女がた

編集
晩秋おそあきの晴れた一日が、いつか黄昏たそがれて、ほんのりと空を染めていた夕映も、だんだんにうすれて行く頃だ。
浅草今戸いまどの方から、駒形こまかたの、静かな町を、小刻みな足どりで、御蔵前おくらまえの方へいそぐ、女形おやま風俗の美しい青年わかもの――鬘下地かつらしたじに、紫の野郎帽子、えり袖口そでぐちに、赤いものを覗かせて、強い黒地の裾に、雪持の寒牡丹を、きっぱりとわせ、折鶴のついた藤紫の羽織、雪駄をちゃらつかせて、供の男に、手土産てみやげらしい酒たるを持たせ、うつむき勝ちに歩むすがたは、手嫋女たおやめにもめずらしい﨟たけさを持っている。
静かだとはいっても、暮れ切れぬ駒形通り、相当人の行き来があるが、中でも、妙齢としごろの娘たちは、だしぬけに咲き出したような、このやさすがたを見のがそう筈がない。
折しも、通りすがった二人づれ――ついの黄八丈を着て、黒繻子くろじゅす緋鹿ひがの子と麻の葉の帯、稽古けいこ帰りか、袱紗包ふくさづつみを胸に抱くようにした娘たちが、朱骨の銀扇で、白い顔をかくすようにして行く、女形を、立ち止って見送ると、
「まあ、何という役者でしょう?見たことのない人――」
「ほんとにねえ、大そう質直じみでいて、引ッ立つ扮装なりをしているのね?誰だろう?」
と考えたが、
「わかったわ!」
「わかって?誰あれ?」
「あれはね、屹度きっと、今度二丁目の市村座に掛るという、大阪下りの、中村菊之丞なかむらきくのじょう一座ところの若女形、雪之丞というのに相違ないでしょう――雪之丞という人は、きまって、どこにか、雪に縁のある模様を、つけているといいますから――」
「ほんにねえ、寒牡丹かんぼたんを繍わせてあるわ」
と、伸び上るようにして、
「一たい、いつ初日なの?」
「たしか、あさッて」
「まあ、では、じき、またえるわねえ。ほ、ほ、ほ」
「いやだ、あんた、もう贔屓になってしまったの」
二人の娘は、笑って、お互にたもとつまねをしながら、去ってしまった。
美しい俳優は、そうした行人の、無遠慮なささやきを、迷惑そうに、いつか、諏訪町すわちょうも通り抜けて、ふと、右手の鳥居を眺めると、
「おや、これは八まんさま――わたしは、八幡さまが守護神まもりがみ――ねえお前は、この、お鳥居前で待っていておくれ――御参詣をして来ますから――」
と、ともに言って、自分一人、石段を、小鳥のような身軽さでちゃらちゃら上って行った。
八幡宮の、すっかり黄金色に染って、夕風が立ったら、散るさまが、さぞ綺麗きれいだろうと思われる大銀杏おおいちょうの下の、御水下みたらしで、うがい手水ちょうず祠前しぜんにぬかずいて、しばし黙禱もくとうをつづけるのだったが、いつかれる神が武人の守護神のようにいわれる八幡宮、おろがむは妖艶ようえんな女形――この取り合せが、いぶかしいといえば、いぶかしかった。
礼拝らいはいを終って、戻ろうとしたこの俳優わざおき――ハッとして立ち止った。
思いがけなく、銀杏の蔭から声を掛けるものがあったのである。
「これ、大願。一そう根を詰めねば成就いたさぬぞ」
不意に、奇怪なことを銀杏の樹蔭からいいかけられて立ちすくんだうら若い女形――胸の動悸どうきをしずめようと、するかのように、白い手で、乳のあたりを押えたが、つづけて、皺枯しゃがれた声が、言いつづける。
「人のいのちは、いつ尽きるか分らぬもの――そなたの大望、早う遂げねば、悔ゆることがあろうよ」
女形は、右の手に持っていた銀扇を、帯の間に――そのかわりに、どうやら護り刀のつかに、そっと、その手を掛けたかのよう――四辺あたりを見まわして、ツカツカと、声のする方へ行った。
そこには、小さな組み立ての机、筮竹ぜいちく、算木で暮す、編笠あみがさの下から、白いひげだけ見せた老人が、これから商売道具を並べ立てようとしているのであった。
「御老人」
と、澄んだ、しかし鋭い調子で、
只今ただいまのお言葉、わたくしへでござりますか?」
老人は、細い身を、まっすぐに、左手ゆんでで、しずかに、白髯はくぜんをまさぐったが、
