野田佳彦君の故議員安倍晋三君に対する追悼演説


故議員安倍晋三君に対する追悼演説

○議長(細田博之君) 去る七月八日逝去されました議員安倍晋三君に対し弔意を表するため、野田佳彦君から発言を求められております。これを許します。野田佳彦君。

〔野田佳彦君登壇〕

○野田佳彦君 本院議員、安倍晋三元内閣総理大臣は、去る七月八日、参院選候補者の応援に訪れた奈良県内で、演説中に背後から銃撃されました。搬送先の病院で全力の救命措置が施され、日本中の回復を願う痛切な祈りもむなしく、あなたは不帰の客となられました。
 享年六十七歳。余りにも突然の悲劇でした。
 政治家としてやり残した仕事。次の世代へと伝えたかった思い。そして、いつか引退後に昭恵夫人とともに過ごすはずであった穏やかな日々。
 全ては一瞬にして奪われました。
 政治家の握るマイクは、単なる言葉を通す道具ではありません。人々の暮らしや命が懸かっています。マイクを握り日本の未来について前を向いて訴えているときに、後ろから襲われた無念さはいかばかりであったか。改めて、この暴挙に対して激しい憤りを禁じ得ません。
 私は、生前のあなたと政治的な立場を同じくするものではありませんでした。しかしながら、私は、前任者として、あなたに内閣総理大臣のバトンを渡した当人であります。
 我が国の憲政史には、百一代六十四名の内閣総理大臣が名を連ねます。先人たちが味わってきた重圧と孤独を我が身に体したことのある一人として、あなたの非業の死を悼み、哀悼の誠を捧げたい。
 そうした一念の下に、ここに、皆様の御賛同を得て、議員一同を代表し、謹んで追悼の言葉を申し述べます。(拍手)
 安倍晋三さん。あなたは、昭和二十九年九月、後に外務大臣などを歴任された安倍晋太郎氏、洋子様御夫妻の次男として東京都に生まれました。
 父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父大叔父は後の内閣総理大臣という政治家一族です。幼い頃から身近に政治があるという環境の下、公のために身を尽くす覚悟と気概を学んでこられたに違いありません。
 成蹊大学法学部政治学科を卒業され、一旦は神戸製鋼所に勤務した後、外務大臣に就任していた父君の秘書官を務めながら、政治への志を確かなものとされていきました。そして、父、晋太郎氏の急逝後、平成五年、当時の山口一区から衆議院選挙に出馬し、見事に初陣を飾られました。三十八歳の青年政治家の誕生であります。
 私も同期当選です。初登院の日、国会議事堂の正面玄関には、あなたの周りを取り囲む、ひときわ大きな人垣ができていたのを鮮明に覚えています。そこには、フラッシュの閃光を浴びながらインタビューに答えるあなたの姿がありました。私には、その輝きがただまぶしく見えるばかりでした。
 その後のあなたが政治家としての階段を瞬く間に駆け上がっていったのは、周知のごとくであります。
 内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ、自由民主党幹事長、内閣官房長官といった要職を若くして歴任した後、あなたは、平成十八年九月、第九十代の内閣総理大臣に就任されました。戦後生まれで初。齢五十二、最年少でした。
 大きな期待を受けて船出した第一次安倍政権でしたが、翌年九月、あなたは、激務が続く中で持病を悪化させ、一年余りで退陣を余儀なくされました。順風満帆の政治家人生を歩んでいたあなたにとっては、初めての大きな挫折でした。もう二度と政治的に立ち上がれないのではないかと思い詰めた日々が続いたことでしょう。
 しかし、あなたは、そこで心折れ、諦めてしまうことはありませんでした。最愛の昭恵夫人に支えられて体調の回復に努め、思いを寄せる雨天の友たちや地元の皆様の温かい御支援にも助けられながら、反省点を日々ノートに書き留め、捲土重来を期します。挫折から学ぶ力とどん底からはい上がっていく執念で、あなたは、人間として、政治家として、より大きく成長を遂げていくのであります。
 かつて、再チャレンジという言葉で、たとえ失敗しても何度でもやり直せる社会を提唱したあなたは、その言葉を自ら実践してみせました。ここにあなたの政治家としての真骨頂があったのではないでしょうか。あなたは、諦めない、失敗を恐れないということを説得力を持って語れる政治家でした。若い人たちに伝えたいことがいっぱいあったはずです。その機会が奪われたことは誠に残念でなりません。
 五年の雌伏を経て、平成二十四年、再び自民党総裁に選ばれたあなたは、当時内閣総理大臣の職にあった私と、以降、国会で対峙することとなります。最も鮮烈な印象を残すのは、平成二十四年十一月十四日の党首討論でした。
 私は、議員定数と議員歳費の削減を条件に、衆議院の解散期日を明言しました。あなたの少し驚いたような表情。その後の丁々発止。それら一瞬一瞬を決して忘れることができません。それらは、与党と野党第一党の党首同士が、互いの持てるもの全てを懸けた、火花散らす真剣勝負であったからです。(拍手)
 安倍さん。あなたは、いつのときも手ごわい論敵でした。いや、私にとっては、仇のような政敵でした。
 攻守を替えて、第九十六代内閣総理大臣に返り咲いたあなたとの主戦場は、本会議場や予算委員会の第一委員室でした。
 少しでも隙を見せれば、容赦なく切りつけられる。張り詰めた緊張感。激しくぶつかり合う言葉と言葉。それは、一対一の果たし合いの場でした。激論を交わした場面の数々が、ただ懐かしく思い起こされます。
