雪之丞変化/狂颷の恋

狂颷(きょうひょう)の恋

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曩日(さきのひ)の宿下りに、中村座顔見世狂言で、江戸初下りの雪之丞女形の舞台を、はじめて見物し、その夜、長崎屋三郎兵衛の心づかいで、料亭の奥の小間で、はからずこの絶世の美男と、親しく語り交わすことが出来た三斎息女浪路は、翌日大奥に戻ったが、かの優人(わざおぎ)のいかなる美女よりも美しく艶やかなおもかげが、たえず目の前に彷彿(ほうふつ)するにつれ、今更のように、只栄華権柄(けんぺい)の慾望を満足させるために、心にもなく日本一の勢力者、時の公方(くぼう)の枕席(ちんせき)の塵を払うことの、いかに妄虚に満たされたものであるかがはっきりと感じられて、もう一日も、この偽りに汚された生活に、堪えしのぶことは出来ないような気がされるのだった。
そこで彼女は、その晩以来、病気届けをして、公方のお成りをさえきっぱりとことわった。
すぐに典薬が、何人か閨房(けいぼう)に派出されたが、彼等は、ただ、小首をかたむけるばかりだ。勿論、彼等とても一代の名医たち、中には浪路の病(いたつ)きが、秘密な気苦労から出たものであろう位なことは、診て取ったものもあったであろうものの、うっかりした事のいい切れぬ人達のこととて、当らずさわらず――
「これは大方、心気のもつれと存じます。しばらく、心静かに御静養なされましたなら――」
「申すまでなく、このお城内にて、何の御不自由、御不満足もござらぬはずでござりますが、出来ませば、温泉、海辺にてなり御養生されましたなら、日ならず御快癒に相違ござりますまいが――」
なぞと、老女にいいのこして退いてしまったのだった。
これこそ、彼女が、どんなに期待した診立(みたて)であったろう!
「わたくしも、せめてこの一月なり自宅(うち)へ戻って楽々としていたら、このような病い、じきに癒ろうと思いますが――」
と、中老たちに対して、相当の権威を持っている、取締りの老女にささやくと、寵愛ならびない浪路のいい分に背いて得はないと知る彼女、すぐに
「左様に御座りますな、何にいたせ、気のつまる大奥、時々はゆるりとなさらないでは――」
と、うなずいて、諸役人との相談ごとを、すぐにまとめたと見えて、三日と経つか経たぬに早速、自宅保養の許可が下りたわけなのだった。
浪路は、天にも上る気持だ。
松枝町の屋敷へさえもどれば、父親はどこまでも愛に目がなく、長崎屋をはじめ、自分の秘密な想いに気がついているものもある。たちまち、恋しい雪之丞に、一目逢わせてくれることがあろうし、さもなくとも、どのゆな手立を講じてでも、彼に消息を交わして、逢瀬をたのしむことが出来るであろう――
――ああ、この恋に比べて、これまでのいつわりの栄華の月日が、どのようにつまらない、取るに足らぬものであったろう!影の影をつかんでいたようなものだ!
しかし、名目が名目だけに、浪路は、屋敷に戻ると、奥の離れにしつらえられた臥床(ふしど)に、さも苦しげに身を横たえて、医師の加療に身をまかせねばならなかった。
だが、その医者も、城内典薬の診断と違わなかった。
「お気まかせに、のびのびと御保養が何より――お気うつから飛んだわずらいをお引き出しなさらぬとも限りませぬで――」


浪路は、わが家の病室に、和らかく贅沢な褥につつまれて、しんなりとしたに謡を横たえ、母親こそとうに世を去ったが、愛娘(まなむうsめ)への愛には目のない、三斎はじめ、老女、女中の、隙間ない慈くしみの介抱を受けながら、その癖、心のいら立たしさは、募(つの)って来るばかりだった。
たった、向う半月か、一月が、わが物の月日なのに、このままで時を無駄にしていなければならぬのが、彼女には辛いのだ。ただ、どうにかして、この世でゆっくりと、雪之丞に逢いたいためばかりにこそ、あらゆる苦労をして、大奥を抜け出して来たのに――
しかし、浪路の、その憂欝(ゆううつ)の胸に、突然パアッと、赤い火が点ぜられた。老女の一人が、妙に浮き浮きした調子ではいって来て、
「ただ今、広海屋が、お見舞と申して伺っておりますが、何でも、先日まいった、あの女形の雪之丞に、御病気、御保養の由を、申し聴けましたら、大そうびっくりされて、更けては却て失礼ではありましょうが、昼間、わが時のないからだ――今宵芝居が閉(は)ねましたら、お門口までなりと、罷り出たいと申しておりましたそうで――何とまあ、御恩を忘れぬ、感心な役者ではござりませぬか――」
と、いうのを聴いて、浪路は、床の上で、膝にひろげていた草双紙を投げ捨てるように、
「まあ、雪之丞が、見舞いたいと申しておると申すのかえ?」
「はい、今夜必ずとのことでござります」
もう、五十をとうに越したような、奥女中の心にさえ、あの絶世の美男のおもかげは、ある若やぎをあたえずには置かないように見えた。彼女は、膝をすすめて、
「それにつきまして、お願いがござりますが――」
「何あに?願いというのは――」
「雪之丞も、いそがしい間を盗んで、折角お顔出しをいたしたいと申すのでござりますゆえ、お声がかりで、お病間まで、招き入れてやりましたら、どのようによろこぶかわかりますまいと存じますが――」
それこそ、浪路にとって、渡りに船であった。
彼女の瞳は、美しく輝いた。
「そうしてやった方がよければ、まかせるほどに――」
老女は去った。
浪路はうれしさで一ぱいだった。雪之丞が尋ねて来るというのに、不気嫌そうに、髪さえわざと乱していられない。彼女はやがて、懐紙を押してあった金の鈴を、リーンとかすかに鳴らした。
侍女が手を突く、
「お湯が引きたいゆえ、支度を――」
「は?」
若い、やさしげな娘は、聴き違いではないかというように、浪路の顔を見上げた。
「湯室の用意をしや」
「でも、おからだに――」
浪路は微笑した。
「いいえ、大事ない。今日は、すぐれて心地よいゆえ、湯を引いたなら、もっともっと気持が晴れるであろうと思うのじゃ。早うしてたも」
浪路が、笑顔を見せれば、一家中は、それが何よりなのだった。
三斎屋敷の奥向は、急に活気づいて来た。
浪路は、檜(き)の香の高い風呂の中で、澄み切った湯に、すんなりした手足を透かして見て、心からのほほえみが止まらないのだった。