「左様――そなたの人相、気魄きはくをうかがうに、一かたならぬ望みを持つものと観た――と、いうても驚くことはない――わしは、自体他人の運命さだめを占のうて、生業なりわいを立つるもの――何も、そのように驚き、あわて、芸人にも似合わしからぬ護り刀なぞ、ひねくるには及びませぬよ。は、は、は、は、は」
びた笑いに、一そうおびやかされたように、右手を帯の間から出して、白いほおに持って行ったが、
「ほんに、恐れ入りました御眼力――いかにも、わたくしは、並み並みならぬ望みを持ちますもの――」
と、つつしんで言って、
「ところが、只今、うけたまわれば、人のいのちは、限りがあるものとのお言葉――では、わたくしは、望みを遂げませぬうちに、この世を去らねばならぬのでありましょうか?」
「そこまでは、わしにも言えぬ」
皺枯しゃがれた声が、突き放すように言ったが、
「が、しかし、そなたの寿命ばかりではない。相手の寿命ということも考えねばならぬ」
「えッ!相手の寿命?」
女形は、低く、激しく叫んだ。彼の、剃りあとの青い眉根まゆねがきゅッと釣って、美しい瞳が険しくきらめいた。
「左様、そなたは、大方、他人のいのちを狙うている――」
老人は落ち着いた調子で、つづけて、
「しかも、一人、二人のいのちではない――三人、四人、五人――あるいはそれ以上、その人々の中、手にかけぬうちせるものがあったら、さぞ口惜しかろうが――」
「一たい」
と、青年わかものは、老人が前にした高脚の机に、すがり寄って、
「一たい、あなたは、どのようなお方でござります――わ、わたくしが何者か、御存知なのでござりますか?」
すッかり、血相が変って、又も帯の間の懐剣の柄に、手をかけて叫ぶのを、騒がず見下す老人、
「はて、いずれの仁かな?が、わしにはそなたの護り袋の中の、大方、父御ててご遺言ゆいごんらしいものの、文言もんごんさえ、読めるような気がするのじゃ」
老人の言葉は、いよいよ出でて、いよいよ奇怪だ。
その怪語に、一そう急き立つ青年女形わかおやまを、彼は皺ばんだ、細長い手を伸べて、抑えるようにして、
「その父御の遺言の文句は、随分変妙なものであろう――他人が、ちょいと覗いただけでは、何をいうているやらわからないような、気違いじみたものらしいな。どうじゃ、お若いお方、違うかな?」
と、言って、今は、まるで放心したように、目をみはり、脣を開けて、うっとりと突ッ立ってしまった相手を眺めたが、急に、ぐっと編笠あみがさおおわれた顔を突き出して、ささやくように――
「その、呪文のような文には、こう書いてあるに違いない――(口惜くちおしや、口惜しや、焦熱地獄しょうねつじごくの苦しみ、生きていがたい、呪わしや土部、浜川、横川――憎らしや、三郎兵衛、憎らしや広海屋――生きて果てて早う見たい冥路よみじの花の山。なれど、死ねぬ、死ねぬ。口惜しゅうで死ねぬ、いつまでつづく、この世の苦艱、焦熱地獄)――たしか、こんなものであろうな?お若いお方」
サーッと、青ざめた若者は、口が利けなくなったように、土気いろの唇を、モガモガやったが、やっとの事で、
「あなたはどなた様?この私さえ、それを見るのが恐ろしゅうて、覗こうともせぬ、護り袋の秘文――狂うた父が、いつ気が静まった折に書きのこしたか、死後に遺っておりました文――それを、あなたが、まあ、どうして?」
と、どもり、吃り身を震わせながら言うのを聴くと、編笠の中で、かすかな、乾いた笑いがきこえたようであった。
細長い指が、あごの紐を解くと、白髯ばかり見えていた、易者の面相が、すっかり現れる。
すっかり禿げ上った白髪を総髪に垂らして、額に年の波、鼻隆く、せた脣元くちもとに、和らぎのある、上品な、六十あまりの老人だ。
じーっと、穴のあくほど、みつめる女形。
老人の顔が、何とも言えず、懐しげな、やさしげな微笑の皺で充たされると、はじめて思い出したように、
「お!あなたさまは、孤軒こけん先生!」
「ウム、思い出したかな?」
と、相手は、ますます楽しげだ。
役者は我を忘れたように、高脚の机をまわって、老人にすがりつくようにして、
「わたくしとしたことが、大恩ある先生と、お別れして、たった五年しか経たないのに、お声を忘れるなぞとは――でも、あんまり思いがけなかったものでござりますから――」
美しく澄んだ目から、涙がハラハラとあふれて、白い頰を流れ落ちる。
