さい電燈が附いていて、潜 （ くぐ ） 開 （ あ ） 門口 （ かどぐち ） 跳 （ おど ）
いつか見た小間使の外にどんな奉公人がいるか知らないが、もう日が暮れているのだから、知らない顔のものが出て来はしないかと思った。しかしベルが鳴ると、直ぐにあの小間使が出た。奥さんがしづえと呼んでいたっけ。代々の小間使の名かも知れない。おおかた表玄関のお客には、外の女中は出ないのだろう。
ベルが鳴ってから電気を附けたと見えて、玄関の腋 （ わき ） 欞子 （ れんじ ）
己の顔を見て「おや」と云って、「一寸 （ ちょっと ） 好 （ い ） 煖炉 （ ストオブ ） 焚 （ た ） 揃 （ そろ ）
廊下を二つ三つ曲がった。曲がり角に電気が附いているきりで、どの部屋も真暗で、しんとしている。
しづえの軽い足音と己の重い足音とが反響をした。短い間ではあったが、夢を見ているような物語めいた感じがした。
突き当りに牡丹 （ ぼたん ） 孔雀 （ くじゃく ） 塗縁 （ ぬりぶち ） 内外 （ うちそと ） colonnade （ コロンナアド ） 恒 （ こう ） 大名染 （ だいみょうじ ）
しづえが腰を屈 （ かが ） 間 （ ま ） 衣桁 （ いこう ） 膝 （ ひざ ）
己はとうとう奥さんに逢った。この第三の会見は、己が幾度か実現させまいと思って、未来へ押し遣るようにしていたのであったが、とうとう実現させてしまったのである。しかも自分が主動者になって。
「どうぞお這入り下さいまし、大変お久し振でございますね」と奥さんは云って、退紅色の粗い形 （ かた ） 置炬燵 （ おきごたつ ） 桐 （ きり ） 鋪 （ し ） 紫縮緬 （ むらさきちりめん ） 傍 （ かたわら ） 天外 （ てんがい ）
己は奥さんの態度に意外な真面目と意外な落着きとを感じた。只例の謎 （ なぞ ） 笑 （ えみ ） 萌芽 （ ほうが ）
奥さんは人に逢うのを予期してでもいたかと思われるように、束髪の髪の毛一筋乱れていなかった。こん度は己も奥さんの着物をはっきり記憶している。羽織はついぞ見たことのない、黄の勝った緑いろの縮緬であった。綿入はお召縮緬だろう。明るい褐色に、細かい黒い格子があった。帯は銀色に鈍く光る、粗い唐草のような摸様 （ もよう ） 艶 （ えん ）
己は良心の軽い呵責 （ かしゃく ）
前からあったのと同じ桐の火鉢が出る。茶が出る。菓子が出る。しづえは静かに這入って静かに立って行 （ ゆ ） 鎖 （ とざ ）
奥さんは己の返した一つの火鉢を顧みないで、指の尖 （ さき ） 稍 （ やや ） 睜 （ みは ） 烟草 （ たばこ ）
まあ、なんという違いようだろう。お雪さんの、血の急流が毛細管の中を奔 （ はし ） 隙 （ ひま ） 埒 （ らち ） 一一 （ いちいち ） 詞 （ ことば ） 顫動 （ せんどう ） Naif （ ナイイフ ） sensible （ サンシイブル ）
それに較べて見ると、青み掛かって白い、希臘 （ ギリシャ ） masque （ マスク ） 瞳 （ ひとみ ） 来 （ こ ） 鷙鳥 （ しちょう ） 獰猛 （ どうもう ） Nymphe （ ニンフ ） mine （ ミイヌ ） de （ ド ） mort （ モオル ）
そういう感じをいよいよ強めるのは、この目にだけある唯一の表情が談話と合一しない事である。口は口の詞を語って、目は目の詞を語る。謎の目を一層謎ならしめて、その持主を Sphinx （ スファンクス ）
或る神学者が dogma （ ドグマ ）
己がこの日記を今の形のままでか、又はその形を改めてか、世に公にする時が来るだろうか。それはまだ解釈せられない疑問である。仮に他日これを読む人があるとして、己はここでその読む人に言う。「読者よ。僕は君に或る不可思議な告白をせねばならない。そしてその告白の端緒はこれから開ける」
奥さんの目の謎は伝染する。その謎の詞に己の目も応答しなくてはならなくなる。
夜の静けさと闇とに飽いている上野の森を背に負うた、根岸の家の一間で、電燈は軟 （ やわらか ） 湛 （ たた ） 羅 （ うすぎぬ ） 温 （ あたた ） 好 （ い ） 閲 （ けみ ）
それと同時に奥さんはその口にする詞の一語一語を目の詞で打消して、「あなたとわたくしとの間では、そんな事はどうでも好うございまさあねえ」とでもいうように、ironiquement （ イロニックマン ） Une （ ユヌ ） persuasion （ ペルシュアジョン ） puissante （ ピュイッサント ） et （ エエ ） chaleureuse （ シャリヨナリヨオズ ） 無慙 （ むざん ）
席と席とは二三尺を隔てて、己の手を翳 （ かざ ） 火焔 （ かえん ） 裹 （ つつ ）
己はこういう時間の非常に長いのを感じた。その時間は苦痛の時間である。そして或る瞬間に、今あからさまに覚える苦痛を、この奥さんを知ってからは、意識の下で絶間なく、微 （ かすか ） 焔 （ ほのお ） 烟 （ けむり ） 掠 （ かす ）
この間 （ あいだ ） 行 （ ゆ ） 若 （ も ） 蹴 （ け ） 起 （ た ） 批 （ う ）
突然なんの著明な動機もなく、なんの過渡 （ かと ）
その時己は奥さんの目の中 （ うち ） 凱歌 （ がいか ） 笑 （ わらい ） 断 （ た ） 余所々々 （ よそよそ ） 愈々 （ いよいよ ）
「わたくし二十七日に立って、箱根の福住 （ ふくずみ ）
「さようですね。僕は少し遣って見ようかと思っている為事 （ しごと ）
「でもお暇がございましたらね」
奥さんが、傍に這っている、絹糸を巻いた導線の尖の控鈕 （ ぼたん ）
しづえは己を書棚のある洋室へ案内するのである。己は迂濶 （ うかつ ） 借 （ かり ） 暇 （ ひま ） 腑甲斐 （ ふがい ）
先きに立って這入って、電燈を点じてくれたしづえと一しょに、己は洋室にいたとき、意識の海がまだ波立っていた為めか、お雪さんと一しょにいるより、一層強い窘迫 （ きんぱく ） 入口 （ いりくち ） 緋鹿子 （ ひがのこ ）
己は選びもせずに、ラシイヌの外 （ ほか ） 抽 （ ぬ ） 持 （ も ）
己を悩ました質 （ しち ） 中 （ うち ）
奥さんの部屋へ、暇乞 （ いとまごい ）
「お暇があったら箱根へいらっしゃいましね」と、静かな緩い語気で、奥さんは玄関に立っていて繰り返した。
「ええ」と云って、己は奥さんの姿に最後の一瞥 （ いちべつ ）
髪の毛一筋も乱れていない。着物の襟をきちんと正して立っている、しなやかな姿が、又端なく己の反感を促した。敵は己を箱根へ誘致せずには置かないかなと、己は心に思いながら右の手に持っていた帽を被って出た。
空は青く晴れて、低い処を濃い霧の立ち籠 （ こ ） 為 （ な ） 耆宿 （ きしゅく ） Lemonnier （ ルモンニエエ ） Aude （ オオド ）
恥辱のペエジはここに尽きる。
己は拙 （ まず ）
十二月二十五日になった。大抵腹を立てるような事はあるまいと、純一の推測していた瀬戸が、一昨日 （ おとつい ） 亀清楼 （ かめせいろう ） 高縄 （ たかなわ ） 邸 （ やしき ） 已 （ や ） 明日 （ あす ） 極 （ き ）
丁度瀬戸のいるところへ、植長の上 （ かみ ） 安 （ やす ） 拵 （ こしら ） 煮染 （ にしめ ） 好 （ い ） 黒繻子 （ くろじゅす ） 領 （ えり ） 絆纏 （ ばんてん ） 櫛巻 （ くしまき ） 謙遜 （ けんそん ）
「なに、届かないものか。紺足袋を穿 （ は ） 稼人 （ かせぎにん ）
「わたくし共の田舎では、女でも皆紺足袋を穿きます」と説明する。その田舎というのが不思議だ。お上さんのような、意気な女が田舎者である筈がないと云う。とうとう安が故郷は銚子だと打明けた。段々聞いて見ると、瀬戸が写生旅行に行ったとき、安の里の町内に泊ったことがあったそうだ。いろいろ銚子の話をして、安が帰った跡で、瀬戸が狡猾 （ こうかつ ） effet （ エフェエ ） 好 （ い ） 家主 （ いえぬし ） 生地 （ きじ ） type （ チイプ ） 粉本 （ ふんぽん ） 慥 （ たしか ） 草臥 （ くたび ） esprit （ エスプリイ ） non （ ノン ） préocupé （ プレオキュペエ ） 闕 （ か ） frivole （ フリヴオル ） 娵 （ よめ ） 色艶 （ いろつや ） 身綺麗 （ みぎれい ） 髪容 （ かみかたち ） 搆 （ かま ） Monna （ モンナ ） Lisa （ リイザ ） 媚 （ こび ） Constantin （ コンスタンタン ） Guys （ ギス ）
「きょうはお安さんがはんべっていないじゃないか」と、厭 （ いや ）
「めったに来やしない」
純一は生帳面 （ きちょうめん ） 箪笥 （ たんす ） 遣 （ や ） 叮嚀 （ ていねい ） 衝 （ つ ） 暫 （ しばら ）
支度をして待っていた純一は、瀬戸と一しょに出て、上野公園の冬木立の間を抜けて、広小路で電車に乗った。
須田町で九段両国の電車に乗り換えると、不格好な外套 （ がいとう ） 被 （ き ） 被 （ かぶ ）