その頃、雪之丞が松枝町屋敷玄関先まで艶姿をあらわしたとき、
「いえいえ、夜分と申し、お敷居外にて、どうぞおいとまを――御前のお目通りなぞ、あまりに恐れ多うござります」
と、平に辞退したに拘らず、切なるすすめで、三斎の居間に招じ上げられてしまったのだった。
三斎は、ひどく興味を持ってしまったこの上方役者の来訪をよろこんで、何かと歓待を忘れなかった。何かの参考にもなろうかと、見つけて置いたなぞtおうて、梁塵秘抄(りょうじんひしょう)そのほかん、稀らしい古謡の写し本をあまた取らせ、一ぱしのその道の通のこととて、さまざま物語りに更かしていると、そこへ、例の老女が現れて、
「御息女さまが、太夫、わざわざの見舞とお聴きになり、直々逢うて礼をいいたい――との仰せでござりますゆえ、のちほど、御病間まで、おはこびを――」
と、いうのであったが、雪之丞は、その場にひれ伏して、
「卑しき身分が、御隠居さまにお目にかかり、お情深いお言葉をうけたまわるさえ冥加でござりますに、お奥向へなぞなかなか持ちまして――」
三斎もかかる夜半、俳優(わざおぎ)を、いかに病中なればとて、愛娘(むすめ)の部屋に通すなぞとは、世の聴え、家の名聞(みょうもん)――と、思いはしたが、この者が訪ねて来ると聴いてから、めっきり元気がつき、湯さえ引いたと耳にもしたし、浪路を大奥へ送って、公方の寝間の伽(とぎ)をさせたことそれ自体、親兄の犠牲としたのにすぎないのを考え合せると、此処でその望みを阻止することもあまりに思いやりがなさすぎる気がした。
「いや、なに、雪之丞」
と、老人は、手を振るようにして、
「娘も、見苦しゅう取りみだしてはおるが、これも、日頃、窮屈な御殿暮しの気づかれが出てのことであろうと思えば、わしもあわれに思うているのじゃ。あれは、元よりそなたが大の贔屓――美しい顔を見せてやって、にぎわしゅう世間んばなしも聴かしてやってくれたら、心のもつれも晴れるであろう。折角、あいたいと申すのじゃ。つい、ちょっと、病室をのぞいてやってくれまいか――」
「ま、勿体ないお言葉――」
と雪之丞は、どこまでも、礼を忘れぬ風で、
「いやしき河原者、身分ちがいの身にて、御女儀(ごにょぎ)さまのお居間へなぞ――全く以て思いもかけませぬ――」
「その物がたさは感じ入るが――しかし、相手は病人じゃ」
と、三斎は心安げに笑って、
「ま、望みを叶えてやるよう頼む。老いては子にしたがえ――とか、申すが、このわしは、とりわけ彼女(あれ)が可愛うてな」
「すぐに、お供いたしとうござりますが――」
と、老女が強いるようにいった。
雪之丞は、さも当惑したようによそおいながら、ようやくのことで決心がついたというように、三斎の居間を辷っつて、老女の導くままに、冷たい、薄暗い長廊下を踏んで、やがて、木犀の匂う渡りを、離れの方へと辿っていくのだった。
やがて、渡りを行きつくすと、茶室風(かこいふう)の小家になる。
老女は、雪之丞をちょいと振り返って、
「ほんとうに一生懸命おまち兼ねでござります」


老女の案内で、この館の中でも一ばん静かな、浪路の病間にはいったとき、雪之丞、緋いろ勝ちの臥床の上に、楚々(そそ)と起き直っている彼女を一目見て、なるほど公方の寵をほしいままにするだけの、一代の美女だと思った。
この前の、わざと結(ゆ)った高髷(たかまげ)とは変って、今夜は、長い、濡羽(ぬれば)いろの黒髪を、うしろに辷らして、紫の緒でむすんで、緋い下着に、水いろの、稍々冷たすぎるような綾の寝間着――
単に、口実ばかりの病気でもなかったと見えて、いくらか、頰にやつれが見えて、じっと、こちらを見つめて微笑んだ瞳に、かぎり無い淋しささえ溢れている。
手を突くと、
「ま、そのような辞儀なぞ――どうぞ、ずっとこちらへ――」
なつかしげに、親しい人にいうように、
「煩(わうら)ったお蔭で、ついじき逢えて、うれしゅう思います」
雪之丞は、そうした表情や言葉に、すこしもまじり気を感じることが出来なかった。恋に焦がれつつある、一人の女性が、その恋を強いてほんのり包もうとして、悶えている遣瀬無(やるせな)さを、察してやることが出来るのだった。
――わしは、わしをしんから想ってくれている娘を、欺きおおせねばならぬのであろうか?けれども、彼は、浪路の、しっとりした姿の背景をなす、古土佐絵(ことさえ)の、すばらしい金屏や、床の唐美人図や、違い棚の豪奢(ごうしゃ)をきわめた置物、飾物を眺めたとき、弱まった気持を、ふたたび緊張させることが出来た。
――この娘の父親が、この豪華をむさぼるために、どんなに悪行を積み重ねているのだろう――虐(しいた)げられ、苦しめられ、狂い死に死んだのは、わしの父御(ててご)ばかりではあるまい。
「御病気とうけたまわりまして、どんなに驚きましたことか――なれど、お姿をおがみまして幾らか安心つかまつりました」
老女が去ったので、浪路は、ぐっと態(しな)を替えていた。
「まあ!何ということをいうのであろ。何という他人行儀なことを!」
怨じて、一度、顔をそむけるようにして、激しく、流眄(ながしめ)を送って、
「わたしの気持は、この前の時から、ようく知っていてくださるに――この病気にしても」
「そのようなつもりで申したのでは――折角、うかがって、御意にそむいては――それなら、おいとまいたした方が――」
雪之丞も、つんとしたように、わざと冷たくいった。
「いや、いや」
と、将軍の寵姫(ちょうき)は一俳優の前で、だだっ子らしい愛らしさで激しくかぶりを振って、
「おおこりになった?それなら許して――わたくし、でも、そなたの他人行儀が、苦しくって――」
彼女は、膝の上に、綾の寝巻の袖を重ねるようにして、頭を下げて見せた。
「気に障(さ)えたら、詫びます、あやまります――今夜こそ、ゆっくりしていて――頼みますぞえ」
女の童にさえ、黄金瓶(きんびん)に、銀の盃を二つ添えたのを、そこに差し置いたまま去ってしまった。
もう二人は、なにを言っても、してもよかった。


