雪之丞変化/新しき敵

新しき敵 編集

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脇田一松斎道場は、森閑としていた。
丁度、昼間の稽古(けいこ)が済んで、夜稽古は、まだ始まらぬのであろう。
雪之丞が訪うと、直ぐに、書斎に通された。武芸者の居間に似合わず、三方は本箱で、一杯で、床には、高雅(こうが)、狩野派(かのうは)の山水なぞが掛けられている。
それを背にして、一松斎は、桐の机に坐っていた。年の頃は、四十前後――。頭髪(かみ)を打っ返しにして、鼠紬(ねずみつむぎ)の小袖、茶がかかった袴をはいて、しずかに坐ったところは、少しも武張ったところがない。殊更、その風貌は、眉が美しく、鼻梁(はなすじ)が通り、口元が優しく緊(しま)っているので、どちらかというと、業態(ぎょうてい)には応(ふさ)わしからぬ位、みやびてさえ見える。
一松斎は、敷居外にひれ伏した雪之丞を、眺めると、微笑を含んで、
「そなたが、江戸に下られた噂󠄀は、瓦版(かわらばん)でも読んでいた。いやもう、大変な評判で、嬉しく思う。さあこれへ進まれるがよい」
雪之丞は、燭台の光に、半面を照されている旧師の顔を、なつかし気に仰いで、一礼すると、机の前ににじり寄った。
「一別以来、もう四年だ。日頃から、逢いとう思っていたが――」
「わたくしも、先生のお姿を一日とて、思い浮べぬことはござりませんでしたが――。でも、今度は滞(とどこお)りなく江戸下りが出来まして、お目にかかられ、かように嬉しいことはござりませぬ。それに、ただ今道すがら、八幡さまにお詣りいたしますと、孤軒老師にはからず御対面。文武の両師にいちどきにお目にかかれましたも、神さまのお引き合せと、嬉しゅうてなりませぬ」
「ほお、孤軒先生に?」
と、一松斎はいくらか、吃驚(びっくり)したように、
「それは珍しい。かのお方も、御出府なされていようとは、存じよらなかった」
「何しろ八幡さま御境内で、売卜(ばいぼく)をなされておりますようで、すっかり、驚かされてしまいました」
「相変らず、意表に出でた暮しをなされているな!」
一松斎は笑って、
「あれほどのお方になると、並の生活はなさりかねると見えるの」
そう言う彼も、依然として、独身生活を続けていると見えて、茶菓(さか)をはこんで来るのも、内弟子らしい少年だった。
「拙者の方は、例によって、竹刀(しない)ばかり持ち続けているが、どうもまだ、山林に隠れる程の覚悟も決まらぬよ。慰めは酒だ。そう申せば、只今は、灘(なだ)の上酒(くだり)を頂いたそうで、何よりだ」
それから一松斎は、満更(まんざら)、芸道にも昏(くら)からぬ言葉で、江戸顔見世の狂言のことなど、訊ねるのだったが、ふと、稍鋭い、しかし、静かさを失わぬ目つきで、雪之丞を見詰めると、
「よい折だ。今夜は、そなたに、拙者としてまず第一番の、贈り物をして遣わそう」
雪之丞は、師を見詰めた。
「外でもないが、拙者(せっしゃ)幼年の頃より、独立自発、心肝を砕いて、どうやら編み出した流儀の、奥義を譲ろう」
雪之丞は、一松斎の言葉を聴くと、のけ反るばかりに驚愕した。
「え?わたくしに、御奥義を、お譲り下されると仰有るので?」
一松斎は、微笑していた。
「如何にも、その時がまいったようだ」


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奥義を許されると聴いて、雪之丞は狂気仰天したのも無理はない。
脇田一松斎の奉ずる、独創天心流は、文字通り、一松斎自身の創意から編み出されたもので、彼の説によれば、剣の道は、一生一代――真の悟入は、次々へ譲り渡すことは出きぬおのだといわれているのだった。
一松斎その人が、既に、その極意を、何人(なんびと)から得たわけではなかった。彼にも、そこまで剣を練るには、いうにいわれぬ、悲苦艱難(ひくかんなん)があったのだった。彼の父親は、大阪城代部下の、一勘定役人(かんじょうやくにん)であったが、お城修理の砌(みぎり)、作事奉行配下の、腕自慢の侍と口論し、筋が立っていたので、その場は言文を通したが、程経て、闇討ちに会ってしまった。
文武は車の両輪というが、なかなか一身に両能を兼ねられるものではない。代々算筆(さんぴつ)で立っていた、脇田家に生れた一子藤之介、――いま現在の一松斎も、父を打たれた当座は、刀を揮るさえ、腕に重かったのだ。
だが、それからの幾年月を、天下諸国を流浪して、各流各派の剣士の門を敲(たた)き、心肝を砕いて錬磨を遂げているうちに、いつとはなしに、自得したのか、所謂、独創天心流なる、一種、独特な剣技だったのだ。
「教えられるだけのものは、既に教えてある気がするが、たった一つ、深く心に、嚙(か)みしめて貰いたいことがある。道場の支度が相済んだら、早速、伝授して遣わそう」
彼は、そういうと、手を鳴らした。
内弟子が現れる。
「御神前の御燈明(みあかし)をかがやかし、御榊(おさかき)を捧げなさい。道場にて、この者と、用事あるによって、人払をいたすがよい」
内弟子は、かしこまって去った。
間もなく一松斎は、起ち上った。
秘儀伝授と聴いて胸おどり、足の踏み所を知らぬ雪之丞――強いて、心を静めて、跡につく。
最早、夜稽古が始まる時刻で、道場に詰めかけていた、通(かよ)いの門弟たちは、控え所の方へ追い出されていた。
道場壇上の正面、天照皇大神宮、八幡大菩薩(まんだいぼさつ)――二柱の御名をしるした、掛軸の前には、燭火(しょくか)が輝き、青々とした榊が供えられていた。
その壇上に、ピタリと端坐した一松斎、道場の板の間に、つい一松斎の足下にひれ伏した雪之丞――粗朴剛健(そぼくごうけん)で、何等の装飾もない十間四面の、練技場。ガランとして人気もない中に、雪持寒牡丹(ゆきもちかんぼたん)の模様の着つけに、紫帽子の女形が、たった一人、坐った姿は、異様で且妖(あや)しかった。
「ではこれから、秘伝々授の儀に移ろう」
一松斎はそういって、額(ぬか)うく雪之丞を見下すと、祭壇に向って、柏手を打ち、深く、跪拝(きはい)していつも神霊の前に供えてある、黒木の箱の蓋をはねると、中から、一巻の巻物を取り出した。
そして、元の座に戻って、
「雪之丞、まいれ。遣わすぞ」
その一巻を、壇下から震えるばかり白い手をさし伸べて、受けようとする雪之丞、師弟の手が触れ合おうとした、その刹那(せつな)だ。
道場外に声があって、
「その御伝授、お待ち下さい」
と、切羽詰まって、荒々しく響いた。
開き扉を音高く開けて、走り入って来たのは、大阪以来、一松斎につききりの一の弟子、師範代を勤める、門倉平馬(かどくらへいま)という、髪黒く眼大きく、面長な、稍顎(あご)の張った、青白い青年だった。
「お待ち下さい、先生――」
と、彼は、雪之丞と押し並んで坐って、遮切(さえぎ)るように手をさし伸べた。


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突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)門倉平馬、必死の形相で、またも叫んだ。
「先生――お止(とど)まり下さい。その一巻の披見、雪之丞にお許し、お止(とど)まり下さい」
雪之丞は、伝書を受け取ろうと、伸べた手を、思わず引いたが、師匠一松斎は、ただ静かな瞳を、平馬に向けただけだった。
「日頃にもない平馬。その乱(ろう)がわしさは、何事だ」
「何事とは、お情ないお言葉――」
と、平馬は血走った目つきで、師匠を睨(ね)め上げる様にしたまま、
「かねがね仰せられるには、独創天心流には、奥義(おうぎ)も秘伝もない、自ら学び、自ら悟るを以て、本義となす、――と、繰返しての仰せ。それを何ぞや、この場にて、門下とは申せ、言わば例外の雪之丞に、秘巻拝見をさし許されるとは、あまりと申せば、理不尽なおなされ方――この門倉平馬、幼少よりお側に侍(はんべ)り、とにもかくにも、到らぬながら一の御門下、――御師範代をも仰せつかっております以上、万一、御秘儀、御授与の儀ありとせば、先ず以て、拙者に賜わるが順当――他のことにござれば、恩師より、蹴られ、打たれ、如何ようの折檻(せっかん)、お辱(はず)かしめも、さらさらお怨みはいたしませぬが、こればかりは、黙して、忍びかねます。順に従い、御披見(ごひけん)を、先ず拙者に許されますよう、平にお願いいたしまする」
武道の執念(しゅうねん)、栄辱(えいじょく)の憤恨(ふんこん)、常日頃の沈着を失った平馬は、いまは、両眼に、大粒な口惜し涙を一杯に浮かべてさえいる。
「平馬――」
と、一松斎は、顔色を動かさずに呼びかけた。
「わしはこれまで、その方はじめ、門下一同に向い、拙者一流の兵法を、よう自得いたしたとか、自得せぬとか称(ほ)めもくさしもしたことがあったか?わしは何時も、ただ、竹刀木剣を持って、その方らの打ち込みを受け、隙があらばその方たちを、打ち倒してつかわしたまでだ。わしの修業が、自ら悟る一方でまいった故、その流儀で、その方たちを訓育したまで、――順の、列外のと、その方は申すが、わしにおいては、昨日の弟子も今日の弟子も、全く同じもの。その方に師範代などと言う名義を与えたこともない。単に、居つきの古い弟子故、門弟一同の方から、その方を立てているまでだ。と、申すは何も、その方を、蔑(さげす)んだり、その方の剣技を認めぬと言うわけではない。わしはわしの流儀で、人間を縛(しば)るのが厭(いや)だからだ。いつも申す通り、業も一代、人も一代、いかにその方が、わしの流儀を尊(たっと)んでくれたればとて、わしとて、剣の神ではない。その方自身の悟入の結果、わしの流儀に反対(うらはら)な、説を立てねばならぬことにならぬと、誰に言えよう?そうしたわしの心構えを、満更知らぬその方でもあるまいに――」
「それは十分呑み込んでおりまするが、それならば何故、これなる俳優(わざおぎ)に、事々しゅう、秘巻伝授などと言う事を、仰せられましたか?」
平馬は相変らず、滂沱(ぼうだ)たる目で、師匠を見詰めつづける。
「方便だ」
と、一松斎は、強くいった。
「雪之丞は、一方ならぬ大事の瀬戸際、これまで不言不説のうちに過ごしたことを、きっぱり、思い知らせつかわそうとしたまでだ」
「然らば拙者にも、恩師御覚悟の御精髄を、改めてお示し下さるよう――」
平馬は、どこまでも退(ひ)かなかった。