瀬戸は純一を直ぐにその老人に紹介した。老人はＹ県出身の漢学者で、高山先生という人であった。美術学校では、岡倉時代からいろいろな学者に、科外講義に出て貰って、講義録を出版している。高山先生もその講義に来たとき、同県人の生徒だというので、瀬戸は近附きになったのである。
高山先生は宮内庁に勤めている。漢学者で仏典も精 （ くわ ） 鄧完白 （ とうかんぱく ） 篆書 （ てんしょ ） 撰 （ えら ）
暫くして電車が透いたので、純一は瀬戸と並んで腰を掛けた。
瀬戸は純一に小声で云った。「あの先生はあれでなかなか剽軽 （ ひょうきん ）
純一は先生が幅広な、夷三郎 （ えびすさぶろう ）
両国の橋手前 （ はしでまえ ） 亀清 （ かめせい ） 這入 （ はい ）
先生がのろのろ上がって行 （ い ）
「うん」と云って、女中に引かれて梯子 （ はしご ） 行 （ い ） 書肆 （ しょし ）
登って取っ附きの座敷が待合になっていて、もう大勢の人が集まっていた。
外はまだ明るいのに、座敷には電燈が附いている。一方の障子に嵌 （ は ） 鼠掛 （ ねずみが ）
一番盛んに見える、この座敷の一群は、真中に据えた棋盤 （ ごばん ） 極 （ きわめ ） 象棋 （ しょうぎ ） 棋 （ ご ） utilitaire （ ユチリテエル ） domino （ ドミノ ） 蔓延 （ まんえん ） 虞 （ おそれ ） 生利 （ なまぎき ） 好 （ い ） 幾重 （ いくえ ）
この群 （ むれ ） 翳 （ かざ ） 狸 （ たぬき ）
「そりゃあわたし共のいた時の聖堂なんというものは、今の大学の寄宿舎なんぞとは違って、風雅なものだったよ。狸が出たからね。我々は廊下続きで、障子を立て切った部屋を当てがわれている。そうすると夜なか過ぎになって、廊下に小さい足音がする。人間の足音ではない。それが一つ一つ部屋を覗 （ のぞ ） 寐 （ ね ） 行燈 （ あんどん ） 嘗 （ な ） 好 （ い ） 奴 （ め ） 舐 （ な ） 贋物 （ にせもの ） 紙鳶糸 （ たこいと ） 挿 （ さ ） 空 （ くう ） 睨 （ にら ） 徒 （ いたず ）
狸の話が飛んだ事になってしまった。純一は驚いて聞いていた。
そこへ瀬戸が来て、「君会費を出したか」と云うので、純一はやっと気が附いて、瀬戸に幹事の所へ連れて行って貰った。
曽根という人は如才なさそうな小男である。「学生諸君は一円です」と云う。
純一は一寸 （ ちょっと ）
曽根は余計な事を問う奴だと思うらしい様子であったが、それでも慇懃 （ いんぎん ）
「そうですか」と云って、純一が五円札を一枚出すのを見て、背後 （ うしろ ）
そのうち人が段々来て、曽根の持っていた帳面の連名の上に大抵丸印が附いた。
最後に某大臣が見えたのを合図に、隣の間 （ ま ） 界 （ さかい ） 襖 （ ふすま ）
何畳敷か知らぬが、ひどく広い座敷である。廊下からの入口 （ いりくち ）
曽根が第一に大臣を床の間の前へ案内しようとすると、大臣は自分と同じフロックコオトを着た、まだ三十位の男を促して、一しょに席を立たせた。只大臣の服には、控鈕 （ ぼたん ） 孔 （ あな ） 略綬 （ りゃくじゅ ） 挿 （ はさ ） 後 （ のち ） 名代 （ みょうだい ）
座席に札なぞは附けてないので、方々で席の譲り合いが始まる。笑いながら押し合ったり揉 （ も ） 摩 （ ず ） 上座 （ じょうざ ）
ようようの事で席の極まるのを見ていると、中程より下に分科大学の襟章 （ えりじるし ） 小倉袴 （ こくらばかま ） 所謂 （ いわゆる ）
こんな時には純一なんぞは気楽なもので、一番跡から附いて出て、末席 （ ばっせき ）
ずっと見渡すに、上流の人は割合いに少いらしい。純一は曽根に問うて見た。
「今晩出席しているのは、国から東京に出ているものの小部分に過ぎないようですが、一体どんなたちの人がこの会を催したのですか」
「小部分ですとも。素 （ も ） 出入 （ でいり ） 交 （ まじ ）
こんな話をしているうちに、女中が膳を運んで来始めた。
土地は柳橋、家は亀清である。純一は無論芸者が来ると思った。それに瀬戸がきのうの話の様子では来る例になっているらしかった。それに膳を運ぶのが女中であるのは、どうした事かと思った。
酒が出た。幹事が挨拶をした。その中 （ うち ）
大臣は大きな赤い顔をして酒をちびりちびり飲んでいる。純一は遠くからこの人の巌乗 （ がんじょう ） 止 （ や ） 眉間 （ みけん ） 皺 （ しわ ） écriture （ エクリチュウル ） runique （ リュニック ）
吸物が吸ってしまわれて、刺身が荒された頃、所々 （ しょしょ ） 杯頂戴 （ さかずきちょうだい ） 誰 （ たれ ） 湧 （ わ ） 忽 （ たちま ）
この時純一は、自分の直ぐ傍 （ そば ）
暫く聞いているうちに、驚く可 （ べ ） 謂 （ い ） tertium （ テルチウム ） comparationis （ コンパラショニス ） 好 （ い ） Antigéishaisme （ アンチゲイシャイスム ）
この声高 （ こわだか ） ironie （ イロニイ ） 塩田 （ しおだ ） 好 （ い ）
「偽善だよ」と、聞いていた一人が云った。「先輩だって、そんな議論を持ち出されたとき、己は芸者が呼んで貰いたいと云うわけには行 （ い ）
「それは穿 （ うが ）
「美徳なものか。芸者が心 （ しん ）
「しかし世間というものはそうしたもので、それを美徳としなくてはならないのではあるまいか」
「これはけしからん。それではまるで偽善の世界になってしまうね」
議論の火の手は又熾 （ さか ） 綫香 （ せんこう ） 一群 （ ひとむれ ） 下 （ く ） 随 （ したが ） Cynisme （ シニスム ）
とにかく塩田君を呼んで来 （ こ ）
塩田という名も、新聞や雑誌に度々出たことがあるので、純一は知っている。どんな人かと思って、曽根の連れて来るのを待っていると、想像したとはまるで違った男が来た。新しい道徳というものに、頼 （ よ ） 頼 （ よ ） 古 （ むかし ） 復 （ かえ ） 醒覚 （ せいかく ） 忤 （ さか ） misanthrope （ ミザントロオプ ） 尖 （ とが ） 頬髯 （ ほおひげ ） 剃 （ そ ） 迹 （ あと ） ironique （ イロニック ） 閃 （ ひらめ ） 行 （ い ） 忙 （ いそが ）
「芸者かね。何も僕が絶待 （ ぜったい ）
「そんなら君の、その不穏当だという感じを少し辛抱して貰えば好 （ い ）
相談は直ぐに纏 （ まと ） 一頓挫 （ いっとんざ ） 起 （ た ）
四五人を隔てて据わっていた瀬戸が、つと純一の前に来た。そして小声で云った。
「僕のような学生という奴は随分侮辱せられているね。さっきからの議論を聞いただろう」
純一が黙って微笑 （ ほほえ ）
「もう冷かすのはよし給え。知らない人ばかりの宴会だから、恩典に浴したくなかったのだ。僕はこんな会へ来たら、国の詞 （ ことば ） 東京子 （ とうきょうっこ ）
「そうばかりでもないよ。大臣の近所へ行って聞いていて見給え。ござりますのざに、アクセントのあるのなんぞが沢山聞かれるから」
「まあ、どうやらこうやら柳橋の芸者というものだけは、近くで拝見ができそうだ」
「なに。今頃出し抜 （ ぬけ ） 茶碾 （ ちゃひ ）
「そういうものかね」
こんな話をしている時、曽根が座敷の真中に立って、大声でこう云った。
「諸君。大臣閣下は外 （ ほか ） 宜 （ よろ ） 別品 （ べっぴん ）
所々 （ しょしょ ）
殆ど同時に芸者が五六人這入って来た。
席はもう大分乱れている。所々に少 （ ちい ） 圏 （ わ ） 間々 （ あいだあいだ ） 咡 （ ささや ） 入口 （ いりぐち ） 歇 （ や ）
まだ純一の前を起たずに、背を円くして胡坐 （ あぐら ） 掻 （ か ） 老松 （ おいまつ ）
「見給え。あのこっちから見て右の方で踊っている芸者なんぞは、お茶碾き仲間にしては別品だね」
「僕なんぞはどうせ上手か下手か分からないのだから、踊はお酌の方が綺麗で好かろうと思う。なぜきょうはお酌が来ないのだろう」
「そうさね。明いたのがいなかったのだろう」
こう云って、瀬戸はついと起って、どこかへ行ってしまった。純一は自分の右も左も皆空席になっているのに気が附いて、なんだか居心が悪くなった。そこで電車で逢って一しょに来た、あの高山先生の処へでも行って見ようかと、ふと思い附いて、先生の顔が見えたように思った、床の間の左の、違棚 （ ちがいだな ） 好 （ い ） 背後 （ うしろ ）
「秦淮 （ しんわい ） 溝 （ どぶ ） 西湖 （ せいこ ） 好 （ い ） 好 （ い ） 洞庭湖 （ どうていこ ） 往 （ い ） 洲 （ す ）
先生の支那に行 （ ゆ ） 杯 （ さかずき ） 襦袢 （ じゅばん ）
その手の主を見れば、さっき踊っているのを、瀬戸が別品だと云って褒めた女であった。
純一は先生に返杯をして、支那の芝居の話やら、西瓜 （ すいか ） 核 （ たね ）
