本文 編集

編集

秋の中過(なかばすぎ)、冬近くなると何(いず)れの海浜を問(とわ)ず、大方(おおかた)は淋(さび)れて来る、鎌倉もその通りで、自分のように年中住んでいる者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網(じびきあみ)の男、或(あるい)は浜づたいに往(ゆき)通(かよ)う行商(あきんど)を見るばかり、都人士(とじんし)らしい者の姿を見るのは稀(まれ)なのである。
或日自分は何時(いつも)のように滑川(なめりがわ)の辺(ほとり)まで散步してさて砂山に登ると、思(おもい)の外、北風が身に沁(しむ)ので直ぐ麓(ふもと)に下(おり)て其処(そこ))ら日あたりの可(よ)い所、身体(からだ)を伸して楽に書(ほん)の読めそうな所と四辺(あたり)を見廻わしたが、思うようなところがないので、彼方(あちら)此方(こちら)と探(さが)し步いた。すると一個所、面白い場所を発見(みつ)けた。
砂山が急に崩(は)げて草の根で僅(わずか)にこれを支(ささ)え、その下が崕(がけ)のようになっている、その根方(ねかた)に座って両足を投げ出すと、背は後の砂山に靠(もた)れ、右の臂(ひじ)は傍(かたわ)らの小高いところに懸り、ちょうどソハに倚(よ)ったようで、真(まこと)に心持の佳(よ)い場処である。
自分は持(もつ)て来た小説を懷(ふところ)から出して心長閑(のどか)に読んでいると、日は暖かに照り空は高く晴れ此処(ここ)よりは海も見えず、人声も聞えず、汀(なぎさ)に転(ころ)がる波音の穏かに重々しく聞える外は四囲(あたり)寂然(ひっそり)としているので、何時(いつ)しか心を全然(すっかり)書籍(ほん)に取られて了(しま)った。
然(しかる)に物音の為(し)たようであるから何心なく頭を上げると、自分から四五間離れた処にひとが立ていたのである。何時此処へ来て、何処(どこ)から現われたのか少も気がつかなかったので、あたかも地(じ)の底から湧出(わきで)たかのように思われ、自分は驚いて能(よ)く見ると年輩は三十ばかり、面長の鼻の高い男、背はすらりとした膄形(やさがた)、衣装(みなり)といい品といい、一見して別荘に来ている人か、それとも旅宿(やど)を取って滞留している紳士と知れた。
彼は其処(そこ)につッ立って自分の方を凝(じっ)と見ているその眼つきを見て自分は更に驚きかつ怪しんだ。敵(かたき)を見る怒(いかり)の眼か、それにしては力薄し。人を疑う猜忌(さいぎ)の眼か、それにしては光鈍(にぶ)し。ただ何心なく他(ひと)眺(ながむ)る眼にしては甚(はなは)だ凄味(すごみ)を帯ぶ。
妙な奴(やつ)だと自分を見返してえいること暫(しば)し、彼は忽(たちま)ち眼を砂の上に転じて、一步一步、静かに步きだした。されどもこの窪地(くぼち)の外に出ようとは仕ないで、ただ其処らをブラブラ步いている、そして時々凄(すご)い眼で自分の方を見る、一たいの様子が尋常でないので、自分は心持が悪くなり、場所を変(かえ)る積で其処を起ち、砂山の上まで来て、後を顧(かえりみ)ると、どうだろう怪(あやし)の男は早くも自分の座っていた場処に身体を投げていた!そして自分を見送っている筈(はず)が、そうでなく立(たて)た膝(ひざ)の上に腕組をして突伏して顔を腕の間に埋めていた。
余りの不思議さにじぶんは様子を見てやる気になって、とある小蔭(こかげ)に枯草を敷て這(は)いつくばい、書(ほん)を見ながら、折々頭を挙げてかの男を覗(うかが)っていた。