「おなつかしゅう御座りました――だしぬけに、大阪島の内のお宅から、お姿が無くなって以来どのようにお探し申しましたことか――」
「あの当時、とうに退こうと思うていた大阪――そなたを知って、訓育が面白さに、ついうかうかと月日を送ったものの、そなたに入要なだけの学問は授けるし、もうこれで役が済んだとあれからまた、瓢々四方ひょうひょうよもの旅――は、は、とうとう、今は、江戸で、盛り場、神社仏閣のうらない者――が、久々で、めぐりあえて、うれしいのう」
老人は、笑みつづけて、青年俳優をしげしげと見たが、
「中村菊之丞一座花形の雪之丞、津々浦々に聴えただけ、美しゅうなりおったの」
雪之丞と呼ばれる役者は、大そう美しゅうなった――と、讃められて、小娘のように、ポッと頰を染めたが、つくづく相手を見上げて、
「でも、先生も、ちっともお変りなさいません――それは、おぐしや、お髯は、めッきり白うお成りなさいましたけれど――」
「わしの方は、もう寄る年波じゃよ。が、に角、生きていることは悪うない。そなたに、こうして邂逅めぐりあえたのも、いのちがあったればこそじゃ」
と孤軒先生なる老人は笑ましくいったが、いくらか、眉をしかめるようにして、
「わしはそなたも知っての通り、風々来々の暢気坊のんきぼう、世事一切に気にかかることも無いのだが雨の日、風の日、そなたの事だけは、妙に思い出されてならなんだ――もしや、若気のいたりで、力及ばずと知りながら、野望のぞみに向って突進し、累卵るいらん厳壁がんぺきになげうつような真似をして、身を亡ぼしてくれねばよいが――と、思うての――」
「師匠菊之丞からも、よくそれをいい聴かされておりますれば、これまでは、我慢に我慢をいたしておりましたが」
と、いいかけたとき、久しぶりに旧師と邂逅して、和らぎに充たされた若者の面上には、またも苦しげな、呪わしげな表情が返って来た。
老人は、ジッと見て、
「我慢を重ねて、来たが、もう我慢が成らぬと申すか?」
「はい、この大江戸には、父親を、打ちたおし、にじり、狂い死をさせて、おのれたちのみ栄華を誇る、あの五人の人達が、この世を我が物顔に、時めいて暮しております。それを、この目で眺めたら、とてもこらえてはおられまいと、師匠も、大方、今日まで、わたくしの江戸下りを、止めていてくれたのでございましょうが、今度、一緒に伴れて来てくれましたはあの仁も大方、もうわたくしに、望みを晴らせよ――と、許してくれたのだろうと思います。それゆえ、遠からず、たとえ力は叶わずとも、思い切ッて起ち上ります覚悟――その一生の瀬戸際に、ふと、八幡宮に通りかかり、祈念のためぬかずいての帰り、先生にお目にかかれまして、こんな嬉しいことはござりませぬ」
青年俳優の眉目びもくには、最近一身一命をなげすてて、大事にいそごうとするものだけが現す、あのつよく、激しく、しかも落ちついた必死、懸命の色がみなぎるのであった。
「それもよかろう――」
めもせず、老人はうなずいた。
「しかし、大事は、いそいでも成らず、いそがずでも成らず――頃合というものがある。変通自在でのうてはならぬ。その辺の心掛けは、とうからおしえて置いたつもりゆえ、格別、案じもせねど、また、何かと、このようなじじいでも、頼りになるときがあらばたずねて来るがよい」
「いつも、このおやしろに御出張でございますか?」
「いや、例の風来坊――が、大恩寺前で、孤軒と訊けば、犬小屋のような住居におる。さ、売出しの女形に貧乏うらないが長話、人目に立っては成らぬ、になされ」
「実は、これから、御存知の剣のお師匠、脇田先生へ、お顔出しいたそうとする途中でござりまする。いずれ、では、大恩寺前とやらへ――御免ごめんこうむりまする」
深まった黄昏の石段を、雪之丞役者は、女性よりも優美な後姿を見せて下りて行った。
雪之丞が八幡宮鳥居前に待たせてあった、角樽つのだるを担がせた供の男に案内させて、これから急ごうとするのは、縁あって、独創天心流の教授を受けた、脇田わきた一松斎しょうさいの、元旅籠町もとはたごまち道場どうじょうへだ。
紫の野郎帽子に顔を隠し、優にやさしい女姿、――小刻みに歩み行く、ろうたけたこの青年俳優の、星をあざむく瞳の、何と俄に凄じい殺気の帯びて来たことよ!