同じ列の曽根の空席を隔てた先きに、やはり官吏らしい、四十恰好の、洋服の控鈕 （ ぼたん ） 頻 （ しき ） 銀杏返 （ いちょうがえ ） 結 （ い ） 黒繻子 （ くろじゅす ） 中婆 （ ちゅうば ） 些 （ すこ ） 揶揄 （ からか ） 老妓 （ ろうぎ ） malintentionné （ マルアンタンションネエ ） 曉 （ さと ） 笑談 （ じょうだん ） 浴 （ あび ）
純一は暫く聞いていて、非常に不快に感じた。馬鹿にせられている四十男は、気の毒がって遣る程の価値はない。それに対しては、純一は全然 indifférent （ アンジフェラン ）
芸者は残忍な動物である。これが純一の最初に芸者というものに下した解釈であった。
突然会話の続きを断 （ た ） Atropos （ アトロポス ）
その時、老妓の席を立つのを待っていたかと思われるように、入り代って来て据わった島田は、例の別品である。手には徳利を持っている。
「あなた、お熱いところを」と、徳利を金鎖の親爺の前へ、つと差し出した。
親爺は酒を注がせながら、女の顔をうるさく見て、「お前の名はなんと云うのだい」と問う。
「おちゃら」と返事をしたが、その返事には愛敬笑 （ あいきょうわらい ） calme （ カルム ）
純一は横からこの女を見ている。極 （ ごく ） 雛 （ ひよこ ） drue （ ドリュウ ） 一抹 （ いちまつ ） 薄紅 （ うすくれない ） 漲 （ みなぎ ） 瞳 （ ひとみ ） 藤鼠 （ ふじねずみ ） 織縮緬 （ おりちりめん ） 劃 （ かく ） 緋 （ ひ ） 先 （ ま ） 刺戟 （ しげき ）
純一が肴 （ さかな ） 煙管 （ きせる ） 島田髷 （ しまだまげ ） 俯向 （ うつむ ） 脊柱 （ せきちゅう ） 一掴 （ ひとつか ） 尖 （ さき ） 窪 （ くぼ ） 己 （ おれ ） 嘲 （ あざけ ） 穿 （ は ） 筈 （ はず ） 箸 （ はし ）
この時黒羽二重 （ くろはぶたえ ） 五所紋 （ いつつもん ） 垢 （ あか ） 竪 （ たて ） Voix （ ヴォア ） de （ ド ） fausset （ フォオセエ ）
左の手を畳に衝いて受けた杯に、おちゃらが酌をすると、「憚様 （ はばかりさま ）
金鎖がこんな事を云う。「こないだは内の子供等が有楽座へ見に行って、帰ってから君のお噂 （ うわさ ） 大相 （ たいそう ）
「いえ未熟千万でございまして。しかしどうぞ御閑暇 （ ごかんか ）
純一は曽根の話に、新俳優が来ていると云ったことを思い出した。そして御苦労にもこの俳優の為めに前途を気遣った。俳優は種々な人物に扮 （ ふん ） 科白 （ かはく ） Facétie （ ファセエチイ ） 俄 （ にわか ） 好 （ い ） 譬 （ たと ） 好 （ い ） grimace （ グリマス ）
こう思うと同時に、純一はおちゃらがこの俳優に対して、どんな態度に出るかを観察することを怠らない。
社会のあらゆる方面は、相接触する機会のある度に、容赦なく純一の illusion （ イリュウジョン ）
しかしおちゃらはこのにやけ男を、青眼を以て視るだろうか。将 （ は ）
純一の目に映ずる所は意外であった。おちゃらは酌をするとき、ちょいと見たきり顧みない。反応 （ はんおう ）
俳優はおちゃらと袖の相触れるように据わって、杯を前に置いて、やはり左の手を畳に衝いて話している。
「狂言も筋が御見物にお分かりになれば宜しいということになりませんと、勤めにくくて困ります。脚本の長い白 （ せりふ ） 諳記 （ あんき ） 仰 （ おっ ）
金鎖は天晴 （ あっぱれ ） mécène （ メセエヌ ） 絎紐 （ くけひも ） 烟管挿 （ きせるさ ） 膝 （ ひざ ） 畚 （ ふご ） 偸 （ ぬす ）
視線が暫 （ しばら ） 往来 （ ゆきき ） 窘迫 （ きんぱく ） 縛 （ いましめ ） 旨 （ うま ） 覚束 （ おぼつか ） 好 （ い ） 遣 （ や ）
ここまで考えると、純一の心の中 （ うち ） 萌 （ きざ ） 飜弄 （ ほんろう ） 勿論 （ もちろん ） 冤屈 （ えんくつ ）
幸におちゃらの純一の上に働かせている誘惑の力が余り強くないのと、二人の間にまだ直接な collision （ コリジョン ）
退路は瀬戸の方向へ取ることになった。それは金鎖の少し先きの席へ瀬戸が戻って、肴を荒しているのを発見したからである。おちゃらのいる所との距離は大して違わないが、向うへ行 （ ゆ ）
純一は誘惑に打勝った人の小さい triomphe （ トリオムフ ）
「どうだい」と、瀬戸が目で迎えながら声を掛けた。
「余り面白くもない」と、小声で答えた。
「当り前さ。宴会というものはこんな物なのだ。見給え。又踊るらしいぜ。ひどく勉強しやがる」
純一が背後 （ うしろ ）
「なんだろう」と純一が問うた。
「桃太郎だよ。そら。爺いさんと婆あさんとがどうとかしたと云って、歌っているだろう」
さすが酒を飲む処へは、真先に立って出掛ける瀬戸だけあって、いろんな智識を有していると、純一は感心した。
女中が鮓 （ すし ） 鮪 （ まぐろ ） 摘 （ つ ） 疾 （ と ） 牡蠣 （ かき ） 醋 （ す ）
「どうだい。君は鮓を遣らないか」
「僕はもうさっきの茶碗蒸しで腹が一ぱいになってしまった。酒も余り上等ではないね」
「お客次第なのだよ」
「そうかね」純一はしょさいなさに床の間の方を見廻して云った。「なんだね。あの大きな虎は」
「岸駒 （ がんく ）
「どうだろう。もうそろそろ帰っても好くはあるまいか」
「搆 （ かま ）
暫くして純一は黙って席を起った。
「もう帰るのか」と、瀬戸が問うた。
「まあ、様子次第だ」こう云って、座敷の真中を通って、廊下に出て、梯 （ はしご ）
梯の下に降りると、丁度席上で見覚えた人が二人便所から出て来た。純一は自分だけ早く帰るのを見られるのが極 （ き ）
用を足してしまって便所を出ようとしたとき、純一はおちゃらが廊下の柱に靠 （ よ ） 何故 （ なにゆえ ）
「もうお帰りなさるの」と云って、おちゃらは純一の顔をじっと見ている。この女は目で笑うことの出来る女であった。瞳に緑いろの反射のある目で。
おちゃらはしなやかな上半身を前に屈 （ かが ）
「こん度はお一人でいらっしゃいな」小さい名刺入の中から名刺を一枚出して純一に渡すのである。
純一は名刺を受け取ったが、なんとも云うことが出来なかった。それは何事をも考える余裕がなかったからである。
純一がまだ surprise （ シュルプリイズ ） 飜 （ ひるがえ ）
純一は手に持ていた名刺を見ずに袂 （ たもと ）
帽や外套 （ がいとう ） 隙間 （ すきま ） 蹲 （ しゃが ） 誰 （ たれ ） 隙 （ ひま ）
「何番様で」一人の男が火鉢を離れて起った。
純一は合札を出して、帽と外套とを受け取って、寒い玄関に出た。
純一は亀清の帰りに、両国橋の袂に立って、浜町の河岸を廻って来る電車を待ち受けて乗った。歳の暮が近くなっていて、人の往来 （ ゆきき ） 頻繁 （ ひんぱん ） 場 （ ば ）
車の背後の窓の外に、横に打ち附けてある真鍮 （ しんちゅう ） 這入 （ はい ） 絆纏 （ はんてん ） 屹然 （ きつぜん ）
そのうち車が急に曲がった。純一は始て気が附いて見れば、浅草へ行く車であった。宴会の席で受けた色々の感動が頭の中で chaos （ カオス ） 何処 （ どこ ）
帰りの切符を出して、上野広小路への乗換を貰った。そして車掌に教えられて、廐橋 （ うまやばし ）
こん度の本所 （ ほんじょ ） 吊革 （ つりがわ ） 頸筋 （ くびすじ ） 止 （ とど ） 精 （ くわ ） 中 （ うち ）
どういう動機であんな事をしたのだろうという問題は、この時早くも頭を擡 （ もた ） 理窟 （ りくつ ） 二道 （ ふたみち ） 人選 （ にんせん ） 為様 （ しよう ） vanité （ ヴァニテエ ）
広小路で電車を下りたときは、少し風が立って、まだ明りをかっかっと点 （ とも ） 戦 （ そよ ） 竦 （ すく ）
谷中の家の東向きの小部屋にある、火鉢が恋しくなった処を、車夫に勧められて、とうとう車に乗った。車の上では稍々 （ やや ） 酔 （ えい ） 却 （ かえっ ）
東照宮の大鳥居の側 （ そば ） 狸 （ たぬき ）
天王寺の前から曲れば、この三崎北町 （ さんさききたまち ） 都鄙 （ とひ ） 歳暮 （ さいぼ ） 賑 （ にぎわ ）
我家の門で車を返して、部屋に這入った。袂から蝋 （ ろう ）
綺麗 （ きれい ） 動悸 （ どうき ） 候 （ そうろう ） 外 （ ほか ） 尤 （ もっと ） 無之 （ これなく ） 微笑 （ ほほえ ） 神保町 （ じんぼうちょう ） 場 （ ば ） 傍 （ わき ）
それから純一は、床の間の隅に置いてある小葢 （ こぶた ） 攫 （ つか ） 一寸 （ ちょっと ） 厭 （ いや ） 石版摺 （ せきばんずり ）
厭な手だと思うと同時に、純一はいかに人のおもちゃになる職業の女だとは云っても、厭な名を附けたものだと思った。文字に書いたのを見たので、そう思ったのである。名刺という形見を手に持っていながら、おちゃらの表情や声音 （ せいおん ）
しかしこの名刺は純一の為めに、引き裂いて棄てたり、反古籠 （ ほごかご ） 或 （ あるい ） 一縷 （ いちる ） encens （ アンサン ） 焚 （ た ）