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門倉平馬が、面色を変じて、強請(ごうせい)をつづけるのを眺めて、一松斎は、別に怒るでもなく、
「そこまでその方が申すなら、見せても遣わそう。したが、この独創天心の流儀は、そのように焦心、狂躁(きょうそう)いたすようでは、なかなか悟入することは覚束ないぞ――」
そして手にしている巻物を、
「雪之丞、まずその方より、――」
と、若女形の方へ差しだした。
雪之丞にすれば、何も、兄弟子平馬に先んじて、秘伝々授を受ける心はないが、折角の折柄を妨げられて、不安を感じていたのを、師匠が、片手落なく両方へ、披見を許すといってくれたので、やっとほっとして、白い手を恭(うやうや)しく差し伸べたのだった。
すると、その刹那――間髪を入れず、ぱっと躍り上った門倉平馬、師匠から雪之丞へと、渡されようとする巻物を、傍からひっ摑むと、飛鳥のような素早さで道場外へ飛び出した。
はっと驚愕(きょうがく)した雪之丞、
「狼藉(ろうぜき)!」
と、叫んで、これも飛び上って跡を追おうとする。
一松斎は、呼び止めた。
「追うな。心を静めて坐れ」
「と、仰せられても――」
と、雪之丞が、踏み止まりながらも、心は、無礼暴虐(ぼうぎゃく)な平馬の姿を追って、うわの空――
一松斎は、寧(むし)ろ悲し気に微笑していた。
「天から授からぬものを、強いて暴力で奪おうとしたところで、何も得られはせぬ。平馬は、わしの側について、十年あまり、剣技を学んだが、業よりも大事なものを、学ぶことが出来なんだ。雪之丞、彼が奪い去った一巻に、何が記してあると思ったか?実はあの一巻――単に空(くう)の白紙に過ぎなかったのだ」
いつか、雪之丞は、師の前に、膝まずいていた。――師匠は続けた。
「わしの流儀には、不言不説を、旨とするのは、そなたたちも、よう知っている筈だ。奥義とて、文字に現せる筈もなし、それを強いて現し得たとしても、その一巻を、如何に御神霊の前なりとは言え、守る人もなきところに、捧げて置く筈があろうか?あの巻物は、何人のためでもない。わし自身の増上慢(ぞうじょうまん)を自ら誡(いまし)めようための、御神霊への誓いだったのだ。とかく術者は、業を自得し、その名が世間に認められ、慕い寄る門下も、多くなればなる程、最初の一念を忘却し、己が現世の勢力を、押し、拡め、流派を盛んにして、我慾を張らんとし、秘伝の極意のと、事々しく、つまらぬ箇条(かじょう)を書き並べて、痴者(ちしゃ)を威そうとするものだ。わしとても、神ならぬ人間。――いつ何時、心が魔道に墜ちぬとも限らぬと、自誡のために、わざわざ白紙の一巻を、二柱の御神前に供え奉って置いたわけ。そなたに今宵、白紙の一軸を贈ろうとしたのも、今度こそ、大事を思い立っていると、見極めた程に、改めて、わしの日頃の魂そのものを、伝えようとしたまでだ。何も、平馬を追うに及ばぬ。彼はただ、師を失い、友を失って、全く空なるものを摑(つか)んだだけじゃ」
雪之丞は、ひれ伏したまま、深い感動に満たされた。
「さあ、会得したら、彼方の室にて、そなた持参の銘酒(めいしゅ)の酒盃を上げよう。まいれ」
師弟は、神前に額ずいて、道場を去った。


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一松斎も雪之丞も、酒盃を傾け始めると、もう今までの道場の事件などには、何も触れなかった。言わば、浮世話と言ったような、極めて暢(の)びやかな会話が、続くだけだった。朗かな談笑の笑声さえ漏れていた。酒だけが楽しみのような一松斎の頰に、赤い血の色が、ぽうっと上る頃、雪之丞は、暇を告げようとした。
「ゆっくりお相手をいたしたいのでござりますが、宿元に戻りましてから、狂言の打ち合せもござりますので、これでお暇(いとま)が願いとう――その中に、必ずまた、御機嫌伺いにまいりまする」
「さようか。――わしも、近々、必ず、そなたの舞台を拝見に、まいろう」
と、いつくしみの目を向けた一松斎は、ふと、思い出したという風で、極めて何気なく、
「これは、心得のためにいい置くだけだが、彼の門倉平馬は、この頃、土部(つちべ)駿河守(するがのかみ)の屋敷に、出稽古にまいっており。それだけは心に止めて置いてよいだろう」
土部駿河守というのは、大身旗本で、名は繁右衛門(しげえもん)、浜川、横山などが代官又は、手付役人として長崎在住。雪之丞の父親を籠絡(ろうらく)して、不義の富を重ねていた頃、最高級の長崎奉行の重職を占め、本地の他に、役高千石、役料四千四百俵、役金三千両という高い給料を幕府から受けながら、猶且(なおかつ)慊(あきた)らず、部下の不正行為を煽動(せんどう)して、ますます松浦屋を窮地(きゅうち)に落させた、いわば瀆職事件(とくしょくじけん)の首魁(しゅかい)といってもいい人物なのであった。
この人間には、不思議な病癖(びょうへき)があって、骨董珍器(こっとうちんき)、珠玉の類(たぐい)を蒐集(しゅうしゅう)するためには、どのような不徳不義をも、甘んじて行おうとする気性。松浦屋の手から召し上げた珍品だけでも、数万両の額に上ると言われていた。
それが今では、隠居して家督(かとく)を、忰(せがれ)繁助に譲り、末娘が将軍の閨房(けいぼう)の一隅に寵を得、世ばなれた身ながら、隠然として権力を、江都に張っているのであった。
「ははあ、さようでござりますか、それは何よりのことでござりますなあ」
と、雪之丞は、兄弟子が出世の緒口を、首尾よく摑み得たのを喜ぶというような、極く気軽な挨拶で受けた。
起き上る雪之丞を、師匠は、室の出口まで見送った。
雪之丞は、供の男を従えて、外へ出る。
晩秋の夜気は、しんと沁み通るようだ。無月なのに星の光が、一層鮮かに、冷たい風が、あるか無きかに流れている。
供男は、供待ちで、これも一口馳走になったと見えて、浪人に脅(おびや)かされて以来、びくつききっていた、来る途中の萎(しお)れ方は何処へやら、元気な声で、
「この分では、初日二日目三日目――大した人気にきまっておりますぜ。何しろ初上りの親方衆の、顔見世と言うのだから、座が割れっ返る程、大入り請合だ」
「そうなれば宜しいが、――何分始めての御当地故、入りばかり気になって、――」
雪之丞は謙遜(けんそん)深く、そんな相槌を打ちながら、さしかかったのが、横町を行きつくして、御蔵前通りの、暗く淋しい曲り角――。
すうっと、ある肌冷たさが、雪之丞の、白くほっそりした首筋に、感じられた。と思う刹那、闇をつん裂いて、無言の烈刃がぴゅうと、肩口に落ちて来た。
ぎゃっ、とおめいて、遁(に)げ出す供男。雪之丞は、ひらりと躱(かわ)すと、じっと身をそばめて、気配を窺った。


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闇を透して、相手をうかがう、雪之丞の細そりした右手(めて)はいつか、帯の間にはいって、懐剣(かいけん)の柄にかかっていた。
躱された敵は、退さって、じいっと、剣をあげて、次の構に移ったと見えて、青ざめた星の光が、刀身にちらちらときらめき、遠い常夜燈のあかりに、餌食(えじき)を狙う動物のように、少しばかり脊かがみになった姿が、黒く、物凄く看取された。
雪之丞は、気息を整えた。
相手の荒らいだ息も静まって、死の静寂がおとずれた。
と、――見る間に、かざされた大剣がさっと走って、雪之丞の頭上に閃めき落ちる。
じいんと刃金が相打って、響きを立てて、火花が散った。それなりまた、二つの姿は、少し離れて、互に隙を窺う。
暗殺者の刀は、下げられた。
会見をまともに突き出すようにしていた雪之丞の手先が、ぐうっと、引き上げられると、それに吸い寄せられたように、たっと土を蹴って、薙(な)ぐと見せて、突いて来る相手――。
長短の剣は、一瞬間、からみ合い、二つの黒い影は、もつれ合った。どうした羽目か、短い剣が、長い剣の持主の、腕の何処かに触れたらしく、あっと低く、呻めく声がしたかと思うと、黒影は咄嗟に二つに分れて、暗殺者が、傷ついた獣物(けもの)の素早さで、闇に消え行く姿が見えた。
雪之丞は、懐剣をかざしたまま、追おうともせず、見送ったが、相手が余程の強敵だったと見えて、呼吸は乱れ、全身に、ねっとりと汗だ。
――あれは確に、天心流。矢張り、あのお人だ――。
彼の心の目に浮んだのは、当然門倉平馬の、あの青ざめた、顎(あご)の張った顔であったろう?
――何という浅ましいお人!お師匠さまが、何となく当になさらなかったのも、お道理じゃ――
雪之丞は、そう心に呟きながら、懐剣に懐紙で拭いをかけて、鞘(さや)に収めると、供男の姿をあたりに探(もと)めたが、
「ほほ、――遁げ脚の速い和郎じゃ!」
と、口に出していって、不敵な微笑を脣元に浮べたが、しかしいつかまた、かすかな縦皺(たてじわ)が、美しい眉根の間に蔭をつくった。
彼は、門倉平馬が、彼にとっては、仇敵の総本山であるような、土部駿河守の麾下(きか)に、新しく属しているということを、一松斎がわざわざ囁(ささや)いてくれたのを思い出したのだ。
今夜こそ、平馬の一刀が、自分の生命を奪い損ね、まんまと敗衂(はいじん)の姿を見せたものの、決して油断のならぬ、技倆(ぎりょう)の持主であるということは、十分に知っている。彼は、自分の希望を成しとげるに、あらゆる意味で、大なる困難が横たわっていることを、改めて思わずにいられなかった。
雪の増は、しとしとと、夜道を、御蔵前通りを、駒形の方へ、歩を運ぶ。
すると、思いがけなく柳かげから、
「太夫さん、何とまあ、素晴しいお手のうちじゃござんせんか!」
と、いう、若々しい、しかし、いくらか錆びた声がいいかけて、はばからずあゆみ近づいた一人の男。
見れば、それは、黄昏(たそがれ)どき、浪人者に難題をいいかけられた折、割ってはいった、あのいなせな、若衆(わかしゅう)だった。
「あなたは先き程の――?」
と、そういいながら雪之丞は、御高祖頭巾(おこそずきん)を取ろうとした。