彼はやや暫(しばら)く顔を上なかった。けれども十分(じっぷん)とは自分を待さなかった。彼の起(たち)あがるや病人の如く、何となく力なげであったが、起ったと思うとそのままくるりと後向(うしろむき)になって、砂山の崕(がけ)に面と向き、右の手でその麓(ふもと)を掘りはじめた。
取り出した物は大きな壜(びん)。彼は袂(たもと)からハンケチを出して壜の砂を払い、更に小な洋杯(コップ)様のものを出して、壜の栓(せん)を抜(ぬく)や、一盃(ぱい)一盃、三四杯続けさまに飲んだが、壜を静かに下に置き、手に杯を持たまま、昂然(こうぜん)と頭(こうべ)をあげて大空を眺(なが)めていた。
そして又一杯飲んだ。そして端(はし)なく眼(まなこ)を自分の方へ転じたと思うと、洋杯(コップ)を手にしたまま自分の方へ大股(おおまた)で步いて来る、その歩武(ほぶ)の気力ある様は以前の様子とは全然(まるで)違うていた。
自分は驚いて逃げ出そうかと思った。然し直ぐ思い返してそのまま横になっていると、彼は間もなく自分の傍(そば)まで来て、怪げな笑味(えみ)を浮べながら
「貴様(あなた)は僕が今何を為たか見ていたでしょう?」
と言った声は少し嗄(しわが)れていた。
「見ていました」と自分は判然(はっきり)答えた。
「貴様は他人(ひと)の秘密を覗(うか)ごうて可(よ)いと思いますか」と彼は益(ますます)怪げな笑味(えみ)を深くする。
「可いとは思いません」
「それなら何故(なぜ)僕の秘密を覗いました」
「僕は此処で書籍(ほん)を読む自由を持ています」
「それは別問題です」と彼は一寸(ちょっと)眼を自分の書籍(ほん)の上に注いだ。
「別問題ではありません。貴様が何にを為ようと僕は何を為ようと、それが他人(ひと)に害を及ぼさぬ限りはお互の自由です。もし貴様に秘密があるなら自から先(ま)ず秘密に為たら可いでしょう」
彼は急にそわそわして左の手で頭の毛を揉(むし)るように掻(か)きながら、
「そうです、そうです。けれどもあれが僕の做(な)し得(う)るかぎりの秘密なんです」と言って暫(しば)らく言葉を途切(とぎら)し、気を塞(つ)めていたが、
「僕が貴様を責めたのは悪う御座いました、けれども何乎(どうか)今御覧になったことを秘密に仕て下さいませんかお願いですが」
「お頼(たのみ)とあれば秘密にします。別に僕の関したことではありませんから」
「難有(ありがと)う御座います。それで僕も安心しました。イヤ真(まこと)に失礼しました匆卒(いきなり)貴様を詰(とが)めまして……」と彼は人を圧(おし)つけようとする最初の気勢とは打て変り、如何(いか)にも力なげに詫(わび)たのを見て、自分も気の毒になり、
「何もそう謝(あやま)るには及びません、僕も実は貴様が先刻(さっき)僕の前に佇立(つった)って僕ばかり見ていた時の風が何となく怪かったから、それで此処へ来て貴様の為ることを覗ごうていたのです。矢張(やはり)貴様を覗がったのです。けれどもあの事が貴様の秘密とあれば、堅く僕はその秘密を守りますから御安心なさい」
彼は黙って自分の顔を見ていたが、
「貴様は必定(きっと)守って下さる方です」と声をふるわし、
「どうでしょう、一つ僕の杯を受けて下さいませんか」
「酒ですか、酒なら僕は飲ないほうが可いのです」
「飲まないほうが!飲まないほうが!無論そうです。もう飲まないで済むことなら僕とても飲まないほうが可いのです。けれども僕は飲のです。それが僕の秘密なんです。どうでしょう、僕と貴様とこうやって話をするのも何かの運命です、怪い運命ですから、不思議な縁ですから一つ僕の秘密の杯を受けて下さいませんか、え、どうでしょう、受けて下さいませんか」と言葉の節々、その声音(こわね)、その眼元、その顔色は実(げ)に大(おおい)なる秘密、痛(いたま)しい秘密を包んでいるように思われた。