純一は名刺を青い鳥のペエジの間に挟んだ。そして着物も着換えずに、床の中に潜り込んだ。
翌朝純一は十分に眠った健康な体の好 （ い ） 醒 （ さ ） 咽 （ のど ） 痰 （ たん ） 咳払 （ せきばらい ） 三 （ みつ ） 前晩 （ ぜんばん ） 漱 （ うが ）
机の前に据わって、いつの間にか火の入れてある火鉢に手を翳 （ かざ ） 忽 （ たちま ） 中 （ うち ）
純一が思い出したのは、坂井の奥さんが箱根へ行 （ ゆ ） suggestion （ サジェスション ） suggestif （ サジェスシイフ ） 寧 （ むし ）
坂井の奥さんが箱根へ行 （ ゆ ） 昨夜 （ ゆうべ ） 寐 （ ね ） 近 （ ぢか ）
なんでも大村と一しょに旅行をしていて、どこかの茶店に休んでいた。大宮で休んだような、人のいない葭簀張 （ よしずば ） 麪包 （ パン ） 海嘯 （ つなみ ） 起 （ た ）
広い畑 （ はた ） 溝 （ みぞ ） 縁 （ ふち ） 榛 （ はん ） 劃 （ かく ） 劇 （ はげ ） 湧 （ わ ）
折々振り返って見るに、大村はやはり元の街道に動かずに立っている。女はいない。夢では人物の経済が自由に行われる。純一は女がいなくなったとも思わないから、なぜいないかと怪しみもしない。
忽ち scène （ セエヌ ） 踵 （ かかと ） 傍 （ そば ） 攀 （ よ ） 撥 （ は ） 埋 （ うず ）
黄いろい水がもう一面に漲 （ みなぎ ） 出 （ い ） 新 （ あらた ） Adam （ アダム ） Eva （ エヴァ ） 梢 （ こずえ ）
純一は相触れんとするまでに迫まり近づいた、知らぬ女の顔の、忽ちおちゃらになったのを、少しも不思議とは思わない。馴馴しい表情と切れ切れの詞 （ ことば ） 危 （ あやう ）
純一がはっと思って、半醒覚 （ はんせいかく ） 復 （ かえ ） 一刹那 （ いっせつな ） 誰 （ たれ ） 禽獣 （ きんじゅう ） 敢 （ あえ ） 恬然 （ てんぜん ） Atavisme （ アタヴィスム ） 措 （ お ） Atavisme （ アタヴィスム ）
半醒覚の純一が体には慾望の火が燃えていた。そして踏み脱いでいた布団を、又領元 （ えりもと ） 腮 （ あご ） 埋 （ うず ） 朧 （ おぼろ ） 眠 （ ねむり ） 入 （ い ）
純一が写象は、人間の思量の無碍 （ むげ ） 束 （ つか ） 輪廓 （ りんかく ） 褪 （ あ ） 躓 （ つまず ）
午前十時頃であった。初音町の往来へ向いた方の障子に鼠色の雲に濾 （ こ ） 色神 （ しきしん ） 好 （ い ）
「やあ、内にいてくれたね。葉書は出して置いたが、今朝起きて見れば、曇ってはいるけれど、先 （ ま ）
純一は自分の陰気な部屋へ、大村と一しょに一種の活気が這入って来たような心持がした。そして火鉢の向うに胡坐 （ あぐら ） 掻 （ か ） 好 （ い ） 行 （ い ）
大村の話を聞けば、休暇中一月の十日頃まで、近県旅行でもしようかと思う、それで告別の心持で来たということである。純一は心から友情に感激した。
一つ二つ話をしているうちに、大村が机の上にある青い鳥の脚本に目を附けた。
「何か読んでいるね」と云って、手に取りそうにするので、純一ははっと思った。中におちゃらの名刺の挟んであるのを見られるのが、心苦しいのである。
そこで純一は機先を制するように、本を手に取って、「L'oiseau （ ロアゾオ ） bleu （ ブリヨオ ） 初 （ はじめ ）
「ここですね。A （ ア ） peine （ ペエヌ ） Tyltyl （ チルチル ） a-t-il （ アチル ） tourné （ ツウルネエ ） le （ ル ） diamant （ ジアマン ） qu'un （ カン ） changement （ シャンジュマン ） soudain （ スデン ） et （ エエ ） prodigieux （ プロジジオヨオ ） s'opère （ ソペエル ） en （ アン ） toutes （ ツウト ） choses （ ショオズ ） と書き だとは思われない程、美しく書いてありますね。僕は国の中学にいた頃、友達にさそわれて、だいぶ学問のある坊さんの所へちょいちょい行ったことがあります。丁度その坊さんが維摩経 （ ゆいまきょう ） 荘厳世界 （ そうごんせかい ） 帰趣 （ きしゅ ） 麺包 （ パン ） 樅 （ もみ ） 蝋燭 （ ろうそく ） 木樵 （ きこ ） 棲 （ す ） 家 （ か ） 籠 （ かご ） 余所 （ よそ ） Tyltyl （ チルチル ） Mytyl （ ミチル ） 克 （ か ） 十九 （ じゅうく ） 齎 （ もたら ） 西瓜 （ すいか ） 林檎 （ りんご ） 鼻糞 （ はなくそ ） 煖 （ ぬく ） 考 （ かんがえ ）
純一は覚えず能弁になった。そして心の底には始終おちゃらの名刺が気になっている。大村がその本をよこせと云って、手を出すような事がなければ好 （ い ）
幸に大村は手を出しそうにもしないで云った。「そうさね。矛盾が矛盾のままでいるような所は、その脚本の弱点だろうね。しかし一体哲学者というものは、人間の万有の最終問題から観察している。外から覗 （ のぞ ） 謂 （ い ） Simmel （ シムメル ） 除 （ の ） 為事 （ しごと ） 悉 （ ことごと ） 行 （ ゆ ）
純一は大村の詞を聞いているうちに、名刺を発見せられはすまいかと思う心配が次第に薄らいで行って、それと同時に大村が青い鳥から拈出 （ ねんしゅつ ）
「ところが、どうも僕にはその日常生活というものが、平凡な前面だけ目に映じて為様 （ しよう ）
「それは大 （ おおい ）
「そうですか。そんならあなたの考えている所を、遠慮なく僕に話して聞かせて貰いたいのですがねえ」純一は大きい涼しい目を耀 （ かがや ）
大村は手に持っていた紙巻の消えたのを、火鉢の灰に挿して語り出した。「そうだね。そんなら無遠慮に大風呂敷を広げるよ」大村は白い歯を露 （ あら ） 煎 （ せん ） 行 （ い ） 希臘 （ ギリシア ） Platon （ プラトン ） 基督 （ クリスト ） 神々 （ こうごう ） 此岸 （ しがん ） 樵夫 （ きこり ） 遁世 （ とんせい ） Renaissance （ ルネッサンス ） 器世界 （ きせいかい ） 厭世 （ えんせい ） 苦艱 （ くげん ） 卑怯 （ ひきょう ） 籠 （ ご ） What （ ホワット ） how （ ハウ ） 有 （ あり ） 抹殺 （ まっさつ ） 蘐園 （ かんえん ） 契冲 （ けいちゅう ） 真淵 （ まぶち ） 馳 （ は ） Romantiker （ ロマンチケル ） Tolstoi （ トルストイ ） 覿面 （ てきめん ） 打 （ ぶ ） 行 （ い ） Dionysos （ ジオニソス ） 牢 （ かた ） Apollon （ アポルロン ） 須 （ ま ） 所謂 （ いわゆる ） 臣妾 （ しんしょう ） 行 （ ゆ ） 慥 （ たしか ）
熱心に聞いていた純一が云った。「なる程そんなものでしょうかね。僕も跡で好く考えて見なくては分からないのですが、そんな工合に連絡を附けて見れば、切れ切れになっている近世の思想に、綜合点が出来て来るように思われますね。こないだなんとか云う博士 （ はくし ） 可笑 （ おか ）
「そりゃあ君、無論可笑しいさ。そんな人は個人主義を利己主義や自己中心主義と一しょにしているばかりではなくって、無政府主義とも一しょにしているのだね。一体太古の人間が一人一人穴居から這い出して来て、化学の原子のように離れ離れに生活していただろうと思うのは、まるで歴史を撥無 （ はつむ ） Contrat （ コントラ ） social （ ソシアル ） 溯 （ さかのぼ ） 羈絆 （ きはん ）
これまでになく打ち明けて、盛んな議論をしているが、話の調子には激昂 （ げきこう ） 迹 （ あと ）
「一体妙な話さ」と、大村が語り続けた。「ロシアと戦争をしてからは、西洋の学者が一般に、日本人の命を惜まないことを知って、一種の説明をしている。日本なんぞでは、家族とか国家とか云う思想は発展していないから、そういう思想の為めに犠牲になるのではない。日本人は異人種の鈍い憎悪の為めに、生命 （ せいめい ） 覚 （ さと ） 誰 （ たれ ） 好 （ い ） méconnaissance （ メコンネッサンス ） 拡張 （ こうちょう ） 白耳義 （ ベルギイ ）
純一も黙って考え込んだ。しかしそれと同時に尊敬している大村との隔てが、遽 （ にわ ） 微笑 （ ほほえ ）
「何を笑うんだい」と、大村が云った。
「きょうは話がはずんで、愉快ですね」
「そうさ。一々の詞を秤 （ はかり ）
「なぜ人間は年を取るに従って偽善に陥ってしまうでしょう」
「そうさね。偽善というのは酷かも知れないが、甲らが硬くなるには違いないね。永遠なる生命が無いと共に、永遠なる若さも無いのだね」
純一は暫く考えて云った。「それでもどうにかして幾分かその甲らの硬くなるのを防ぐことは出来ないでしょうか」
