都爾鼻考
藩陽乃形勝之地。若征明。可由都爾鼻渡遼河。路直且近。若北征蒙古。二三日可至云々
と云ひて、其の諫を聴かざりしことを載せたり。此の都爾鼻といへる地は、瀋陽即ち奉天遷都後、順治元年、北京に遷都するに至るまでの間、遼東遼西を連絡せる重要の地点たりしが如く、これより以前、明代よりして清の太祖の天命七年明の広寧を取るまで、主として由られたる遼陽広寧連絡路は、之が為に殆ど廃絶するに至れり。然るに此の都爾鼻の地に就きては、満洲歴史地理第二巻(二八四頁以下)に、文学士箭内亘氏が「満洲に於ける元の疆域」と題せる論文中に於て之が考証を試みられ、清太祖実録〈即ち上に引きたる一節〉並びに太宗実録天聡元年六月七月の条に都爾鼻を以て遼河の東に在りしが如く記せるは明らかに誤謬にして太宗実録天聡八年五月の条に「丁未【NDLJP:86 】………大兵西行出上楡林口。戊申大兵渡遼河。抵陽石木河。〈養息牧河〉沿河立二十営。 ………己酉大兵至都爾鼻地方。与前兵会。」とあるを以て正しとし、大清一統志〈巻四百九之一〉養息牧牧廠の山川の条に杜爾筆山を挙げ、其の註に「牧廠即設其下」と記し、同じく古蹟の条に「杜爾筆城在牧廠東南五里。周一里一百七十歩有奇。高三丈。東西門各一。」とあるを挙げて、杜爾筆は都爾鼻又は都爾弼と同名同地たりとし、又開国方略に崇徳二年に太宗が都爾弼城を築かんことを命じ、翌年竣工して城名を屏城と改めたりとあるを挙げて、杜爾筆城の遺址は此時改築せしものゝ遺址なるべしと断ぜられたり。是れ大体に於て正鵠を得たる者なり、但し都爾鼻を地方の総名とすることも之なしと限り難ければ、単に都爾鼻城の所在地に限るや否やは尚ほ疑を存すべく、或は遼河以東の蒙古遊牧地まで此名を被らしめたることありしやも知り難し。藩陽日記の〈この書のことは後に詳しく出す〉辛巳八月十五日の条に「夕至遼河東十五里蒙古地〈今為清有。地名不知。或云豆老支。〉」とある豆老支の如きも之に縁故あるらしく見ゆるは、注意すべし。又都爾鼻城の位置に就きては、箭内君は支那地図精確を欠くが故に、之を的指せられざりしが如し。〈都爾鼻築城の事、開国方略は清朝実録に拠りしこと勿論なり。〉
余は聊か箭内学士の説を補ふべき一二の材料を提示すべし。清の宣統三年に編せられたる東三省政略の民政篇に奉天省附件として、呉廷変氏の奉天郡邑志なる者を収めたるが、其中なる彰武県の条に山之著者を挙げし中に
杜爾筆山県西北九十里
とあり。是れ実に杜爾筆山と彰武県即ち横道子との距離を略ぼ明確に示せる者にして、又同じ頃に刊行されたる奉天省属各府県分図中、彰武県興図によれば彰武県城より西北五十里程の地点〈図は十里方眼に製せられたるにより其距離を測定す〉に新開河の東、養息牧河の西に新城基なる地名あるは以て都爾鼻城の位置を確定すべき資料とするに足る。前にも已に挙げたる瀋陽日記は、清の太宗の崇徳二年に朝鮮の仁祖、漢漢山城に於て清に降りし後、其世子及び鳳林大君を質子として藩陽に遣し、順治元年に放還せらるるに至る間に、質子の随員の手に作られし者にして、同時に本国に送りし状啓を集めたる瀋陽状啓と共に、清朝実録を質証すべき貴重の史料なるが、崇徳六年、松山杏山の大戦には、朝鮮世子風林大君も太宗の軍に従ひたれば、其の路程を詳かに記したる中、八月十六日の条に
【NDLJP:87 】卯時発行十五里。舟渡遼河。是日行約一百三十余里。出西柵門。酉時止宿新城前野。
とあり。其の註に
遼河西辺有城。清人所築。設柵以標界。門曰桐門。新城亦清人所築。二城皆若干居人。新城距藩陽二百余里。