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雪之丞が、両手を膝のあたりまで垂れて、先き程、はからずも難儀を救って貰った、礼を言おうとするのを、若い衆は、押えて、
「何の、太夫、――お言葉に及びますものか、一寸一目見ただけでも、あの浪人者なんぞは、お前さんの、扇子がちょいと動きゃあ、咽喉笛(のどぶえ)に穴をあけて、引っくり返るのは、わかっていたが、人気渡世が、初の江戸上りに、血を流すのも、縁起がよくあるめえと、持って生れた、瘋癲根性(ふうてんこんじょう)――つい飛び出してしめえやした。あの野郎、ちっとばかし、威してやると、すっ飛んで行きやがった」
雪之丞は、べらべらと立て続けに喋舌(しゃべ)りつづける、この吉原かぶりの、小粋な姿を、不思議そうに見つめるばかりだ。
――ほんに一たい、この御仁は、如何なるお人であるのだろう?如何にもあの時の、わたしの構は、あの刀が振り下されたら、躱(かわ)したと見せて、咽喉元を、銀扇の要(かなめ)で、突き破ってやるつもりだった。それを見抜いた眼力は、大きく見れば程知れず、低く見ても、免許取り。それ程の方が、このお姿、――ますますわたしには解らない、――
若者は、雪之丞の瞠目(どうもく)を、暗がりの中で感じたか、カラカラと笑って、
「お前さんは、多分、あの時、あっしが、飛び出して、その場をさばいた揚句、扇の構が、どうのこうのといったので、やっとうの方でも解るように、お思いなすって、吃驚なすっているのだろうが、なあに、何でもありゃあしません。ごろん棒のあっし達。喧嘩に場慣(ばな)れているだけでさあ」
と、事もなげにまくし立てたが気がついたように、
「実はあれから、この近所に、あっしも用達しがあったので、その戻り道。たった今の剣の光を見たわけですが、太夫さん程の腕がありゃ、どんな夜道でも安心だとはいうものの、其のしおらしい女形姿を、夜更けの一人歩きは考えもの。ついそこに辻駕籠(つじかご)がいる筈だ、ちょいと呼んで来てあげましょう」
気軽にそういうと、もう、姿をすっと闇に消して、間もなく、向うの方で、
「おい、駕籠やさん――あそこにお客が待っている。山ノ宿まで一ッ走り、送ってあげてもれえてえ」
と、いう声がしている。そして直きに、辻駕籠は思わぬ客を拾った喜びに、いそいそと、こちらへ近づいて来る様子。
すると、突然、たったいま、あの訝(いぶか)しい若者の、声がしていた方角で、
「御用だ。闇太郎!――」
「闇太郎、御用!」
と、けたたましい叫びが起り、足音が、荒々しく入り乱れる。
雪之丞は、はっとして、日頃の仕来りで、女らしく、振りの袂で胸を抱いた。
――まあ、あの騒ぎは!――。
彼は、直角的に、夜廻り役人から、御用の声をあびせかけられている当人は、いまここを退(ど)いたばかりの、あの若者であるに相違ないと思うのだ。
雪之丞は、この府内に最近上って来たばかり。闇太郎という名から推して、大方、盗賊、夜盗の綽名(あだな)とは思ったが、それにしても、あの粋で、いなせで、如何にも明るく、朗かな若者が、そうした者とは思われない。
首を傾しげていると、目の前に、辻駕籠がとんと据って、
「へえ、お待ち遠さま――。駕籠(かご)の御用は、あなたさんで、――?」
と、先き棒が言うのだった。


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雪之丞が、通りの向うの闇を見つめたまま、前に据えられた辻駕籠に、乗ろうとしないので、駕籠舁(かごかき)が、
「さあ、どうぞお召しなすって――」
雪之丞は相変らず、瞳を前方に注いだまま、心がここにない風で、
「たしか、闇太郎、御用と言ったように聞えましたが――」
「へえ、何だか、そう申したようでございましたね」
と、後棒(あとぼう)が答えて、蔑(さげす)むような口調になって、
「なあに、あなた、この辺の見廻り役人や、目明し衆が、十人十五人で追っかけたって、闇太郎とも言われる人を、どうして、捕っつかめることが出来ますものか――」
その調子に、何となく役人に終れる者の方に、却(かえっ)て同情が濺(そそ)がれているのを感じながら、心を残して雪之丞は、しとやかに駕籠に身を入れる。
脱ぎ捨てた雪駄を、ぽんと塵を払って中に突っ込んだ駕籠舁――肩を入れて、息杖をぽんとついて、掛声(かけごえ)と一緒に小刻みで走り出す。
雪之丞の胸の中は、今の、闇太郎問題で一杯だ。その人物は、たしかに、つい今し方、この駕籠を、自分のために、呼びに行ってくれた、あの若い衆に相違ない。しかもそれが、この駕籠舁たちにさえ、すっかり名前が通っている、名うての悪者らしいとは――
「それで、――若い衆さん――」と、雪之丞は、訝かしさに訊ねかけざるを得ない。
「その闇太郎というお人、――一たいどんな方なのだね?」
「では、ご存じがありませぬか――?あなたは、江戸が初めてだと見えますね?」
と、先棒が、
「何しろ闇太郎といっちゃあ、大した評判の人ですよ。いわば義賊とでもいうのでしょうか――大名、豪家、御旗本やら、御用達(ごようたし)、――肩で風を切る、勢で、倉には黄金は、山程積んであろうところから、気随気儘に大金を摑み出し、今日の生計(たつき)にも困るような、貧しい者や、病人に、何ともいわず、バラ撒いて、その日を救ってやるという、素晴らしい気性者、そんなわけで、江戸中の人気が一身に集まっているのです」
「そういう人のことですから、いつどんな場所で、御用の声がかかっても、元より当人は素ばしっこい腕利(うできき)ですが、町の人達、通行人も、役人に腕貸しするような、出過ぎたことはいたしません。いまのいまだってなあ――先棒?」
「そうよ。たったいまだって、この方が駕籠を欲しいようだぜ、と、声をかけてくれたその人が、五間と向うへ行かねえうちに、御用の声だ。闇太郎という声がなけりゃあ、役人衆に手貸しをして、捕めえるが、こっちらの務めだろうが、あの呼びかけがあったので、わざと、聞えねえ振りをして、後も向かなかったわけなのです」
雪之丞は、始めて、一切が呑み込めたのだった。
彼は、駕籠舁たちよりも、一そう強く、あの若い生き生きしい、いなせ男を、思慕(しぼ)せずにはいられない。賊と聞いても、怖ろしいどころか、却て懐しく、どうかして、もう一目逢いたいようにすら思うのだった。
辻駕籠が、月なき星空の下を、北へ飛ぶ。もう直き、旅籠(はたご)のある、山の宿だ。


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雪之丞の駕籠は、間もなく、大川の夜の霧が、この辺まで、じめじめと這(は)い寄って、ぼうっと薄白く漂っている、山ノ宿の、粋(いき)な宿屋町までやって来た。
「山ノ宿へ着きましたが、――」
と、先棒が言った。
「ああ、御苦労さま、――ついそこの、花村と言う、旅宿の前に着けて下さい」
と、雪之丞は答えた。
駕籠は、屋号をしるした行燈が、ほのかに匂っている一軒の、格子戸の前に降された。
駕籠やは、酒代(さかて)にありついて、喜んで戻って行く。
格子が開くと、玄関に、膝をついて出迎える女中たち。揃って、小豆(あずき)っぽい唐桟柄(とうざんがら)に、襟をかけ、黒繻子(くろじゅす)の、粋な昼夜帯の、中年増(ちゅうどしま)だ。
「若親方――お帰りなさい」
と、いう声々にも、上方の人気女形の宿をした、旅籠の召使いらしい、好奇と喜とが溢れている。
うしろから、眉は落しているが、歯の白い、目にしおのある、内儀が顔を出して、
「ついさっき、お供のお人が周章(あわ)てて、駆け込んでおいでだから、どうしたのかと、親方さんに伺ったら、なあに何でもない。もう追っつけ、お戻りになるだろうと仰有る故、そのままにしましたが、何か途中で変ったことでも――?」
「いいえ、何でもありませぬ。途中で、辻斬(つじぎ)りらしいお侍に出会いますと、案内に立ってくれた、義さんとやらが、御当地のお人にも似合わない、弱虫で、横っ飛びに遁げておしまいでしたが、――では、ここまで、夢中で飛んでお帰りだったと見えますね」
と、雪之丞は、そらさぬ微笑で答えながら、白い足袋裏を見せて、内輪の足取りで階段(はしご)を踏んで二階へ上る。
表二階を通して、四間。雪之丞とその師匠、中村菊之丞のための部屋になっていた。
菊之丞一座は、一行、二十数人の世帯であったが、江戸へ来ると、格で分れて、この界隈の役者目当の宿屋に、分宿していた。
雪之丞とて、師匠の隣部屋に、宿る程の分際ではなかったが、弟とも、子とも言う、別種な関係があり、殊更、今度の江戸上りは、彼にとって、重大な意義があるのを、知り抜いている菊之丞故、わざお、身近く引き寄せて、置くわけだった。
師匠の部屋に、灯がはいっているのを見ると、雪之丞は、静かに廊下(ろうか)に膝をついて、障子の外から、
「お師匠さま、ただ今戻りました」
「おお、待ちかねていましたぞ、さあ、おはいり――」
いくらか錆(さ)びのある、芸人独特の響を含んだ声が答えた。
雪之丞は、部屋へはいる。
師匠菊之丞は、厚い紫地の友禅の座布団に坐って、どてら姿だったが、いつもながら、行儀よく、キチンとした態度で、弟子を迎える。
部屋の中には、何処となく、練香(こう)の匂いが漂って、手まわりの用をたす、十三四の子役が、雪之丞が坐ったとき、燭台の、蕊をなおした。
「何か妙なものに出会ったと聴いたが、そなたのこと故、別に気にもせず、帰りを待っていましたぞ」
と、菊之丞は、微笑した。
彼は、この愛弟子の不思議な、手練をよく知っているのだ。
「は、ちょいと、光り物がしましただけで――」
と、雪之丞も、微笑を返した。