「甲らばかりでは無い。全身の弾力を保存しようという問題になるね。巴里 （ パリイ ） Institut （ アンスチチュウ ） Pasteur （ パストヨオル ） Metschnikoff （ メチュニコッフ ）
「そうですか。そんな人がありますかね。僕は死ぬまいなんぞとは思わないのですが、どうか石灰化せずにいたいものですね」
「君、メチュニコッフ自身もそう云っているのだよ。死なないわけには行 （ い ）
二人共余り遠い先の事を考えたような気がしたので、言い合せたように同時に微笑んだ。二人はまだ老 （ おい ）
忽ち襖 （ ふすま ） 午飯 （ ひるめし ）
食事をしまって茶を飲みながら、隔ての無い青年同士が、友情の楽しさを緘黙 （ かんもく ） 中 （ うち ）
純一が炭斗 （ すみとり ） Charpentier （ シャルパンチエエ ） et （ エエ ） Fasquelle （ ファスケル ） 仮綴 （ かりとじ ） 忙 （ せ ） 堅靭 （ けんじん ） 揉 （ も ） 袂 （ たもと ）
純一は証拠を湮滅 （ いんめつ ） 〈［＃底本はルビを「えんめつ」と誤植］〉 させた犯罪者の感じる満足のような満足を感じた。
便所から出て来た大村は、「もうそろそろお暇 （ いとま ） 翳 （ かざ ）
「旅行の準備でもあるのですか」
「何があるものか」
「そんなら、まあ、好 （ い ）
「君も寂しがる性 （ たち ） 胡座 （ あぐら ） 骨牌 （ かるた ） Haschisch （ ハッシッシュ ）
二人は顔を見合せて笑った。
それから官能的受用で精神をぼかしているなんということは、精神的自殺だが、神経の異様に興奮したり、異様に抑圧せられたりして、体をどうしたら好 （ い ） 倦 （ う ） sport （ スポルト ） sport （ スポルト ） 畢竟 （ ひっきょう ） 遣 （ や ） 縦 （ たと ） Paul （ パウル ） Heyse （ ハイゼ ） sport （ スポルト ）
純一は思い当る所があるらしく、こう云った。「僕は芸術家がる訳ではないのですが、どうも勝負事には熱心になられませんね」
「もう今に歌がるたの季節になるが、それでは駄目だね」
「全く駄目です。僕はいつも甘んじて読み役に廻されるのです」と、純一は笑いながら云った。
「そうさね。同じ詞で始まる歌が、百首のうちに幾つあるということを諳 （ そら ） 初五文字 （ しょごもじ ） 好 （ い ） 上 （ のぼ ） Ａ （ ア ） Ｂ （ ベ ） 蒔 （ ま ） Ａ （ ア ） Ａ （ ア ） 撈 （ さら ） 穿鑿 （ せんさく ）
「一体あんな事を遣ると、なんにも分からない、音 （ おん ） routiniers （ ルチニエエ ） 愚弄 （ ぐろう ） 厭 （ いや ）
「それでは君にはまだ幾分の争気がある」
「若いのでしょう」
「どうだかねえ」
二人は又顔を見合わせて笑った。
純一の笑う顔を見る度に、なんと云う可哀い目附きをする男だろうと、大村は思う。それと同時に、この時ふと同性の愛ということが頭に浮んだ。人の心には底の知れない暗黒の堺 （ さかい ） 余所 （ よそ ） 交 （ まじわり ） 尤 （ もっと ） 屑 （ いさぎよし ） 饒舌 （ じょうぜつ ） homosexuel （ オモセクシュエル ） 萌芽 （ ほうが ） 一寸 （ ちょっと ）
暫 （ しばら ） 行 （ い ）
「なんにも当てがないのです。とにかくそこいらまで送って行 （ い ）
午後二時にはまだなっていなかった。大学の制服を着ている大村と一しょに、純一は初音町の下宿を出て、団子坂の通へ曲った。
門 （ かど ） 注連縄 （ しめなわ ） 賑 （ にぎ ） 綺麗 （ きれい ）
この町の北側に、間口の狭い古道具屋が一軒ある。谷中は寺の多い処だからでもあろうか、朱漆 （ しゅうるし ） 木魚 （ もくぎょ ） 胡粉 （ ごふん ） 剥 （ は ） 古金 （ ふるかね ） 数 （ かず ） 揃 （ そろ ） 鰐口 （ わにぐち ） 磬 （ けい ） 釣荵 （ つりしのぶ ）
純一はいつも通る度に、ちょいとこの店を覗いて過ぎる。掘り出し物をしようとして、骨董店 （ こっとうてん ） 這入 （ はい ） 闕 （ か ） 金屑 （ かなくず ） 睜 （ みは ）
この古道具屋を覗くのは、あの時の心持の名残である。一種の探検である。鏽 （ さ ） 痕 （ あと ） ruine （ ルユイイヌ ）
きょう通って見ても、周囲の影響を受けずにいるのは、この店のみである。
純一が古道具屋を覗くのを見て、大村が云った。「君はいろんな物に趣味を有していると見えるね」
「そうじゃないのです。あんまり妙な物が並んでいるので、見て通るのが癖になってしまいました」
「頭の中があの店のようになっている人もあるね」
二人はたわいもない事を言って、山岡鉄舟の建てた全生庵 （ ぜんしょうあん ） 鐘楼 （ しゅろう ） 行 （ ゆ ）
この時下から上がって来る女学生が一人、大村に会釈をした。俯向 （ うつむ ） 廂 （ ひさし ） 一瞥 （ いちべつ ） 下 （ もと ）
大村は角帽を脱いで答礼をした。
純一は只女学生だなと思った。手に持っている、中身は書物らしい紫の包みの外には、喉 （ のど ） 括 （ くく ） 袴 （ はかま ） 菫色 （ すみれいろ ） 飛白 （ かすり ） 萌葱 （ もえぎ ） 友禅縮緬 （ ゆうぜんちりめん ） 襲 （ かさ ） 襦袢 （ じゅばん ） 白衿 （ しろえり ） 膩垢 （ あぶらあか ）
しかし純一の目に強い印象を与えたのは、琥珀色 （ こはくいろ ） 目 （ ま ）
どう云う筋の近附きだろうかと、純一が心の中 （ うち ） 独言 （ ひとりごと ）
それから坂を降りて又登る途 （ みち ）
大村が始めてこの女に逢ったのは、去年雑誌女学界の懇親会に往った時であった。なんとか云う若いピアニストが六段をピアノで弾くのを聞いて、退屈しているところへ、遅れて来た女学生が一人あって、椅子が無いのでまごまごしていた。そこで自分の椅子を譲って遣って、傍 （ そば ） 風炉敷 （ ふろしき ） 三枝 （ さいぐさ ） 氏 （ うじ ） 独逸 （ ドイツ ）
懇親会の翌日、大村の所へ茂子の葉書が来た。又暫く立つと、或る日茂子が突然大村の下宿へ尋ねて来た。Sudermann （ ズウデルマン ） Zwielicht （ ズヴィイリヒト ）
その次の度には、Nicht （ ニヒト ） doch （ ドホ ） Tavote （ タヴォオテ ） 宜 （ よろ ） 辟易 （ へきえき ） 語 （ ことば ） point （ ポアン ） du （ ドュ ） tout （ ツウ ） nenni-dà （ ナンニイ ダア ） 稍 （ やや ） 語 （ ことば ） 喝采 （ かっさい ） 憾 （ うらみ ） 語 （ ことば ） innocente （ アンノサント ） 篁村翁 （ こうそんおう ） 矢絣 （ やがすり ） 憚 （ はばか ）
茂子さんはそれきり来なくなった。大村が云うには、二人は素 （ も ） 勿論 （ もちろん ） 行 （ ゆ ） 中 （ うち ）
大村がこう云って、詞を切ったとき、二人は往来から引っ込めて立てた門のある、世尊院の前を歩いていた。寒そうな振 （ ふり ）
「一体どんな性質の女ですか」と、突然純一が問うた。
「そうさね。歌を見ると、情に任せて動いているようで、逢って見ると、なかなか駈引のある女だ」
「妙ですね。どんな内の娘ですか」
「僕が問いもせず、向うが話しもしなかったのだが、後 （ のち ） 外 （ ほか ） 按摩 （ あんま ）
「なんだか少し気味が悪いようじゃありませんか」
「さあ。僕もそれを聞いたときは、不思議なようにも思い、又君の云う通り、気味の悪いようにも思ったね。それからそう思ってあの女の挙動を、記憶の中から喚び起して見ると、年は十六でも、もうあの時に或る過去を有していたらしいのだね。やはりその身元の話をした男が云ったのだが、茂子さんは初め女医になるのだと云って、日本医学校に這入って、男生ばかりの間に交って、随意科の独逸語を習っていたそうだ。その後 （ のち ） 罷 （ や ） problématique （ プロブレマチック ）
二人は肴町 （ さかなまち ）
「Au （ オオ ） revoir （ ルヴォアアル ） 一声 （ いっせい ） 大股 （ おおまた ） 夕 （ ゆうべ ） 薄衣 （ うすぎぬ ） 行 （ ゆ ） 摩 （ す ）
箱根湯本の柏屋という温泉宿の小座舗 （ こざしき ） 蹙 （ しか ）
きょうは十二月三十一日なので、取引やら新年の設けやらの為めに、家 （ うち ） 七絶 （ しちぜつ ） 半折 （ はんせつ ） 革包 （ かばん ） 傍 （ そば ） inoctavo （ アノクタヴォ ） 横文 （ おうぶん ） 挿画 （ さしえ ） L'Illustration （ リルリュストラション ） Théâtrale （ テアトラアル ）
ゆうべ東京を立って、今箱根に着いた。その足で浴室に行って、綺麗な湯を快く浴びては来たが、この旅行を敢 （ あえ ） 頗 （ すこぶ ） 懐 （ いだ ） 識 （ し ）
＊ ＊ ＊
大村は近県旅行に立ってしまう。外に友達は無い。大都会の年の暮に、純一が寂しさに襲われたのも、無理は無いと云えば、それまでの事である。しかし純一はこれまで二日や三日人に物を言わずにいたって、本さえ読んでいれば、寂しいなんと云うことを思ったことはなかったのである。