とあり。新城の名はこゝに出でたり。柵門といへるは或は巨流河城ならん。今日の里程にては奉天より彰武県まで二百四十里とあれば、新城基に至るは二百九十里許りとなれども距離の測定は当時に在りて精確なり難かりしなるべし。順治元年には朝鮮世子は又容親王に従つて、北京に赴きしが、其の紀行は藩陽日記の末に附録せられたり。此の紀行によれば四月十一日遼河を渡り、二十里許りにして、清人の狼皆山と謂へる地に止宿し、翌十二日狼背山より四十里許りにして豆乙非に止宿せりとあり。豆乙非は即ち都爾鼻なること疑なきも、遼河岸より六十里に過ぎずとするは太だ短縮せるを免がれず。是れ距離の測定の信じ難き一証なり。
之を要するに奉天郡邑志の杜爾筆山と、彰武県興図の新城基とは、都爾鼻の位置を確定すべき有力なる資料とすべき者なり。
尤も余が都爾鼻を考証せんとする本意は単に其の城址に在らずして、実に奉天より遼西に出づる路線に在り、是れ従来史家の未だ注意せざりし所なり。これに就きて清朝実録を検し左の数条を得たり。
天聡五年八月癸卯の条に
兵分両路並進。諭徳格額類、岳託、阿済格三貝勒曰。爾等率兵二万。由義州進発。屯于錦州大凌河之間。以俟朕将大兵由白土場入趨広寧大道。初六日会于大凌河。
とありて、奉天より遼河を渡れる後、先づ辺門外に出で、再び白土廠門〈即ち白土場〉及び義州路〈多分清河門より入るならん〉より遼西に入ることを推すに足る。但し松山杏山の戦の条には、崇徳六年八月戊午に遼河を渡り、壬戌に松山に至りしことを記せるのみにて、其路の由る所を記さず。順治元年、容親王西征の条には、四月庚午師遼河に次し、壬申翁後に次して、呉三桂の来書を得、癸酉に西拉塔拉に次し、丁丑に連山に次し、己卯に山海関【NDLJP:88 】に至れることを記せども、翁後、西拉塔拉の地名は、今考ふるを得ず。同年八月、世祖が北京に遷都せんが為に啓行せし路程は
乙亥 駐蹕旧辺内木橋
丙子 駐蹕開城
丁丑 駐蹕楊西木 〈即ち陽石木、養息牧と同じ〉
戊寅 駐蹕張古台口
己卯 駐蹕広城
庚辰 駐蹕爾済
壬午 駐蹕魏家嶺
癸未 駐蹕広寧
甲申 駐蹕謝家台
九月丙戌朔 駐蹕大凌河
丁亥 駐蹕小凌河
戊子 駐蹕塔山
己丑 駐蹕寧遠(以下略す)
にして、其の白土廠門より入りしことは、之を推知するを得べきも、開城、張古台口、広城、爾済、魏家嶺等の地名は、今皆考ふべからず。且つ義州路より錦州に至る路線の研究は、実録の外、更に他の史料に待たざるを得ず。幸にして藩陽日記は之が資料として又尤も詳実なる者なり。其の辛巳〈即ち崇徳六年〉の記事中より、関係ある記事を抄出すれば
八月十五日戊午発藩陽。行過永安橋。〈石橋甚大。三虹門。距藩陽三十余里〉出長城。〈土薬古城。有烟台。距藩陽僅六十里。〉夕至遼河東十五里蒙古地〈今為清有。地名不知。或云豆老支。〉止宿路辺。是日行可八十里。
永安橋は俗に大石橋と称す。〈南満線の大石橋と異なり。〉長城は今の老辺なるべし。
十六日己未。卯時発行。十五里舟渡遼河。是日行約一百三十余里。出西柵門。酉時止宿新城前野。
注は已に前に録せり。
十七日庚申。平明発宿所。行百十余里。路北山上有一大塔。又過十里許。止宿峡中路辺。〈自離藩陽。行無辺大野。野無人居。草長一尺而巳。但有烟台数処。路辺無水。渇不可耐。及是始有山有川。而山亦不高矣。〉
十八日辛酉、平明発宿所。行一百二十余里。入長城。止宿林寧堡前川辺。〈林寧堡伊州所属辺鎮。距伊州四十五里〉
長城を入るとは即ち、清河門を入れるなり。林寧堡は今考ふべからざるも、川辺といへば、清河門を去ること遠からざる処なるべし。