美しい彫刻(ほり)のある、銀の台付の杯を、二つ並べて、浪路は、黄金(きん)のフラスコ型の壜(びん)から、香りの高い酒を充して、
「さあ、お取りなされまし」
と、白い、細い指先で、自分もその杯を取り上げた。
雪之丞も飲んだ。
何処(いずく)から渡って来た銘酒か、何ともいい難い芳醇(ほうじゅん)さと甘さとを持った液体が、舌の先から咽喉の奥に――それから胸の中に、じっとりと溶け流れると、すぐに目先きがチラチラする程、軽い酔が感じられて来るのであった。
「太夫、そなたは、わたしの病気を、どんな煩いと、思うてか?」
浪路が、杯を手にしたまま、じっと小首をかしげるようにして訊く。
「どんな煩(わずら)いというて、くわしゅうはどなたもおっつしゃっては下さりませぬので――」
「わたしの病いが、どんな煩いか、どなたにわかっていましょうや」
と、浪路は、意味ありげに、
「それは、わたしだけが知った煩い――なぜ、御殿にもいられぬほどの病気になったか、そのわけは、どんなお方も、知ろうはずがありませぬ――でも、太夫、そなただけは、いくらか気付いてくれそうなものに――」
怨じ顔の目元が、密酒の酔いに、薄すりと染まって、言うばかりなく艶だ。
雪之丞は、頭を揮って見せて、
「これは御難題――」
と、いったが、わざと冷たく戯れて、
「あまりに、御寵愛がおすぎあそばされて、そのためのお疲れでも――」
彼は容顔を、妖しくひそめたが、それは恐らく、あまりに汚らわしことをいわねばならなかった自分を、呪いそそらずにはいられなかったのであろう――
それを、浪路は、別の意味に――言わば、雪之丞の、嫉(ねた)みの表現のように取ったに相違なかった。
「まあ、何ということを!このお人は!」
「お上の御寵愛が、どのように深かろうと、それが、わたしに何のこと!」
と、激しくいって、
「そなたは、わたしが、好んで、御殿へなぞ上ったとお思いなさりますの?あの、窮屈で、いかめしい、何のよろこびもない、牢屋のようなところへ――そして、お上が、どんなお方かさえも、御存知さらぬ癖に、憎い憎い、そのようなことを――」
「恐れながら、上さまは、この世のいかなるお方さまよりも、御権威のお方とのみ、存じ上げておりますゆえ、世上の女性方は、あなたさまの御境涯を、お羨み申さぬものとてござりませぬ――そのおん方さまの御愛を、お身お一つにおしめなされていられますあなたさま、こうして、直き直きお言葉を交していただきますさえ、何とのう辱なさすぎる気がいたしまして――」
雪之丞は、ますます女ごころを、焦ら立たせようとする。
浪路は唆り、煽られるばかりだ。
「まあ!いつまでもそのような、憎らしい口――顔立ちの美しい殿御は、とかく、こころが冷たいといいますが、そなたはその諺、そのままでおいでなさる――それなら、わたしの、病気の程、はっきりいって聴かせましょうぞえ」
彼女は半身を、ぐっと雪之丞に擦りり寄せるようにした。


浪路は目元に、しおを含ませて、美しき俳優を、睨(ね)めつけるようにして、
「そなたが、わたしの病気(いたつき)の種を、知らぬなぞと言わせませぬぞ、そなただけが知っていること――みんなみんな、一目、逢うてからの、この悩みではござりませぬか?」
雪之丞は目を反らさず、寧ろ冷たすぎる微笑で受けて、
「わたくしが、あなたさまのお煩いの因となったと仰せなさりますか――ほ、ほほ」
と、まるで、女のように、艶冶(なまめ)かしく笑ったが、
「あまりお言葉がうるわしゅう響きますほどに、わたくしのような痴(おろ)かなものは、とかくそのままに思い込みますと、どのようなことになるかわかりませぬ――御所戯れは、大がいになされて下さりませ」
「太夫、まだ、それを、お言いなさるか?」
と、浪路は、ぐっと、杯を干して、下に置いた。
雪之丞が、酌をしようとすると、それを、白い手で蓋をして、浪路が、
「わたしは、もういただかぬ――飲みませぬ。そなたのような人と、酒ごどなぞいたしたとて却て胸が塞がるばかりでござります」
「ま、どうして、急に、そのように、御機嫌を損じましたのか――わたくしが、ここにおりまして、お心地があしゅうござりませば、おいとま申すほかには――」
両手を畳に下そうとすると、浪路は狼(あわ)てて、
「太夫、雪さま!」
と、悲しげに、
「わたしは、見得も、外聞も、恥も捨てています。わたしは、いのちさえ賭けているのに――そなたは、何というひどいことを――大川ばたで、しみじみ二人でお話したときでも、わたしのこころは、よう判っていて下さるはずなのに――太夫、ほんとうに、この気持が、おわかりになりませぬのかえ?」
「わかりませぬ」
と、雪之丞こそ、いみじく淋しそうであった。
「わたくしは、しがない河原もの――そしてそなたさまは――」
「芸に生きるお人にも似合わない!」
と、じれったげに、浪路はいった。
「恋に、身分の、わけへだてが、ありますものか!わたしは、いわば、今夜これから、二人だけで、どこの山奥に、落ち伸びようとも、いって貰えば、すぐに、大奥も、親の家も、捨てて行こうとまで思い詰めていますのに――」
「浪路さま!」
と、雪之丞は、思い入ったように、貴女をみつめた。
「あなたさまは、しんじつ、そにように、思っていて下さりますのか!」
「わかり切っていること――あの晩以来、一刻とて、忘れたことはありませぬ。夢に見るのはまだ浅い――昼間の想いが、夜よりも深いということを、はじめて、わたしは知りました」
浪路は、しっとりと、雪之丞にもたれかかってしまった。
「のう、雪さま――このわたしを、どうしてくださりますえ」
「そのお心もひが、ほんとうなら――」
と、雪之丞、
「わたくしとて、指も、髪も剪(き)りましょう――そのかわり、一時のおもてあそびなら、死ぬほかには――」