「よろしゅう御座います、それでは一つ戴(いただ)きましょう」と自分の答うるや直ぐ彼は先に立て元の場処へと引返えすので、自分もその後に従った。


編集

「これは上等のブランデーです。自分で上等も無いもんですが、先日上京した時、銀座の亀屋(かめや)へ行って最上のをくれろと内証で三本買て来て此処(ここ)へ慝(かく)して置いたのです、一本は最早(もうたいらげて空壜(あきびん)は滑川(なめりがわ)に投げ込みました。これが二本目です、未(ま)だ一本この砂の中に埋(うず)めてあります。無くなれば又買って来ます」
自分は彼の差した杯を受け、少しづつ啜(すす)りながら彼の言うところを聞ていたが、聞くに連れて自分は彼を怪しむ念の益々(ますます)高(たかま)るを禁じ得なかった。けれども決して彼の秘密に立入(たちいろ)うとは思(おもわ)なかった。
「それで先刻僕が此処へ来て見ると、意外にも貴様(あなた)が既にこの場処を占領してたのです、驚きましたね、怪(け)しからん人もあるものだ僕の酒庫を犯し、僕の酒宴の筵(むしろ)を奪いながら平気で書籍(ほん)を読んでいるなんてと、僕はそれで貴様を見つめながら此処を去らなかったのです」と彼は微笑して言った、その眼元には心の底に潜んでいる彼の優い、正直な人柄の光さえ髣髴(ほのめ)いて、自分には更にそれが惨(いたま)しげに見えた、其処(そこ)で自分も笑(わらい)を含み、
「そうでしょう、それでなければあんな眼つきで僕を御覧になる訳は御座いません、さも恨めしそうでした」
「イヤ恨めしくは御座いません、情けなかったのです。オヤオヤ乃公(おれ)は隠して置いた酒さえも何時(いつ)か他人(ひと)の尻(しり)の下に敷れて了(しま)うのか、と自分の運命を詛(のろ)ったのです。詛うと言えば凄(すご)く聞えますが、実は僕にはそんな凄い了見(りょうけん)もまた気力もありません。運命が僕を詛うているのです――貴様は運命ということを信じますか?え、運命ということ。どうです、も一つ(ひとつ)」と彼は壜を上げたので
「イヤ僕は最早(もう)戴ますまい」と杯を彼に返し「僕は運命論者ではありません」
彼は手酌(てしゃく)で飲み、酒気を吐いて、
「それでは偶然論者ですか」
「原因結果の理法を信ずるばかりです」
「けれどもその原因は人間の力より発し、そしてその結果が人間の頭上に落ち来(きた)るばかりでなく、人間の力以上に原因したる結果を人間が受ける場合が沢山ある。その時、貴様は運命という人間の力以上の者を感じませんか」
「感じます、けれどもそれは自然の力です。そして自然界は原因結果の理法以外には働かないものと僕は信じていますから、運命という如き神秘らしい名目をその力に加えることは出来ません」
「そうですか、そうですか、解りました。それでは貴様は宇宙に神秘なしと言うお考なのです、要之(つまり)、貴様にはこの宇宙に寄するこの人生の意義が、極く平易明亮(めいりょう)なので、貴様の頭は二々(ににん)が四(し)で、一切(いっせつ)が間に合うのです。貴様の宇宙は立体でなく平面です。無窮無限という事実も貴様には、何等感興と畏懼(いく)と沈思とを喚(よ)び起す当面の大いなる事実ではなく、数(すう)の連続を以てインフィニテー(無限)を式で示そうとする数学者のお仲間でしょう」と言って苦しそうな歎息を洩(もら)し、冷かな、嘲(あざけ)るような語気で、