彼の胸は、不図ふと、八幡宮境内で邂逅かいこうした、奇人孤軒先生のある暗示多い言葉を聞いてから、日頃押さえつけて来た、巨大な仇敵に対する復讐心ふくしゅうしんに、燃え立ち焦れ、動乱し始めているのだった。
代々続いた長崎の大商人、その代々の中でも一ばん温厚おんこう篤実とくじつな評判を得ていたと云う、親父おやじどのを、威したり、すかしたりして、自分たちの、あらぬ非望に引き入れて、しかも最後に、親父どのだけに責を負わせ、裏長屋に狂い死させた、あの呪わしい人達が平気な顔で揃いも揃って、栄華を極めている、その江戸へ、やっと上って来ることが出来たこのわたしが、どして手を束ねていられよう。孤軒先生、わたしは屹度きっと戦います。戦わずに置きませぬ。見ていらしって下さいませ――。
彼は胸の底で、誓うように呟き続ける。
中村菊之丞の愛弟子雪之丞――生れついての河原者ではなかった。長崎人形町の裏長屋で、半ばけ果てた、落ちぶれ者の父親とたった二人、親類からも友達からも、すっかり見捨てられ尽して、明日のたつきにも、こうじ果てていた時、その頃これも名を成さず、陋巷ろうこうに埋もれていた場末役者の、菊之丞に拾われて、父なき後は、その人を親とも兄とも頼んで、人となって来た彼なのだった。
それなら何故に、長崎で代々聞えた、堅気な物産問屋ぶっさんどんや、松浦屋清左衛門程の男と、そのせがれが、食うや食わずやの場末小屋の河原者の情にまであずかるように成り果てたのであったろう?
すべてが、商売道に機敏で鳴った同業、広海屋を謀師とした、奉行代官浜川平之進、役人横山五助――それからおのが店の子飼の番頭、三郎兵衛の悪行で、あらゆる術策をふるって、手堅さにおいては、長崎一とおわれていた、清左衛門を魔道に引き入れ、密貿易を犯させて、彼等自身が各各の大慾望を遂げてしまうと、長崎奉行役替りの時期が来て、その罪行が暴露するのを怖れ、清左衛門一人に、巧に罪をなすりつけ、家は欠所、当人追放、一家離散で、けりをつけてしまったればこそだった。
雪之丞はその当時、まだ七つ八つのあどけない頃で、何故、ある晩、あの美しく、優しい母が咽喉のどを突いて死んでしまったのか、あの大きな奥深い家から、突然、父親とたった二人、狭い小さいきたなびれた、裏長屋の一軒へ、移り住まねばならなかったのか、また、あの何時も静かな微笑をたたえて、頭を撫でてくれたり、抱いてくれたりした父親が、ともすれば最愛の、いたいけな倅に拳固こぶしを上げたり、かと思えば、何やらぶつぶつ独り言をいって、男だてらにほろほろと涙を流したりするようになったのか、まるで、見当もつかなかった。
ただ、今でもはっきり目に映るのは、その頃雪太郎と呼ばれていた、いとけない一少年に過ぎなんだ自分が、そうした父親の、不思議な挙動に目をみはって、凝っと見詰めては、父親が泣き出すと、自分も一緒にしくしくと、何時までも泣き続けていた、黄昏の灯のない裏屋の中のあまりにわびし気な風情ふぜいだった。
雪之丞は、もっと悲しいことを思い出す――寒い寒い真冬の夜更けだったが、その日一日、物をもいわず、薄い寝具の中に潜り込んだまま、死んだようになっていた父親が出し抜けにもくりと布団ふとんに起き上って、血走った目で宙を睨み、
「口惜しい奴等だ。憎い奴等だ。口惜しがっても憎らしがっえも、生きたままではどうにもならぬ。わしは死んで取り殺すぞ。可愛い女房まで自害をさせ、この清左衛門の手足をもぎ、口をふさぎ、浅ましい身の上に落した奴等、――どうしてこのままに置くものか」
と、うめきながら、枕元で途方に暮れている、吾が子をぎょろりとにらむように見詰めると、枯木のように痩せ細った手で、引き寄せて、
「俺は死ぬぞ、雪太郎。死んでお前の胸の中に魂を乗り移らせ、お前の手で屹度あやつ等を亡ぼさずには置かぬのだ」
と、世にも凄まじい調子で呟くと、わが子の身体を、ぐーっと抱きしめた。と思うと、突然、