二人の手はしっかりと結ばれ合っていたが、浪路の目かおには、からみつくような執念が、ますます燃え熾(さか)って来るばかりだった。
「ね、太夫、わたしには、まだそなたのこころが、しっくりと判らない気がしてなりません。引く手あまたの人気役者が、こんな不意気な女なぞを、しんからかれこれ思ってくれるとは、ほんとうとは思われませぬもの――」
「わたくしこそ、本気には出来ませぬ」
と、雪之丞が、上目で見上げて、
「もしほんとうのお言葉なら、いのちも賭けると、たった今申したことを、いつまでも行いにあらわして御覧に入れますけれど――」
「では、太夫、わたしが、この場で、死んでくれと申したら――」
浪路の全身は、火のようだ――その軀を、もっともっと抱き〆めて貰いたい。
「そなたには、何となく愛がない――わたしを出来るだけ、遠くにはなして置きたいと思っておいでに相違ない」
雪之丞は、ほおっと、深い吐息をして、顔をそむけてうなだれた。
「わたくしの、あれからの気持を、御承知でいて下すったら――」
「あれからの気持とはえ?」
浪路はぐっと、身をもたせて、そむけた顔を追うようにのぞき込む。
とても、張り合うことの出来ない、しがない身と、天上のお方――それを考えると、同じ人間に生れながら、何というはかないことかと――」
「そなたが、しがないと、おっしゃるのかえ?」
「公方さまと、河原者――これほど天上、地下とはなれた世界が――」
浪路はパッチリと、目を睜(みひ)らいて、雪之丞の両手を取って、ぐっと顔をみつめるのだった。
「それを言われるのか?太夫」
「申しますとも――」
「そなたが、そう言うなら」
と、浪路の声は、掠(かす)れもつれて来た。
「わたしにも覚悟がある」
雪之丞は、舌の根を嚙み切りたい。
――何をわしは言うているのだ。この女にこんなことを言っていて、よくも、口が竪に裂けずにいるものじゃ。
けれども、彼は、もっともっと言うであろう――」
「お覚悟とは?」
「もしも、お上の側にいるのが悪いというなら、いつでもわたしは、御殿を出ます――はなれます。それで、そなたが、ようしたと、讃めてくれるなら――」
雪之丞に唆られて、浪路は、どこまでも言い証(あか)したい。
雪之丞は、更に迫り言い寄らねばならぬ。
「ま、お口の美しさ!」
「口!口と、そなたはお言いやるな――よくも、まあ!」
と、浪路は、紅い下唇を、白い白い、真珠を並べたような歯で、血の出るまでに嚙みしめるようにしながら、
「それなら、わたしは、もう、御殿へは、二度と上らぬ」
「滅相な」
と、雪之丞は叫んだ。
「そのようなことを!」
彼は、引きしめられた両手を、しめ返した。


――この娘が、今後、どこまでも、公方を嫌い通し、大奥づとめを拒(しり)ぞけて、二度と城内にはいろうとしなかったら、三斎父子の驚きと狼狽とは、どのようなものであろう――それこそどうしても、一度は見てやらねばならぬものだこの娘には、気の毒だが、わしはこころを鬼にせねば――
雪之丞は、浪路が、みだりがわしく、しなだれかかるに任せた。
「ほんとうに、恋というものは、どうしてこうまで酷いものでありましょう」
と、浪路は、事実、身分も、格も、振り捨ててしまったように、深い深い吐息で、自ら嘆息するのであった。
「たとえ、日本国中、いいえ、唐、天竺に身のおきどころがなくなっても、わたしは少しも厭いませぬ。そなたさえ、側にいて下されば――」
「わたくしにしても、あなたさまさえ、まごころを下さりませば、生きながらの焦熱地獄――炮烙(ほうらく)、鼎湯(かまうで)の刑に逢いましょうとも、いっかな怖れはいたしませぬ。ただ、いつまでも存(ながら)えている限りは、只今のお気持を、お忘れなさらずに下さりませ」
絶大の女形、三都に亙っての美男から、かくまで、手管をつくした言葉を聴かされては、どのような、木石の尼御前(ごぜ)でも、心を動かさずにはいられまい。
まして、浪路は、青春妙齢の艶婦――しかも、彼女の方から、すでに身も心も打ち込み切っているのだ。雪之丞の、一言一句が、まるで、甘い、しかし鋭い、蜂蜜の毒針のようなものとなって、心臓の奥深いあたりをまで突き貫かずには置かぬ。
「まあ、うれしい!――この胸にさわって見て」
彼女の、白い手が、雪之丞のほっそりした手首をつかんで、わが胸に、掌を押し当てさせるのであった。
胸の動悸の激しさ!いきざしの荒々しさ!
「おお、咽喉がかわいて、干ついてしまうようじゃ」
と、浪路はやがて、又も、銀の杯(さかずき)に、甘い酒を充して、一つを雪之丞の手に持たせ、
「固めの杯――そなたも、一どきに飲んで――」
雪之丞、胸苦しさを、やっと、おさえて、その杯を干す。
「わたしが、御殿のおつとめを拒んだなら、当分、この江戸に住むこともなりますまい――そのときには、世を忍んで、そなたの郷里(くに)へ落ちてゆき、町女房のいでたちをして、ひっそりと送りましょう――たとえ、明日のたつきに困るようなことがあったとて、それが、ほんとうの恋に生きるもののならわしと思えば――」
浪路は、そうした苦しい境涯に対する空想を、さも、楽しい未来を想像するものと、同じような嬉しさを以て語るのであった。
恰度そのころ、三斎隠居は、わが居間で、例の、珠玉(たま)いじりをしながら、ふと、考えこんでいた。
――浪路は、とかく、雪之丞めを、贔屓にしすぎているようじゃ。もしもの事があっても困るが、日ごろの欝散(うっさん)に、あの子も、何か楽しみが無うてはなるまい。と言って、あれもおのれを忘れ、家を忘れ、名を忘れるほどの馬鹿でもあるまいし――
彼は紅い宝玉を、灯に透かし見つつ、自ら安んずるようにつけ足した。
――あれがあって、上さまは、わしたちのいいなりとなって下される。そこでわしと倅(せがれ)とも世にはばかっていられるのだ。大切な、大切な、この宝玉(たま)よりも大切な娘だ。