「けれども、実はその方が幸福(しあわせ)なのです。僕の言葉で言えば貴様は運命に祝福されている方、貴様の言葉で言えば僕は不幸な結果を身に受けている男です」
「それではこれで失礼します」と自分は起上(たちあ)がった、すると彼は狼狽(あわて)て自分を引止め、
「ま、ま、貴様怒ったのですか。もし僕の言った事がお気に触(さわ)ったら御勘弁を願います。ついその自分で勝手に苦んで勝手に色々なことを、馬鹿な役にも立たん事と考がえておるもんですから、つい見境(みさかい)もなく饒舌(しゃべる)のです。否(いいえ)、誰(だれ)にもそんなことを言った事はないのです。けれども何んだか貴様には言ってみとう感じましたから遠慮もなく勝手な熱を吹いたので、貴様には笑われるかも知れませんが。僕にはやはり怪しの運命が僕と貴様を引着(ひきつ)けたように感ぜられるのです。不幸せな男と思って、もすこしお話し下さいませんか、もすこし……」
「けれども別にお話しするようなことも僕には有りませんが……」
「そう言わないで何卒(どうか)もすこし此処に居て下さいな、もすこし……。噫(ああ)!どうしてこう僕は無理ばかり言うのでしょう!酔たのでしょうか。運命です、運命です、可う御座います、貴様にお話がないのなら僕が話します。僕が話すから聞いて下さい、せめて聴(きい)て下さい、僕の不幸(ふしあわせ)な運命を!」
この苦痛の叫を聞いて何人(なんびと)か心を動かさざらん。自分はそのまま止(とどま)って
「聞きましょうとも。僕が聴いてお差支(さしつかえ)がなければ何事でも承たまわりましょう」
「聴いて下さいますか。それならお話しましょう。けれども僕は運命の怪しき力に惑うている者ですから、その積で聴いて下さい。もし原因結果の理法と貴様が言うならそれでも可う御座います。ただその原因結果の発展が余りに人意の外(そと)に出ていて、その為に一人の若い男が無限の苦悩に沈んでいる事実を貴様が知りましたなら、それを僕が怪しき運命の力と思うのも無理は無いことだけは承知下さるだろうと思います、で貴様に聞きますが此処に一人の男があって、その男が何心なく途(みち)を步いていると、何処からとも知れず一(ひとつ)の石が飛んで来てその男の頭に命中(あた)り、即死する、そのためにその男と妻子(さいし)は餓(うえ)に沈み、その為めに母と子は争い、その為に親子は血を流す程の惨劇(さんげき)を演ずるという事実が、この世に有り得ることと貴様は信ずるでしょうか」
「実際有ることか無いことかは知りませんが、有り得ることとは信じます、それは」
「そうでしょう、それなら貴様は人の意表に出た原因のために、ふとした原因のために、非常なる悲惨がややもすれば、人の頭上に落ちてくるという事実を認(した)たむるのです、僕の身の上の如き、全たくそれなので、殆(ほと)んど信ず可からざる怪しい運命が僕を弄(もてあ)そんでいるのです。僕は運命と言います。僕にはそう外(ほか)には信じられんですから」と言って彼っは吻(ほっ)と嘆息(ためいき)を吐(つ)き、
「けれども貴様聴いてくれますか」
「聴きますとも!何卒(どう)かお話なさい」
「それから先ず手近な酒のことから話しましょう。貴様(あなた)は定めし不思議なことと思っているでしょうが、実は世間に有りふれたことで、苦悩(くるしみ)を忘れたさの麻酔剤も用いておるのです。砂の中に隠して置くのは隠くして飲まなければならない宅(たく)の事情があるからなので、その上、この場所は如何(いか)にも静でかつ快闊(かいかつ)で、如何(いか)な毒々しい運命の魔も身を隠して人を覗(うか)がう暗い蔭のないのが僕の気に入ったからです。此処へ身を横たえて酒精(アルコール)の力に身を托(たく)し高い大空を仰いでいる間は、僕の心が幾何(いくら)か自由を得る時です。その中(うち)にはこの激烈な酒精(アルコール)がさなきだに弱り果た僕の心臓を次第に破って、遂(つい)に首尾よく僕も自滅するだろうと思っています」