寂しさ。純一を駆って箱根に来させたのは、果して寂しさであろうか。Solitude （ ソリチュウド ） 詞遣 （ ことばづかい ） einsam （ アインザアム ） zweisam （ ツヴァイザアム ）
それも恋愛ゆえだと云うことが出来るなら、弁護にもなるだろう。純一は坂井夫人を愛しているのではない。純一を左右したものはなんだと、追窮して見れば、つまり動物的の策励だと云わなくてはなるまい。これはどうしたって庇護 （ ひご ）
東京を立った三十日の朝、純一はなんとなく気が鬱してならないのを、曇った天気の所為 （ せい ） 叫声 （ さけびごえ ） 策 （ むち ） 起 （ た ）
純一は夕方になって、急に支度をし始めた。そこらにある物を掻 （ か ） 駱駝 （ らくだ ） 膝掛 （ ひざかけ ） 行 （ い ）
余り出し抜けなので、驚いて目を睜 （ みは ） 鞆屋 （ ともえや ） 包 （ つつみ ）
新橋で発車時間を調べて見ると、もう七時五十分発の列車が出た跡で、次は九時発の急行である。国府津 （ こうづ ） 漕 （ こ ） 行 （ い ） 儘 （ まま ） 行 （ ゆ ） 極 （ き ）
Buffet （ ビュッフェエ ） 一間 （ ひとま ） 骸炭 （ コオクス ） 被 （ かぶ ） 鉤 （ かぎ ） 二品 （ ふたしな ） 誂 （ あつら ） 舐 （ な ）
初音町の家を出るまで、苛立 （ いらだ ） 行 （ い ） 汐 （ しお ） 陋 （ いや ） 就中 （ なかんずく ） 刹那 （ せつな ） 容 （ ゆる ） 斥 （ しりぞ ） 恕 （ じょ ） 汙 （ けが ） 行 （ ゆ ） fierté （ フィエルテエ ）
こんな事を思っているうちに、給仕が ham-eggs （ ハム エッグス ） 痩 （ や ） 竿 （ さお ） 頸 （ くび ） 露 （ あら ） 蝙蝠傘 （ こうもりがさ ） 倚 （ よ ） 咖啡 （ コオフィイ ） crème （ クレエム ） 謂 （ い ） lemures （ レムレス ）
急行の出る九時が段段近づいて来ると共に、客がぽつぽつこの間 （ ま ） 出 （ い ） 誰 （ たれ ）
喧騒 （ けんそう ） 中 （ うち ） 誰彼 （ たれかれ ） femme （ ファム ） omineuse （ オミニョオズ ） 行 （ ゆ ）
プラットフォオムはだいぶ雑遝 （ ざっとう ） 向側 （ むこうがわ ） 却 （ かえっ ） 籠 （ こ ）
汽車が動き出してから、純一は革包を開けて、風炉敷の中を捜して、本を一冊取り出した。青い鳥と同じ体裁の青表紙で、Henry （ アンリイ ） Bernstein （ ベルンスタイン ） Le （ ル ） voleur （ ヴォリヨオル ） 寧 （ むし ）
象牙 （ ぞうげ ） 小刀 （ こがたな ） 飜 （ ひるがえ ） 行 （ ゆ ）
二三ペエジ読むと、目が懈 （ だる ） 堪 （ た ） 負 （ まけ ） 覗 （ のぞ ）
読みさした処に、指を一本挟んで閉じた本を、膝の上に載せたまま、純一は暫く向いの窓に目を移している。汽車は品川にちょっと寄った切りで、ずんずん進行する。闇のうちを、折折どこかの燈火 （ ともしび ） 忽 （ たちま ） 場 （ ば ）
純一の想像には、なんの動機もなく、ふいと故郷の事が浮かんだ。お祖母 （ ば ） 行 （ ゆ ）
隣の商人らしい男が新聞を読み出したのに促されて、純一は又脚本を明けて少し読む。女主人公 Marie （ マリイ ） Louise （ ルイイズ ） Paquin （ パケン ） 嵩 （ かさ ） 顕 （ あらわ ） 中 （ うち ） 綯 （ な ） 倦 （ う ） 行 （ ゆ ） théâtral （ テアトラル ）
目がむず癢 （ がゆ ） 烟 （ けむり ） 靡 （ なび ） 彗星 （ すいせい ） Fernand （ フェルナン ） 憂悶 （ ゆうもん ） 無辜 （ むこ ） 掩 （ おお ） 閨 （ ねや ） 呑 （ の ） 笋 （ たかんな ） 己 （ おれ ） 覚束 （ おぼつか ） 大金 （ たいきん ） Brésil （ ブレジル ） 遣 （ や ）
間もなく汽車が国府津に着いた。純一はどこも不案内であるから、余り遅くならないうちに泊って、あすの朝箱根へ行 （ い ）
宿屋はまだ皆開 （ あ ） 燈火 （ ともしび ） 甲斐々々 （ かいがい ） 忙 （ いそが ） 爪尖 （ つまさき ） 開 （ あ ）
次の宿屋に行 （ ゆ ）
不思議だとは思うが、誰に問うて見ようもない。お伽話 （ とぎばなし ）
純一はとうとう巡査の派出所に行って、宿泊の世話をして貰いたいと云った。巡査は四十ばかりの、flegmatique （ フレグマチック ） 寝惚 （ ねぼ ） 縁 （ ふち ） 股火 （ またび ）
巡査が純一を連れて行って立ち留まったのは、これまで純一が叩いたような、新築の宿屋と違って、壁も柱も煤 （ すす ） 門 （ かど ） 纏 （ まと ） 湯帷子 （ ゆかた ）
純一は真っ黒な、狭い梯子 （ はしご ） 上 （ のぼ ） 口 （ ぐち ） 手摩 （ てす ） 繞 （ めぐ ） 外 （ ほか ） 行燈 （ あんどん ） 嵌 （ は ） 衝 （ つ ）
「直ぐにお休みなさいますか。何か御用は」
純一は唯とにかく屋根の下には這入られたと思っただけで、何を考える暇もなく、茫然としていたが、その屋根の下に這入られた喜 （ よろこび ）
「何か肴 （ さかな ）
「煮肴がございます」
「それで好 （ い ）
角刈の男は、形ばかりの床の間の傍 （ そば ） 括 （ くく ） 枕 （ まくら ） 展 （ の ）
純一は衝っ立ったままで、暫 （ しばら ） 贅沢品 （ ぜいたくひん ） 抛 （ な ） 油垢 （ あぶらあか ）
純一はおそるおそる敷布団の上に据わって、時計を出して見た。もう殆ど十二時である。なんとも名状し難い不愉快が、若い、弾力に富んでいる心をさえ抑え附けようとする。このきたない家に泊るのが不愉快なのではない。境遇の懐子 （ ふところご ） efféminé （ エッフェミネエ ） Sparta （ スパルタ ） 厭 （ いや ）
角刈の男が火鉢を持って上がって来た。藍色 （ あいいろ ） 釉 （ くすり ） 襷 （ たすき ） 酒肴 （ さけさかな ） 猪口 （ ちょく ） 腥 （ なまぐさ ） 青肴 （ あおざかな ） 枕許 （ まくらもと ） 蹙 （ しか ）
純一はどうして寝ようかと考えた。眠たくはないが、疲労と不愉快とで、頭の心 （ しん ） 袴 （ はかま ） 領 （ えり ）
純一は革包を枕許に持って来て置いた。それから徳利を攫 （ つか ） 燗酒 （ かんざけ ） 穿 （ は ） 動悸 （ どうき ） 寐 （ ね ）
いくら寐たか分からない。何か物音がすると云うことを、夢現 （ ゆめうつつ ） 郡 （ ごおり ） 何 （ なん ） 何兵衛 （ なにべえ ） 何 （ なに ）
知らぬ女と二人で、この二階に寝るのだと思うと、純一は不思議なような心持がした。しかし間の悪いのと、気の毒なのとで、その方を見ずに、じっとしていた。暫くして女が「もしもし」と云った。慥 （ たし ） 醒 （ さ ） 好 （ い ）
「あの東京へ参りますのですが、上りの一番は何時に出ますでしょうか」
純一は強情に女の方を見ずに答えた。「そうですね。僕も知らないのですが、革包の中に旅行案内があるから、起きて見て上げましょうか」
女は短い笑声 （ わらいごえ ） 宜 （ よろ ）
こう云ったきり、女は黙ってしまった。純一はやはり強情に見ずにいる。女の寐附かれないらしい様子で、度々寝返りをする音が聞える。どんな女か見たいとも思ったが、今更見るのは弥 （ いよいよ ）
朝になって純一が目を醒ました時には、女はもういなかった。こんな家 （ うち ） 手水 （ ちょうず ）
湯本の朝日橋まで三里の鉄道馬車に身を托して、靄 （ もや ） 穿 （ うが ） 好 （ い ）
鉄道馬車を降りてから、純一はわざと坂井夫人のいる福住 （ ふくずみ ） 分疏 （ いいわけ ） 詭弁 （ きべん ） 大 （ おおき ）
福住へ行 （ ゆ ） 弄 （ もてあそ ） 閾 （ しきい ） 疾 （ と ） 若 （ も ） 猶 （ なお ）
そしてその時間を縮めようとしている或る物が存 （ そん ） 詞 （ ことば ） Un （ アン ） geste （ ジェスト ） un （ アン ） mot （ モオ ） inarticulé （ イナルチクユレエ ） 璞 （ あらたま ） 浄 （ きよ ） 辿 （ たど ） 面紗 （ めんしゃ ）
この記念を忘れさせてくれる Lethe （ レエテ ） 我 （ わが ） élégiaque （ エレジアック ） 煩累 （ はんるい ） 芟 （ か ） 難 （ かたん ）
純一はこう云う声が自分を嘲 （ あざけ ） 行 （ ゆ ） 憚 （ はばか ）
昨夜 （ ゆうべ ） 午食 （ ごしょく ）
目を醒まして見ると、一人の女中が火鉢に炭をついでいた。色の蒼白 （ あおじろ ）
「あの、新聞を御覧になりますなら、持って参りましょう」