三斎隠居は、蚕豆(そらまめ)ほどの大きさから、小さいので小豆粒位の透きとおり輝く紅玉の珠玉を、一つ一つ、灯にかざしては、うこんの布で拭きみがき、それを青天鵞絨張(あおびろうどば)りの、台座に嵌(は)めながら、つぶやきつづけるのだ。
――お城の馬鹿とのさまは、わしの目には、利口でなくても、あれで、なかなか狡(ずる)いお方なのだ。どんな女や男を愛しんでやったらよいか、ちゃあんと、御承知なのだ。つまりはな、浪路ほどの女が、この世に二人と、なかなかないことを知って、あれを手放さない――その親兄に当るわしや、倅駿河守なればこそ、出来るだけ、愛してやろうとお思いになっている――が、若し、あれが、御機嫌に背くようなことになると、あの方は、手の裏を返したように、白い目をお剝きになるに相違ない。そんなことがあったら一大事――あれが、お側にいるというので、大名、旗本、公卿、町人――総がかりで隠居隠居と、わしを持てはやし、さまざまな音物(いんもつ)が、一日として新しく、わしの庫を充たさぬということもないのだ。むすめや、むすめや、わしの方でもどんな我ままでも許すほどに、どうぞわしのために、末ながく、あの鼻の下長さまの、お思召しにだけは、そむかぬようにしてたもれよ。ほ、ほ、ほ!この珠玉(たま)のいろのすばらしさ――わしが死んだら、みな娘に譲ってあろうのう――死なないうちでも、ほしいというのなら、いのちより大事な、この珠玉だって、そなたにはつかわそうもの――
隠居は隠居でそんな風に、自分勝手なことを、口に出して、ブツブツと繰り返しながら、更に、新しい、宝石箱の蓋を刎(は)ねて、今度は、灯の光をうけると、七彩にきらめく、白い珠玉を、ソッと、さも大事そうに、つまみ上げて見るのだった。
この三斎屋敷の、奥深いところで、奇怪な親子が、めいめいの慾と執着とに、魂を、燃やしている頃、この屋敷から程近い、とある普請場の板がこいの物影に、何やら身を寄せ合うようにして、ひそひそ物語っている男女の影――
さては、人目を忍ぶ逢い引きか?いいえ、二人の話に、耳を傾けるものがあったら、どうしてなかなか、そんなありふれた者どもではないのを、すぐに発見したであろう。
「だが、姐御――」
と、背の低い、ずんぐりした黒い影が、
「いいんですかえ?松枝町の隠居ッて言えば、公方さまでも、おはばかりなさるってお人だ。その人の庫なんぞを荒したら、並大ていのことじゃあ済みませんぜ。遠島者か、首斬り台にすわらなけりゃあならねえ。そんなところを目がけずとも、本町通りへ行きゃあ、ずうっと、大きな金庫がならんでいるのに――」
「黙っておいでよ、むく犬」
と、ひびきの強い、張り切った女の声が、高飛車にいった。
「公方さまが、はばかったって、おれたちあ、ちっとも遠慮することはありゃあしねえよーーどうせ天下のお式目、御法度ばかり破って、今日びをくらしている渡世じゃあないか――おめえは知らず、このおれと来ては、どうせ首が、百あっても足りねえからだ――一度、見込んだら、屹度やる。万一、ほかの仲間に、この屋敷を先き駆けられちゃあ、つい鼻の先に棲んでいる、黒門町の、お初姐御のつらがつぶれてしまうじゃあないか?」


一〇

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普請場の板囲いの、暗の影、低いながら、ピチピチとした鉄火な口調で、伴れの男を叱るように、こういい放った女――では、これが、当時、江戸で、男なら闇太郎、女ならお初と、並びうたわれている女賊なのだ。
「そういえば、そうですがねえ――」
と、ずんぐりした男は、詮方(せんかた)ないといった調子で、
「なるほど姐御が、一たんいい出して、引ッ込めるような人間じゃねえことは、だれよりもこのあッしが知っています。じゃあ、一ばん、今夜、これから、三斎屋敷に乗り込みますか?」
「いうまでもなく、この足で忍び込むつもりだが、お前(めえ)は、このまま引ッ返して、隠家(あな)で、首尾を待っていなよ。つまらねえ思いつきで、小さい仕事に手を出して、ドジを踏まず、寝酒の支度でもしてお置きよ」
お初が、そう言うと、
「へえ?じゃあ、あッしは要らねえんで――」
と、男の手下は、不足顔。
「まあ、わたし一人がいいようだよ。相手はおめえのいう通り、ちっとばかし大物だ。大物狩には、足手まといは困るからね」
「へ、あッしを、足手まといと、いいなさるんで――」
「いいえ、おめえも、相当なものだ。これが、どこぞ、商人(あきんど)の、土蔵(むすめ)でも掘るときならね。だが、武家屋敷を攻めるにゃあ、そのガニ股じゃあ、駆け引きがおぼつかないよ」
「どうも、手きびしいなあ。あッしはまた、いつかのやり損(そこ)ないを今夜あ取りけえして、お讃(ほ)めにあずかりてえと、思っていましたに――」
「なあに、また折があらあな。さっさと行(い)きねえ――」
お初は、相手が、ためらうのを、追っ払うように、
「さっさと、行きねえと言ったら――そら、向うから、人影が差しているじゃあねえか――」
と、強く言う。
「じゃあ、姐御、上首尾に――」
「おお、土産はたんと忘れねえよ」
ずんぐり男は、板囲い沿いに、黒いむく犬のように、どこへか、消える。
自ら、お初と名乗る、女賊――それを見送ると、大胆に、物影をはなれて、町角の常夜燈の光がおぼろに差している巷路に、平然と姿を現した。
見よ!そのすんなりとした、世にも小意気な歩みぶり――水いろ縮緬のお高祖(こそ)頭巾、滝縞の小袖の裾も長目に、黒繻子と紫鹿の子の昼夜帯(はらあわせ)を引ッかけにして、町家の伊達女房の、夜歩きとしか、どこから見ても見えないのだ。
顔容(かおかたち)は夜目、ことには、頭巾眼深――ちょいとハッキリしないのだが、この艶姿から割り出すと、さもあでやかだろうとしか考えられない。
現に、今、通りすがった、二人づれの、職人らしいのが、振り返って、うしろ影をつくづく見て、
「へッ、たまらねえな――どこのかみさんだろう?」
「畜生!亭主野郎、どんな月日の下に生れやがったんだ!」
お初は、そんな冗談口は耳に止めず、かまわず間近な、三斎屋敷の方へしとしとと歩いている。
彼女も亦、闇太郎同様、この権門の財宝を狙っているものにきまっていた。


