雪之丞変化/壁に耳あり

壁に耳あり 編集

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軽業のお初、婆やが、小鍋立をして、酌をしながら、何かと世間ばなしをしかけようとするのを、今夜にかぎって、邪魔な顔――
「うん、そいつが聴きものだねえ――面白いはなしだ。だが、まああとで聴こうよ。あたしはちっとばかし考えたいことがあるんだから――」
婆やを追いやって、手酌で、ちびちびやりながら、
――おいらほどの泥棒を、とッつかまえたなら、御贔屓すじの三斎から、どんなにか讃められるばかりではなく、それこそ、江戸中が、わあッと沸いて、人気はいやが上にも立つだろうのは、目に見えたはなし、それを知らねえような、雪之丞でもあるまいが、何として又、追い出すようにして、おいらを逃がしてくれたのか?何にしても、妙な奴だなあ。
そう心に呟きながら、猪口(ちょく9をはこぶ、彼女の仇ッぽい瞳に、ほんのりと浮んで来たのは、夜目にも、白く咲いた花のような、かの女がたの艶顔だった。
――だが、あの生れ損い、何という綺麗さなんだろうねえ、あんまり世間の評判が高いから中村座をのぞいたときにも、思い切って舞台すがたの美しい役者だとは思ったが、素顔が、又百倍増しなのだもの、三都の女子供が、血道を上げるのも無理はねえ――
と、讃めて置いて、又、おこりっぽく、
――おいらあ、しかし、今夜のことは忘れはしねえぜ。逃がす、逃がさぬは別として、とにかく、お初姐御(あねご)の仕事は、てめえが立派に邪魔をしやがったのだ。てめえがよけいなことさえられなけりゃあ、三斎の奴の枕元から、せめて葵(あおい)の紋のついた印籠の一つも盗み出して、仲間の奴等に威張ってはやれたのに――ほんとうに、憎らしい奴ッたらありゃあしない。ようし、どうするか、覚えてやあがれ――三斎から盗むかわりに、てめえの部屋から、一ばん大切な物を取ってやらずには置かねえから――
盗みが渡世になってしまっているお初、雪之丞に、不思議な好奇心を懐くと同時に、妙な発願を立ててしまった。
――一てえ、あいつの宿はどこなんだろう?あしたは、芝居町の方へ出かけて行ってくわしく訊(ただ)してやらざあならねえ。
パンパンと手を打って、婆やに、
「お銚子のお代りだよ」
と、いったが、それが来ると、
「ねえ、婆や、おまえも立派な江戸ッ子だが、今度はちっとばかし口惜しいわけだね?」
「何がで、ございます。御新造さん」
「何がって――中村座の大阪役者に、すっかり持っていかれてしまったじゃあないかね?折角の顔見世月をさ、江戸の役者が、一たい、どうしているのかねえ?」
「それがやっぱし、珍しもの好きの江戸ッ子だからでございましょうねえ――聴けば、雪之丞とかいうのが、あんまり大評判、上々吉の舞台なので、来月も、つづけて演(う)たせるとか言っているとか申しますが――」
「もちつき芝居まで引き止めるのかえ?」
「はい、忠臣蔵で、力弥とおかるの二役で、大向うをうならせたら――と、いう話があるそうで――お湯屋なんぞでは大した噂󠄀でございますよ」
この婆や、こんな話になると、じきに乗り出して来る方なのだ。お初はしきりに考えこみはじめるのだった。


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軽業のお初、その晩は、婆やと、中村座の噂󠄀ばなしなぞで更(ふ)かして寝についたが、翌朝、目がさめる早々、何となく後味が残っていて、どうもこのままでは済まされぬ気がしてならぬ。
――あのばけ物は、おいらが、江戸で名代の女白浪だと、まさか気がついてはいなかったろうが、贅(ぜい)六風情(ふぜい)に、邪魔立てをされて、このまま引ッ込んでいたんじゃあ、辛抱がならぬ。どうなっても、あいつの宿に逆寄せをして、目に物見せてやらなけりゃあならない。
朝風呂にはいって、あっさりと隠し化粧をすると、軽く朝げをすまして、例の町女房にしては、少し小意気だというみなり、お高僧頭巾に、顔をかくして、出かけてゆく先は山ノ宿の方角だ。
芝居町で、出方にいくらかつかませれば、役者たちについての、表立ったことはじきに何でも判って来る。
菊之丞、雪之丞の、切っても切れぬ親子のような師弟が、一緒に棲んでいる宿屋の名を聴きだし、ちゃあんと、日のある中に、所もつき止めると、夜更けまで用のないからだ。
――あいつの舞台を、もう一度見てやろうか知ら!
と、つぶやいたが、ちょいと癪にさわる気がして、中村座のつい前の、結城座で、あやつりを見たが、演(だ)しおのが、何と「女熊阪血潮の紅葉(もみじ)」――
――畜生め、昔の女熊阪は、死に際に、恋人の手にかかって、女々しく泣いて懺悔(ざんげ)をしたかも知れねえが、このお初は、そんな性(たち)とは丸っきり違うんだ。おいらあ、三尺高い木の上から、笑って世の中を見返すだけの度胸はちゃんと持ち合せているんだぜ。人をつけ、馬鹿馬鹿しい。
あやつりを出て、どこをどうさまよって、時を消したか、すんなりとしたお高祖頭巾の姿が、影のように、まぼろしのように、山ノ宿の、宿屋町にあらわれたのは真夜中すぎ――
芝居者相手の雑用宿のいじめた店が、二三軒並んでいるのを、素通りして、意気で、品のいい「花村」というはたご屋の前に、ほんのしばし、立ち止って行燈を眺め、二階を見上げたお初、ニッと、目で笑った。
――ふうむ、もうかえっていやがるな。待っておいでよ。おめえの枕上(まくらがみ)に、ついじきに立ってやるから、――
こうした家の、裏口を、あけ閉(た)てすることなんぞは、お初に取っては苦でもない。まるで風が隙を潜(くぐ)るようなものだ。
何分、朝の夙(はや)い役者を泊めている家、すっかり寝しずまっていることゆえ、裏梯子を、かまわず上り下りしたところで、見とがめる目も耳もあるはずがなかった。
――あいつ等あ、表二階を打(ぶ)っとおして借りているってはなしだっけ。
と、お初は、裏梯子の、上りつめたところで立ち止まったが、ふと、その表二階の、すっかり灯の消えた部屋部屋の、一番奥の一間に、かすかにあかりが差しているのを認めた。
――おや、あすこだな、起きているな。そういえば、何だが、もそもそ、話しごえがしていやがる。厄介な――
お初は、すうっと、薄暗い廊下を、通り魔のように抜けて、その部屋の前まで行って、立ち止まった。
話しごえは、男二人だ。稍々(やや)皺枯れた年輩ものの声と、もう一つは、たしかに聴き覚えのある、あの雪之丞の和らかく美しい声が、ひそひそと囁き合っているのだった。


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水いろちり緬のお高祖頭巾をかぶったままの、軽業お初が、廊下の薄暗さを幸にひて、そッと、障子越しに片膝をつくように、耳をすましているとも知らず、夜更けの宿の灯の下に、ひッそりと、昼間は語れぬ秘事を囁き合う、雪之丞とその師匠だ。
「いかにもそなたが、そこまで腰をおとしてしずかに事を運ぼう気になったのは何よりだ」
と、これは、菊之丞の、稍錆びた声で、
「何分にも、かたきの数は多いのだし、すべてがこの世にはばかる程の、それぞれの向きの大物たち、並べて首を取れるわけがない――ゆるゆると、人目に立たず、一人一人亡ぼしてやるのが、一ばんじゃ、しかし、わずかの間に、それだけ事を運ばせたのは、さずが、そなただの」
雪之丞、師匠の前で、だんだんに着手して進行せしめている、復讐方略の説明をしているものらしい。
が、お初に取っては、今夜、この役者の宿で、こんな密話を聴こうとは全然予期していないことだ、思いもかけぬ物語だ。
――何だねえ?かたきの、首のと!
と、彼女は呆気にとられながら、
――この次の狂言の、筋のはなしでもあるのかしら?いいえ、それとは思われない――でも、あの、雪之丞がかたき持ち?あろうことかしら?
妙に胸が、どきついて来るのを押えて、耳をすますと、当の女がたが――
「わたしにいたせば、思い切って、一日も早く、片っぱしからいのちを取ってつかわしたいのでござりますが――父親の、あの長の苦しみ、悶えを考えますと、さんざこの世の苦しみをあたえたあとでのうては、一思いに刃を当てたなら、かえって相手に慈悲を加えてやるような気がされますので――でも、お師匠さま、三斎の娘づれと、言葉をかわし、へつらえを口にするときの、心ぐるしさ、お察しなされて下さりませ」
この人だけしか、口に出来ぬ愚痴(ぐち)をも、今夜だけはいえるよろこびに、雪之丞の言葉は涙ぐましい。
「じゃが、心弱うては!」
と、師匠が、
「悪魔にも、鬼にもならねば――この世の望みは、いかにたやすいことも成らぬのが恒じゃ」
「は、わたしとても、その積りでござりますれど――」
お初の、まるで無地のこころにも、いくらか、事の真相がわかって来るような気がされた。
――やっぱし、人は見かけに寄らぬもの――あの雪之丞、では、一方ならぬ大望をいだいている男だと見える――それでこそ、あの腕の強さ。気合のはげしさ!
彼女は、昨夜、咄嗟(とっさ)、さそくの一瞬の、雪之丞の働きに、今更、思い当るのだった。
――そして、しかも、その相手の一人が、土部三斎のじじいだとすると、こいつあよっぽど舞台の芝居より面白い。ことによったら、このお初も、一役、買ってやってもいいが――それにしても、あの優しい、なまめかしい女がたの身で、随分思い切ったことを考えるもの――
お初は、かぼそい、白い手で、巌石を叩き砕こうとしているのを眺めてでもいるような気がして来て、自分のからだが痛くなるのだった。
彼女は、雪之丞に、ある同情を、今やはっきりと抱きはじめたのだった。