 残念ながら、再戦を挑むべき相手は、もうこの議場には現れません。
 安倍さん。あなたは議場では闘う政治家でしたが、国会を離れ、一たび兜を脱ぐと、心優しい気遣いの人でもありました。
 それは、忘れもしない、平成二十四年十二月二十六日のことです。解散・総選挙に敗れ、敗軍の将となった私は、皇居で、あなたの親任式に前総理として立ち会いました。
 同じ党内での引継ぎであれば談笑が絶えないであろう控室は、勝者と敗者の二人だけが同室となれば、しいんと静まり返って、気まずい沈黙だけが支配します。その重苦しい雰囲気を最初に変えようとしたのは、安倍さんの方でした。あなたは、私のすぐ隣に歩み寄り、「お疲れさまでした」と明るい声で話しかけてこられたのです。
 「野田さんは安定感がありましたよ」
 「あのねじれ国会でよく頑張り抜きましたね」
 「自分は五年で返り咲きました。あなたにも、いずれ、そういう日がやってきますよ」
 温かい言葉を次々と口にしながら、総選挙の敗北に打ちのめされたままの私をひたすらに慰め、励まそうとしてくれるのです。
 その場は、あたかも、傷ついた人を癒やすカウンセリングルームのようでした。
 残念ながら、そのときの私には、あなたの優しさを素直に受け止める心の余裕はありませんでした。でも、今なら分かる気がします、安倍さんのあのときの優しさがどこから注ぎ込まれてきたのかを。
 第一次政権の終わりに、失意の中であなたは、入院先の慶応病院から、傷ついた心と体にまさにむち打って、福田康夫新総理の親任式に駆けつけました。僅か一年で辞任を余儀なくされたことは、誇り高い政治家にとって耐え難い屈辱であったはずです。あなたもまた、絶望に沈む心で、控室での苦しい待ち時間を過ごした経験があったのですね。
 あなたの再チャレンジの力強さとそれを包む優しさは、思うに任せぬ人生の悲哀を味わい、どん底の惨めさを知り尽くせばこそであったのだと思うのです。
 安倍さん。あなたには謝らなければならないことがあります。
 それは、平成二十四年暮れの選挙戦、私が大阪の寝屋川で遊説をしていた際の出来事です。
 「総理大臣たるには胆力が必要だ。途中でおなかが痛くなっては駄目だ」
 私は、あろうことか、高揚した気持ちの勢いに任せるがまま、聴衆の前でそんな言葉を口走ってしまいました。他人の身体的な特徴や病を抱えている苦しさをやゆすることは許されません。語るも恥ずかしい、大失言です。
 謝罪の機会を持てぬまま時が過ぎていったのは、永遠の後悔です。今、改めて、天上のあなたに、深く深くおわびを申し上げます。
 私からバトンを引き継いだあなたは、七年八か月余り、内閣総理大臣の職責を果たし続けました。
 あなたの仕事がどれだけの激務であったか、私にはよく分かります。分刻みのスケジュール。海外出張の高速移動と時差で疲労は蓄積。その毎日は、政治責任を伴う果てなき決断の連続です。容赦ない批判の言葉の刃も投げつけられます。在任中、真の意味で心休まる時などなかったはずです。
 第一次政権から数え、通算在職日数三千百八十八日。延べ百九十六の国や地域を訪れ、こなした首脳会談は千百八十七回。最高責任者としての重圧と孤独に耐えながら、日本一のハードワークを誰よりも長く続けたあなたに、ただただ心からの敬意を表します。(拍手)
 首脳外交の主役として特筆すべきは、あなたが全くタイプの異なる二人の米国大統領と親密な関係を取り結んだことです。理知的なバラク・オバマ大統領を巧みに説得して広島にいざない、被爆者との対話を実現に導く。片や、強烈な個性を放つドナルド・トランプ大統領の懐に飛び込んで、ファーストネームで呼び合う関係を築いてしまう。
 あなたに日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかったでしょう。ただ、それだけではなかった。あなたには人と人との距離感を縮める天性の才があったことは間違いありません。
 安倍さん。あなたが後任の内閣総理大臣となってから、一度だけ、総理公邸の一室でひそかにお会いしたことがありましたね。平成二十九年一月二十日、通常国会が召集され政府四演説が行われた夜でした。
 前年に天皇陛下の象徴としてのお務めについてお言葉が発せられ、あなたは野党との距離感を推し量ろうとされていたのでしょう。
 二人きりで、陛下の生前退位に向けた環境整備について、一時間余り語らいました。お互いの立場は大きく異なりましたが、腹を割ったざっくばらんな議論は次第に真剣な熱を帯びました。
 そして、政争の具にしてはならない、国論を二分することのないよう立法府の総意をつくるべきだという点で意見が一致したのです。国論が大きく分かれる重要課題は、政府だけで決め切るのではなく、国会で各党が関与した形で協議を進める。それは、皇室典範特例法へと大きく流れが変わる潮目でした。
 私が目の前で対峙した安倍晋三という政治家は、確固たる主義主張を持ちながらも、合意して前に進めていくためであれば、大きな構えで物事を捉え、のみ込むべきことはのみ込む、冷静沈着なリアリストとして柔軟な一面を併せ持っておられました。
 あなたとなら、国を背負った経験を持つ者同士、天下国家のありようを腹蔵なく論じ合っていけるのではないか。立場の違いを乗り越え、どこかに一致点を見出せるのではないか。以来、私は、そうした期待をずっと胸に秘めてきました。
 憲政の神様、尾崎咢堂は、当選同期で長年の盟友であった犬養木堂五・一五事件の凶弾で喪いました。失意の中で、自らを鼓舞するかのような天啓を受け、かの名言を残しました。