「ううむ」
と、いうような唸り声を立てると同時に目をつり上げ、頭髪かみを逆立て、口尻からだらだらと血を流し始めた。
雪之丞の雪太郎は、年はもゆかぬ頃、舌をんで狂い死にの、その臨終いまわの一刹那とも知らず、抱きしめの激しさに、形相の怖ろしさに、ぐいぐいと締めつける、骨だらけのかいなの中から、すり抜けて思わず壁ぎわまでげ出し、ぺたりと坐って、わあわあ泣き始めた。
そこへ、入口の建てつけの悪い戸が開いて、顔を出したのが、毎晩小屋の戻りには、何かあたたかい物の、竹の皮包でも提げて、見舞ってくれる、場末役者の菊之丞だった。
菊之丞は、この有様を眺めると、持っていた包を投げ出して、清左衛門を抱き起した。
顎から胸へかけて、おびただしく血を流し、いまはもう、目を逆釣らせてしまった、哀れな男の顔を窺き込んで、菊之丞は涙をこぼした。
「とうとう、おやりなすったな!無理はござりません。御尤もです。松浦屋ともいわれた方が、役人や、渡世仲間や、悪番頭の悪だくみにはめられて、代々の御身代あ奪い取られ、如何に密貿易の罪をきたとはいえ、累代るいだい御恩の子分児方さえ、訪ねて来る者もない始末。点にも地にも見放されなすって、死んで仇を呪い殺そうとなさるのは、当然です。如何なる御縁かわかりませぬがかべ一重に住んで、御懇意ごこんい申すようになった、この菊之丞、日頃の御心持は、よく知っております。身分違いの河原者、しかも、世の中に名も聞えぬ、生若い身にはごじあますが、せ腕ながら菊之丞、屹度、雪太郎坊ちゃまを、お預かりいたし、必ず御無念を、このお子の手で晴らさせて御覧に入れます」
ほんに、どのような宿世すくせであったか、その晩以来、雪太郎は、菊之丞の手に引き取られて、やさしい愛撫あいぶを受ける身となったのだ。
菊之丞は、大方、松浦屋の旦那が、草葉の陰から、力添えをして下さるからだ、――と、時々、雪太郎だけには囁いたが、その後めきめき芸が上って、雪太郎は十二、三になる頃には、だんだん世上に名を聞え、いつか、大阪の名だたる小屋を、常小屋とするまでの、名優となることが出来たのだった。
雪太郎は十二の年雪之丞という名を貰って、初舞台。子役として芸を磨きながら、一方では菊之丞の心入れで、武芸、文学の道に突き進むことが出来たのだ。
その頃雪之丞の師匠だったのが、つい今し方、八幡さまの境内でめぐり合った、奇人孤軒先生――そして、剣道の師範がこれから訪ねて行こうとする、今はこれも、江戸へ出て御蔵屋敷の近くに、道場を構えている、脇田一松斎なのであった。
雪之丞は東下あずまくだりをしたばかりの、今日、この二人の恩人たちに、会うことが、出来たということが、何となく、幸先がいいように思われる。
――これも大方、日頃からの信心の、八幡宮の御利益だろう。
と、つぶやいたが、直ぐ首を振って、
――いやいや、人間一生の大悲願、恩人でも師匠でも、頼にしてはかないはせぬ。矢張り、身一つ、心一つで、どんな難儀にもぶッつかれ――それが、あの方々の、日頃の御庭訓でもあったのだ――
そんなことを思いながら、道案内の供を先に、もうとっぷりと暮れかけた、御蔵前を急いで行くと、突然、つい鼻先で、
「無礼者!」
と、叫ぶ。荒くれた一声。
吃驚びっくりして見上げると、腰をかがめた供の男の前に立ちはだかった一人の浪人――月代さかやきが伸びて、青白い四角な、長い顔、羊羹色ようかんいろになった、黒い着付けに、茶黒く汚れた、白博多しろはかたの帯、げちょろの大小を、落し差しにした、この府内には、到るところにうようよしている、お定まりの、扶持ふち離れのならずさむらいだ。
供の男は、くどくど詫び入っている。
雪之丞は俯向うつむいて、考えごとをして歩いていたので、何も気がつかなかったが、供の男が、通りすがりに、この素浪人の袖たもとに、思わず触れたものであったろう?