一一

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黒門町のお初は、しなりしなりと三斎屋敷の門前に近づいたが、扉こそとざされておれ、耳門(くぐり)はまだ閉っていないらしく、寝しずまるには、間があるようだ。
――宵っぱりな家(うち)だの――お客か?が、そんなこたあ、こっちには、何のかかわりもありはしない。
いつぞや、闇太郎がしたように、この女も、塀に沿うて、まわり出した。越すに易い足場のいいところを見定めようとしているのだろう。
このお初というのは、以前は両国の小屋で、軽業の太夫として、かなり売った女だった。
足芸、綱渡り、剣打、何でも相当にこなして、しかも見世物切っての縹緻(きりょう)よし、身分を忘れて、侍、町人、随分、ううつを抜かすものも多かった由だったが、いつの間にか、その引く手あまたの一少女の、青春の魂を囚えてしまったのが、界隈によく姿を見せる、いつも藍みじんを着て、銀鎖(ぎんぐさり)の守りかけを、胸にのぞかせているような、疳性らしい若者――
いずれ、やくざに相違ないと知って、出来合ってしまったところが、これが賭博うちと思っていたのに、東金(とうがね)無宿の長二郎という名代の泥棒――
男は美し、肌も白し、虫も殺さぬ顔をしているから、人殺しの凶状こそなけれ、自来也(じらいや)の再来とまでいわれた人間だった。
お初も、馴染むうちに、いつか、相手の本体を知った。が、知ってしまうと、尚一そう、その性格や渡世にまで愛着を感じないわけにはいかなかった。
――長さんは、盗んだって、悪党じゃあない。困った人達はにぎわすし、パッパッと綺麗に使ってケチ臭く世の中を逃げまわってなんざあいやあしない。いつだったかも、主人の金を掏られたお手代が、橋から飛ぼうとしているのを見て、大枚百両をつかましてやったようなお人だ。
――長さんの足がひょいひょい遠のくのは、吉原の火焔玉屋のお職がこのごろ血道を上げているからだそうな。ようし、それがどんな気ッ風(ぷ)の女か知らないが、両国のお初が、どういう女か、長さんに、ひとつ、とっくり見て貰いましょう。あたしだって、身も軽いが、手足も動くんだ。長さんの、百分の一位なことなら、出来るだろう。
彼女は、そう思いつめて、軽業はわき芸、いつか、掏摸(すり)を本業にしてしまった。
勿論、主人持の子僧や、年寄の巾着なぞは狙わない。彼女が狙ったのは、浅黄裏の、権柄なくせにきょろきょろまなこの勤番侍や、乙に気取った町人のふところだった。
どうかすると、長二郎の――今自来也と呼ばれた大泥棒のかせぎより、お初の方が、ぐっと良いこともあった。
「お初」
と、ある晩、逢ったとき、出逢茶屋の二階の灯の下で、長二郎は、いいかけた。
「お初、おめえ、大それたことをやらかしているんじゃああるめえな?」
ジロリと、鋭い、まなこだ。
「大それたことって?」
十九むすめのお初は、赤い布(きれ)をかけた髷を搖するようにして、ほほえんだ。
「あたし、大それたことなんざあ、なんにもしやあしないさ」
「が、ふところが、いつも不思議だぜ」
と、長二郎が、首を振るようにして、
「無間の鐘や、梅が枝の手水鉢じゃああるめえし、そんなにおめえの力で――」


一二

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今自来也の長二郎から、
――無間の鐘をついたわけでもあるまいし、いつも、あんまりふところが豊すぎる――何か、大それたことをしているのではないか――
と、そう問い詰められた、軽業のお初は、苦にもせず笑ってしまった。
「あたしが、どうしてこのごろ、お金持だっていうんですか?そりゃあ、働くからですよ。無心ばっかりして、おまえに愛想をつかされてはかなしいと思うものだから――」
「女のおめえが、働くといって?」
と、相手が、小首をかしげて見せるのを、さえぎるように、
「あたしゃあね、こんなお多福だから、吉原のおいらん衆のように、お客からしぼることも出来ねえし――」
と、稍するどく、皮肉にいって、
「と、いって、まさか、茣蓙(ござ)をかかえて、柳原をうろつきもしねえのさ、ただね、手先きが器用なものだから、おのずと、この節お金が吸いついてならないというわけですよ、ほらね――」
と、ふところから、緋(あか)いふくさ包を取り出して、小判や、小粒をザラザラと膝にこぼして見せて、
「今夜だって、こんなに持っているわ」
「じゃあ、てめえ、掏摸(すり)を――」
と、声をとっぱらかした長二郎が、やっと、低めて、
「掏摸をはたらいているんだな?」
「びっくりなさることはねえよ――」
と、お初は、紅い唇で、むしろ、あどけ無く笑って見せて、
「おめえの縄張りを荒しているわけでもなしさ。鬼の女房に何とかいうから、あたしもいくらか働かなけりゃあ、釣り合いが取れ無いと悪いからね――」
さずが、長二郎ほどの男も、このときほどびっくりした目がおをしたことはなかった。
「あたしもこれで、思い込むと、何をやらかすかわからない娘さ」
お初は、おどすようにつづけた。
「もし、おめえが、うわ気ッぽく捨てでもすると、覚えておいでなさいよ――どんなことになるか――」
「わかったよ」
長二郎は、小娘の激情に威嚇(いかく)されるはずもなかったが、それもこれも、自分の心をはなすまいとする気持からだと思うと、いじらしくあわれに思った。
彼は火焔玉屋から、遠のいてしまった。
長二郎、お初の恋は、そして、ますます熱度を加えたものの、そうした生活に、破綻の来ないはずがない。
間もなく、長二郎もお初も御用になって、男の方は、首の座が飛ぶところを、俠気の点を酌量されて佐渡送り――お初は、一年あまり、牢屋ぐらしをして、出て来たのだったが、それ以来、彼女は一生かえれぬところへ送られた情人の渡世に転向して、やがて、押しも押されもせぬ女賊となり、変幻の妙をきわめて、男の手下を養い、おれ、の、てめえ、の、というような、荒っぽい調子で、鬼をあざむく奴等をこきつかっているわけだった。
そのお初、素性が素性ゆえ、身が軽かった、手先きも鋭かった。
であれば、三斎屋敷への出入なぞは、塀が高かろうと、低かろうと、物のかずではなかった。
彼女は、だんだん、灯光(あかり)に遠い、横手の方へ、塀についてまわって行った。