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軽業のお初と、世に聴くえた程の女泥棒、師弟の二人の秘話を、思わず耳にして、さすがに枕さがしもしかねて、そのまま煙のように役者宿を出てしまったが、このまま、これほどの他人の大事、歯の中におさめたまま辛抱していれば、見上げたもの、さすがはいい悪党と、讃められもしたろうに、お初とても、凡婦――凡婦も凡婦、いかなる世上の女よりも、欲望も感情も激烈な、おのれを抑えることの出来ぬ性分だった。
――役者の身で――あんななまめかしい女がたの身で、聴けば、江戸名うての、武家町人を相手に、一身一命を賭(か)けて敵討をもくろんでいるとは、何という殊勝なことであろう。そしてあの、おいらを捕まえたときの騒がずあわてぬとりなし、役者を止めさせて、泥棒にしても押しも押されもせぬ人間だ。
と、そんな風に、すっかり感心してしまったのが、運のつきとでも云おうか、その晩以来、寝ても醒めても、どしても忘れられないのが、雪之丞の艶(あで)すがたとなってしまった。
――ほんとうに、どうしたらいいのかねえ――おいらあ、生れてから、こんな気持にされたことははじめてだが――まさか、このおいらが、あんな者に恋、わずらいをしているのだとは思われないけれど――
相変らず、長火鉢の前に、婆やに、燗をつけさせて、ときどき、猪口を口にしながら、疳性(かんしょう)らしく、じれった巻きを、かんざしで、ぐいぐい掻きなぞして、
――だけれど、そういうもののおいらだって、まだ若いんだ。ときどき、男が恋しくなったって、お釈迦さまだって叱りゃしめえよ。なんあら、ひとつ、ぶッつかって見るか?くよくよ、物案じをしているのは、娘ッ子のしわざだ。軽業のお初さんが、恋の病――か、ふ、世間さまが、さぞお笑いだろう。
そこは、年増だ、爛熟(らんじゅく)のお初だ――じりじりと、妄念という妄念を、胸の奥で、沸き立てて見たあとは、そのほとばしりで、相手のからだをも、焼き焦がして見ずにはいられなくなる。
――それに、いかに方便だってあの晩の話で見りゃあ、三斎屋敷のわがままむすめ、大奥のこってり化粧(づくり)にも、何かたらし込みをしている容子――あれほどの男を、しいたけ髱(たぼ)なんぞだけに、せしめさせて置くってわけはねえよ。おいらあ、もう、遠慮はいやになった。
根が小屋もののお初、こう思い立つと、火の玉のようになって目的8まと)をさして飛びかかってゆく外にない気がするのだ。
――そうだとも、愚図愚図しているうちにゃあ、いつかこの髪だって、白くなってしまわあね――それどころか――
と、さすがに淋しく、
――いつまで、胴にについてる首だかわかりゃあしないよ。
彼女は、だんだん、木枯じみて来る夜の、風の音を聴き分けるにつけ、現世の望みを、一ぱいに波々と果してしまいたい気持に、身うちを焼かれて来るのだった。
――おいらあ、あの太夫を口説(くど)いてやろう。江戸のおんなが、どんなに生(き)一本な気持をもっているか知らせてやろう――なあに、あいつが、肯(き)かねえというなら、そのときは、あいつの敵の味方になって、さんざ泣かせてやるだけだ。
お初はあらぬ決心をかためて、茶碗に酒をドクドクと注いで、紅い唇でぐうっと引っかけるのだった。


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ひたむきな、突き詰めた恋ごころが、女ぬす人の魂を荒々しく掻き乱した。
お初の情熱は、いわば、埒(らち)を刎ね越えた奔馬(ほんば)のようなものであった。
軽業おんなのむかしの、向う見ずで、無鉄砲で、止め度のないような、物狂おしい狂奮性がカーッと、身うちによみがえって来たのだ。
小屋もの、女芸人とあざけられて、人並の恋さえゆるされなかった世界に、少女時代をすごした彼女は、むしろ反抗的な、争闘的なものをふくんでいない愛情なら、決して欲しくないような気さえするのだった。
――あの女がたのまわりに、何百人の女がまつわっていたって、それが何だ?どんな家柄や金持の娘たちが、わがもの顔にへばりついていたって、それが何だ?おいらだって、生っ粋の江戸ッ子なんだし、どんな男の奴も、一目見れば、ぼうッとなってしまうだけの色香もまだ残っているんだよ。ようし、三斎のむすめとだって、立派に張り合って見せようじゃないか。
そう思い立って、愚図愚図していられるお初ではない。
「婆や!」
と、叫びながら、手をパンパン鳴らして、
「婆や、お湯の支度をしておくれよ。急ぐんだよ――大いそぎ」
「お出掛け?」
と、台どころから言うと、
「うん、出かけるのさ、ちょいとめかして出かけたいのだよ」
小さいながら、檜の香んお高い、小判型の風呂が、熱くなるのを待ちかねて、乱れかごに、パアッと着物をぬぎすてると、大ッぴらに、しんありとしていて、そして、どこにか、年増だけしか持たないような、脂(あぶら)ッ濃(こ)さを見せた全裸に、ざあざあと、湯を浴びせはじめるのだった。
胸も、下腹(したばら)部も、股も、突然かけられた熱い湯の刺激で、世にも美しいももいろに変わる。
――おいらだって、文身(いれずみ)ひとつからだにきずをつけずに、今まで暮して来たのだ――長さんの名前だって、二の腕に刺れやあしなかった――ねえ、太夫、おめえの名なら、このからだ中に一めんに彫ったっていいと思っているのさ。
ふっくらした腕を、左右、そろえて、見比べるようにしながら、こんなことを、彼女はつぶやくのだった。
いつもの、薄化粧を、今日は、めっきり濃くして、丁寧に髪を掻(か)いたお初、大好きな西陣ちりめんの乱立じまの小袖に、いくらか堅気すぎる厚板の帯、珊瑚(さんご)も、べっ甲も、取って置きのをかざって、いい時刻を見はからって黒門町の寓(やど)を出る。
芝居町のまがきという茶屋の前まで来て、かごを捨てると、奥まった一間に通って、糸目をつけぬ茶代や、心づけを、はずんだが、
「ちょいと、たよりをしたいところがあるから硯(すずり)ばこを――」
女中が持って来た、紙筆を取り上げて、小奇麗な、筆のあとでお初は書いた。
折り入ってお話しいたしたきことこれあり候まま。ちょいと、お顔を拝借いたしたく、むかし馴染おわすれなされまじく候。お高僧頭巾より。
この手紙はすぐに中村座楽屋に届けられた。


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お初が、そんな境涯に育ったにも似合わず、器用な生れつきで、さして金釘という風でもなく、書き流した手紙が、中村座の楽屋へ届けられたとき、雪之丞は、それを読み下して、ジッと考えたが、思い当ることがあるように、目にきらめきを湛(たた)えた。
使の女中に、
「このお女中、背のすらりとした、物言いのきびきびしたお人でありましょうね?」
「ええ、さよでございます。よく気のおつきになるような、下町の御新造さんというような方ですが、手前どもへは、はじめてのおいでで、くわしくは存じません」
「お目にかかり度いが、何分、今晩は、先にお約束したところがありますゆえ、またいい折に、お招きにあずかりたいと、そう、丁寧に申し上げて置いて下さるように――」
茶屋の女中は、たんまり心付けを貰っている事ではあるが、雪之丞ほどの流行児を、そう気ままに扱うことが出来ないのは承知ゆえ、
「さぞ、殘円にお思いなさると存じますが、よんどころございませんから――」
その返事を持ってゆくと、お高祖頭巾の女と名乗ったお初は、別に失望したようでもなく、さもあろうというように、うなずいて聴いて、
「大方、そんなことを言うであろうと思うていたが――お気の毒だけれど、もう一度、手害を届けては下さるまいか――」
そして、新しく、結び文をこしらえた。その文面は、
壁に耳のあることにてござそろ、密事は、おん宿元にて、かるがるしく申されぬがよろしく候、くわしくお物語いたしたけれど、おいそがしき由え、今宵は御遠慮申し上げまいらせ候、かしく
茶屋の女は言われるままに、又も雪之丞の楽屋をおとずれねばならなかった。
もうすっかり滝夜叉の出の支度をしていた雪之丞は、結び文を一瞥(いちべつ)したが、この刹那、彼の顔いろは、濃い舞台化粧の奥で、サーッと変ったように思われた。
「このお女中、この手紙を置いて帰られたか?」
と、彼は、いくらか震える唇でたずねるのだった。
「いいえ、まだ――多分、お返事を、おまち兼ねと思いますが――」
「では、はねたら、すぐに伺うゆえ、しばしおまちを――と、そう申して置いて下され」
出場(でば)だった。
稀世の女がたは、楽屋を出て行った。
お初は、女中から、二度目の手紙が、十分に奏功したということを聴くと、ニンヤリと、染めない歯をあらわして笑った。
「まあ――現金な」
そして、女中に、あらためて骨折を包んでやった。
「太夫が来たなら、お酒の支度をして下さいよ」
女中が去ってしまうと、お初は、ジーッと、瞳を見据えるようにした。
――あの人は来るそうな、来ずにはいられぬわけさ。でも、怖わ面(おもて)で口説くのはいやだねえ――おいらの気持をじきに判ってくれて、たって一度でも、やさしい言葉をかけてくれればいいけれど――このおいらは、敵にまわると、どんなことをするかわからないから――


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芝居茶屋の奥ざしき、女客と役者の出逢いのために出来たような小間には、手を鳴らしてもなかなか女中さえはいっては来ないような工合になっていた。
その、しいんとした、静かな部屋に、珍しく襟に頭を差し込んで、うなだれ勝ちな、殊勝なすがたをしているお初、やがて、小屋の方でお喜利の鳴物、しゃぎりの響きが妙な淋しいようなにぎわしさで聴えると、唆られたように顔を上げた。
――おや、もう、閉場(はね)るようだが――
鬢(びん)にさわって見たり、襟元を気にして見たりしているうちに、間もなく、廊下がかすかに鳴って、女中の案内で現れて来たのが、朱いろの襟をのぞかせた黒小袖に、金緞子(きんどんす)の帯、短い小紋の羽織――舞台化粧を落したばかりの雪之丞だ。
「ようこそ――さぞいそがしいからだでしょうに――」
お初はいくらか上釣ったような調子で迎える。
「長うはお目にかかれませぬが、折角のお招きゆえ――」
女中は、ほんの形ばかりの酒肴を並べると、去(い)ってしまった。
雪之丞が、まるで容子を変えて膝に手を、屹(き)ッとお初を見上げたが、
「いつぞやは、思わぬところで逢いましたな?」
「おかげさんで、あの折は――」
と、微笑したお初、もう、心の惑乱を征服した体で、猪口を取ると、
「太夫さん、まあ、おひとついかが――」
「いや、ほしゅうござりませぬ」
雪之丞は見向きもせず、
「それよりも、今宵、話があるとて、わざわざのお呼び――その話というものを、伺いたいもの」
「まあ、三斎屋敷のお局(つぼね)さまと、深夜の酒ごともなさるくせに、わたし風情とは杯もうけられないとおっしゃるの――ほ、ほ、ほ」
お初は、冷たく笑って、手酌で、自分の杯に注ぐと、うまそうに一口すすって、
「やっぱし、お前さんも芸人根性がしみ込んでいるのかねえ――それ程の大事を控えた身でも――」
雪之丞の、美しい瞳に、冷たい刺すようなきらめきが走った。彼はあの二度目の手紙(ふみ)を受けてから、何かしら決心しているに相違ない――壁に耳――若し、大事を真実この女白浪に気取られているとしたら、生かしては置けないのだ。
「わたしとそなたとはあの夜だけ、ほんのかりそめに出逢うた仲、それなのに、なぜまた立ち入ったことを言われるのじゃ?」
「ほ、ほ、袖擦り合うただけのえにしでも、一生の生き死にを、一緒にせねばならぬこともありまさあね――わたしが、お前さんが、どんな大望を持っているか、それを知って、かずならぬ身でも、力を添えようといったとて、何の不思議もありますまい。わたしは、ねえ、太夫お前を敵にまわし度くないのですよ」
お初の目付には、相手の胸の底に食い入ろうとするような、荒々しいものが漲(みなぎ)った。
雪之丞は、その瞬間、ハッと、何ものかを感得した。
――この人は、わしに何か望みをかけている。世の中の、多くの女子のように――
彼は一種の恐怖と嫌悪とを感じた。そしてその女が、しかも、自分の大秘密をかなりくわしく知ってしまっているらしいのだ。