ならず士は、いきり立つ。
「武士たる者に、けがわらしい。見れば貴様は、河原者の供ではないか。身体に触れられて、その儘では措けぬ。不愍ふびんながら手打にするぞ」
「何分、日暮れまぐれの薄暗がり、あなたさまが横町から、お出になったに気がつきませず、お召物のどこぞに、触ったかも知れませぬが、それはこちらの不調法、どうぞ、お許し下さいませ」
と、供の男は、ひたすら詫びている。
「何?気がつかなかっと?その一言からして、無礼であろう。さては貴様は、この方が余儀ない次第で、尾羽打ち枯らしている故に、士がましゅう思わなんだというのだな。いよいよ以て聞き捨てならぬ。それへなおれ」
と、猛りわめく。
雪之丞は、困惑した。江戸にはこうした無頼武士がはびこって、相手が弱いと見ると、何かにつけて言いがかりをつけ、金銭をゆするはおろか時によると、剣を抜いて、いどみかけることもある故、気をつけるがいいと、いわれていたが、早くも、かような羽目に落ちて、どうさばきをつけたらよいか、途方に暮れた。
それに、この浪人のくちから漏れた、河原者という一言がぐっと胸にこたえたので、平謝ひらあやまりに謝るのもいまいましかったが、虫を押えて、一歩進み出た。
「これはこれは、お士さま。供の者が何か御無礼をいたした様子、お腹も立ちましょうが、御堪忍ごかんにんあそばして、赦してやって下さいませ」
と、丁寧に挨拶する雪之丞の、たわやかな姿を、素浪人は、かっと見開いた、毒々しい目でぐっとめ下した。
おどおどと、恐怖にみたされて、腰も抜けそうに見える供の男を、いつか後に囲うようにした雪之丞は、浪人者の毒々しい視線を、静かな、美しい瞳で受けながら、重ねて詫びた。
「何分、わたくしは、御当地に始めての旅の者、殊更、取り急ぎます日暮れ時、何事もお心ひろうお許し下されますよう――」
「ううむ――」
と、浪人者は呻めいた。
「重ね重ね奇怪だ、無礼だ。身分違いの身で、土下坐でもして謝るならまだしも、人がましゅうし目の前に立ち塞がって、それなる奴を、かばいだてしようなどとはあ、いよいよ以て許されぬ。それへ直れ、押し並べて、二人とも成敗する」
雪之丞は、微塵みじんも、怖れは感じなかった。相手の面構え、体構えに、本気で刀を抜こうとする気合が、こもっていないのは勿論――よしんば、斬りつけて来たにしろ、たかの知れた、腕前なのも見抜いている。
――この男、威しにかけて、いくらか、黄金こがねをせしめる気だな――
人気渡世の女かた――殊更、始めて上った江戸。こんな奴を相手にするより、小判の一枚も包んだ方が、とくだとは思ったが、尾跳ね打ち枯らして、たつきに困ればとて、大刀をひねくりまわし、武力にうったえて、弱い物から飲みしろを、稼ごうという了簡りょうけんを考えると、人間の風上に置けない気がした。その上、辛抱がならないのは、天下の公道で、二言めには、河原者の、身分違いのと、喚き立て、言いののしるのを聞くことだった。
――何が、身分違い、河原者。舞台の芸に心を刻み、骨を砕き、ひたすら、一流を立て抜こうとする芸人が、押し借りの強請ゆすりの悪浪人と、何方どっちが恥ずべき境涯きょうがいなのだ――
そう思うと、腕に覚は十分ある身、取って伏せたいのは山々だったが、
――いやいやここで腕立てなどしたら、師匠の迷惑は言うまでもなく、殊更、自分は、大望ある身体、千丈の堤も蟻の一穴、辛抱だ――
と、胸を撫でて、
「では、こうして、お詫びいたします程に、お通しんされて下さりませ」
雪之丞は、膝まずいて、白くしなやかな指先を、土の上に並べてついた。
では?だと?」
と、浪人は笠にかかって、
「では――とは何だ?心から済まぬと思うなら、そのような言葉は出ぬ筈だ。許されぬ。堪忍ならぬ」
と、大刀の鯉口こいぐちを切って、のしかかる。