一〇 編集

それから、師匠雪之丞は、脇田一松斎の機嫌は、どうであったか――などと訊ねながら、自分で愛弟子(まなでし)のために、茶などをいれてくれるのだった。
雪之丞は、行く途中で、孤軒老師に邂逅(かいこう)した一条や、脇田道場での門倉平馬との経緯(いきさつ)や、匿すべき相手でないので、一切を告げ知らせるのであった。
「ほほう、それで、そなたの前に、きらめいたという光り物おわけも、大方解ったようだ」
と、師匠は頷ずいて、
「してその、門倉とかいうお方は、余程のお腕前かな?」
「それはもう、一松斎先生が、一のお弟子と、お取り立てになった程の仁、まず何処へ出しても、引けをお取りにある方ではござりませぬ。わたしが、あのお方の、暗中からの不意打ちを、どうやら防ぐことが出来ましたのは、何しろ、あのお方は、闇打ちは卑怯なことと、お胸の中で、何処か怯(おくれ)がおありでありましたろうし、それに、日頃信心の、神仏の御加護があったためでもござりましたろう。決して、油断も隙もなるお方ではござりませぬ」
と、雪之丞は、いつもの謙遜(へりくだり)で答えた。菊之丞は、弟子の顔を見詰めて、
「そうじゃ、そうじゃ、いつもその謙遜を忘れねば、芸術も兵法も、必ず、至極の妙に達しることが出来るであろう。その志は、わし達のような年になっても構えて忘れてならぬものだ」
などと、話しているところへ、来たのは、今度の座元、中村座の奥役の一人だった。
かたばみの紋のついた、小豆色の短か羽織。南部縞(なんぶじま)の着付。髷(まげ)を細く結(ゆ)った、四十あまりの男は、丁寧に、菊之丞の前に挨拶して、
「大分、時刻が遅うござりますが、太夫元の方で、是非お耳に入れて、お喜ばせ申した方がいいと申しますので、出ましたが、――」
と、言いながら懐中(ふところ)から、書類のようなものを取り出して、
「まあ、御覧なさいませ。初日から、五日目まで、高土間、桟敷(さじき)ももうみんな、売切れになりました」
菊之丞は、拡げられた香盤をのぞき込む。成程、何枚かの図面には、総て付け込みのしるしが一面に書き込まれているのだった。
「ほほう、これは素晴らしい景気でござりますな!」
「なおまた、御覧に入れたいのはお客様の顔触れで――」
と、奥役は何やら細々記した罫紙(けいし)を見ながら、
「駿河町では、三星さま、油町では、大宮さま、お蔵前の札差(ふださし)御連中(ごれんちゅう)。柳橋、堀、吉原の華手(はで)やかなところはもとより諸家さま、お旗本衆――日頃御直(じ)き直きには、中々お顔をお見せにならぬお人たちも、今度は幕を張っての御見物のように承わります。その中でも、長崎の御奉行で、お鳴らしになり、御隠居になってからも、飛ぶ鳥を落すような、土部さまなどは、御殿に上ってお居での御息女が、お宿下りのお日に当るとかいうことで、初日、正面の桟敷を、御付込みになりました」
なに、なに?土部――?」
と、菊之丞は、雪之丞の方を、チラリと眺めながら、
「どれどれ、その書き物を、お見せ願わしい」
と手をさし伸べた。


一一 編集

雪之丞の、星にもまがうような、美しい瞳は、奥役の脣から、土部駿河守の名が洩れた時、異様なきらめきを漲(みなぎ)らして、思わず、何か口に出そうとしたようであったが、チラリとこちらに向けられた、師匠の視線に、辛うじて、己を制したのであった。
菊之丞は、
「どれどれ、わしにもお書き付を、お見せ下され」
と、いって奥役から、書き込みを受け取ると、
「雪之丞、そなたも拝見なさい。成る程、さて、さて、素晴らしいお顔振れ、こうした方が、揃っての御見物では、こりゃ、うかとは、舞台が踏めませんわい」
雪之丞は、目を輝かして、師匠がさし示す見物申込の書き込を、のぞくのだった。
そこには、多くの、江戸で名だたる、花街、富豪、貴族たちの、家号や名前が、ずらりと並んでいるのだったが、彼の瞳は、ただじっと、土部三斎という、駿河守隠居名に、注がれて離れなかった。
彼の胸は、激烈な憎悪と、憤恨とに焦げるのである。父親を、破滅させて、陋巷(ろうこう)に窮死させた、あの残忍な一味の主魁が、今や、一世の栄華を擅(ほしいまま)にして、公方(くぼう)の外戚(がいせき)らしく権威を張り、松浦屋の残映たる、自分の舞台を、幕を張り廻らした、特別な桟敷から見下そうとするのである。
雪之丞は、夕方、路傍にいいがかりをつけて来た、あの素浪人の口から叫ばれた、
――河原者!身分違い!――
と、といったような言葉を思いだして、奥歯を嚙みしめるのだった。
師匠、菊之丞は、愛弟子の、そうした胸の中を察したように、わざと、上機嫌な語調で、
「のう、雪之丞、これは、そなたも、怠慢(なまけ)てはいられませぬぞ。御歴々の御見物、一足の踏み違えでもあっては、お江戸の方々から、上方者は、到らぬと、一口に嘲(わら)われましょう」
「はい、慎む上にも、慎んで、一生懸命、精進いたす覚悟でござります」
奥役は、師匠が前景気に十分喜ばされたように信じて、いそいそと帰って行った。彼の敏捷(びんしょう)な、表情には、
――これはいよいよ大当りだ!並の役者とは違った、一風変った気性と聴いた菊之丞が、あれ程、嬉しそうな顔をしたので見ると、狂言には、屹度(きっと)、魂がはいる。この頃不入り続きの中村座。この顔見世で、存分お釜(かま)が起きようわい――
奥役が去ってから、師匠は、仄かな灯の下に、じっとさし向いになっていた。
「雪之丞、とっくり見たであろうな?」
「はい、拝見いたしました」
菊之丞は、考え深い目つきで、諭すように、
「だが雪之丞、申すまでもないことだが、桟敷に、土部三斎を始め、どのような顔を見たとても、構えて心の動きを外に出してはなりませぬぞ。そなたの腕なら、舞台から笄(こうがい)を投げても、三斎めの息の根を止めることは出来ようが、それでは、望みの十分の一を、達したとも申されぬ。その辺のことを、ようく思案して、そつなく振舞うように――」
雪之丞は、青ざめて、美しい前歯に、紅い脣を、嚙みしめながら、懇ろな師匠の言葉に、素直に肯首(うな)ずいているのだった。
「いつか夜も更けたようだ。そろそろ床を敷(と)らせようか?」
と、師匠がいって手を鳴らした。


一二 編集

雪之丞が師匠の次の間に延べられた、臥床(ふしど)の中に、静かに身を横たえて
――何事も思うまい。お師匠さんお仰言る通り、じっと怺えて、いざと言う場合まで、自分の力を養って行く他はないのだ。気を嵩ぶらせてはならぬ。女の子のように、めそめそしてはならぬ。また、じりじりと焦ってもならぬ。姿こそ、変生女性(へんしょうにょしょう)を装っては居れ、胆は、あくまでも猛々しいわたしでなければならぬ。眠ろう――
と、胸の上にそっと手を置いて、呟いて、やっとうとうとと、まどろみ始めた頃のことであった。
この山ノ宿から、ぐっと離れた柳原河岸、――細川屋敷の裏手。町家が続くあたりに、土蔵造りの店構え。家宅を囲む板塀(いたべい)に、忍び返しに厳めしい。江戸三金貸しの一軒と、指を折られる、大川屋という富豪の塀外を、秋の夜の、肌寒さを肩先にすくめるようにして懐ろ手。吉原冠りの後つきも小粋な男が、先ず遊興(あそび)の帰りとでもいうような物腰で、急ぐでもなく歩いていた。
その男が、遠い灯りがさすだけで、殆んど真っ暗がりな夜中の巷路に、ふと立ち停まって、件(くだん)の大川屋の板塀の方へ、すっと吸い込まれるように身を寄せたその刹那(せつな)、
「闇太郎――御用」
と言う叫びが、称間(ややま)を置いたところから聞えて、町家の庇合(ひあわい)から、急に涌き出したように現れた。二つ三つの提灯の光。
吉原冠りの若者は、丁度いま、大川岸の裏塀に這い上って、忍び返しを越えようとしていた折も折この呼び掛けでじっと身を固くしたが、しかし、別に周章てるでもなく、
「うむ、執拗(しつ)っこい奴等だな。御蔵前で見ん事、撒いてやったと思ったに、し太く跟(つ)けて来やあがったのか」
と、呟くと、そのまま、すうっと、下に降りて、板塀に後ろ楯(だて)。ぴったりと脊を貼りつかせた。
この闇太郎という盗賊――先き程、雪之丞を乗せた駕籠屋が、まるで江戸自慢の一つのように、謳った通り、今や江都に、侠名(きょうめい)嘖々(さくさく)たる怪人物。生れは、由緒正しい御家人の家筋。父親が、上役の憎悪を受けて、清廉潔白(せいれんけっぱく)の身を殺さねばならなくなったのを、子供心に見て以来、いわば、社会の不合理な組織を、憎み嘲む、激情止み難く、遂に、無頼に持ち崩し、とうとう、賊をすら働くようになった若者なのだ。したがって、天晴れの気性者。その上、身の働きの素早さは、言語に絶し、目から鼻へ抜けるような鋭い機智で、どんな場合にも、易々と、危難の淵を乗り切るのだ。
闇太郎という名乗りも、大方、自分がつけたのではなく如何なる真の闇夜をも、白昼を行く如く、変幻出没が自在なので、世間で与えた、渾名が、いつか、呼び名になったのであろう。
江戸司直の手は、最近殊に手きびしく、この怪人の行方を、追い究めていた。あまりに屢々、権門富豪の厳重な緊(しまり)を、自由に破られるので、今や、警吏の威信が疑われて来ているのであった。
その闇太郎の姿を、ふっとこの晩、御蔵前通りで、見つけた町廻り同心の一行。あまりに咄嗟な出会いなので、はっとする間に、強敵の姿を見失ったが、非常警報は、八方に伝えられ、ここまで遁げ延びて、大仕事に司直の鼻をあかそうとした彼を、再び網にかけたわけなのだ。
「闇太郎、遁(のが)れぬぞ!」
と、呼び立てる声は、ますます近寄って来た。