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しかし、雪之丞に取っては、一生の大秘事を、感付いているらしい、この女白浪のお初が、自分に対して、毒々しい恋慕の情を抱いているのがまだしもな気がした。
事を仕遂げるまで、何とか綾なして置くことが出来るとすれば、手荒くふるまわずとも済むであろう――女一人の、いのちを断たずとも済むであろう。
けれども、お初は、恋にかけても、強(した)たかなつわものだ。すこしも緩めを見せようとはしない。
ぐっと飲んだ杯を、突きつけるように差しつけて、
「ねえ、太夫、何もかも、不思議な縁と、きっぱり覚悟をしておくんなさいよ。すこしはこれで、鬼にもなれば、仏にも、相手次第でどうにもなる女なのさ――だけど、ねえ、いのちがけで思い込んだお前、決して、御迷惑になるようなことは、したかあないのですよ」
雪之丞は、苦い思いで、杯を干して返して、
「思召しは、ほんとうにうれしゅうござります。もうじき今月の狂言もおわりますゆえ、そうしたら、ゆっくりお目にかかりたいもの――」
「何ですッて!気の長い!」
と、お初はジロリと、流し目をくれて、
「あたしが、どんな世界に生きている身か、知らないお前でもあるまいに――」
彼女は、別に、声も低めなかった。
「いつ何どき、見る目、嗅ぐ鼻、こずめずの、しつッこい縄目が、この五体にまきつくかわからないからだなのですよ――明日のあさっての、まして、十日先の、二十日先の、そんなことを楽しみにしてはいられないのです――」
じれったそうに、お初は唇を噛みしめて、ぐっと、からだを擦りつけるようにするのだった。
「それは、よう知っているなれど――しかし、そんなに性急にいわれても――」
雪之丞は、そこまでいって、女の了見が、怖ろしいまでに据わっているのを見ると、いっそ正直に、何もかも打ち明けた方が――と、思って、
「実は、そなたは、どう思うていられるか、この雪之丞、心願のすじがあって、女子に肌をふれぬ決心をかためている身――そなたなら、この気持を、察して下さるだろうと思うのでござりますが――」
「ほ、ほ、ほ、ほ!」
と、お初は突然、すさまじい声で笑った。
「ま!本気そうな顔をして――ほかの人なら、その一刻のがれもいいだろうが、このあたしにゃあ通らないよ、なぜと言って、お前は三斎の娘御の、お局さまを、どん底までたらし込んでいるというではないか――見通しの、あたしの目を、めくらにして貰いますまい――」
ちょっと、指で、雪之丞の口元を突くようにして、
「まあ、こんな、可愛らしい口付をして、何という噓ばっかり――」
と、笑ったが、急に、頰を硬ばらせて、
「太夫、用心して口をおききなさいよ――相手が、ちっとばかし変っているのですからね――そして、そういっては何だけれど、あたしの口ひとつで、お前の望みがけし飛ぶのはおろか、いのちさえあぶないのだ」


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この女、捨鉢に、どこまでも追い詰めて来る気じゃな?
雪之丞は、浅間しいものに思って、ゾッと寒気さえ感じたが、お初の方では、相手の気持の忖度(そんたく)なぞは少しもしなかった。
見れば見るほど美しいし、こちらの身分を知って、厭気を露骨に見せているのを見ると、ねじくれた恋ごころが、却てパアッと煽り立てられて来る。
「ねえ、太夫、あたしを、清姫にならせずに置いておくんなさいよ――あたしは自分で自分をどうすることも出来ないように、いつの間にか成ってしまっているのです。あたしは、お前をちっとも苦しめたいことはないのですよ。たった一度、かわいそうな女だと、抱き締めてくれさえしたら――」
「そなたは、わたしが、どんなに本気を申しても、わたしの心の誓い、神ほとけにも誓ったことを信用が出来ないのだ」
雪之丞は、困(こう)じ果てて、
「わたしは何も、そなたがどんな渡世をしているからというて、それをいとうではさらさらないなれど、今この場で、望みを叶えて上げることは、何としても日頃の高言に思い比べても出来にくい。そこを、よう聴きわけてくれたなら――」
「いいえ、いやじゃいやじゃ」
と、女賊は、髷(まげ)がゆるみ、鬢の毛がほつれるほど激しく、かぶりを振って、ぎゅっと、雪之丞の二の腕を、爪の立つほどつかむのだった。
「あたしは、思い立ったら、ついその場で、火にも水にも飛び込んで来たからだ――ことさらここまで思いつめ、こおkまで口に出した願い、この場でなくては怺(こら)えられぬ。いやなら、いやで、あたしだとて、可愛さ、憎さ――どんなことでもしてのけますぞえ」
事実、この女、自分を捨てる気になったら、こうして一緒に地獄の底までも引き落してゆくだけの、怖ろしい決心をつけかねぬ形相だ。
雪之丞は、運命のいたずらに、呆れ果てた。
――蝿一匹殺したくはないのだけれど――ことに依ったら、この女を、何とか始末せねばならぬか知れぬ。
雪之丞、毒蛇のように、火を吐かんばかりに、みつめて来る、相手をチラリと見返して、
――思い直してくれればいいのに、何という執念ぶかさ!
「何をじつと見ていなさるのさ」
お初は、手酌で、杯をふくみながら、
「あたしの顔が、蛇にでもなったの?角でも生えたの?」
「ではこういたそうかしら」
と、雪之丞は、強(し)いたやさしさで、
「折角の、そなたの心持、このまま、別れてしまうのも、何となく、わたしも心淋しい――さりとて、この家では、どういたそうとて、人目もある――」
「ま!」
と、お初は、急に、生き生きと、躍り立つような目顔になって、
「嬉しい!」
「大分更けたようだし、そろそろこの家を出た方が――」
「で、これから、どこへ行くつもり」
お初は、猪口を、器用に、水を切って、
「外は寒いから一つおあがんなさいな」
雪之丞は、うけたが、呑まずに、膳に置いた。
「待乳山(まつちやま)とやらの下に、しずかそうなうちがありましたが――」


一〇 編集

二人一緒に、芝居茶屋を出ることが、はばかられるので、山ノ宿、文殊堂の裏手で、まち合せる約束をして、まず、雪之丞が座を立った。お初が、追ッかけるように――
「いい加減なことをいって、待ちぼうけを食わせると、嚙みつくから――」
「大丈夫、わたしとても男――二言はない」
あとを見送って、
「あいつのいったことほんとうか知ら?」
と、口に出してつぶやいた、お初、胸の中で、
――一時のがれの噓っぱちとも思われないが、さりとて、おいらのこの思い詰めた気持を、あんなに急に聴き分けるとも思われない――口説(くせつ)にかけて、たぶらかす気か、それとも、ことによると、大事を知られて、生かしては置けずというわけか――ふ、ふ、いずれにしろ、おいらも、飛んだ奴に想いをかけてしまったものさ。
銚子に残っていた酒を、湯呑に注いで、煽りつけて、ふうと、熱い息を吐いたお初は、やがて、これも茶屋を出て行った。
屋外は、もう、いつか初冬らしい、木枯じみた、黒く冷たい風が吹きとおしている。立ちつづく、芝居小屋の幟(のぼり)が、ハタハタと、吹かれて鳴るのも、寒む寒むしい。
森閑とした通りを、お初は、小刻みに、走るようにいそいだが、その中に、めっきりあたりが淋しくなって、田圃や、杜(もり)つづきとなる。
この辺、芝居町が移って来たので、急ににぎやかになったが、ちょいと外れると、まだ田舎田舎したものだ。
山ノ宿の、文殊堂――もうじき、大川も近い、寂寞(せきばく)たるお堂で、小さいが、こんもりちた木立を背負っていた。
そのお堂前に、黒く、ぽつりと佇んでいた、これも、お高祖頭巾の人影――まるで、女だが雪之丞に、まぎれもない。
「お待ち遠さん」
と、さすがに、お初、女らしく、歩みちかづいた。
「いいえ、土地なれないものだから、迷って歩いて、やっと、辿(たど)りついたばかり――」
雪之丞は、お高祖頭巾の間から、星のように美しい目で、お初を迎えた。
「さあ、では、待乳山の方へ出かけましょうよ――お話の家は、たしか小舟とかいう茶屋でしょう――」
「そうそう、そういう家号でありました」
と、雪之丞は、うなずいたが、ふと、調子を変えて、
「ねえ、御寮人さん――名さえまだうかがわないが、こんなことになった以上、お互に何もかも底を割った方がよいと思うゆえ、訊くことを、はっきり答えて貰いたいけれど――」
「何でも、訊いて貰った方が、あたしの方もいいのですよ」
お初は、即座にいって、チラリと見返した。
「では、うかがうが、あの文にあった、壁に耳の――わたしの大望のと、いうのは何を言うのでありますえ?」
雪之丞は、キリリとした口調で言った。
お初の目が、これも、お高祖の隙で笑った。
「その言葉のままなのさ。壁に耳があることゆえ、うっかり胸の中は、しゃべれないと言ったまで――」
雪之丞は、お初に寄り添うように近づいて、
「もう少し濁さず言うて貰いたい」