俯向 （ うつむ ） 羞 （ はじ ）
「ああ。持って来ておくれ」
別に読みたいとも思わずに、唯女の問うに任せて答えたのである。
女はやはり俯向いて、なまめかしい態度をして立って行った。
純一が起きて火鉢の側 （ そば ） 逞 （ たくま ） 穿鑿 （ せんさく ）
純一は一枚の新聞を手に取って、文芸欄を一寸 （ ちょっと ） 謂 （ い ） 目蓋 （ めおお ）
それから夕食前に少し散歩をして来ようと思って、ぶらりと宿屋を出た。石に触れて水の激する早川の岸を歩む。片側町に、宿屋と軒を並べた鏇匠 （ ひきものし ） 上 （ かみ ） 嵩張 （ かさば ） 楊枝入 （ ようじい ） 選 （ え ）
その時何か話して笑いながら、店の前を通り掛かる男女の浴客 （ よくかく ） 笑声 （ わらいごえ ） 吊銭 （ つりせん ） 独楽 （ こま ） 端 （ はし ）
夫人は紺飛白 （ こんがすり ） 召縮緬 （ めしちりめん ） 鶉縮緬 （ うずらちりめん ） 襲 （ かさ ） 銀杏返 （ いちょうがえ ） 結 （ い ） 黒鼈甲 （ くろべっこう ） 蝶貝 （ ちょうかい ） 櫛 （ くし ） 挿 （ さ ） 媚 （ こび ）
夫人の朗かな笑声は忽ち絶えて、discret （ ジスクレエ ） 愛敬笑 （ あいきょうわらい ） 湛 （ たた ） 頓着 （ とんじゃく ）
「あら。来ていらっしゃるのね」
純一は「ええ」と云った積りであったが、声はいかにも均衡を失った声で、しかも殆ど我耳にさえ聞えない位低かった。
夫人は足を留めて連れの男を顧みた。四十を越した、巌乗な、肩の廉張 （ かどば ） 好 （ い ）
「小泉さんと云う、文学をなさる方でございます」それから純一の方に向いて云った。「この方は画家の岡村さんですの。やはり福住に泊っていらっしゃいます。あなたなぜ福住へいらっしゃらなかったの。わたくしがそう申したじゃありませんか」
「つい名前を忘れたもんですから、柏屋にしました」
「まあ忘れっぽくていらっしゃることね。晩にお遊びにいらっしゃいましな」言い棄てて、夫人が歩き出すと、それまで二王立 （ におうだち ） 小人島 （ こびとじま ） 谺響 （ こだま ）
純一は暫く二人を見送っていた。その間店の上さんが吊銭を手に載せて、板縁 （ いたえん ） 膝 （ ひざ ） 鱷皮 （ わにがわ ） 蝦蟇口 （ がまぐち ）
対岸に茂っている木々は、Carnaval （ カルナヴァル ） 群 （ むれ ） 駅路 （ えきろ ） 所々 （ ところどころ ）
純一はぼんやりして宿屋の方へ歩いている。或る分析し難い不愉快と、忘れていたのを急に思い出したような寂しさとが、頭を一ぱいに填 （ うず ） 嫉妬 （ しっと ） 邂逅 （ かいこう ） 己 （ おれ ） 刺戟 （ しげき ） 画 （ え ） 僻目 （ ひがめ ） 冷澹 （ れいたん ） 羨 （ うらや ） 癪 （ しゃく ）
そしてこの感じに寂しさが伴っている。厭な、厭な寂しさである。大村に別れた後 （ のち ） 咡 （ ささや ） 稍 （ やや ） 痩 （ やせ ） 動 （ やや ） 蝶々髷 （ ちょうちょうまげ ） 差支 （ さしつかえ ） 技倆 （ ぎりょう ） complot （ コムプロオ ） 萌芽 （ ほうが ）
純一はこんな事を考えながら歩いていて、あぶなく柏屋の門口 （ かどぐち ） 背後 （ うしろ ） 鍵 （ かぎ ） 捩 （ ねじ ）
＊ ＊ ＊
夕食をしまって、純一は昼間見なかった分の新聞を取り上げて、引っ繰り返して見た。ふと「色糸」と題した六号活字の欄に、女の写真が出ているのを見ると、その首の下に横に「栄屋おちゃら」と書いてあった。印刷インクがぼってりとにじんでいて、半分隠れた顔ではあるが、確かに名刺をくれた柳橋の芸者である。
記事はこうである。「栄屋の抱えおちゃら（十六） は半玉の時から男狂いの噂 （ うわさ ） 贔屓 （ ひいき ） 性懲 （ しょうこり ） 人形喰 （ にんぎょうくい ） 外 （ ほか ） 辰姉 （ たつね ） 強意見 （ こわいけん ） 動 （ やや ） 折檻賽 （ せっかんまが ） 絆纏着 （ はんてんき ） 兄 （ に ） 喰 （ く ）
読んでしまって純一は覚えず微笑 （ ほほえ ） 縦 （ たと ） 嘉言善行 （ かげんぜんこう ） 頗 （ すこぶ ） 聊 （ いささ ） 弛 （ ゆる ） 恢復 （ かいふく ）
丁度そこへ女中が来て、福住から来た使 （ つかい ） 仰 （ おっし ） 躊躇 （ ちゅうちょ ） 縦 （ よ ） 強 （ す ） 卑怯 （ ひきょう ） 退嬰 （ たいえい ） 極 （ き ） 逡巡 （ しゅんじゅん ） 緩頬 （ かんきょう ） 好 （ い ）
純一は直ぐに福住へ行った。
女中に案内せられて、万翠楼 （ ばんすいろう ） 笑声 （ わらいごえ ） Basse （ バス ） 嘶 （ いなな ）
箱根に於ける坂井夫人。これは純一の空想に度々画 （ えが ） 出 （ いだ ） 鬱蒼 （ うっそう ） 境 （ さかい ） 中 （ うち ） Ondine （ オンジイヌ ） 先 （ ま ） Faune （ フォオヌ ）
廊下に出迎えた女を見れば、根岸で見たしづ枝である。
「お待ちなさっていらっしゃいますから、どうぞこちらへ」ここで客の受取り渡しがある。前哨線が張ってあるようなものだと、純一は思った。そして何物が掩護 （ えんご ） 易 （ か ） 然 （ しか ）
次の間に入って跪 （ ひざまず ） 徐 （ しず ）
「さあ、こっちへ這入 （ はい ） 好 （ い ） 傍 （ そば ） 置炬燵 （ おきごたつ ）
しづ枝に茶を入れ換えることを命じて置いて、奥さんは純一の顔をじっと見た。
「あなた、いつから来ていらっしゃいますの」
「まだ来たばっかりです。来ると直ぐあなたにお目に掛かったのです」
「柏屋には別品がいるでしょう」と、岡村が詞を挟んだ。
「どうですか。まだ来たばっかりですから、僕には分かりません」
「そんな事じゃあ困るじゃないか。我輩なんぞは宿屋に着いて第一に着眼するのはそれだね」
声と云い、詞と云い、だいぶ晩酌が利いているらしい。
「世間の人が皆岡村さんのようでは大変ですわね」奥さんは純一の顔を見て、庇護 （ ひご ）
岡村はなかなか黙っていない。「いや、奥さん。そうではありませんよ。文学者なんというものは、画かきよりは盛んな事を遣るのです」これを冒頭に、岡村の名を知っている、若い文学者の噂が出る。近頃そろそろ出来掛かった文芸界の Bohémiens （ ボエミアン ） 蒲団 （ ふとん ） 煤烟 （ ばいえん ）
純一にはこの席にいることが面白くない。しかしおとなしい性 （ たち ） 訐 （ あば ） 齎 （ もたら ） 穿 （ うが ） 危 （ あやう ） 好 （ い ） 外間 （ がいかん ） 所謂 （ いわゆる ）
しず枝が茶を入れ換えて、主客三人の茶碗に注いで置いて、次へ下がった跡で、奥さんが云った。
「小泉さん。あなた余りおとなしくしていらっしゃるから、岡村さんが勝手な事ばかし仰ゃいますわ。あなたの方でも、画かきの悪口でも言ってお上げなさると好 （ い ）
「まあ僕は廃 （ よ ） 笑 （ わらい ） 動 （ やや ） 須 （ もち ）
岡村が純一に、何か箱根で書く積りかと問うたので、純一はありのままに、そんな企ては持っていないと云った。その時奥さんが「小泉さんなんぞはまだお若いのですから、そんなにお急ぎなさらなくても」と云ったが、これも庇護の詞になったのである。純一は稍反抗したいような気になって、「先生は何かおかきですか」と問い返した。そうすると奥さんが、岡村は今年の夏万翠楼の襖 （ ふすま ） 衝立 （ ついたて ）
純一はそれを慥 （ たしか ）
「箱根は夏の方が好 （ い ）
「そうさ」と云って、岡村は無邪気に暫く考える様子であった。そして何か思い出したように、顴骨 （ かんこつ ） 笑 （ えみ ） 続 （ つ ） 靄 （ もや ） 籠 （ こ ） 覗 （ ねら ） 為様 （ しよう ） 兜虫 （ かぶとむし ） 掴 （ つか ）
奥さんが傍 （ そば ） 撈 （ さら ） 手桶 （ ておけ ） 行 （ い ）
純一は聞きながら、二人は一しょにそう云う事に出逢ったと云うのだろうか、それとも岡村も奥さんも偶然同じ箱根の夏を知っているに過ぎないのだろうかと、まだ幾分の疑いを存 （ そん ）
岡村は少し興に乗じて来た。「随分かなぶんぶんには責められたね。しかし吾輩は復讎 （ ふくしゅう ） 拵 （ こしら ） 磐石糊 （ ばんじゃくのり ） 曳 （ ひ ） 嘶 （ いなな ）
「磐石糊というのは、どんな物でございますの」と、奥さんが問うた。
「磐石糊ですか。町で幾らも売っていまさあ」
「わたくしあなたが上野の広小路あたりへ立って、かなぶんぶんを売っていらっしゃる処が拝見しとうございますわ」
「きっと盛んに売れますよ。三越なんぞで児童博覧会だのなんのと云って、いろんなおもちゃを陳列して見せていますが、まだ生きたおもちゃと云うのはないのですからね」
「直ぐに人が真似をいたしはしませんでしょうか。戦争の跡に出来たロシア麪包 （ パン ）
「吾輩専売にします」
「生きた物の専売がございましょうか」