「そんなら貴様は、自殺を願うているのですか」と自分は驚いて問うた。
「自殺じゃアない、自滅です。運命は僕の自殺すら許さないのです。貴様、運命の鬼が最も巧に使う道具の一は『惑(まどい)』ですよ。『惑』は悲(かなしみ)を苦(くるしみ)に変(かえ)ます。苦悩(くるしみ)を更に自乗させます。自殺は決心です。始終惑(まどい)のために苦んでいる者に、どうしてこの決心が起りましょう。だから『惑』という鈍い、重々しい苦悩(くるしみ)から脱8のが)れるには矢張(やはり)、自滅という遅鈍な方法しか策がないのです」
と沁々(しみじみ)言う彼の顔には明(あきらか)に絶望の影が動いていた。
「どういう理由(わけ)があるのか知りませんが、僕は他人の自殺を知ってこれを傍観する訳には行きません。自滅というも自殺に違いないのですから」と自分が言うや、
「けれども自殺は人々の自由でしょう」と彼は笑味(えみ)を含んで言った。
「そうかも知れません。然しこれを止(と)め得るならば、止めるのが又人々の自由なり義務です」
「可う御座います。僕も決して自滅したくは有りませんもし貴様が僕の物語(はなし)をすっかり聴て、その上で僕を救うの策を立てて下さるのなら僕はこの上もない幸福(しあわせ)です」
こう聞いては自分も黙っていられない、
「可(よろ)しい!何卒(どう)かすっかり聴かして貰(もら)いましょう。今度は僕の方からお願します」


編集

「僕は高橋信造という姓名ですが、高橋の姓は養家のを冒(おか)したので、僕の元の姓は大塚というのです。
大塚信造と言った時のことから話しますが、父は大塚剛蔵と言って御存知でも御座いますか、東京控訴院の判事としては一寸(ちょっと)世間でも名の知れた男で、剛蔵の名の示す如く、剛直一端(いっぺん)の人物。随分僕を教育する上には苦心したようでした。けれどもどういうものか僕は小児(こども)の時分から学問が嫌(きら)いで、ただ物陰に一人引込(ひきこ)んで、何を考がえるともなく茫然(ぼんやり)していることが何より好でした。十二歳の時分と覚えています、頃は春の末ということは庭の桜が殆(ほとん)ど散り尽して、色褪(いろあ)せた花弁(はなびら)の未(ま)だ梢(こずえ)に残っていたのが、若葉の際(ひま)からホロホロと一片(ひとひら)三片(みひら)落つる様を今も判然(はっきり)と想いだすことが出来るので知れます。僕は土蔵(くら)の石段に腰かけて例(いつも)の如く茫然(ぼんやり)と庭の面(おもて)を眺(なが)めていますと、夕日が斜(ななめ)に庭の木の間に射(さ)し込で、さなきだに静かな庭が、一増(ひとしお)粛然(ひっそり)して、凝然(じっ)として、眺めている少年心(こどもごころ)にも哀(かなし)いような楽いような、所謂(いわゆ)る春愁でしょう、そんな心地(こころもち)になりました。
人の心の不思議を知っているものは、童児(こども)の胸にも春の静な夕(ゆうべ)を感ずることの、実際有り得ることを否まぬだろうと思います。
ともかくも僕はそういう少年でした。父の剛蔵はこのことを大変苦にして、僕のことを坊頭(ぼうず)臭い子だと数々(しばしば)小言(こごと)を言い、僧侶(ぼうず)なら寺へ与(やっ)て了(しま)うなど怒鳴ったこともあります。それに引かえ僕の弟の秀輔(ひですけ)は腕白小僧で、僕より二ツ年齢(とし)が下でしたが骨格も父に肖(に)て逞(たく)ましく、気象もまるで僕とは変(ちが)っていたのです。