十三

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軽業のお初は、三斎屋敷裏塀まで来ると、ちょいと前後を、闇を透して見まわしたが、まるで操りの糸に引かれた人形のようにふうわりと塀上に飛び上ったが、その上で、小手をかざして、ちょいと忠信のような恰好をした。
――へん、どんなもんだね?こんなけちな屋敷!
さっき、あのずんぐりが、土部一家の権柄に圧されたようなことをいったのが、今も癪にさわっているのであろう。
さて、それから、彼女は、ひらりと、地下へ下りた。
別に、小褄(こづま)をからげるでもなく、そのまま奥庭のくらがりの、植込みの蔭につとより添って、母屋の方をじっとみつめる。
お初は別に、闇太郎のように、この館の研究がつんでいるわけはない。ただ、何かしら、ひとも知ったるこの屋敷から、目の玉をでんぐりがえさせるような一品を盗み出し、仲間のものに、ひけらかしてやれば、それでいいのだ――
――まあだ起きていやあがる――うち中が起きてやあがる。いつまでぺちゃくちゃやっているんだね。人の眠る頃にゃあ、やっぱし横になる方が、お身のためなんだよ。
例の黒犬(くろ)は、今夜は、この犬の方が、家人たちのかわりに、まどろんでしまっていると見えて、クンクンと、鼻を鳴らして寄っては来なかった。
――三斎屋敷というから、どんなに用心がきびしいかと思ったら、これはまた、どこもかしこもあけっぱなしだ。くそ、おもしろくもねえ。世の中に、泥棒がいねえわけじゃあないんだよ。人を馬鹿にしてやがら!
お初は木陰をはなれると、離れのようになっている別棟に近づいて行った。その一棟の横手に、ずっと立ち並んで、文庫ぐらがある。一戸前、二戸前、三戸前――
彼女は、蔵は望まない――土蔵までを切ろうとは思わない――その三斎とやらの寝間にしのび込んで、枕元から盗み出してやりたいのだ。
――その図久入(ずくにゅう)の寝部屋というのは、一たい、どの見当なんだろう?
離れと、母屋をつなぐ渡り廊下の近所まで来ると、そのとき、ふッと、何か物音がした。
ハッとして、立ち止まって、身を硬くする。じつと、暗闇に棒立ちになれば、大ていは物にまぎれて別らなくなるのが恒だ。
お初は、じっと突ッ立ったが、もう遅かったのかも知れない――
「どなた?そこなお方、どなた!」
離れの、手水場の、小窓から、白い顔がのぞいて、そうしたやさしい声が掛ったのだ。
お初は、その声が、あまりに優しくほのかだったので、覚えず、
「わたくし――」
と、かすかに返事をした。
答えぬところで、向うはもう、ハッキリ、こっちの存在を、見て取ってしまっているに相違なかった。
「どなたさま?」
追い打ちに来た。
どことなく、凛(りん)とした、許さぬ調子が、ふくまれていた。
お初は、はじめて、ぎょっとした。その声と一緒に、戸が開いて、白い顔の持ち主が、闇に立とうとしているのだ。
――まあ、あいつ、あんな聲で、男だ。
お初は、帯のあいだに手を入れて、匕首の柄(つか)にさわった。


一四

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――あいつ、あの白い顔の奴、男だ!
と、咄嗟(とっさ)に悟って、匕首に手を掛けてお初、
――なあに、男だって、化け物だって、怖いものか!
近づいて、切ッ払って、亡(ふ)ける覚悟し――いたずらに騒いでは、却て、此の場合、逃げ場を失うのは、知り切っている。
庭下駄を突っかけた、不思議なしとやかさを持った人物はしずかに近づいて来て、
「そこなお人、御当家のお方か」
寄って来るのを寄らせて置いて、
「ちくしょう!出鼻を挫きゃあがったな」
低く、刺すように叫んでお初、キラリと抜き放った匕首をかざして、ぐっと、突いて行ったが、相手は、ほんの少し身をかわしただけだ。
「おや、では、泥棒だね――しかも、女子――」
引ッぱずされて、よろめく足をふみこたえて、ピュッ、ピュッと、切ってかかるのを、ずっと隙につけ入って、利き腕を逆に取った、白い顔、匂いの美(い)い女装の男性。
「騒ぐと人が来ますぞ。わしは、当家に恩のるものでもない――見のがすほどに去(い)ぬがいい――」
裏庭の暗がりを、肉体のしなやかさにくらべて、驚くべき膂力(りょりょく)を持った不思議な人間は、ぐいぐいと、お初を塀の方へ曳いてゆく。
「なら、人の仕事の、邪魔をせずともいいだろうに――こんちっくしょう!」
お初はもがいている。
「もっともじゃ、じゃが、わしとても、この家から、泥棒を追いはらったとなると、鼻が高いゆえ――ほ、ほ、ほ」
女装の男は、妙な笑いを笑った。
「一てえ、おめえは何だ?女見てえななりをしやがって――」
塀際に近く、お初が呻く。
「わしが何だと不思議がるより、こちらが倍もおどろいたわ。江戸には、大した女泥棒がいるものじゃな――さすが、お膝下だ――」
そして、ふッと、相手が、びっくりしたように――
「おやッ、おまえは、江戸下りの――中村座の!」
と、叫ぶように、何で気がついたかそうう言うのを、おッかぶせて
「そのようなこと、どうでもよい。早う逃げなされ!わしが、今、騒ぎ出しますぞ!」
塀の方に、突っぱなすようにした白面女装――裂くような声で、
「泥棒でござります!盗賊にござります!」
バタバタと、庭下駄の音をひびかせて、高く叫び出した。
そのときには、もう、軽わざお初、ひらりと塀を越えて、影のように、どことなく消えている。
「泥棒でござります!早う、お出会い下さい!」
ガタガタと、家中の戸が開く音がして、六尺棒や、木刀を押ッ取った若党、中間がかけ出して来る。
「おお、雪之丞どのか!して、泥棒は!」
「太夫、盗賊めは?」
口々に、提灯で、雪之丞の艶姿を振り照らしながら呼びかけた。