一三 編集

しいーんと寝静まった秋の真夜中、江戸三金貸しの一軒、大川屋の裏塀に、ピタリと脊を貼りつけて、白木綿の腹巻の間に、手をさし込んで、匕首(あいくち)の柄を握りしめながら、じっと、迫って来る捕り方たちの様子を覗う闇太郎だ。
捕り方たちは、御用提灯を振りかざして、獲物を狙う獣物(けもの)のように、脊中を丸めるようにして、押しつけて来るのだったが、さりとて急には飛込めない。相手は何しろ、当時聞えた神出鬼没の怪賊。迂闊(うかつ)に近寄っては、怪我のあるのは当然として、却て、またも取り逃すことになるかも知れぬ。
「馬鹿め。何をうじうじしているんだ!秋の夜は長えといっても怠慢けている中にゃあ、直ぐ明けるぜ」
と唆(そその)かすようにいいながら、たたっ――と、空ら足を踏んで見せたその響に、寄せられたように二人の手先が、銀磨(ぎんみがき)の十手を振りかぶって、毬のように飛び込んで来た。
その出鼻を、ぱっと、塀を蹴放すように、飛び出した闇太郎。振り込んで来る得物の下をかいくぐって、横っ飛びに、もういつか、五間あまり、駆け抜けていた。
「わああッ!」
と追い縋(すが)る捕り方たち。
するといつの間にか、この騒擾(そうじょう)が知れ渡ったと見え、どろろんどろろんと、陰にこもった太鼓の響が、遠く近く、聞えて来る。
町木戸の閉される合図だ。
捕り方の方では、その響を聞いて、ほっと気が緩んだであろうが、そうした気持を、よく見抜いている闇太郎は、あべこべに、
「ざまあ見ろ。木戸が閉まりゃあ、却て此方のものだ」
と、心の中で嘲み笑いながら、威すように振りかざした匕首を、星の光にきらめかし、軒下の暗がりから暗がりを、ぱっぱっと、闇を喜ぶ蝙蝠(こうもり)のように縫って行く。――とある横町の角まで来て、軒に沿うて曲ろうとすると、前を塞ぐ、十人あまりの同勢、
「上意」
「御用」
の大喝を発しながら、突棒を振り上げて、待ち構えているのだ。
闇太郎の細そりした手先は、つと、町家の庇にかかる。
と見る間に、彼の姿は、いたちのような素速さで、屋根を越えて、見えなくなった。
彼が飛び降りたのは、裏新町の狭い路地。その路地を、足音も立てず、ひた走りに走って、稍広い通りへ出る。
闇太郎の行動は、例によって、敏捷を極めているのだが、今夜は、相手は、なかなか厳しい準備が出来ていた。
その中をくぐりくぐり、やっとのことで、遁げ延びて来た柳原河岸。一方は大名屋敷の塀続き、一方は石置場。昼間でも、夜鷹が茣蓙(ござ)を抱えて、うろついているような、淋しい場所だ。
闇太郎――ここまで来て、もう此方のものだと思った。石置場の暗がりに飛に込んでしまえば、どのような鋭い探索の目も、及ばぬであろう。その上河には、主のない小舟も、何艘(なんそう)か、かかっているのだ。
その石置場へ、今や遁げ込もうとした闇太郎。激しく何者かに呼びかけられて、はっとして立ち竦んだ。
「待てッ、怪しい奴」
見れば、つい目の前に、大たぶさの侍が、突っ立っていた。


一四 編集

石置場の暗がりに、飛び込もう闇太郎――出し抜けに呼びかけられて、向き直った目の前に、大たぶさの若い武士の、立姿を見出した刹那、いつになく、はっと、衝撃を感じた。
無造作に突っ立った、相手の体構えに、不思議な、圧力が漲っていたのだ。何十何百の、捕り方に囲まれても、一度も周章(うろたえ)たことのないような、不敵者の彼だった。
――こいつあ、一通りでねえ、代物だぞ!
と、心に呟いて、いままで、単に、捕り方たちを威すために抜きかざしていた短刀を、握りしめて、前屈みに、上目を使って、じっと侍の様子を覗った。
幸い、捕り方たちは見当外れの方角へ、駆け去ってしまっていたものの、この侍が大声を発したら、またも、五月蠅(うるさ)く、まつわって来るに相違なかった。
「夜中、怪し気な風態で、匕首なぞをきらめかしているその方は、何者だ?」
闇太郎を見下して、鋭い調子で、詰問するこの武家こそ、これも今夜、雪之丞への奥義伝授の経緯(いきさつ)から、突如として、十年も側に仕えた、恩師の許を飛び出した、門倉平馬に他ならなかった。
彼は、雪之丞を闇打ちにかけ、一刀の下に斬り伏せようとして、却て二の腕に、傷を負わされ、不首尾に終って遁げ延びてから、捨て鉢の気持で、とある、小料理屋で酔いを買ってから、松枝町にある、土部三斎の隠宅を頼って行こうとする途中だった。
「旦那――見遁してやっておくんなせえ」
と、闇太郎は、とにかく下手に出るのだった。
「つまらねえ仲間喧嘩に、お上の手がまわったので身を匿(かく)そうとするところなんで――」
「いい遁れはきかぬぞ」
と、平馬は、口元に冷たい微笑を這わせて、言った。
「その方は、うち見るところ、ただの博奕打ちや、小泥棒ではない。拙者に油断が、毛程でもあったら、もうその匕首を、とっくに胸元に突き刺していた頃だ。無頼漢(ならずもの)には珍しい気魄(きはく)、――何れ、名のある曲者だろう。見遁すわけには、断じてならぬ」
「見遁さぬといって、――それじゃあ、どうなさるんで――?」
「いうまでもなく、引っ捕えて、役向え、突き出すまでだ。その方如きを、うろつかせて置いては、市民の眠が乱されよう」
「ふうん、して見ると旦那は、岡ッ引の下職でもしていなさるんですかい?」
と、闇太郎の調子は、急に不逞不逞しく変った。
「無頼漢(ならずもの)を一人突き出して、いくらか、お手当でも頂こうという腹ですかい?とかく窮屈になった御時勢で、お侍さんも、とんだ内職をなさらなけりゃあ、食えなくなったか?」
闇太郎は、相手の武士が、素晴らしい腕を持っているので、十分自分を手捕りに出来ると、自信しつつあるのを見て取った。
――何を!相手が鬼神だって、俺が必死に突っかかりゃあ、打っ倒せねえことがあるものか――
彼は、奥歯をじっと噛んで、ますます殺気の漲る瞳で、門倉平馬の睨め下す視線を、何のくそと、弾き返そうと足掻(あが)くのだった。
平馬は、敵の激しい目を、ニタリと冷笑で受けていた。


一五 編集

闇太郎の脊は、まずます丸まって来た。足の構えは、鰐足になった。目は爛々ときらめき全身に、強烈な、凶暴の気が漲った。まるで、狼が、いけ牲(にえ)の最初の一撃を与えようとして、牙を現し、逆毛を荒立てたかのようである。
彼の息は、押え難く、荒らいだ。
「むうん――」
と、いったような呻めきが、咽喉の奥から、絞り出されるように迸(ほとばし)った。
相手の武士は、じいっと、突っ立ったまま、殆んど、身構えを直そうともせず、ただ、何時の間にか、腰から抜いた扇子を、右手に握って、突き出すようにしただけだった。
「ほほう、感心に、鉄壁微塵と、突っ込んで来る覚悟を極めたな!」
と、苦笑いのような調子でいって、
「なかなか凄い度胸だの。それに、普通の修行では、到り得ない、必殺の業を、得ているようだ。どうだ、そこで、ぐっと、斬り込んで来て見ぬか?」
闇太郎は、
「むうん――」
と、再び呻めいた。鰐足(わにあし)に踏み張った。脚部に、跳躍の気勢が現れたが、直ぐに失われた。
「やっぱり、駄目だろう――」
と、相手はいったが、しかし、その口調には、今までのような、冷笑と、侮蔑とは、響かなかった。ある感嘆と、好奇心とが、仄めいて来ていた。
「どうだ、貴様――もうそこいらで、その匕首をおろしたら――と申しても、拙者ももう貴様の首根ッこを捉えて、番所へ引き摺って行くような気持もなくなったよ」
その言葉を聴くと、闇太郎は、訝しそうな目つきになった、
「何だろ?じゃあ、俺の勇気が、怖くなったというのか?」
そう呟きながらも、まだ、餓狼(がろう)のような、猛悪な構は、止めなかった。
武士は、カラカラと笑った。
「いや、大きにそうかも知れぬ。実は拙者、貴様のその、突拍子もない度胸が、惜しくなったのだ。それに、貴様の、必死必殺の気組の底には、ただ喧嘩慣れた、無頼漢には、応わしからぬ、剣気が蔵(かく)されているような気がする。貴様、何か、いわく因縁のあるものと睨んだ。一たい、名前は何と言う?」
この言葉の間に、二人の間の殺気は、自から銷沈(しょうちん)した。闇太郎の姿は、静かな立ち姿に変り、武士の扇子は、下げられた。
「この場を、見遁してくれるというのは、有がてえが、人の名を聴くんなら、自分から名乗るが、礼儀でしょうぜ」
武士は、白い歯を見せて微笑した。
「成る程、それも理窟だな。それなら申そうが、拙者は、独創天心流を聊(いささ)か習得した、門倉平馬という者だ」
「独創天心流」
と、闇太郎は肯首(うな)ずいて、
「それでは、例の、御蔵前組屋敷近所の、脇田さんの御門入か?」
「うん、今日まではなあ。今日からは、自流で立とうとする、門倉平馬だ。それは兎に角、貴様こそ、わが名を名乗ったら、名乗るがよいではないか?」
「あっしは。世間で、闇太郎と言ってくれている、妙な人間さ」
「ほう。貴様が、名代の闇太郎か!」
門倉平馬の物に動ぜぬ、不敵な瞳にも、ありありと、驚愕の色が漲るのだった。


一六 編集

門倉平馬は、闇太郎という名乗りを聴くと、ますます好奇心に燃えて来たらしく、闇を通して、ためつ、すかしつするように、相手を見て、またも、呻めくように呟いた。
「ふうん、貴様が例の闇太郎か!大名、富豪の、どんな厳重な緊さえも呪文で出入りするかのように、自由に出没すると言う、希代の賊と言うのは、貴様か?」
闇太郎は、飄然(ひょうぜん)として笑うのだった。
「ははは――あっしだって、何もそんな、魔法使いじゃありません。物を盗むにゃあ、これで相当に、苦労が要るものですよ。誰だって、盗ませるために、蓄えている奴もありませんからね」
そして、ニタリとして、
「第一、今夜のように、捕り方の五十人や百人は、わけなく潜って抜けられても、お前さんのような強敵に、行く手を塞がれるときも、ありますからね」
「強敵に、出会ったと言っても、矢張りその敵に、敵意を失わせるだけの、秘術を知っているのだから、いよいよ以て妙な話だ。成る程、ふっと噂ばなしを、小耳にはさんだのを思い出すが、貴様も元は、武家の出だそうだな?剣術は、何処で習った?」
と、平馬は最早、全く、害意のない調子で訊ねかける。
「御冗談でしょう――」
と、闇太郎は気軽にいって、
「こんな場合に、身の上調べは恐れ入りますね。お前さんも、立派なお武家――一旦、あっしを見遁そうと仰言った以上は、もう綺麗さっぱりといざこざなしに、放してやっておくんなさい」
「いや、いや、そうも罷(まか)り成らぬ」
と、平馬は、真面目になって、
「実は拙者、貴様の様子を見ているうちにこの儘、別れたくなくなって来た」
「ほほう、そうすると、どうなさろうと仰言るんで――?」
「貴様のような、世にも珍しい才能と、度胸とを持った奴、泥棒渡世にして置くのが惜しくなった」
闇太郎は、そういう平馬の顔を、チラリと見詰て、嘲むように笑った。
「御酔狂も、いい加減になさいましよ。人間一度染ったら、もう二度と元の白地にゃあ、なれねえものなんだ、旦那も、そんな仏くさい事をいうようじゃあ、なかなか一流は立て抜けねえ。聴けば、今日までは、お師匠さんがあったが、今夜限り、自流で行くのだとか仰言ったが――」
恐れ気もなくいってのける闇太郎に、気骨稜々(りょうりょう)たる門倉平馬の気持は、ますます惹きつけられて、行くらしかった。
「それではどうだ?拙者ももう、泥棒渡世の足を洗えの、なんのとは、申すまい。その代りせめて今宵だけでも、拙者が連れてまいろうとする所で語り明かさぬか?その位のことは、うべなってもいいだろう。いくらか、義理がある筈だ」
「真綿で首と、お出でなすったね」
と、闇太郎は、ちょいと頭へ、手をやるようにして、首をすくめて、
「どうもそうやんわり出られてはそれもいやだとも、言えませんね。ようがす、お供を致しやしょう」
「早速、承引してくれて、嬉しい」
と、平馬は、蟠(わだかま)りなく言って、
「では、こう参れ」
彼は先に立って、スタスタと和泉橋(いずみばし)の方を向いて、暗い柳原河岸を、歩き出した。
懐手に、その後に続く、吉原冠(よしわらかぶ)りの闇太郎だ。