「さあ、そこまでは吾輩まだ考えませんでした」岡村は又笑った。そして言い足した。「とにかくうるさい奴ですよ。大抵篝 （ かがり ）
「ほんとにあの篝は美しゅうございましたわね」
純一ははっと思った。この「美しゅうございました」と云った過去の語法は、二人が一しょに篝を見たのだと云うことを irréfutable （ イルレフュタアブル ） 疾 （ と ）
純一の不快な心持は、急劇に増長して来た。そしてこの席にいる自分が車の第三輪ではあるまいかという疑いが起って、それが間断なく自分を刺戟して、とうとう席に安んぜざらしむるに至った。
「僕は今夜はもうお暇 （ いとま ） 鍼 （ はり ） 上 （ のぼ ）
福住の戸口を足早に出て来た純一は、外へ出ると歩度を緩めて、万翠楼の外囲いに沿うて廻って、坂井夫人のいる座敷の前に立ち留まった。この棟 （ むね ） 燈火 （ ともしび ）
暇乞 （ いとまごい ） 拘 （ かかわ ） 目守 （ まも ） 起 （ た ） 好 （ い ） 腑甲斐 （ ふがい ） 堪 （ た ）
純一は暫く立っていたが、誰 （ たれ ） 夜 （ よ ） 入 （ い ） 一際 （ ひときわ ） 情緒 （ じょうしょ ）
柏屋に帰った。戸口を這入る時から聞えていた三味線が、生憎 （ あいにく ）
二階はなかなか賑 （ にぎ ） 大晦日 （ おおみそか ） 音 （ ね ） 呪文 （ じゅもん ） 盃 （ さかずき ） 等 （ ら ） 杯 （ さかずき ）
純一は取ってある床の中に潜り込んで、じっとしている。枕に触れて、何物をか促し立てるように、頸 （ くび ） 動悸 （ どうき ） 祟 （ たた ）
純一は何事をも忘れて寐 （ ね ） 感応 （ かんおう ） 若 （ し ） 巧緻 （ こうち ） 好 （ い ） 却 （ かえっ ） 愈々 （ いよいよ ）
例之 （ たとえ ） 好 （ い ） 温存 （ おんそん ）
箱根を去るのが実に名案である。これに限る。そうすれば、あの夫人に見せ附けて遣 （ や ） 好 （ い ） 断 （ た ） 質 （ しち ） 集 （ しゅう ）
こう思うと、純一の心は濁水に明礬 （ みょうばん ） 中 （ うち ） 籠 （ こ ） 沈澱 （ ちんでん ） 仮初 （ かりそめ ） 境 （ さかい ） 黒甜郷 （ こくてんきょう ） 跳梁 （ ちょうりょう ） 埋 （ うず ）
翌朝 （ よくあさ ） 夜明 （ よあけ ） 醒 （ さ ） 四十恰好 （ しじゅうがっこう ） 外套 （ がいとう ） 衿 （ えり ） 忙 （ せわ ）
便所からの帰りに、ふと湯に入 （ い ） 覗 （ のぞ ） 誰 （ たれ ） 蹲 （ つくば ）
部屋には帰って見たが、早立ちの客の外は、まだ寐静まっている時なので、火鉢に火も入れてない。純一は又床に這入って、強いて寐ようとも思わずに、横になっていた。
目がはっきり冴 （ さ ）
夜疲れた後 （ のち ） 啻 （ ただ ） héroique （ エロイック ） 溯 （ さかのぼ ） 左顧右眄 （ さこゆうへん ） 掣肘 （ せいちゅう ） 推 （ すい ）
純一はきょうきっと実行しようと自ら誓った。そして心の中にも体の中にも、これに邪魔をしそうな或る物が動き出さないのを見て、最終の勝利を羸 （ か ） 歛 （ おさ ） 後 （ のち ） 錦城 （ きんじょう ） 譬喩 （ ひゆ ）
さてきょう実行すると極めて、心が落ち着くと共に、潜っている温泉宿の布団の中へ、追憶やら感想やら希望やら過現未 （ かげんみ ） 音信 （ おとず ） 閲 （ けみ ） 悉 （ ことごと ） 泡沫 （ ほうまつ ） 出来 （ でか ） 空頼 （ そらだの ） 蜜蜂 （ みつばち ） 拙 （ つたな ） 棋 （ ご ） 閾 （ しきい ） 家 （ うち ） 糞 （ くそ ） Der （ デル ） Teufel （ トイフェル ） hole （ ホオレ ） sie （ ジイ ） 好 （ い ）
純一は夜着をはね退 （ の ） 胡坐 （ あぐら ） 掻 （ か ） 咫尺 （ しせき ） 間 （ あいだ ） 横 （ よこた ） 紅 （ くれない ） 潮 （ ちょう ） 耀 （ かがや ）
純一が書こうと思っている物は、現今の流行とは少し方角を異にしている。なぜと云うに、その sujet （ シュジェエ ） 祖母 （ ば ） Flaubert （ フロオベル ） Maeterlinck （ マアテルリンク ） 藍本 （ らんほん ） 革包 （ かばん ） 識 （ し ） 所謂 （ いわゆる ） Archaïsme （ アルシャイスム ） 詞 （ ことば ） 味 （ あじわい ） 傷 （ きずつ ）
こんな事を思って、暫く前から勝手の方でがたがた物音のしているのを、気にも留めずにいると、天井の真中に手繰り上げてある電燈が突然消えた。それと同時に、もう外は明るくなっていると見えて、欄間 （ らんま ）
女中が十能 （ じゅうのう ） 綺麗 （ きれい ） 活 （ い ）
ろくろく寝る隙 （ ひま ） 撫 （ な ） 性 （ たち ）
純一は義務として何か言わなくてはならないような気がした。
「ねむたかないか」と云って見た。
「いいえ」と女の答えた頃には、純一はまずい、sentimental （ サンチマンタル ）
「なに。好く寐られた」と、純一は努めて無造做 （ むぞうさ ）
障子の外では、がらがらと雨戸を繰り明ける音がし出した。女は丁度火を活けてしまって、火鉢の縁 （ ふち ）
「あのお雑煮を上がりますでしょうね」
「ああ、そうか。元日だったな。そんなら顔でも洗って来よう」
純一は楊枝 （ ようじ ） 廃 （ よ ） 可笑 （ おか ）
部屋に返るとき、入口 （ いりくち ）
雑煮のお給仕も並のであった。その女中に九時八分の急行に間に合うように、国府津へ行 （ い ）
「でも己より早く帰った人もあるじゃないか」
「それは違いますわ」
「どう違う」
「あれは騒ぎにいらっしゃる方ですもの」
「なる程。騒ぐことは己には出来ないなあ」
雑煮の代りを取りに立つとき、女中は本当に立つのかと念を押した。そして純一が頷 （ うなず ） 独言 （ ひとりごと ）
「お絹さんがきっとびっくりするわ」
「おい」と純一は呼び留めた。「お絹さんというのは誰 （ だれ ）
「そら、けさこちらへお火を入れにまいったでしょう。きのうあなたがお着きになると、あれが直ぐにそう云いましたわ。あの方は本を沢山持っていらっしゃったから、きっとお休みの間勉強をしにいらっしゃったのだって」
こう云って置いて、女中は通い盆を持って廊下へ出た。
純一はお絹と云う名が、自分の想像したあの女の性質に相応しているように思って、一種の満足を覚えた。そしてそのお絹が忙 （ いそが ）
雑煮の代りが来た。給仕の女中から、お絹の事を今少し精 （ くわ ）
純一は取り散らしたものを革包の中に入れながら、昨夜 （ ゆうべ ） 飜 （ ひるがえ ） 極 （ ごく ） 抜足 （ ぬきあし ） 交 （ まじ ） 挫折 （ ざせつ ） 咡 （ ささや ） 麻痺 （ まひ ）
これに反して、少しの間に余程変じたのは、坂井夫人に対する感じである。面当てをしよう、思い知らせようと云うような心持が、ゆうべから始終幾分かこの感じに交っていたが、今明るい昼の光の中で考えて見ると、それは慥 （ たし ） 錯 （ あやま ） 料簡 （ りょうけん ） Albert （ アルベエル ） Samain （ サメン ） Xanthis （ クサンチス ） platonique （ プラトニック ） 捧 （ ささ ） 蝦蟇口 （ がまぐち ） 悲 （ かなしみ ） 怨 （ うらみ ） 好 （ い ）
帳場の男が勘定を持って来た。瀬戸の話に、湯治場やなんぞでは、書生さんと云うと、一人前の客としては扱わないと云ったが、この男は格別失敬な事も言わなかった。純一は書生社会の名誉を重んじて茶代を気張った。それからお絹に多く遣りたい為めに、外の女中にも並より多く祝儀を遣った。
宿泊料、茶代、祝儀それぞれの請取 （ うけとり ） 恭 （ うやうや ）
純一が立って出ると、女中が革包を持って跡から来た。廊下の広い所に、女中が集まって、何か咡き合っていたのが、皆純一に暇乞をした。お絹は背後の方にしょんぼり立っていて、一人遅れて辞儀をした。
車に乗って外へ出て見ると、元日の空は晴れて、湯坂山には靄 （ もや ）
朝日橋に掛かる前に振り返って、坂井の奥さんの泊っている福住の座敷を見たら、障子が皆締まって、中はひっそりしていた。
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鴎外云。小説「青年」は一応これで終とする。書こうと企てた事の一小部分しかまだ書かず、物語の上の日数が六七十日になったに過ぎない。霜が降り始める頃の事を発端に書いてから、やっと雪もろくに降らない冬の時候まで漕 （ こ ）
この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後（団体著作物にあっては公表後又は創作後）100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメイン の状態にあります。
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