一一 編集

雪之丞、今は思い切って、ずっと、お初に寄り添うと、ぐっと、和らかい二の腕を摑むようにした。
「ねえ、何もかも、ハッキリいって貰いたいのだが――」
お初は、腕に、指をまわさせたまま、振りほどこうとはせず、あべこべに、凭(もた)れかかるようにして、
「おや、また、腕立てかえ?」
彼女は、三斎屋敷での、一条を、思い出したに相違なかった。
「腕立てというわけではないけれど」
と、雪之丞は、低い、強い調子で、
「万一、このわたしに、そなたの言うとおりの大望というものがあったとする――いい加減なことを小耳にはさんで、兎やこう噂󠄀を立てられたら、その迷惑はどんなだと思います」
「だからさ、わからないお人だねえ」
と、お初は、一そう、男の胸に、全身を押しつけるようにして、
「あたしは何度も言っているだろう?あたしの気持さえ察してくれたら、たとえばお前が、人殺し、凶状持ちの人にしろ、決して歯から外へ、出すことじゃあないと。そこは、それ、魚ごころあれば、水ごころと言うことがある」
白く、匂わしい顔を、振りあおぐようにして、頰を、雪之丞の横がおに、擦りつけるようにするのだ。
梅花のあぶらが、なつかしく香るのが、雪之丞には却て胸苦しい。
「と、言って、それはあんまりな押しつけわざ――そなたも、見れば、江戸切っての女伊達とも思われるのに――」
「いいえ、あたしゃあ、そんなにえらい女ではありませんよ。きらわれものの女白浪、それもお前というお人を一度見てからは、意馬心猿とやらが浅間しく乗り移った、さかりのついた雌犬同然さ――それで、悪いかえ?悪いといったって、今更、どうにもあとへは引けないんだから――」
お初は、ぐっぐっと、雪之丞にしがみつくようにして喋舌(しゃべ)るのだ。
雪之丞は、からだ中に、沸かし立てた、汚物をでも、べとべとなすりつけられるような、いいがたい悪感(おかん)に、息もつけない。
――何というおそろしい執着だろう!この女は、わしの見かけに寄らぬ腕は、十分知っているだろうに――いのちを賭けて横恋慕をしているのじゃ――さて、どうしたら?
「ここまで来れば、二つに一つさ」
と、お初は、炎のような息を吐いて、
「あたしの心を受けてくれるか――それともあたしを敵にまわすか――」
「もし、わたしが、そなたを突きのけたら――」
「さっきからいっているように、鐘の中に逃げ込んでも、蛇体になって巻きついて、お前のからだを熔かしてやるよ――あたしは、お前が、どんな人達を、敵(かたき)をしてつけ狙っているか、ちゃあんと知っているのだからね。上方のおんなに、どんなにしッこしが無いか知れないが、江戸のおんなは、思い立てば屹度やるのさ」
雪之丞、淫らな雌狼にでもつけまわされているような怖れと、煩わしさとに、一生懸命おさえていた、殺気が、ジーンと衝き上つて来た。
「これ、どうあってもそなたはわしを邪魔する気か!」
つかんでいた二の腕を、ぐっとねじり上げようとすると、お初はパッとすりぬけて、
「おや、人を殺す気かえ!」


一二 編集

「ホ、ホ、大方、こんなこともと思っていたんだ」
お初は、雪之丞から、パッと飛び退くと、右手を帯の間に突ッ込んでいた。
「だが、太夫、お前は兎角うで立てが好きらしいが、そんな生れぞくないに、手込めにされるようじゃあ、このお江戸で、人前でハッキリいえない商売は出来ないんだよ――ちゃんちゃらおかしいや!人の生き口を閉(ふさ)ごうなんて――」
彼女は、別に、とっかわ逃げ出そうともしないのだ。
黒門町のお初というものが、下り役者にうしろを見せるのは、一生の恥辱とも思っているのであろう――
雪之丞はジリジリと進んで行った。もう彼は、今眼前へ毒口を吐いている人間を、女子供と嗤(わら)っていることが出来ないのだ。
――この場を、生けて逃がしたら、この女、三斎屋敷へ、このまま、駆け込むに相違ない――許せぬ。
ぐうっと、迫ってゆくと、闇の中で、お初の目が、凄じく光って、
「こんちくしょう!殺してやるから!そんなに寄って来ると――」
お初、もとより、雪之丞、真の手腕(うで)を知っているわけがない――嚇(おど)して、追っぱらおうとしたが、例の、帯の間の合口を、キラリと抜くと、
「こいつめ!」
と、ビュウを、突ッかかって来る。
雪之丞は、さすがに、自分は懐剣をひらめかせる気にはなれない。
十分に、突ッかけて来させて置いて、たぐり込んで、一絞めに絞めてやろうと、身をかわす――お初は、その隙をくぐって、二の太刀を斬り込もうとはせず、
「馬鹿め!あばよ!」
と、闇にまぎれて、パアッと、駆け出してゆくのだ。
軽業のお初――名うての女賊だけあって、その飛鳥の身のこなしは、なかなか、ありふれた剣者なぞの及ぶところではない。
――おのれ、逃したら、それまで――雪之丞は、追いかける。
ほとんど、真の闇に、山ノ宿裏道の真夜中――人ッ子一人通るはずがないのだが、その時、思いがけなく、駆けゆくお初の行手から、二人づれの、暗い影――
「何じゃ!夜陰に?」
と、武家言葉が、とがめるのを、お初、
「おたすけ下さいまし、いま、あとから乱暴者が――」
「なに、乱暴者?」
と、一人が透して見て、
「おお、なるほど――」
雪之丞、とんだ邪魔がはいったと、ハッとしたが、お初を、どうしても、このままには逃がせないのだ。
――ええ、面倒な、邪魔立てしたら、どんな奴でも――
これもはじめて、懐剣の柄(つか)に手をかけて、かまわず、飛び込んでゆくと、
「おのれ、何で、人を追う?」
二人づれの武士は、立ちふさがって、
「や!これも女だな?」
「どうぞ、お通しを、あれに逃げてまいる者に、どうあっても用のありますもの――」
すばやい、お初、もう、その時には、くらがりの中にすがたを溶けこませかけている。
「待て!穏かならぬ――」
二人の武士は、雪之丞をさえぎりつづけた。


一三 編集

前を閉(ふさ)ぐのは武家だが、雪之丞、大したことには思わない。右手の方の男に、隙が多いと見たから、
「どうぞ、お通しを!」
と、叫びざま、サッと、袖の下を潜り抜けると、もう一人が、また前にまわって来て、
「女だてらに――あぶない――刃物なぞ手にして?」
「ですから、おあぶのうござりますぞえ!」
雪之丞、煩わしくなって、嚇すように、懐剣を、わざと、チラと、閃めかして見せたとき、
「や!おのれは!」
と、鋭く、しかしびっくりしたような声が、立ちふさぐ侍の口から洩れた。
と、同時に、トン、トンと、二あしばかり退って、踏みしめると油断なく構えて、刀に、手をかけた容子――
雪之丞も、相手が、本気になって、身を固めたので、屹ッと闇を透かしてみつめると、あろうことか、それが、昔の兄弟子、今はあきらかに、敵とみとめずに置けぬ、門倉平馬なのだ!
「ほう、そなたは?」
と、思わずいうと、
「江戸は、広いが、狭いのう――雪之丞、久しぶりだな?よう逢えたな?」
「なに、雪之丞?」
伴(つ)れの武士も、おどろいたように呟いた。
「今夜も、今夜、貴公から聴いた?」
「うむ、その女形だ」
と、黒い影が、うごめいて、
「のう、雪、今夜は、始末をつけてしまった方が、お互に為めであろうな?」
「そなたが、その積りなら、それもよいが、今は、気にかかることがある――たった少しの間待ってくれなば、引ッかえすほどに、あれなる者に、どうしてももう一度逢わねば――」
雪之丞、今の中なら、逃げ伸びたお初を、追いつめることが出来ようが、いかに腕に劣りは感ぜずとも、平馬ほどの者と、その伴れとを打ち仆してからでは、もう追いつくことが出来ないとしか思われないのだ。
「何を馬鹿な!」
と、平馬は毒々しく、
「こういう仲になった貴様の便利が計っていられるか?それとも、拙者に伴れがあるので、怖ろしくなったのか?」
「門倉、やっておしまいなさい」
と伴れの武家が、右の腕まくりをしながらいった。
「一度、からだに傷をつけられた奴、生け置いては、武士の恥辱だ。いつ、何を申し触らさぬとも限らぬ――拙者、後をかためる程に、やって、おしまいなさい」
――何を、平馬は、こう執拗(しつこ)く、自分を恨むのであろう――出逢い次第、果し合わねばならぬほどの事が、どこにあるのだろうか?
雪之丞は、心で、考えて見るだけの余裕があった。
が、相手は、斟酌(しんしゃく)がない――
ギラリと、太刀を引き抜くと、一松斎仕込みの、上段、それに自分の趣向を加えた、みずから竜爪(りゅうそう)と呼んでいた、烈々たる殺気を見せた構えに取って、
「行くぞ!」
と、叫んだ。


一四 編集

雪之丞は、平馬が、荒々しい上段に刀を振りかぶったのを見ると、スッと、横にはずして、うしろを田圃に、もう一人の敵を用心しながら、身を沈めるように、懐剣をぴたりとつけた。
彼はいつも一松斎道場で、平馬が、この位を取るときには、ひどく勝ちをあせる場合なのを知っていた。
工夫の多い雪之丞、かねがねから、若し、平馬が、立ち合いのとき、この上段を取ったら、どう破ったらいいか――と、いうことを、以前から研究していた。
それを、いま、実地でためすときが来た。
が、こんなに突きつめた、迫った場合にも、彼の心はためらわずにはいないのだ。
――大事の前の小事――いま、この男を殺して、それが、きっかけで、自分が法の網を怖れねばならぬことになったら?あの不思議な女盗賊は、秘密を知って、それを逆手につかって人を脅かすのゆえ、殺さずには置けぬ――が、平馬は、別の意味で、つまらぬ意趣で、自分を恨んでいるだけだ――こやつ等と、いのちのやり取りをしては、間尺にあわぬ煩いをのこすかも知れぬ。
一松斎、孤軒、菊之丞――
すべて、自分の指導役に当っている人達は、軽はずみをするな――と、だけいましめてくれている。
では、いかがすべきであろう?
――何の、たかだか、この二人、当て仆(たお)して、通りすぎよう。
大胆な、雪之丞、二人の相手のいのちだけは、助けて置くが、便宜だと考えると、もうサアッと、気が落ちついて、氷のような冷たさが、頭をハッキリさせた。
右手(めて)の短刀を低めたまま、左の拳を小脇に引きつけて、じっと、目をくばる。
と、そのとき、呆れたことには、つい、平馬のうしろまで、いつか、お初の、黒い影が、取ってかえしていたのだ。
彼女は、藁(わら)を積んだ、こんもりした稲塚の蔭から、嘲りの笑いを笑って、
「ホ、ホ、ホ、ホ!生れぞくない!思いがけないことになって、どうするつもりだね?あたしのことは、絞めも斬れも出来ようが、今度は、ちっと、相手が強いねえ!ホ、ホ、ホ!」
彼女に、どうして、雪之丞の手の中がわかり抜いているであろう!
「それにしても、あたしにしたって、お前を、ここでお侍さま方の刃の錆にしてしまうには、惜しい気がしてならないのだよ。もし、お前があたしにたのむなら、何とでもおわびをして上げるが――」
お初は、雪之丞、平馬のいきさつを、これもわかっているはずがない。只この場のゆきがかりで、こんなことになったのだと思い、そして、事実、彼女としては、今、彼を斬らしてしまうのは、あまりに勿体ないような気持もするのであろう。
雪之丞は、お初が、不思議ないたずらの気から、取って返したのを見ると、ホッとした。
――痴(おろか)な奴だ。飛んで火に入る虫じゃ。
気が、楽になって、スウッと、身を、左にまわすと、伴れの侍が、それに誘い込まれたように、中段に取っていた刀を一閃させて
「やあッ」
と、薙いで来るのを、かわしてやりすごすと同時に、左手(ゆんで)の拳がパッと伸びて、十分に、脾腹(ひばら)にはいった。
ウウウンと、のけぞる侍――