一五

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雪之丞は、いかにも申しわけ無げに、若党たちに挨拶するのだった。
「お手水場(しも)のお窓から、ふと眺めますと、黒い影が見えましたので、みなさまに、先にお知らせせずに、飛び出しましたものゆえ、むこうも狼てて、逃げ去りました。差し出たわざをいたして、折角捕えることが出来たものを、取りにがして申しわけござりませぬ」
「いやいや、見つけ下さらねば、害をうけたかも知れなんだ――捕える捕えぬとは二の次」
と、いつか、これも押ッ取り刀で、飛び出して来ていた用人が、いって、
「して、賊の風体は?」
「黒いいでたちをしておりましたが、とっさに逃亡いたしましたゆえ、ハッキリとは見分けられませず――何でも、お庫(くら)を狙っていたように見うけました」
雪之丞は、かの女賊に、不思議な好奇心と、興味とを感じていたので、彼女に出来るだけ有利なようにいって置こうとするのだった――つづまるところ、三斎一味に敵意を抱く人々は、みんな自分の味方である――と、いうような観念を捨てることが出来なかったのであろう。
「それに致しても、そのやさしい姿で、心の猛けだけしさは、われわれも三舎を避けるのう」
と、用人は、讃めて、
「お負傷(けが)がなかったのは、何より――」
塀外をあらために出た、若侍たちも、空しく帰って来た。
「怪しい影も見当りませぬ。たった一人、町女房らしいものが、歩いておりましただけ――その女性が、つい今し方、風のように追い抜いて駆け去ったものがあると申しましたなれば、大方、そやつが――」
「土部屋敷と知って押し入る奴、大胆不敵だのう――が、事が未然に防げたのは、太夫のお骨折だ。明夜から、警戒を、十二分にせねばならぬ」
用人は、首を振り振り、そんなことをいっていた。
雪之丞が、元の離れに帰ると、顔いろを失(な)くして、懸念にわななきながら浪路がむかえた。
「まあ、そなたは、向う見ずな!泥棒などに近づいて、もし負傷(けが)などなされたら、わたしがどのように心を痛めるか――」
「いえいえ、ただ、言葉をかけてやりますと、バラバラと逃げ去ってしまいました。泥棒などと申すものは、みな、気持に後れがござりますゆえ、案じたものではありませぬ」
「でも、これからは、決して、そのような危い場所に、お近づきなされてはなりませぬぞ。そなたのからだは、そなた一人のものではない程に――」
浪路は、もう強く強く決心しているのだった――柳営大奥へは、二度と足ぶみをしないとまで思いつめてしまったのだった。
――わたしは、もう、出来るだけ、父上、兄上の便利になった。この上は、わたし自身のために生きねばならぬ。自分の恋の真実に生きねばならぬ。だれが何というても、わたしはわたしの道を行く――恋しい人を、はげしくはげしく抱きしめて――
だが、憎や、そこへ、老女があらわれた。
「太夫、おかえり前に、御隠居さまが、お礼を申したいゆえ、お居間にとのことで厶ります」


一六

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折角、羽翼(はね)美しい小禽(ことり)を、わが手先きまで引き寄せながら、きゅっと捉まえる事が出来ずに、また飛ぶ立たしてしまうような、どこまでも残り惜しく恨めしいのが、わが居間から、このまま雪之丞を去らせてしまわねばならぬ浪路の胸中であったろう――
老女が、三つ指を突いているので、存分に判れることばさえ掛けられず、
「では、また折があったら、見舞ってたも」
と、いうのが、関の山。
雪之丞は、恋する女の、激しい、強い視線に、沁み入るような瞳を返して、
「必ずともに、明日にもまた、お目通りいたしまする」
二人の今夜の逢瀬は、それで絶えて、それからの雪之丞は、心の中で、この世の鬼畜の頭目と呪う三斎から、聴きたくもないほめ言葉を受けにゆく外はないのであった。
こちらは、軽業お初、松枝町角屋敷の塀を刎(は)ね越して出ると、そのまま程遠からぬわが侘住居(わびすまい)――表は、磨き格子の入口もなまめかしく、さもおかこい者じみてひっそりと、住みよげな家なのだが、そこに戻って来ると、
「婆や、何か見つくろって、一本おつけよ」
と、いくらか、突ッけんどんにいい捨てて、
「おや、姐さん、もうお帰り」
と、けげんそうに、這い出して来た、例の、ずんぐり者の、むく犬の吉に、
「余計なこと!勝手なところをぞめいておいで――」
と、紙にひねったのを投げてやって、茶の間にはいつて、ぴたりと、襖を閉ざしてしまった。
むく犬の吉、ペロリと舌を出して、
――だから、いわねえこっちゃあねえ――松枝町の角屋敷、なかなか七面倒な場所なんだ。出来ごころで、のぞいたって、そう易々、向うさまが出迎えちゃあくれねえのだ。姐御も女は女、とかく、疳癪(かんしゃく)で、気短で、やべえものさ。でも、引っかえして来てくれてよかった。
いろ気が薄くっていいというので、たった一人、側に置かれているむく犬、駄犬ほどには主人おもいだ。
――どれ、じゃあ、ひとつ、あいつのつらでも見てくるかな。
裏口から、草履を突っかけて出ようとすると、婆やが、
「吉ッつぁん、あしたは、お湯にはいって、浄めてから帰っておくれよ。ほ、ほ、ほ」
気の利いた大年増だが、毒口は、生れつきだ。
その婆やが、小鍋立ての支度をしている頃、女あるじは、朱羅宇(しゅらう)の長ぎせるを、白い指にはさんで、煙を行燈の灯に吹きつけるようにしながら、しきりに考え込んでいる。
――不思議なばけ物だねえ?あの女がた――ひとの利きうでを――匕首をつかんだ利きうでを、怖がりもせずに摑みゃあがったが、その力の強さ。おいらあ、思わず声が出そうだった。ほんとうに、何てにくらしい奴だったろう?
と、呟(つぶや)いて、また考え込んで、
――それにしても、妙だねえ、おいらをとっつかまえるのでもなく、わざわざ逃してくれたのはどういうものだ?あの力だ。おいらなんぞは、赤んぼのように、どうにも出来たろうに――
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。