父が僕を叱(しか)る時、母と弟(おとうと)とは何時(いつ)も笑って傍(はた)で見ていたものです。母というはお豊といい、言葉の少ない、柔和らしく見えて確固(しっかり)した気象の女でしたが、僕を叱ったこともなく、さりとて甘やかす程に可愛(かあい)がりもせず、言わば寄らず触(さわ)らずにしていたようです。
それで僕の気象が性来今言ったようなのであるか、或(あるい)はそうでなく、僕は小児(こども)の時、早く不自然な境(さかい)に置れて、我知らずの孤独な生活を送った故(ゆえ)かも知れないのです。
なるほど父は僕のことを苦にしました。けれどもその心配はただ普通の親がその子の上を憂(うれう)るのとは異(ちが)っていたのです。それで父が「折角男に生れたのなら男らしくなれ、女のような男は育て甲斐(がい)がない」と愚痴めいた小言を言う、その言葉の中にも僕の怪しい運命の穂先が見えていたのですが、少年(こども)の僕には未だ気が着きませんでした。
言うことを忘れていましたが、その頃は父が岡山地方裁判所長の役で、大塚の一家(いっけ)は岡山の市中に住んでいたので、一家が東京に移ったのは未だ余程後のことです。
或日のことでした、僕が平時(いつも)のように庭へ出て松の根に腰をかけ茫然(ぼんやり)していると、何時の間にか父が傍(そば)に来て
「お前は何を考がえているのだ。持て生れた気象なら致方(しかた)もないが、乃父(おれ)はお前のような気象は大嫌(だいきらい)だ、も少し確固(しっかり)しろ」と真面目(まじめ)の顔で言いますから、僕は顔を上げ得ないで黙っていました。すると父は僕の傍に腰を下して、
「オイ信造」と言って急に声を潜め「お前は誰かに何か聞(きき)は為(し)なかった」
僕には何のことか全然(すっかり)解らないから、驚いて父の顔を仰ぎましたが、不思議にも我知らず涙含(なみだぐ)みました。それを見て父の顔色は俄(にわか)に変り、益々(ますます)声を潜めて、
「慝(かく)すには及ばんぞ、聞たら聞いたと言うが可(え)え。そんなら乃父(おれ)には考案(かんがえ)があるから。サア慝(か)くさずに言うが可え。何か聞いたろう?」
この時の父の様子は余程(よほど)狼狽(ろうばい)しているようでした。それで声さえ平時(いつも)と変り、僕は可怕(こわ)くなりましたから、しくしく泣き出すと、父は益々狼狽(うろた)え、
「サア言え!聞いたら聞たと言え!慝すかお前は」と僕の顔を睨(にら)みつけましたから、僕も益益可怕(こわく)なり
「御免なさい、御免なさい」とただ謝罪(あやま)りました。
「謝罪れと言うんじゃない。もし何かお前が妙なことを聞え、それで茫然(ぼんやり)考がえているじゃないかと思うから、それで訊(き)くのだ。何にも聞かんのならそれで可え。サア正直に言え!」と今度は真実(ほんと)に怒って言いますから、僕は何のことか解らず、ただ非常な悪いことでも仕たのかと、おろおろ声で、
「御免なさい、御免なさい」
「馬鹿!大馬鹿者!誰(たれ)が謝罪れと言った。十二になって男の癖に直ぐ泣く」
怒鳴られたので僕は喫驚(びっくり)して泣きながら父の顔を見ていると、父も暫(しばら)くは黙って熟(じっ)と僕の顔を見ていましたが、急に涙含(なみだぐ)んで、
「泣んでも可え、最早(もう)乃父(おれ)も問わんから、サア奥へ帰るが可え」と優しく言ったその言葉は少ないが、慈愛に満ていたのです。
その後(ご)でした、父が僕のことを余り言わなくなったのは。けれども又その後でした僕の心の底に一片の雲影の沈んだのは。運命の怪しき鬼がその爪(つめ)を僕の心に打込んだのは実にこの時です。