一七 編集

吉原冠り、下し立ての麻裏の音もなく、平馬の後からついて行く闇太郎――、河岸は暗し、頃は真夜中、いい気持ちそうに、弥蔵(やぞう)をきめて、いくらか、皺枯(しゃが)れた、錆びた調子で、
たまさかに
一座はすれど
忍ぶ仲
晴れて
顔さえ
見交わさず
まぎらかそうと
自棄(やけ)で飲む
いっそしんきな
茶碗酒
雪になりそな
夜の冷え
などと、呑気そうな、隆達くずしが、しんしんと、更け渡るあたりの静けさを、寂しく破るのだった。
和泉橋の角まで行くと、橋詰の火の番所。
破れたところが一つ二つある、腰高障子が、ぼんやり灯影を宿した中に話し声が聞えていたが、平馬の雪駄の響が耳にはいったら、がたりと、立てつけの悪い、開けたての音がして、ぬっと顔を出した親爺――
でも、油断はなく、六尺棒を手にしたのが、左に持った提燈。それを突きつけるようにしてじっと、二人連れを透して見る。
左肩をそびやかすようにした平馬――歩み過ぎた時、連れを先に立てるようにして、
「親爺、――先っきの太鼓は、何の固めだ?」
「へい――」
と、辻番は、提燈を下して、
「あれでございますか?江戸を名打ての大泥棒が、大川屋さんの、塀際にいたとかいうことで、いやもうこの界隈、やかましいことでござりました」
水ッ洟(ぱな)を啜(すす)りながら、闇太郎の後姿に、目が触れたか触れぬか、
「とかくこの頃は、物騒な市中の形勢――お互に、苦労が多いな。まあしっかり、役目をするがいい」
と、いい捨てて相変らずの雪駄の音を、のんびりと響かせて、遠ざかって行く平馬であった。
何気なく、するりと抜けて、歩んで行く、闇太郎の肩越しに追い抜きながら、
「隆達くずしでもあるまいぜ、あの小屋の中に、鍋焼きを啜っていた人数は、七八人、か奴らが、十手を振って向って来れば、一度あずかった貴様の身体だ。役にも立たぬ殺生をせねばならなかった、拙者の立場。着くところまで大人しく、ついて来たがいいではないか」
「ところが旦那、あっしはね、何の因果か熱湯好きで、五体が縮み上るような湯から出ると、そそりの一節も、唄わねえじゃいられねえんで――」
「持ちくずした男だな」
蔑むともなく、呟いた平馬、――自分もひどく楽しそうに、橋弁慶の小謡(こうたい)を、柄に扇子で、軽く拍子を取りながら、口ずさんで、月の無い夜を、ちゃらちゃらと、進んで行く。
松枝町の角に、なまこ塀の、四角四面の屋敷。門は地味は衝門(かぶきもん)。それが当節飛ぶ鳥を落す、将軍寵姫(ちょうき)の外戚、土部三斎の住居であった。


一八 編集

吉原冠りに懐ろ手――何処に誘(いざな)う風であろうと、吹かれて行こうといったような闇太郎を後(しりえ)に従えた、門倉平馬、土部三斎隠居屋敷、通用門の潜りを叩いて、
「御門番、御蔵前の門倉だ」
長屋門の出格子から、不精そうな門番の顔が覗いたが直きに、扉が開く。
「連れは、拙者、知り合いの者だ」
と、言い残して、闇太郎を導いたのが、脇玄関。
「お遅いお訪ねでございますな」
と、顔見知りらしい若侍。平馬から、訝(いぶ)かしい服装(いでたち)で、のっそり後に立った、闇太郎へと、目を走らせる。
「遅なわって、相済まぬが、平馬折入ってお願いもござるし、且は、是非とも御目通りいたさせたい人間を拾いましたで、枉(ま)げて御面謁が願いたいと、仰せ入れ下さい」
若侍は、
「まだ、御寝にはなりません様子、とにかく御来訪、お伝えだけは、申上げることにいたしましょう」
と、奥にはいる。
闇太郎は、懐ろ手から、手こそ出したが、その両手を前でちょっきり結びにした、平絎(ひらぐけ)の間に挾んで、じろじろとあたりを眺めまわすようにしながら、
「成る程、噂󠄀には聞いていたが、土部隠居。狭いが、豪勢な住み方をしていやあがるな。黄金の香が、ぷんぷんと、そこら中を渦を巻いていやあがる」
「これこれ、――つまらぬことを言うな」
と、平馬が流石に、あきれ顔だ。
「つまらぬことって、――門倉の旦那、あっしに取っちゃあ、この嗅ぎが、身上なんで――。こいつで、見当をつけねえ限りは、他所さまの金蔵になんぞ、手がつけられるもんじゃござんせん」
金網行燈がぼんやり照らしている、脇玄関で、彼等が、こんなことをいい合っている頃、土部三斎は、奥まった蔵座敷で、黒塗り朱塗り、堆朱彫(ついしゅぼり)、桐正(きりまさ)――その他さまざまの、什器(じゅうき)を入れた箱類を、前後左右に置き並べて坐っていた。
頭こそ丸めて、斎号をば名乗って居れ、六十に手が届いているのに、赭(あか)ら顔。眉も黒く、目は細く鋭く、ぶ厚い脣も、つやつやしていて、でっぷりと肉づいて、憎らしいまでの壮々(わかわか)しさが手足の先まで溢れているような老人だ。黒の十徳に、黄八丈の着付、紫綸子(むらさきりんず)の厚い褥(しとね)の上に坐って、左手の掌(たなそこ)に、処女の血のように真赤に透き通る、径(わたり)五分(ぶ)程の、燦(きら)めく珠玉(たま)を乗せて、明るい燈火にかざすように、ためつ、すがめつ、眺め入っているのであった。
若侍が、襖の外まで来て、うずくまると、その気配に、慌てて、珠玉を、手の中に握り匿(かく)したが、
「誰じゃ?何用じゃ?」
「わたくしでござります。御蔵前、門倉平馬、町人体の若者一人召し連れ、折り入って御意得たいと申し、ただ今、脇玄関まで罷り出て居ります」
「何に?平馬が?」
と、老人は呟いて、
「かかる夜陰に、何の所存(つもり)でまいったが、――会うてとらせる。あちらに待たせて置け」
そう命じると、三斎、掌の中の珠玉を、黄(きい)な、拭き革で、丁寧に清めて、幾重にも真綿で包み、小さな青色の箱に納め、更に、三重の桐箱に入れると、今度は、取り散らかっていた箱類を、重そうな扉を持った、戸棚にしまって、錠を下し、灯を消して、さてやっと、起ち上るのであった。


一九 編集

土部三斎が出て行ったのは、彼の何時もの書斎に続いた、一間だった。
床には、彼の風雅癖を思わせて、明人(みんびと)仇英(きゅうえい)の、豊麗(ほうれい)な孔雀の、極彩色大幅が掛けられ、わざと花を生けない花瓶は、宋代の磁だった。既に敷かれてあった、床前の白綸子の褥に僧形の三斎は、無手(むず)と坐って、会釈も無く、閾際(しきいぎわ)に遠慮深く坐った平馬と、その傍に、膝こそ揃えているが、のほほんと、目も伏せていない、町人体の未知の若者とを見較べるようにした。
平馬は、三斎の顔を見ると、礼儀正しく、畳に手をついて、
「夜陰、突然、お愕(おどろ)かし申し、何とも、相済まぬ儀にござりまする」
「うむ、よいよい――」
と、三斎は、額ずいて物珍し気な目を連れの、闇太郎から離さず、
「して、それなる人物は何者じゃ?」
「平素より御隠居さま、一芸一能ある者共を、あまさず、御見知り置き遊ばしたいという、お言葉を承わり居りましたれば――」
と、平馬は手を突いたまま、
「これなる者は、今宵、御隠居所をっして参ります途中、測らず、柳原河岸にて出会いました人物……。多くの捕り方に取り囲まれしを、巧に遁れ、拙者、眼前に現れましたで、引っ捕らえて突きだそうと、存じましたなれど、聞けばこの者、当時、大江戸に名高い、例の盗賊、闇太郎に紛れなき由、承って、御隠居さまへ、御土産として召し連れました次第でござりまする」
「何?闇太郎――?」
と赫ら顔の老人から、その刹那、流石に、愕きの叫びが洩れた。
彼の眼は、相変らず、薄寒(うすらさむ)そうに膝を揃えて坐った、粋な格子縞の若者に、鋭く注がれたままだ。
平馬は、権門の前に、別に、礼儀を守ろうともせぬ連れの方に、責めるように目を向けて、
「これ、御挨拶を申し上げろ。土部三斎さまに、渡らせられる」
闇太郎は、片手を畳に下しただけで、さも懇意(こんい)そうに、三斎隠居の顔を見上げるのだった。
「成る程、これまで世間の噂󠄀で、御中年に長崎奉行をなすって、たんまりお儲けになった上、今じゃあ、御息女を公方さまの、御妾(おめかけ)に、差し出しなすって、いよいよ天下の切れ者、土部三斎さまの名を聴けば、大老、老中も怖じ気を振うとかいうことですが、お目に掛ってみりゃ、あっし達でもお交際が出来ねえでもねえニコニコした御隠居さん。今、門倉の平馬さんが、お引き合わせになった通り、あっしは世間で、闇太郎と、ケチな渾名で通っている、昼日中、大手を振っては、歩けねえ人間でござんす。それでよかったら、これから先、お見捨てなくお願いいたしやす」
三斎は、ますます鋭い凝視を、漂乎(ひょうこ)たる面上に、注がざるを得ない。
土部三斎は、これまでの六十年に、実に、さまざまな人間を見て来ているのだった。将軍、大名、小名、旗本、陪臣、富豪、巾着切りから、女白浪――長崎で役を勤めるようになってからは、紅毛碧眼(こうもうへきがん)の和蘭(オランダ)、葡萄牙人(ポルトガルじん)、顔色の青白い背の高い唐人から、呂宋人(るそんじん)まで善悪正邪にかかわらず、凡(およ)ありと凡(あら)ゆる、人間という人間に接して来ていた。しかし彼は、今目の前に見る江戸名打ての、大賊のような自他にこだわらず、何時も、悠々として、南山を眺め続けているような、自得の風格に染っている下郎に、会ったことはないのだった。