一五 編集

当身を食って、大刀こそ放しはせぬが、
「む、ううむ」
と、うめいて、のけぞって、体が崩れて、そのまま苅田の畦の中に、溜り水を刎(は)ねかして倒れてゆく侍――
「雪、さすがだな――」
平馬は、それと見て、奥歯を嚙むようにして、うめいて、
「生意気な!」
彼は、雪之丞が、剣を使わず、拳を用いたのが腹立たしかったのだ。
彼等二人は、この先に、最近出来た、川岸の料亭に、剣客仲間の会があった崩れで、かなり酔っていたのだ。当落されたのは、間柄助次郎といって、鳥越に道場を出している男で、さまで、劣っていない身が、一瞬で敗を取ったのを見ると、平馬も、今更、警戒せざるを得ない。
が、憎い!出逢い次第、どうしても、生かしては置けぬほど、彼は、雪之丞が憎い!その憎みが、どこから来たかは、彼にも、はっきりいえないのだ――師匠が自分を疎外(そがい)して、あの白紙の巻軸を譲ろうとしたのが、原因とはなったが、そればかりで、こんなに憎悪を忘れかねるのは、彼自身にも不思議な位だ。
恐らく、この女にも見ぬほどの、たよたよしい、さも、無力にしか見えぬ、女がたが、舞台の芸の外に、かくも、神変幻妙な、武術の才を持っているのが、先天的な、異常な嫉妬を、平馬に感じさせてもいるのであろう。
――どうでも、今夜は斬るのだ!殺さずには置かぬのだ!
彼は、心に、叫んで、最初の、独特な上段に構えたまま、
「やああ!」
と、誘う。
雪之丞も、つい今し、間柄をあしらったように、軽くは、動かぬ。
相変らず、沈めた構えで、真の変化が、相手に現れて来るのを待つ。
「でも、その生れぞくない、何て強いのだろうねえ」
稲積の蔭で、お初の声は、嘲りから、だんだん讃嘆に変りつつあるのだった。
「大刀を振りかぶった、お武家二人を相手にして、平気で戦うばかりか、見る間に一人の先生を、叩き倒したのはえらいもんだ。よう花村やあ――と、讃め言葉がほしいねえ――生憎と、田圃外じゃあ、おいら一人の見物で物足りねえ」
お初は、大胆不敵だ。
「それにしても、じれってえなあ――お武家さん、そんな女形一人を、いつまで、持てあましているのかねえ――相手がもっと弱むしなら、このおいらが助勢に出てやるのだけれど、どうもあぶなくって近づけないよ」
その、嘲罵(ちょうば)に、唆り立てられたのでもあるまいが、その刹那、平馬の振りかざしている烈剣が、闇の中で、キラリと一閃したと思うと、二闘士のからだがからみ合って、太刀と、短剣とが、火花を散らした。そして、次の瞬間には、二人の中のいずれかのからだが、ぐたりを地面に崩れるのを見た。
「ほ!やりやがった」
お初は、そう叫ぶと、またしても、早い逃げ足だ。
平馬を、水月に一本入れて、その場に絶気させた雪之丞、稲塚の方へ突進して行ったときには、もう三町も先を、黒い影が、風のように、煙のように駆け去っているのだった。


一六 編集

夜の禽(とり)のように、闇の溶けゆく女の影を追うて、雪之丞は、ひた走りに走る。
が、彼は、土地も不案内、まがりくねった路――息を切らして、駆けつづけたが、いつか、大川の河岸に出たときには、もういずれに、それらしい姿をみとめることも出来ない。
雪之丞は漫々たる、黒い流れを見下して当惑するばかりだ。
――しまったことをした!しまったことをした!千丈の堤も、蟻の一穴――あのいやしい女白浪の、恋にやぶれた、口惜(くや)しまぎれの口から、大事が敵に洩れたら、それまでだ!どうしよう?どうしよう?
剣を取っては、いかなる大敵をむこうにまわそうと、決して怯みは見せぬ雪之丞も、思いがけないところから現れた、根性のひねくれた、浅間しい望みに狂った、つまらない踏みはずしの女を敵にして、今や途方に暮れざるを得なかった。
そのとき、彼のこころに、ふッと、浮んだのが、浅草田圃に、牙(け)彫り師らしく隠れ棲んでいる、あの闇太郎のことだった。
――そうだ!こんなときこそ、あのお人に相談しよう――あのお人なら、望みを打ち開けても、決して歯から外に洩らすことではあるまい、そして、今の、あの、不思議な女とは、いわば同業、世にいう、蛇の道はへびとやら――かならず何とか、渡りをつけ、うまくさばいて下さるに相違ない――相手も女ながら、泥棒渡世をしている身、黄金(こがね)を山と積んだなら、どこまでも、わしにあらがおうとはせぬであろう――そのほかに道はない――
と、思い当ると、雪之丞は、丁度、むこうから来た、戻りの辻かごを見つけると、
「かごの衆、浅草田圃まで――」
もはや、褄(つま)もおろして、やさしいものごしだ。
「へえ、ありがとうざん――お召し下さいまし」
トンと、下りたかごに、乗ると息杖が立って、
「ホラショ!ホイヨ!」
「ホラショ!ホイヨ!」
かごは、命じられた方角を指していそぎはじめた。
雪之丞の懸念は、ただ、目あての人が、夜の渡世――うまく今夜、うちにいてくれればいいということだけだ。
そのころ、もう落ちついた足どりで、さも、ほろ酔いを川風に吹かせでもしているかのように鼻うたまじりで、大川ばたを、下々に、あるいているのは、軽業のお初――
――畜生メ!お初ちゃんともあろうものが、今度はすこし味噌をつけたよ。
と、自らあざわらうように、
――どうしたわけで、あんな出来そくないの、野郎のくせに、内股にあるいているような奴に惚れたかね――おかげで、いのちを取られかかった。畜生!ほんとうに、いけずうずうしい奴ったらない。たしかに、土部三斎や、日本橋の大商人、長崎屋なんぞを、かたきを狙っている奴――どっちへ売り込んでも、こいつあ大した代ものだが――
と、呟いて、ぐたりと、うなだれて、火を吐くように吐息をして、
――でも、おいらには、何だが、それが出来ないんだ。あいつのあの根性と、あのばらしい剣術――どこまで考えても不思議な奴――肘鉄砲をくわされればされるほど、殺そうとまで嫌われれば嫌われるほど、妙に心がひかされてならないんだよ。


一七 編集

こちらは――
禮の細工場で、シュウ、シュウと、かすかな音を立てさせながら、まるで、一個の芸術家のごとく――いいえ、どんな技巧家(たくみ)よりも、もっともっと熱心に、小さな象牙の塊(くれ)に、何やら、細かな図様を彫り刻んでいた、闇太郎だ、
とんとんと、遠慮深く、戸が鳴って、やさしい声で、
「若し、お宅でござりますか?わたくしでござりますが――」
と、いうのが聴えると、ハッと、さすがに油断なく、あたりを屹と見まわすようにしたが、
「おッ!太夫だな!」
と、叫ぶと、世にもうれしげな表情が、きりッとしたこの男の顔にうかぶ。
「あけますよ!今すぐ!」
狽(あわ)てたように、立ち上って、膝から、前かけを払い落すと、とっかわ、入口に出て行って、ガラリと開けて、
「思いがけない!こんな時刻に――一たい、どうした風の吹きまわしで――さあ、上っておくんなせえ」
細工場に導いて、行燈を掻き立てて、つくづく、雪之丞をみつめるようにしたが、急に、暗くなって、
「おや、太夫、お前さん、恒ならねえ、顔をしていなさるねえ――何があんなすったのか?さあ、すぐに話しておくんなさい」
闇太郎自身の面上にも、にわかに不安の影が射す。
雪之丞は、さも心配そうに、そういってくれる、この不思議な心友を、たのもしげに仰いだが、
「実は、身に差し迫った難儀が出来まして、是非ともお前さまのお手で、お力がお借り申したく押しつけわざに伺いましたが――」
口ごもるのを、
「そりゃあありがてえ、おれのようなものを力にしてくれた以上、どんなにでも及ぶだけ働くが――それにしても、気にかかる、その難儀というのを、早く聴かして貰いてえものだ――」
と、膝がすすむ。
雪之丞、今は、なにを包みかくす気持がない――まず、三斎隠居屋敷での、女白浪との出逢いから、その女のしつッこい、執着、威嚇――それから、その女が、耳にしたという秘密が、実は、どんなものであるか――つまり雪之丞自身の本体がなにもので、いかなる大望に生きているか、敵はだれだれで、味方は何人か、一切、合財をぶちまけて聴かせたのだった。
闇太郎は、あるいは怒りあるいは歎き、悲愴な雪之丞の身の上ばなしに、耳を傾けて、あまたびうなずいたが、
「おお、そういうお前さんだったか?何か、大きな望みを持つ人とは思ったが――よく打ちあけて下すった。かずならねえ身も、どうにかして力になりてえものだ」
と、言って、
「その、女泥棒の方は、心配なさるな。聴いているうちに、おれに、ちゃあんと思い当って来やしたよ」
「多分、容子をお話したら、大て見当はつけて下さろうと思いましたが、一たい、それは、どのような女子で?」
「大方、そりゃあ、軽業お初という奴さ」
と、闇太郎は、いくらか笑って、
「なあに、なかなか気性のある女だが、思い立ったら利(き)かねえ性(たち)で、このおれとさえ仕事を張り合うような阿魔さ。ああいうのが思い込むと、どんなことでもしかねねえよ。が、まかせて下せえ。おれが、必ず何とかするから――」