僕は父の言葉が気になって堪(たま)りませんでした。これも普通の小供なら間もなく忘れて了っただろうと思いますが、僕は忘れるどころか、間(ま)がな隙(すき)がな、何故(なぜ)父はあのような事を問うたのか、父がかくまでに狼狽したところを見ると、余程の大事であろう、と少年心(こどもごころ)に色々と考えて、そしてその大事は僕の身の上に関することだと信ずるようになりました。
何故でしょう。僕はいまでも不思議に思っているのです。何故父の問うたことが僕の身の上のことと自分で信ずるに至ったでしょう。
暗黒(くらき)に住みなれたものは、能(よ)く暗黒(くらき)に物を見るのと同じ事で、不自然なる境に置れたる少年は何時しかその暗き不自然の底に蔭(ひそ)んでいる黒点を認(みと)めることが出来たのだろうと思います。
けれども僕のその黒点の真相を捉(とら)え得たのはずっと後のことです。僕は気にかかりながらも、これを父に問い返すことは出来ず、又母には猶更(なおさ)ら出来ず、小な心を痛めながらも月日を送っていました。そして十五の歳(とし)に中学校の寄宿舎に入れられましたが、その前に一ツお話しして置く事があるのです。
大塚の隣屋敷に広い桑畑があってその横に板葺(そぎぶき)の小(ひいさ)な家がある。それに老人(としより)夫婦(ふうふ)とそのころ十六七になる娘が住でいました。以前は立派な士族で、桑園(くわばたけ)は則(すなわ)ちその屋敷跡だそうです。この老人(としより)が僕の仲善(なかよし)でしたが、或日僕に囲碁の遊戯(あそび)を教えてくれました。二三日(にさんち)経(たっ)て夜食の時、このことを父母に話しましたところ、何時(いつ)も遊戯(あそび)のことは余り気にしない父が眼に角を立て叱(しか)り、母すら驚いた眼を張って僕の顔を見つめました。そして父母が顔を見合わした時の様子の尋常でなかったので、僕は甚(はなは)だ妙に感じました。
何故僕が囲碁を敵としなければならぬか、それも後(のち)に解りましたが、それが解った時こそ、僕が全く運命の鬼に圧倒せられ、僕が今の苦悩を嘗(な)め尽す初で御座いました。


編集

僕の十六の時、父は東京に転任したので大塚一家(いっけ)は父と共に移転しましたが、僕だけは岡山中学校の寄宿舎に残されました。
僕はその後三年間の生活を思うと、僕のこの世に於ける真(まこと)の生活は唯(た)だあの学校時代だけであったのを知ります。
学生は皆(み)な僕に親切でした。僕は心の自由を恢復(かいふく)し、悪運の手より脱(のが)れ、身の上の疑惑を懐(いだ)くこと次第に薄くなり、沈鬱(ちんうつ)の気象までが何時しか雪の溶ける如く消えて、快闊(かいかつ)な青年の気を帯びて来ました。
然(しか)るに十八の秋、突然東京の父から手紙が来て僕に上京を命じたのです。穏(おだやか)な僕の心は急に擾乱(かきみだ)され、僕は殆(ほと)んど父の真意を知るに苦しみ、返書を出して責めて今一年、卒業の日までに仕て置いて貰(もら)おうかと思いましたが、思い返して直ぐ上京しました。麹町(こうじまち)の宅に着くや、父は一室(ひとま)に僕を喚(よ)んで、
「早速だがお前と能(よ)く相談したいことが有るのだ。お前これから法律を学ぶ気はないかね」
思いもかけぬ言葉です。僕は驚いて父の顔を見つめたきり容易に口を開くことが出来ない。