二〇 編集

三斎は、しげしげと、闇太郎を見詰め続けたが、相手は例によって、膝を揃えて坐ったまま、片手で顎を撫で上げながら、天井に目を向けて、平気な顔だ。
三斎は、日頃、自分の前へ出ると、いやに阿諛(あゆ)の色を見せたり、不安の挙動を示したりするような、人間ばかり見て来ているので、闇太郎のこの冷々とした物腰に、一層、心を惹かれるらしかった。
「――で、何か貴様は?」
と、老人は、親しみの調子さえ見せて、
「闇太郎ともいわれる男なら、どんな厳重(げんじゅう)な宝蔵の中にある秘宝でも、自由に、盗み出すことが出来ると申すのか?」
「そりゃ、あっしも人間ですから、どんな物でもともいわれませんが、まあ大ていの代物なら、一度思い込んだとなりゃあ、これまで、盗りっぱぐりはありませんでした。まあいわば、病気(やまい)のようなもので――。御隠居さんだって、覚えがおありなさるでしょうが、お互に、若え頃娘っ子に思いつくと、どうしても、物にしてえ、物にしてえで、寝つかれねえ。あれと同じことさ。あっしは、一度盗ろうと考えたら、そいつを手に入れねえ中は、おちおち夜も眠れねえんで――。因果な根性で、自分でも愕いていやすよ」
と、ぬけぬけと並べる盗賊の、赧らめもせぬ面魂を、三斎隠居は、まんじりともせず眺めたまま、
「しかし世間では、貴様のことを、義賊の、俠賊のと、いっているそうだが、本当にそうした、慈悲、善根も積んでいるかの?」
「冗談仰言っちゃいけません。泥棒に、慈悲、善根なんてものが、ある筈がありますものか。ただ、片一方にゃあ、黄金(かね)や、宝物が山程あって、片一方じゃ、あすの朝の、一握りの塩噌(えんそ)にも困っている。譬(たと)えば、こちらさんのような御大家から、ものの百両とものして出て、いい気持になっているとき、そんな貧乏人の嘆きが耳にへえりゃあ、百両の中から、一両ぐれえは、分けてやるのが、誰しもの人情でしょう」
「わしにも、貴様の気持は、いくらか解るようだ。是非に欲しいと思い込んだら、手に入れぬ中は、目蓋も合わぬというような気持は誰にもある」
三斎隠居は、自分の考えているだけのことを、どんな人間の前でも、ずばずばいってのける、この不敵な盗賊と対坐している間に、ついぞ覚えない、胸の開きをさえ、感じて来るのだった。
青年の頃から、彼自身の心に、食い込んでしまった、不思議な慾望――骨董癖、風雅癖が昂じた結果の、異状な蒐集慾、それを満たすために、どれ程、うしろ暗い、汚らわしい行為を、繰り返して来ていた彼であったろう!
その衷情(ちゅうじょう)を、三斎はいま、不図言葉に漏らしてしまったのだ。
闇太郎は、きょときょとした目で、相手を見た。
「へえ、御隠居さんも、それじゃあ、ぬすっと根性が、おあんなさるんですか!」
平馬は聞きかねたように咳払いをして、
「これ、無遠慮も、いい加減にいたせ」
「かまうな――」
と、三斎隠居は言って、
「この者の物語は、なかなか面白い。正直に申せば、わしだとて、そう言う根性は、無いとも言われぬかも知れぬ。まそっと詳しく、盗みの話をしてくれまいか。とにかく、一盞(さん)つかわそう」
と、言って、軽く手を打つのだった。


二一 編集

深夜ではあったが、前髪の若小姓と、紫矢絣に、立矢の字の侍女たちが、盃盤を齎(もたら)して来た。
三斎隠居は、小姓一人を残して、他の者を去らせると、平馬と闇太郎とに、酒盃を勧めるのだった。
闇太郎は、隠居の言葉までもなく、すっかり寛ぎきった態度を見せていた。
「ごめんなすって、おくんなせえ。この方が楽にお相手が出来ますから――」
と、膝を崩して、長崎風のしっぽく台に、左の肱(ひじ)さえつくのだった。
門倉平馬は、苦々しげだ。
彼は相変らず、きちんと坐って、三斎隠居から渡された酒杯を、口に運ぶのさえ、遠慮しているように見えた。
隠居よりも闇太郎が、口を出した。
「平馬さん、土部の御隠居さまは、いって見りゃあ、公方さまの御親類、当時、飛ぶ鳥も落す勢力(いきおい)かも知れないが、こんな夜更けに、あっしのようなお探ね者の泥棒風情を、一緒にお目通りまで、連れて来る程の、御懇意な仲でしょう。だのにあんたが、そんなにしゃっちょこばっていなすっちゃあ、初めてのあっしが、どうにもならねえ」
「如何にも、闇太郎が申す通りだ」
と、三斎は平馬の方に目をやって、
「そういえば門倉、この深更に、何で、わざわざ訪ねてまいったのだ?」
門倉平馬は、食卓から退るように、畳に両手を下した。
「実は、御隠居さま、止むに止まれぬ、武道の意気地より今晩限り、旧師脇田一松斎と別れ、未熟ながら一芸一流を立て抜く決心、――それに就き、御隠居さまの、御配慮を煩(わずらわ)したく、深夜ながら、お袖に縋るため、まかり出でました次第でござります」
「なに?脇田の門を捨てたとか?それはまた何故」
と、さすがに土部三斎も愕きの色を浮べて、
「それはまた、どうしたわけだ?」
「御存じはござりますまいが、今度上方より初下りの、中村菊之丞一座の雪之丞、之が、不思議な縁あって、拙者よりも前かたより、一松斎門にて剣技を学んだ者でござります。今宵この者に、旧師が、秘伝奥義の、伝授云云のことあり、拙者へも伝授なきものを、河原者風情に、授けられては、面目立ち難く、当方より、師弟の縁を切り、直に、脇田家を後にいたした理由――拙者といたしましては、武芸にては、強ち、師に劣るとも思われませぬ。御鴻恩(ごこうおん)にて、御地を賜わり、道場一軒なりと、開かせいただかば辱けなく――」
この言葉を聴くと三斎よりも、闇太郎の瞳が異様な煌(かがやき)を帯びて来るのだった。
「へえ、平馬さんは初下りの雪之丞と、そんな仲でござんしたかい?」
平馬は、闇太郎を顧みた。
「では貴様は、雪之丞と存じ合いか?」
闇太郎は事もなげに、例の顎を逆さ撫でに、撫で上げながら、
「何んの、江戸ッ児のあっしと、下り役者と知っている筈がありますものか、ただあんまり評判が高いんでね――」
「不思議なことを聴くものだな!」
と隠居は呟いた。
「当節女形として響いている雪之丞、脇田の門人とは、思いもつかなんだ」


二二 編集

三斎隠居は、猶も腑(ふ)に落ちぬように、
「実は、御城内に上っている、娘の浪路(なみじ)が、この間、会うたとき、江戸初下りの髪形役者、雪之丞という者も舞台を、是非見たい故、宿下りの折、連れてまいってくれと申すので、中村座の方へ、すでに桟敷の申込をして置いた次第、江戸まで名が響いている、当代名代の女形に、そのような、武術があろうなどとは、存じもよらなんだ。平馬の申す男と、中村雪之丞と、真に同一人であるのであろうか?」
「お言葉ではござりますが、紛いもなく、女形雪之丞、脇田一松斎の愛弟子に、相違ござりませぬ」
と、門倉平馬は、キッパリといったが、その調子には、明らかに、憎悪が籠められていた。
「拙者、一松斎の手元にまいって、既に十年、――その頃、彼も幼少にて、大阪道場に通ってまいるのでしたが、雪之丞を見ると、旧師は別扱いで、必ず、自身で、稽古をつけておりました。何でも、一方ならぬ大望を抱いているとかの、話もふと、耳にしているようにござります」
「一方ならぬ大望と申して、――役者風情が、まさか、親の仇というのでもあるまいが、――?」
と、三斎は、猶、不審顔だ。
闇太郎は、いつもの顎の逆さ撫でをやりながら、
「ふうん、じゃあ、あのピカリっと来たのは――?」
と、呟いた。
「何に?ピカリとは何だ?」
と、平馬がじろりと観ると、
「いいえ、何でもねえんで、――。ただ、やっぱし舞台で光るくれえの奴あ、違ったもんだ、――と感心したんで、――」
と、その場を言濁したが、心の中では、それじゃ、御蔵前の暗やみで、あの時、女形に斬りつけたのは、この平馬だったのだな。道理で、素晴らしい気息(いき)だと思った。しかし、懐剣一本で斬り返されて、どじを踏んでしまったので見ると、一松斎さんが、この男に、奥儀を讓らなかったのも、流石目があるというもんだ。
闇太郎は、彼独特の、闇を見通す程の、鋭敏な心の目で、一切を見抜いてしまうと、門倉平馬の後について、三斎屋敷へなぞ、はいり込んでしまった自分が、身に汚(けが)れでもついたように、悔いられて来るのだった。
――さあ、そろそろお暇としようか。だがお蔭で、要害きびしいなまこ塀、土部三斎の、住居の中の秘密も解った。聞きゃあ、この隠居、長崎奉行の頃から、よくねえ事ばかり重ねて、いまの暴富を積んだのだと言う。いずれ、その中出直して、何か目星しいものを、頂戴してやろう――
「平馬さん、お蔭で、自身番にも突き出されず、こんな結構なお屋敷で、御隠居さまとも、お目に掛らせて、貰いやしたが、あっしのような男が、いつまで長居も怖れです。もうお暇を頂きやしょう」
「これこれ闇太郎――」
と、隠居は制して、
「わしは何分、年を取って、寝つきが悪い身体だ。貴様のような、珍しい身の上の人間から、いろいろ話も聴きたい故、もう少し喋舌って行け。これ、紅丸(べにまる)、その者の酒盃(さかずき)を満たしてやれ」
「そうまで仰言るなら、暁け方まで、御造作にあずかりやしょうか――」
と、闇太郎、振り袖(そで)小姓(こしょう)を受けて、今度こそ、腰を落ちつけて飲み出すのだった。