人生の本舞台は常に将来に向けて在り

 安倍さん。あなたの政治人生の本舞台は、まだまだこれから先の将来にあったはずではなかったのですか。
 再びこの議場で、あなたと、言葉と言葉、魂と魂をぶつけ合い、火花散るような真剣勝負を戦いたかった。
 勝ちっ放しはないでしょう、安倍さん。
 耐え難き寂寞の念だけが胸を締めつけます。
 この寂しさは決して私だけのものではないはずです。どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、今大きな空隙となってとどまり続けています。
 その上で、申し上げたい。
 長く国家のかじ取りに力を尽くしたあなたは、歴史の法廷に永遠に立ち続けなければならない運命です。
 安倍晋三とは一体何者であったのか。あなたがこの国に残したものは何だったのか。そうした問いだけが、いまだ宙ぶらりんの状態のまま、日本中をこだましています。
 その答えは、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかないのかもしれません。
 そうであったとしても、私は、あなたのことを問い続けたい。
 国の宰相としてあなたが残した事績をたどり、あなたが放った強烈な光も、その先に伸びた影も、この議場に集う同僚議員たちとともに、言葉の限りを尽くして問い続けたい。
 問い続けなければならないのです。
 なぜなら、あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ちかつ力は、言葉にのみ宿るからです。(拍手)
 暴力やテロに民主主義が屈することは絶対にあってはなりません。
 あなたの無念に思いを致せばこそ、私たちは、言論の力を頼りに、不完全かもしれない民主主義を少しでもよりよきものへと鍛え続けていくしかないのです。
 最後に、議員各位に訴えます。
 政治家の握るマイクには、人々の暮らしや命が懸かっています。
 暴力にひるまず、臆さず、街頭に立つ勇気を持ち続けようではありませんか。
 民主主義の基である自由な言論を守り抜いていこうではありませんか。
 真摯な言葉で建設的な議論を尽くし、民主主義をより健全で強靱なものへと育て上げていこうではありませんか。
 こうした誓いこそが、マイクを握りながら不意の凶弾に斃れた故人へ、私たち国会議員が捧げられる何よりの追悼の誠である。私はそう信じます。
 この国のために重圧と孤独を長く背負い、人生の本舞台へ続く道の途上で天に召された安倍晋三元内閣総理大臣。
 闘い続けた心優しき一人の政治家の御霊にこの決意を届け、私の追悼の言葉に代えさせていただきます。
 安倍さん、どうか安らかにお眠りください。(拍手)

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