一八 編集

闇太郎は、雪之丞の物語を聴くと、すぐに大きくうなずいて、こんな風に慰めたが、
「それにしても、太夫、物事は、ケチがつきはじめると、あとからあとからヘマが出るものだ――大望といって、あんまり大事を取っていると、どんな障(さまた)げがはいるかわからぬ。お師匠がたの言葉も言葉だが、精々、思い切ったところを見せてやるのもいいと思うが――」
「いかにも、お言葉どおりでござります」
と、雪之丞も、合点して、
「せめて、ここ十日も、経ちましたら、お前さまにも、何か、お耳にひびくでござりましょう」
「折角たずねてくれたこと、茶も出さねえで失礼だが、お初と来ると、先方(さき)も勾配(こうばい)の早い奴――早速、穴をたぐって、ひとつ何とかとっちめて置いてやろう――」
闇太郎は、そう言うと、立ち上って、八反の平ぐけを、ぐっと引きしめて、腹巻の間に、合口をひそめて、豆しぼりの手拭を、ビュウと振ってしごいたが、
「じゃあ、そこまで、一緒に出ようか――なあに、おれのカンは、はずれッ子はねえ。必ず、今夜中に、あの色気違いをとッつかめえるよ」
闇太郎は、辻かごのいるところまで、雪之丞を送って来て、
「そんなら、別れるが――安心して吉左右(きっさう)を待ちなせえよ」
「どうぞ、お願いいたします」
雪之丞は、やっと、ホッとして、かごに揺られて、旅宿の方へ――
闇太郎は、例の吉原かぶり、ふところ手で、
――人は見かえによらねえものというが、女がたの雪之丞、そこまでの大望をいだいていたのかなあ――何か一癖ある奴とは思ったが――何にしても、変った奴だ。おらあ、あいつのためなら、死んでやりてえような気持までするんだ。だが、お初ッて奴も、いい加減な茶人だなあ――見す見す泥棒と見ぬかれているのを知りながら、こわおもてで口説くなんて、ちっとばかしだらしがねえ。ふ、ふ、ふ――何だって、世の中の奴あ、色恋ばかりにそう狂っていやがるんだ。
闇太郎は、お初が、さも、通番頭のお妾さんらしく、黒門町の新道の奥に、ひっそりと隠れていることを、すっかり知っているのだ。雪之丞が、話したような出来ごとがあったあとで、まさか、商売に手を出すはずもない――やけ酒の一ぱいも呷(あお)って、自家(うち)に戻って来るだろうという推量――
夜更けの裏通りで、警邏(けいら)の見廻り同心が、手下をつれて、歩いているのに、一二度出逢ったが、闇太郎は平気で、鼻唄でやりすごして、やがて、しいんとした黒門町の細い巷路にさしかかる。
どぶ板を、無遠慮に踏んで、路地奥にはいって、磨きの格子戸――まだ雨戸がはいつていない、小家の前に立つと、ためらわずに、
「御免ねえ!ちと、急用だが――」
どこまでも、無垢のものらしく住みならしている一家――ばあやが平気で出て来て、
「どなたさんか?おかみさんは、ちっと用があって出て、戻りませんが――」
「それじゃあ、上げて貰って待って見よう――ちっと、大事な話なんで――」
ばあやは、透かして見て、遊び人が、何か筋をいいに来もしたかと思ったが、
「でも、今夜は、遅いから、あしたのことに――もう、お前さん、夜更けですよ」


一九 編集

闇太郎と、婆やとの押問答が、二階に聴えたと見えて、晩酌に一本つけて貰って、女あるじ――女親分の留守の間を、楽々とごろ寝に貪っていた例のむく犬の吉むくりと起き立って、鉄火な口調がまいzっているので、さては、探偵手先(いっけもの)か?それとも、弱身を知っての押しがりか?と、耳をそば立てたが、そのまま、とんとんと、荒っぽく、段ばしごを駆け下りて、
「誰だ、誰だ?何だ?何だ?こう、小母さん、退(ど)きねえ――」
と、婆やを、かきのけるように格子先きを、白い目で睨んで、
「おい、おまはん一てえ、どこのどなただ?よる夜中、ひとの格子をガタピシやって、どぎついことを並べるなあ、あんまりゾッとした話じゃあねえぜ!」
と、まず、虚勢を張って見る。
ピカリと、しずかに、つめたく光る十手のきらめきも見えなかったが、しかし、相手の答えは小馬鹿にしたほど、落つき払っていた。
「は、は、は、むく犬、大した気合だな、度胸だな、機嫌だな?俺だ――わからねえか?久しぶりだの――」
吉原かぶりを、解いて、突き出すようにした顔――その浅黒い、きりっと苦味ばしった、目の切れの鋭い、その顔を、むく犬は、一瞥すると、ぎょっとしたように、
「へえ――こりゃあ!」
と、叫んだが、また、ひどく、なつかしくもあるように、
「まあ、何と珍しい――どうした風の吹きまわしで――親分、あっしゃあ、合せる顔はねえのだが――」
と、いいざま、土間に、殆んどはだしではね下りて、びっくりする婆やには見向きもせず、格子の止め釘をはずして、ガラリとあけて、
「あねはんはいませんが、さあ、ずっと、お上んなすって――」
「そうか、じゃあ、けえるまで、またせて貰おうか――実は、ちっと、姐御と、折り入って、話があってな――」
闇太郎、手拭で、裾をパンパンと叩くと、吉の案内で、茶の間に通る。
見まわして、
「ほう、いい、おすめえだな?姐御のこのみが見えて、意気で、しっとりと落ちついているな」
むく犬の吉、婆やをたのまず、自分で、小器用に、茶をいれてすすめて、
「ひとしきり、御厄けえになりながら、顔出しもしませんで、どう、まっぴら、御免なすって――」
「なあに、いいってことよ。おれもつき合い下手で、このごろ、だれにも逢わねえ――御無沙汰はおたげえだ。それにしても、吉、美しい親分を持って、さぞ、働き甲斐があるだろうな――」
「御冗談を――」
むく犬は、親分のお初が、あんまり綺麗なので、色気にひかされて、かくれ家にゴロついているなどと思われるのが恥かしいのだ。
その上、お初の負けじ魂で、ともすれば男の闇太郎に張り合って、悪口の一つもきくのが、ひびいていやしまいかと、気にもなる。
が、闇太郎、むく犬なぞは眼中にない。
「かまわず油を売っていてくれ。おらあ、姐御に、ひと言、話があって来ただけだから――」


二〇 編集

「大丈夫なのかえ?吉さん、こんな人を通してさ?」
と、心配そうな婆やを、台どころへ出て来たむく犬の吉は、目つきでおさえて、
「どうしてどうして、そんなお人じゃあねえんだよ――あれで、あのお人は、江戸で名うての人間で、名前を聴きゃあ、小母さんなんざあ、腰を抜かしてしまうのさ――それよりも、何か、有り合せのもので、親分に一口差し上げなけりゃあ――」
狭いうちなので、その話ごえは、茶の間に筒抜けだ。苦わらいした闇太郎が、
「おい、吉、構ってくれるにゃ及ばねえ。姐御の留守に、そんなことをして貰っちゃあ――それより、もう一ぺえ、©っ屋が頂戴してえな。おめえ、煎茶の心得でもあると見えて、豪勢、うめえ茶をのませてくれたよ」
吉は、闇太郎のような、斯道の大先輩と、同じ部屋に坐っているのさえ幸福だ。まして、今、いれて出した茶を讃められて、ますます歓喜に堪えない。うれしさに、脊すじをゾクゾクさせて、戻って来て、
「なアにね、おほめに預かれるほどのものじゃアありゃせんが、あッしも酒のみゆえ、酔ざめに、ほろ苦い茶がうめえものだから、だんだん今の年で茶好きになりやしたのさ」
「結構だ、話せらあ。江戸ッ子だよ、おめえは――」
「へ、へ、へ。冥加なわけで――」
闇太郎、からかいながら、吉と世間ばなしをしているうちに、心の中で、
――お初の奴、今夜、はやまって、三斎屋敷へでも駆け込まなきゃあいいが――まさか、そんあこともしやあすめえが――女という奴は、一度、惚れ込んだとなると、ちっとやそっとのことでは、あきらめやしねえ――まだまだ未練があるにきまっている――その中に、ふくれッつらをしてけえって来るだろう――
すると、やがて、路地で、かすかな足音。それが家の前で止まって、荒っぽく格子戸が、あけたてされて――
「おい、何て、留守番だ!よる夜中、格子をあけッぱなしにしやあがって!」
と、キンキンする、女の声が、角立ったが、
「おや!お客さんかえ?見なれねえ草履が――」
吉公が駆け出して、
「おお、姐はん、思いがけねえお客人で――」
「こんな夜中に、だれだえ!」
と、お初の声。
「それが、姐はん――全く思いがけねえお方で――まあ、顔を見て御覧じろ」
「厭に気をもたせるねえ――どなたがお越しだってえのさ?」
お高祖頭巾をとりながら、茶の間をのぞいたお初、行燈の光に、闇太郎の半面を、くっきり見わけると、さすがにびっくりして、
「おや!まあ!闇の字親分――」
闇太郎は、白い前歯をあらわして笑って、
「姐御、久しぶりだったな、急に逢いてえことがあって、お邪魔をしていやしたよ」
「まあ、ほんとうにお珍しい――親分が、こんなところへ出向いて下さるなんて――そんなら、途中で愚図愚図なんぞしているんじゃあなかったっけ」
お初は、長火鉢の前の、派手な友ぜんの座ぶとんにぺたりと坐って、
「実はネ、ちっとばかしぐれはまな目になって、屋台で燗ざけをあおって来ましたのさ」
酒気をホーッと吐いて、彼女は艶に笑った。