夕まぐれとは言え、人通りの絶えぬ巷。いつか、黒山のように、人立ちがしているが、如何にも相手が悪いので、雪之丞たちに、扱おうとする者もない。
雪之丞は、本当に刃が落ちて来たなら、降りかかる火の粉。引っぱずして、投げ退けようとじっと気合をうかがいながらも、胸の中は煮えくり返った。
――大道の泥に、手を突かせられ、人さまの前で、はずかしめられるのも、もとはと言えば、役者渡世に、身をおとしていればこそ、それもこれも、みんな、呪わしいあの悪人共が、親父どのを、悲しい身の上に、蹴落けおとしたからだ。この浪人をうらむなら、彼奴らを怨み抜け――。
浪人者も、騎虎きこの勢い――止め手がないので、
「うう、おのれ――」
と叫ぶと、とうとう、腰をひねってギラリと抜いた。
浪人が抜いたと見るろ、雪之丞は大地に片手を突いたまま、片手で、うしろにうずくまってわなないている供の男を、かばうようにしながら、額越しに上目を使って、気配を窺った。
雪之丞の、そうした容態かたちは、相も変らず、しとやかに、しかし、不思議に、五分の油断も隙もない気合がみなぎって、どんな太刀をも、寄せつけなかった。
浪人は、まるで、電気にでも触れたように、パッと飛び退って、驚愕きょうがくの眼を見はった。
彼は、白刃を振りかぶったままで、
「ううむ――」
と、呻めいた。
勿論、この浪人、雪之丞を、真二つにする覚悟があって抜いたわけではない。が、相手の身体からほとばしる、奇怪な、霊気のようなものを感じると、顔色が変った。
――こりゃ、妙だ。この剣気はどうだ?が、この河原者、兵法に達しているわけはない。
彼は、そう心にいって、乗りかかった船、思い切って斬り下げようとしたが、駄目だった。振り下す刃は、ピーンと、弾き返されるような気がした。
「ううむ、――」
と、彼は、また呻めいた。
雪之丞は、さもしおらしく、片手を土に突いたままだ。
するとその時、取りまいた群衆の中から、
「うむ、面白いな。こいつあ面白いな」
と、言う暢気な声が聞えて、やがて、人山を割って、一人の職人とも、遊び人ともつかないような風体の、縞物しまもの素袷すあわせ片褄かたづまをぐと、引き上げて、左手を弥蔵やぞうにした、苦みばしった若者が現れた。
「おい、浪人さん――その刀は、どうしたんだ?赤鰯あかいわしではねえということは、御連中さま、もうよく、お目を止められましたぜ、斬るならば斬る、おさめるなら、おさめる――どっちかに片づけたらどうだ?」
その吉原かぶりの若者は、ぞん気にいって、雪之丞をながめて、
「ねえ、役者衆――売り出しの身で、大道に手をついているのは、あんまりいい図じゃねえ。おいらが引き受けたから、さあ早く行くがいいぜ」
その言葉を聴くと雪之丞は、
「御親切はかたじけのうございます」
と、そう言いながら、チラと、若者を仰いで、すらりと身を起した。
「お言葉を従い、ではわたくしは、行かせていただきます。さあ、そなたも」
と、腰が抜けたような、供の男を促して、素早く人混みの中に、くぐり込んだ。
その彼の耳に響くのは、吉原かぶりの若者の、きびきびした啖呵たんかだった。
「さあ、お浪人、相手が変つたぜ、弁天さまのような女形のかわりに、我武者らな、三下じゃあ、変りばえがしねえだろうが、たのむぜ。その斬れ味のよさそうな刀の、始末を早くつけたらどうだ?」
雪之丞は、急に駆けるように急ぎ出した供の男の跡を追いながら、小耳をかしげていた。
――あのお若い衆は、何者なのだろう?余程すぐれた、お腕前御練達の方に違いないが、それにしても、あの姿は?
いつか彼はもう、御蔵役人屋敷前の、脇田一松斎道場の、いかめしい構えの門前に近づいていた。
 

この著作物は、1939年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。