十九日壬戌、平明発宿所、已時歇馬于伊州衛城外川辺。〈川乃大凌河上流云〉午自北門。穿過南門。約行四十里。炊供晩飯。人馬困疲。欲止宿矣。為護行人駆迫。昏又駆馬。約行四十余里。〈見路辺有一座廃城。問于清人。云是義州古城。或日。是乃成家堡也。〉夜半止宿川辺。距錦州衛十余里云。是日夜通行。一百三十余里。〈伊州本名義州。漢音伊義声相近也。自伊至錦九十里。或云八十余里。夜行疾馳。不能的。〉
戚家堡は奉天輿図等、皆斉家堡に作れり。
以上の記事によれば遼河を渡り、西北して彰武台辺門を出で、都爾鼻附近より西南に向ひ、清河門より辺に入り、義州より錦州に至れるなり瀋陽状啓載する所、成貼の状に言ふ所も、粗ぼ此と同じ。又順治元年、容親王に従つて北京に赴きし紀行によるも、粗ば同一の路を取りしが如し。今其の関係ある文を抄出すれば、
甲申四月初九日丙寅。藩陽離発西行。未時行到永安橋西辺止宿。
初十日丁卯。西出古長城。即遼蒙界也。申時止宿于遼河東辺。去永安六十里也。
十一日戊辰。渡遼河前進。去遼河二十里許。止宿。地名則清人謂之狼胥山。而大野中了無山形。
十二日己巳。申時到豆乙非止宿。去狼背山四十里許矣。
十三日庚午。行到□□城近処。残山断隴。始得見焉。九王駐兵于丘陵上。
行到地名愁乙古。村落往往相望。田疇開墾播種。即錦州衛所管屯所。而南至錦州三日程云矣。有一大渠。水深泥濘。仍於渠辺止宿。去豆乙非六十里許矣。
十四日辛未。卯時発行前進出柵門外。始見蒙人之居。是日行六十里許。蒙古村止宿。
【NDLJP:90 】十五日壬申。卯時行軍五里之許。九王駐兵不進。范文程密言山海総兵呉三桂遣副惣遊撃来言云々。
十六日発酉。卯時発行。通南西行。五十里許。又行六十里許止宿。去古長城十五里也。所経多沮洳之地。
十七日甲戌。卯時発行。踰古長城。即中原地界也。至臨寧城西。少歇。申時至義州衛南二十里許止宿。是日行八十里。〈臨寧は即ち林寧なるべし〉
十八日乙亥。卯時発行。申時到地名双局之止宿。是日行八十里。
十九日丙子。卯時発行。午時到錦州衛。(以下略す)
其の経過せる地名、狼胥山、愁乙古、双易之の如き皆考ふべからずと雖も、実録に所謂翁後、即ち容親王が呉三桂の書を得たる処は、清河辺門外なることを知るを得べし。要するに此二次の紀行によりて義州路線の大概は之を悉せりと謂ふべし。
意ふに此の都爾鼻路が廃せられしは、康熙年間に在りしならん。康熙年間に始めて編せられし盛京通志には、既に
奉天西至山海関站道
第一站在城
六十里至老辺站
四十里至巨流河站
七十里至白旗堡站
五十里至二道井站
五十里至小黒山站
七十里至広寧站
八十里至十三山站
五十四里至小凌河站(以下略す)
とあり。即ち今日の新民屯を経る路線となりしなり。高士奇の扈従東巡日録は康熙二十一年、聖祖の東巡に扈従せし紀行なるが、
これ又今日の新民路線を取れるなり。かくして都爾鼻路は史家の記憶より葬り去られんとす。然れど清初龍興の戦蹟即ち松山、杏山の役、山海関、一片石の役を研究せんとする者は、決して此の旧路を逸し去るべからざるなり。
(大正九年十月史林第五巻第四号)
附記
朝鮮の麟坪大君〈李㴭、仁祖の第三子、孝宗の弟〉松渓集中に「燕途紀行」あり、其の丙申〈願治十三年〉九月初五日の条に
自藩陽抵此城。〈広寧をいふ〉有三路。一路従藩陽小南門出。渡遼河下流。歴鎮寧堡達于此。約四日程。一路由藩陽上西門〈即ち小西門なり〉出。過永安石橋。渡遼河。歴豆乙非城、黄旗鋪、白旗鋪、鎮遠堡達于此。約五日程。一路従豆乙非城。歴新城、曁班斉塔達于此。約六日程。此三路余皆経過者。細算程途。牛庄作路。僅減一二日程。而其艱倍焉。
(昭和三年十二月記)
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