二一 編集

お初は、湯呑に素湯(さゆ)をついで、うまそうに飲んだが、気がついたように、
「おい、吉、一たい、てめえ、内をしていたんだね?親分が、折角いらしったというのに、空ッ茶を上げて置くなんて――なんにも無くとも、一くち、差し上げなけりゃあ――」
「おッと、姐御、御馳走にはいつでもなれる。まあ、おれの話というのを聴いて貰ってからにして貰いてえ」
と、闇太郎がおさえる。
お初は、素直な口調で、
「そうですか――じゃあ、お話というのを伺いましょう?何か女手のいる大仕事でもありますのか?なあにね、あたしもこれまで、女だてらに、親分たちを向うにまわして、大きな口を利いていましたが、やっぱし、女ッ切れの一本立ちに、くるしいこともありますのさ――親分の方から、こうしてわざわざ来てくれたのですもの、どんなことでも、否やはいわずに、働かせていただきたいものですよ」
「そうかえ。気がさもののお初さんから、そんなやさしい言葉を聴けるとは、これまで思いがけなかったよ」
と、闇太郎はうなずいて、
「そう言ってくれりゃあ、ちょいと、口から出しにくい話でも、遠慮なく言い出せるというものだ」
「で、親分、お話とは何ですえ?」
と、じっとみつめるお初を、闇太郎は、まじろぎもせずに見返して、
「お初さん、頼みというのは外でもねえが、おまはんが現に手を出しかけていることから、一ばん綺麗に、身を退いて頂きてえのだ」
「身を退け?手を出している仕事から?」
「親分、何か、間違いじゃあありませんか?わたしは、今のところ、別に大きな事件ももくろんではいませんが――」
と、言って、ニタリと、異様に微笑して、
「実はねえ、親分さん、お初もこれで、やっぱし女で、柄にもなく優しい苦労をおぼえて、いまのところ、渡世の方に御無沙汰さ」
闇太郎は、そういうお初の、淫らな、あでやかな笑いを見ると、あやしい悪寒のようなものを覚えた。
――なるほど、この女、無宙になっていやあがる。とりみだしていやあがる――おれほどの男の前で、ぬけぬけと、心の秘密をのろけるまで、魂をぶち込んでいやあがる――雪之丞が、震え上るのも無理はねえ――
「姐御、お前の、そのやさしい苦労というのが、どんなものか知らねえが、ぶちまけて言えば、おれの知っているあの他所(よそ)ものが、大きな望みを持って、この江戸に足をふんごみ、いのちがけで大願を成就させようとあせっているのさ。ところがだ、ある人の耳に、誰にも知られてはならねえ大望が洩れて、敵方に、それが筒抜けになりそうになり、今のところ、大迷惑さ。お初さん、お互に江戸ッ子――かよわいからだ、大敵を向うにまわした奴にゃあ、人情をかけてやりてえものだの――」
闇太郎が、これだけ言って、相手の顔いろをうかがうと、お初は、眉を釣るようにして、唇をぐっとひきゆがめ、さげすむように、じろりと一瞥して、
「親分、おまはん、たのまれておいでなすったね――」


二二 編集

お初は、嘲りのいろさえ見せて、闇太郎を尻目にかけるようにしながら、言葉を次ぐ。
「親分、お前さんが、他人の色恋の、間に立ちまじって、口をお利きになろうなぞとは、わちきは思いもかけませんでしたよ」
「そうだ、全くだ」
と、闇太郎は、ざっくばらんに、
「おれだって、今日が日まで、こんな役割をつとめようたあ、思ってもいなかった。ところが、世の中のめぐり合せという奴は不思議なもので、思いがけなく、とんだ不意気で、不粋なことを、おまはんに聴かせなけりゃあならねえ羽目になった。ねえ、姐御、くどくは言わねえが、あの雪――上方もののからだから、さっぱりと手を退(ひ)いておくんなせえ。何もかも知らぬ昔と思い切っておくんなせえ。このおれが、こう手を突いて頼むから――」
と、膝に手を、ピョコリ頭を下げて見せる。
「まあ、親方、馬鹿らしい――」
とお初は手を振って、
「女のあたしに頭なんぞ、お下げになることがありますものか――だがねえ、親方、ほかのことなら、どんなことでも、おっしゃるままにしたいけれど、このことばかりは堪忍(かんにん)して下さいな」
闇太郎は、黙って、相手を、じろりと見る。
お初は、じれったそうに、口を引き曲げるようにして、いくらか、頰を紅くしながら、
「あたしは、自分でも、自分がわからない位なんですよ。女だてらに、綽名の一つも持ったものが、娘っ子じゃあるまいし、舞台の上の男に惚れて、追っかけまわす――身性を知って、嫌いに嫌ってると知りながら、あきらめず、相手の秘密を知っているをネタに、おどしにかけさえする――浅間しいとも、あつかましいとも、お話にもなりゃあしません――だけど、恋しいの、好きだの、と口に出してしまったからには、いうことを肯(き)いてくれればよし、さもなくば、一緒に地獄へ引き落してやらなければ、辛抱が出来ないのが、あたしの生れつきなのだから、あの人にも、まあ、何もかも因果だと、あきらめて貰う外はありませんよ。それというのもあの人が、世間の女という女の、こころを乱して来た天罰というものかも知れませんねえ――ほ、ほ、ほ、ほ、ほ」
やけに、笑うお初の顔いろには、思い入った、沈痛なものが漲っている。
闇太郎は苦っぽく笑って、
「あの人もお前さんほどの気性ものに、そこまで思い込まれたのは仕合せといってもいいだろうが、しかし、何しろ大願のあるからだ――今のところ、色恋に心を分けるひまのないのも当り前だ。だから、せめて、あの人が望みを果す日まで、何もかも待ってしてくれることにして貰えれば――」
「ほ、ほ、ほ――親分にもないお言葉です」
と、お初は、捨て鉢に、
「親分、お前さんだって、このあたしが、どんな身の上か、よく御存知のはずでしょう。高い声では言われないが、明日にも運が傾けば、どんな暴(あら)しが吹いて来て、このいのちを、吹き散らしてしまうか知れないのです。あたしの一日は、世間の女の人達の、一年にも向っている――その辺のことは、親分も、御自分で、よーく知っていなさる筈ではありませんか?」


二三 編集

お初は、もう、闇太郎の言葉は、耳に入れたくないという風で、
「ねえ、親分、このことに就いては、黙って下さいよ。あたしを、とんだ色きちがいと笑ってくれてもいいから――そして、暫くのことだから、まあ、機嫌よく一口飲んで、世間ばなしでもして行って下さいな。おい、婆や、そう言ってあるものを、出しておくれよ」
「へえ、へえ、只今――」
婆やは、高調子なお初の声の下からそう答えて、小皿盛なぞを並べ立てた膳をはこんで来るのだった。
「親分、おひとつ――」
と、お初は、猪口を突き出す。
闇他党は、受けは受けたが、すぐに伏せて、
「まあ、姐御、もう少し聴いて貰いてえ。お前だって、生(き)ッ粋(すい)の江戸ッ子じゃあねえか――自分が辛いことを忍んでやってこそ、あッぱれ意気な女というものだぜ。それに、若し、お前g、ここで女を見せてくれりゃあ、あの男だって、おれだって、決して忘れやあしねえよ。何かで屹度恩を返さあな」
「闇の親分。お前さんにも似合わずくどいねえ」
と、お初は皮肉に言って退けて、
「これは、渡世の上のことなら、お前さんは立派な男、あたしは女のきれッぱし、あの縄張から手を引けとか、あの仕事は、おれにまかせろとかいうのでもあれば、へえ、そうですか――と、身をひこうが、色恋は、女のいのちなんですよ――八百屋の小娘だって色男に逢いたけりゃあ、火あぶりにさえなるのです。叶わぬ恋の恨みのために、どんなことでもしてのけるが、あたし達さ。この事だけは、別なのdかあら、どうぞほおって置いておくんなさいよ」
と、手酌で、わざとらくしうまそうに飲む。
闇太郎は、腕組をしたままで、
「じゃあ、お初さん、どこまでも、お前は意地を張るつもりなんだね?」
「意地を張るというわけではないが、あきらめられなけりゃあ仕方がありませんよ」
闇太郎、慣れぬ問題だけに、当惑して、考え込んでいたが、ここで、癇癪(かんしゃく)を起してしまったら、相手はいよいよねじけるばかりであろう――
そして、自分が帰るとすぐに、三斎屋敷に駈け込むかも知れないのだ。
引き据えて、江戸ッ子の恥さらし、渡世仲間の恥辱と、撲りつけてやりたいのを怺えて、
「じゃあ、こうしよう――もう一度、このおれから、雪之丞に、お前の気持をようく話して見るから、その返事が来るまでは、どうぞ、軽はずみなことをせずに待っていて貰いてえが――」
お初も、あわれといえばあわれだ――叶わぬ恋を叶えて貰うためには、焙火箸(やけひばし)でも、蛇の尻尾でも甘んじて摑もうとするのであろう――身を乗り出すように――
「そんなら、親分、親分が、何とか仲に立って下さろうとおっしゃるの!まあ、うれしい――あの人と親分との間柄は深いらしいから、ひとつ打ち込んで下さったら、屹度何とかなるでしょう。あたしは、慾はかきません――たった一度、しんみり話さえ出来るなら」
闇太郎は、驚かないわけに行かない――恋に狂う女の、痴(おろか)さを、浅間しさを、いじらしさを――


二四 編集

「あたしゃあね、闇の親分――」
と、お初は、一度醒めた酒が、今の一杯でまたボウと出て来たように、目元を染めて、ホーッと吐息をして、
「今度ッくらい、自分の身の上が儚(はな)なく思われたことはないんですよ。世の中では、河原者の身分ちがいのとさげすんでいる、舞台ッ子にさえ、わけへだての目で見られなけりゃあならないなんて――あたしだって、小屋もののむすめなんぞに生れなかったら、女だてらに、こんな渡世には落ちこんではいなかった。それを考えると、ときどきこれでも、遅まきながら改心して――なんて考えることはあっても、また、やけのやん八になってしまうんですよ」
闇太郎は、お初の、そうした愚痴に、同情しないではない――が、彼は聴き度くない。彼自身は、もう世の中に、ちゃあんと見切りをつけているのだが、仲間うちが、こんな弱音を吐くのを耳にすると、
――人につけ、後悔しているんなら、とッとと坊主にでも商売換えをしてしまえ!
と、でも、男同士な怒鳴りつけたいのだ。
「まあ、姐御、そんなに腐らねえでもいいじゃねえか――どうせ踏み込んだ泥沼だよ――それに、素ッ堅気がっている奴だって、大ていおれ達と違ったものでもねえようだ。おれたちは、正直なものだから、正直に渡世をしているだけさ。何でもありゃしねえじゃねえか――くよくよしなさんなよ」
「くよくよなんかしたくはないけれど、此の世で二度と色恋なんかするんなら、ここまで持ちくずすんじゃなかったと思って――」
と、言って、お初は、またも、縋りつくような目つきになって、
「親分、恩に被(き)ますよ――ほんとうに、さっきから言うとおり――ね、たった一度、ゆっくり話せればいいのだから――因果な女だと、嗤(わら)ってね――」
闇太郎は、もう、一刻も早く、この痴情に心魂を爛(たら)らしてしまった年増(としま)おんなの前が、逃げ出したくなった。
「わかった、出来るだけやって見ようが、――そのかわり、おまはんも、じっくり待つ気になって貰いてえ」
「ああ辛抱出来るだけ辛抱していますからね――まあ、三日四日にネ」
闇太郎は、淋しいひびきを立てて、冷たい風が流れている往還へ出て、はじめて、ホッとすがすがしい息をした。
――何て、こったい!ああ意気地なく出られちゃあおいらにゃあ、口が利けやしねえよ。女って奴あ、おれには苦手だ。
だが、彼は、雪之丞に誓った手前、どうしても、お初の口をふさがねばならぬのだ。
――太夫も、もう少し不男に生れて来りゃあよかったに――知らずに罪をつくっているというものだ。が、このままにはすまされねえ――お初には、未来までうらまれるだろうが、あいつを何とかして、世間と縁を切らせて置くほかはねえかなあ、当分の間でも――
闇太郎は、妙に陰気な気持ちになったが、
――なあに、大の虫、小の虫だ――お初、気の毒だが、おらあ、敵になるぜ。
どう、魂胆したか、闇太郎、その夜はそのまま、浅草田圃の仕事場へもどって行くのだった。