二三 編集

三斎は、一度、腰を上げかけた闇太郎が、また坐り直して飲み出したので、上機嫌だった。
「実は、闇太郎、わしも、役儀は退いているといっても、矢張り、江戸に住んで、公儀の御恩を受けている身体だ。貴様のような人間が、屋敷にはいって来たのを、そのままにして置くということも、ちと、出来難いのじゃ。だが、平馬もいうたであろうが、わしにあ、妙な望みがあって、この世の中で、一芸一能に秀れた者に、交わりを求めたいと、かねがね願っているのだ。絵の道であれ、刀鍛冶(かたなかじ)であれ、牙彫師(けぼりし)から、腰元彫の名人――まあ、江戸一といわれる人間で、わしの許に出入りせぬ者はない。仮令(たとい)泥棒にもせよ、貴様程の奴が、姿を現してくれたのだから、一概に野暮な業もせぬつもりだ。こう申したとて、貴様を威そうとする気持ではない。そこを間違えては困るが、こちらがそういう存念なのだから、貴様の方でもこれからは、わしにだけは、害意を捨てて貰いたいな」
「と、仰言っても、御隠居さん――」
と、闇太郎は、先き程までの、夜の巷での、悪戦苦闘の、忌まわしい追憶は、とうに忘れてしまったように、美酒の酔に、陶然(とうぜん)と頰を、ほてらせながら、
「何しろ、性分が性分で、さっきにから、申し上げるように、一度盗みたいとなると、どうも遠慮が出来ねえ生れつき、こちらのようなお屋敷に、足踏をしていると、たまにゃあ、素手では帰られねえような気持になることもあるでしょう。だから、まあ、出来るだけ、この近所へは、足踏をしねえことに、いたしやしょうよ」
「ところがわしは、何となく、貴様が好ましくなって来たよ」
と、老人は、手にした酒盃をさしてやって、
「何の泥棒の、盗賊のというと、聞えが悪いが、忍びの業は、立派に武士の、表芸の一つ。音無く天井を走るだけでも、その業を申し立てればお取り立てになる程のものだ。貴様も、つまらない遠慮を抜きにして、この家へだけは、一芸の達者とし、威張って出入りするがいい」
闇太郎は、礼儀にこだわらず、三斎隠居に直かに、酒盃を返しながら、きらりと鋭い目で、相手を見上げて、
「ども恐れ入った、御懇志のお言葉ですが、御隠居さん、ざっくばらんにいって、おめえさんは、このあっしを、どんな時に、役に立てようとなさるんですね?」
三斎隠居は、ぎょっとしたように、闇太郎を見返したが、その目を外らして、苦が笑いした。
「ふうん、成る程、ますます気峰の鋭い奴だな!」
そして、わざとらしく取ってつけたような快活さで、
「如何にも、旗本の隠居と泥棒でも、一度懇意になった上は、何かの場合、折り入って、相談ごとをする時が無いとも限らぬ、だがまあ、当分は、別に頼むことも無いようだ」
「そりゃあ、泥棒は、あっしの渡世、御隠居さんは、書画骨董、珠玉刀剣が、死ぬ程お好きだということ、何処そこの蔵から、手に入れられねえ宝物を、盗って来い位なら、御相談にも乗りましょうが、弱い者虐(いじ)めや、清い人を、難儀させるようなことだけは、命を取られても、出来ねえ闇太郎、――それだけは、御承知下せえまし」
と、天地に身の置き所も無い若い盗賊、権勢家三斎を前に置いて、紅の如き気を吐くのだった。


二四 編集

平馬は、三斎隠居の機嫌をとるために、夜陰ながら、路傍で拾って来た、怪賊闇太郎、――それが、隠居の気に入ったらしいのが、初めの中は嬉しかったが、いつまでも、闇太郎、闇太郎で、自分の方を、ついぞ、老人が振り向いてもくれぬので、何となく、不機嫌になって来た。
――それにしても、不逞不逞(ふてぶて)しい奴だ。この調子では、こ奴、隠居の首根っこに食い下って、行く行く、どんな大それた考えを起すかも知れない。とんだ者を、ひっぱって来てしまった――
と、心に呟くのも、狭量な心を持った男の、妬み心からであった。
隠居は、それからそれへと、闇太郎から、これまでの、冒険的な生活の、告白を聴きたがって、話の緒口を、手繰り続けていたが、ふと、平馬の存在を思い出したように、
「おお、そう申せば、平馬、その方、一松斎に別れて、自流を立てるという、決心をしたそうだが、まずさし当って、如何いたすつもりだ?」
平馬は、隠居の赧ら顔が、自分の方へ向けられたので、漸くほっとして、険のある目元に、急に、諂(へ)つらいに似た、微笑さえ浮べて、
「実は、それにつき、射頃の御恩顧(ごおんこ)に甘えて、真直ぐに、御当家に拝趨(はいすう)いたした次第でござりますが――一松斎、年来の情誼(じょうぎ)を忘れ、某を破門同様に扱いましたかぎりは、拙者も意気地として、どうあっても、彼の一統を見返さねばなりませぬ。就きましては、彼の道場の近所に、新しく武道指南の標札が掲げたく、御持地所を賜わらば辱(かたじ)けない仕合せでござりまする」
「うむ、それも面白かろう――」
と、三斎は首肯(うな)ずいて、
「世間では、とかくこの三斎を、権勢家の、我慾者のと、善からぬ噂󠄀を立て、不平不逞の浪人共、物の解らぬ直参旗本の尻押しで、ともすればわしの身に、危害を加えようとする企らみもある由、――なに、彼等が、蠢動(しゅんどう)いたせばとて、びくびくいたす程の、小さな胆も持ち合せぬが、倅どもも、何かと、心痛し、身辺を警戒せよの、用心せよのと、うるさいことだ。丁度幸い、この屋敷の間近に、道場を立てるにはもってこいの空地がある。早速そこに、脇田道場に、勝るとも劣らぬ道場(やつ)を建てて遣わそう。その代り平馬、わしの一身を、身に替えて守ってくれねばならぬぞ」
三斎隠居、どんな場合にも、交換条件を、口にせずにはいられぬ老人だ。立派過ぎる程の武門に老いながら、とかく、商取引を忘れられない気性だ。
平馬、この男も、ぬからぬ人物。直ぐにその場に両手をついて、
「申すまでもござりませぬ。御恩顧に相成る上は、一身一命は、申すまでもなく、御隠居さま、御自由でござります」
闇太郎は、二人の問答を聴いて、片手に酒盃、片手に顎の逆さ撫でで、
――たったいま、十年恩顧の親にも勝る脇田先生の道場を、後足に砂、飛び出して来やあがった。人畜生の門倉平馬に、今更、つまらねえ約束を、強いようとする隠居も隠居。その前に手をついて、ぬけぬけと、一身一命、御自由でござります――などと、並べ立てている奴の、奴根性(どこんじょう)は、ちょいと、この世で、二人とは見つかるめえ。いつか、白んで来たようだ。そろそろこの薄汚ねえ場所を亡(ふ)けるとしようか――
「大分頂き過ぎやした。これで御納杯と――」
闇太郎は、口では丁寧にいって、酒盃を隠居の方へさし出すのだった。


二五 編集

三斎隠居も、もう闇太郎を強いて引き止めようとはしなかった。
「さようか、――もう世間が白んで見れば貴様を狙う、鵜(う)の目鷹(たか)の目は、却て、視力を失う頃だ。だがそれにしても、あまり危いことは、せぬがよいぞ」
と言って、振り袖小姓に、手箱を持って来させると、二十五両(きりもち)包を、一つ、ずしりと膝近く投げてやった。
が、闇太郎は、押し返した。
「あっしあ、この方とは、少し渡世が違うんで――御大家に伺って、こんなものを頂く気なら、何も好んで、夜、夜中、塀を乗り越えたり、戸を外したりして、危(やば)い仕事はしてはいません。まあ、お預かりになって、置いて下せえ。その中に、頂戴したくなったら、御存じねえ中に、そっと頂いてめえりやすから――その方が御隠居さんにとっても、面白かろうと思うんで――」
三斎隠居は、苦笑した。
「ああいえば、こういう。――始末にゆかぬ奴だな。それなら、貴様自由にしたらよかろう」
闇太郎は、門倉平馬にも、軽く会釈をすると、
「じゃあ、御隠居さん、――いつかまた、お目に掛りましょう」
といい残したなり、案内も待たず、廊下に、辷り出してしまっていた。
闇太郎は、晩秋の暁け方の巷を行く。
乳色の朝霧が、細い巷路を、這い寄るように、流れて来る。まだ人通りは無い。何処もここもが、しいんとした静寂に蔽われて、早起きの、豆腐屋の腰高障子に、ぼんやり、灯影が見えるだけだ。
住所不定の闇太郎、――どこをさして行く当もない。持って生れた、性分で、安心な方より、危険な方へ、爪先を向けたいが病い。昨夜、捕り手に囲まれた、柳原河岸を、目指して、例の鼻唄で、ぶらりぶらりと歩いてゆく。
橋際に、小さな夜明しの居酒屋――この辺に、夜鷹を漁りにくる、折助どもを目当の、乏し気な店だ。
夜が明けたので、もう客が杜絶えると見た爺むさい老人が――いま店をしまおうとするところへ、闇太郎は、ずっとはいった。
「とっつぁん、睡いだろうが、一本つけてくれ」
爺さんは、頷いて、銅壺(どうこ)に、燗瓶(かんびん)を放り込む。
直きについたやつを、きゅっと引っかけた闇太郎は、独り言のように、
「どうも、権門、富貴(ふっき)の御馳走酒より、自腹の熱(あ)つ燗(かん)がこてえられねえな」
「親方は、大分いけると見えますな。もういい機嫌で、お出でなのに――」
「なあに、飲みたくもねえ酒を飲まされた口直しさ」
と、若者は苦っぽく笑って、
「そういやあ、この河岸(かし)で、昨夜は、騒ぎだたそうじゃあねえか?」
「へえ。大捕物がありやしてね」
と、老人は水(みず)ッ洟(ぱな)を啜って、目を輝かして、
「といったって、手も足もないような手先衆が、翼の生えている大泥棒を追っかけたんですから、捕まりっこはありませんよ。お蔭で大分、燗酒は、売れましたがね」
「ははは、――それじゃあ、その大泥棒が、とっつぁんにはいい恩人だったじゃねえか――」
闇太郎は、のんびり笑って、樽にかけた片足を、片一方の股の上に組むのだった。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。