二五 編集

闇太郎は、浮かなかった。翌日一日、隠れ家で、細工場の机に坐っても、仕事に気が乗らず彫刀(こがたな)を取り上げてはすぐに投げ捨てたり、腕組をしては生あくびをしたりしつづけていた。
たそがれが来て、彼は欝陶(うっとう)しそうにつぶやいた。
――ほんとうに、厄介なこッたなあ――おらは全く厭だ。お初なんで女の子とかかり合うのはやり切れねえ――が、あいつは気違いだ。あのままで置きゃあ、雪之丞の、向うにまわって、どんなことでもする奴だ――女の執念は怖ろしいものだからなあ!ところでと、どんな風に始末したらいいものか?
雪之丞の前では、何とか必ず処理するとはいって見たものの、最初から、一すじ縄で行かないのはわかっていた。日ごろの気ッ風(ぷ)として、金に目をかける女ではなし、どんな場合でも、あとへ引くような性(たち)ではなし、結局は、何か、荒っぽいことになる外はないと思っていたのが、とうとう、その日が来てしまったのだ。
――あれだけ、このおれが頼んで見ても、いつかなうけひかねえのだから、もうこの上は、無理にこっちのいうことを肯(き)かせるばかりだ。あんなに一心になっているのに、可哀そうな気もするが、大切な雪之丞のためにゃあ、鬼になる外はあるめえよ。
闇太郎は、一人ぐらしの気易さ、二たまわりの平ぐけを、きゅッと締め直すと、入口の戸を引き寄せて、突ッかけ草履――三の輪の方へ出かけたが、婆さんが、駄菓子をあきなって、倅はふらふらして、手あそび稼業、闇太郎と、しじゅう賭場で顔を合せる、ならずの新吉という男を訪ねた。
「儲け仕事というんなら、いくらでも乗りやすぜ――このごろ、ずッと勝負が悪くって、すっかりかじかんでいるんですから――」
「まあ外へ出て呉れ――歩きながら話そう」
闇太郎は、新吉を連れて、大恩寺の方へあるいた。まだ、宵にもなっていないのに、新吉原の方角から浮いた浮いたの、その癖不思議にさびしい太鼓の音が流れて来る。
「なあに、今夜、おれがしょびき出すから、女を一匹、谷中(やなか)の鉄心庵ッて古寺にかつぎ込んでくれりゃいいんだ」
と、闇太郎が言うと、
「へえ!女の子を――」
と、闇太郎をいぶかしげに眺めて、新吉が、
「親分が、女の子とかかわりが出来たなんて珍しいね」
「なんの、人をつけ!今更、女ぎれえで通ったおれが、阿魔ッ子風情に眼をくれるもんか!ただ、当分、日の目を見せられねえわけのある奴がいるんだ――それで、暫時(ちょっとのま)、鉄心庵の和尚に引ッくくッて置いて貰おうと思って――」
「相手は?」
「ちっと、筋のわるい女さ。彫りものの一ツもあろうというような――ふ、ふ、妙なひッかかりで、とんだ罪を作らなきゃあならねえんだ。そこで、腕ッぷしの強い若手を二人ばかり仕度して、湯島の切り通しに、ずッと張っていて貰いてえんだが、寛永寺の鐘が四ツ打つころ、つた家ッて提燈(かんばん)のかごで通る。そいつを、そのまま、鉄心庵にかつぎこませりゃあいいんだよ。わかったか?」
「かごの中でじたばたしても、引ッくくって持ってきゃあいいんだね――かえはねえ」
と、新吉は何でもなげにうなずいた。


二六 編集

その夜更け――
湯島切り通しの、大きな椎の樹の下の暗がりに、人目を避けるように、何か、待ち合せでもしているような振りで、三人の若者が、いずれも、素袷に、弥蔵をこしらえて、夜寒むに胴ぶるいをしながら佇んでいたが、これは、いうをまたず、闇太郎に頼まれて、お初攫(さら)いの役目を貰った、ならすの新吉と、その一味だ。
「ハ、ハックショイ!やけに冷えて来たぜ」
「うん、もう、じきに師走だものなあ――こんなことなら、燗ざけの二三本でも、注ぎ込んで来るんだっけ」
若い者がつぶやき合うのを、新吉が、
「何でえ、江戸ッ子が、その若さで、水ッ鼻をすする奴があるか――雪が降っても、着物を着て素足に草履、それが、おいらの心意気だぜ――なに、もう少し辛抱しろよ。今夜、仕事がすめば、ゆっくり遊ばしてやらあ――こう、作蔵、てめえ、千住(こつ)に深間が出来たって話じゃあねえか?」
「え、へ、へ、へ」
と、若者の一人が、笑って、
「なあにネ、そいつがついこないだ、羽州羽黒山のふもとから出て来たというんでしてネ。ねやの睦言って奴も、なかなか呑み込めねえんだ――おみいさまあ、また、ずくに来てくんろよ――と、来やがらあ――へ、へ、へ、へ」
「生、いうなッてことよ、作に情女(おんな)が出来るなんて、年代記ものと、こちとらあ思っているんだゼ――まあ、せいぜい大事にしてやるこった」
馬鹿をいっているところへ、向うから上って来る町かご――
「おッ!」
と、新吉がみつめて、
「こんどは間違いッ子なしだゼ――提燈に、赤い字で、つた家と書いてあらあ――かご屋はぐるなんだ。押えて、垂れの外から、八公に渡して置いた縄でぐるぐるまき、池の端から、お山の裏へ抜けて、谷中の鉄心庵にほうり込みゃあいいんだ。わかっているな」
「うん、合点だ」
ホラショ!ホイ!と、切通しのだらだら坂を、半ば上って来た。闇太郎から、雪之丞がさすがに身につまされたと見えて、今夜、湯島境内の出合い茶屋で、閉場(はね)てから逢おうといってくれたと聴いて、恋には、前後の差別もなく、カーッと胸をおどらせてしまった彼女であった。闇太郎が、このかごが、茶屋をよく知っているからというままに、迎いの乗物に身をまかせて揺られて来る道々、お初ほどの女、ただもう、十八の小むすめのようにワクワクして、それ以外のことに気をくばるひまもない。
――たった一度でいい――と、誓ったあたしだ。さきに大望があるというからには、しつッこく、二度、三度、と又の逢瀬はねだれない――せめて、今夜一晩は、明けるまで、夜っぴて、思いのたけをいってやらなくっては――
雪之丞の、あの凛(りん9として、白梅のような美しい顔が、目にうかんで、彼女の魂を、鋭く、しかし、甘たるく、嚙み破ろうとするのであった。
――たった一晩、――あたしはそれを一生ほどに思っているのだよ、太夫――


二七 編集

ひたむきの執念に、燃え焦れたお初、かごに揺られながら、もう広小路も越して、いよいよ湯島の切りどおし、それも、半ばは上って来たと思っていると、ふと足音がだしぬけに近づいて、
「おい、そのかご、待って貰おう」
と、低い脅かすような声がいって、棒鼻を押えた容子――
それで、彼女の、甘たるく、遣る瀬ない、恋路の夢が、突如として、中断されてしまった。
ハッと、さすがに、びっくりすると同時に、手が、帯の間の合口にかかって、
――畜生!岡ッ引きか?
万一、このかごの主を、軽業お初と知って、押えにかかったのなら、遮(しゃ)二無二、切り払って逃げる外はない――ここで、縄目にかかれば、どうせ、二度と、娑婆の、明るい日の目を見られぬからだだ――恋も、色も、それどころか、明日のいのちが、それっきりだ。
――それとも、追剝ぎ、ゆすりか?それなら、いかに物騒な世の中だって、おもしろすぎる――この黒門町のお初をおどしに掛けようとは――
かごが、とんと下に下されたので、
「若い衆、何ですね?こんなとこへ下したりして――」
と、わざと、中から、探りの声をかける。
「何だとおっしゃって――どうにも仕方がねえんで――」
「うるせい!黙っていろ!」
と、叱ったのは、癇癪持らしい若い声だ。
「かごの中のお人、しずかにしておいでなせえよ――騒ぐとために成らねえ――」
と、同じ声が――
「さあ、愚図愚図しねえで、からげてしめえ」
お初は、その言葉で、何かしら巧(たくみ)にかかったのだと直覚した。
――そうか!闇太郎の奴、苦し紛れにハメやあがったな――男らしくもねえ。
垂れを、パッと刎ねて、合口をつかんで、飛び出そうとしたが、もう遅かった。その時にはかごを繞(めぐ)って、丈夫な繩が、ぐるぐるとまわされて、切り破るにも法がつかない。
「姐御、まあ、おとなしくしていさッし」
と、馬鹿にしたように若者はいって、
「なに、いのちを取るの、奉行所へかつぎ込もうというのじゃあねえんだ。姐はんがのさばり出しては、都合がわるいんで、一時、寺あずけというわけさ、まあ、まかしておきなせえ――さあ、若い衆、いそいでくれ」
かごが、荒っぽく、ぐっと上る。
そして、突然、飛ぶようにいそぎ出すのだった。
お初は、かごの中で、青ざめて、唇を嚙んだ。
おいらも、焼きがまわったよ――あんな男女みてえな奴にいのちまでもと惚れ込んだのも、只ごとじゃあなかったんだ――だが、じたばたしたってはじまらねえ。もともと、泥棒になり下ったのも恋のため――二度と、男なんかに見向きもすめえと思っていながら、こんなことになったのもめぐりあわせだ――ただ、このまま、闇太郎の野郎なんぞに、おッ伏せられているおいらじゃあねえ筈だ。お初ちゃん、落着いて、一思案というところだぜ。
かごは、なおも一散に走っていた。かご脇を二三人の男が、駆けている足音も聴えていた。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。