「実は手紙で詳しく言ってやろうかとも思ったが、廻(まわ)りくどいから喚んだのだ。お前も卒業までと思ったろうし、又大学までとも志していたろうけれど、人は一日も早く独立の生活を営む方が可(え)えことはお前も知っているだろう。それでお前これから直ぐ私立の法律学校に入るのじゃ。三年で卒業する。弁護士の試験を受ける。そした暁には私(わし)と懇意な弁護士の事務所に世話してやるから、其処(そこ)で四五年も実地の勉強をするのじゃ。その内に独立して事務所を開けば、それこそ立派なもの、お前も三十にならん内、堂々たる紳士となることが出来る。どうじゃな、その方が近道じゃぞ」という父の言葉を聴(き)いている、僕の心の全く顚動(てんどう)したのも無理はないでしょう。
これ実に他人の言葉です。他人の親切です。居候(いそうろう)の書生に主人の先生が示す恩愛です。
大塚剛蔵は何時(いつ)しかその自然に返っていたのです。知らず知らずその自然を曝露(しめ)すに至ったのです。僕を外に置くこと三年、その実子なる秀輔のみを傍(かたわら)に愛撫(あいぶ)すること三年、人間がその天真に帰るべき門、墳墓に近(ちかづ)くこと三年、この三年の月日は彼をして自然に返らしたのです。けれども彼は未だその自然を自認することが出来ず、何処(どこ)までも自分を以前の父の如く、僕を以前の子の如く見ようとしているのです。
其処で僕は最早(もはや)進んで僕の希望(のぞみ)を述るどころではありません。ただこれ命これ従ごうだけのことを手短かに答えて父の部屋を出てしまいました。
父ばかりでなく母の様子も一変していたのです。日の経(た)つに従ごうて僕は僕の身の上に一大秘密のあることを益々(ますます)信ずるようになり、父母の挙動に気をつければつけるほど疑惑の増すばかりなのです。
一度は僕も自分の僻見(ひがみ)だろうかと思いましたが、合憎(あいにく)と想起(おもいおこ)すは十二の時、庭で父から問いつめられた事で、あれを想い、これを思えば、最初(もはや)自分の身の秘密を疑ごうことは出来ないのです。
懊悩(おうのう)の中(うち)に神田の法律学校に通って三月も経(たち)ましたろうか。僕は今日こそ父に向い、断然此方(こっち)から言い出して秘密の有無を訊(ただ)そうと決心し、学校から日の暮方に帰って夜食を済ますや、父の居間にゆきました。父はランプの下(もと)で手紙を認(したた)めていましたが、僕を見て、「何ぞ用か」と問い、やはり筆を執(とっ)ています。僕は父の脇(わき)の火鉢(ひばち)の傍に座って、暫(しばら)く黙っていましたが、この時降りかけていた空が愈々時雨(しぐれ)て来たとみえ、廂(ひさし)を打つ霙(みぞれ)の音がバラバラ聞えました。父は筆を擱(お)いて徐(やお)ら此方(こちら)に向き、
「何ぞ用でもあるか」と優しく問いました。
「少し訊(たず)ねたいことが有りますので」と僅(わず)かに口を切るや、父は早くも様子を見て取ったか
「何じゃ」と厳(おごそ)かに膝(ひざ)を進めました。
「父様、私(わたくし)は真実(ほんとう)に父様の児なのでしょうか」と兼て思い定めて置いた通り、単刀直入に問いました。
「何じゃと」と父の一言(いちごん)、その眼光の鋭さ!けれども直ぐ父は顔を柔げて、
「何故お前はそんなことを私(わし)に聞くのじゃ、何か私(わし)共がお前に親らしくないことでもして、それでそういうのか」
「そういう訳では御座いませんが、私(わたくし)には昔からどういう者かこの疑があるので、始終胸を痛めておるので御座ます、知らして益のない秘密だから父上(おとうさま)も黙っておいでになるのでしょうけれど、私は是非それが知りたいので御座います」と僕は静に、決然と言い放ちました。
父が暫時(しばら)く腕組をして考えていましたが、徐(おもむ)ろに顔を上げて、
「お前が疑がっておることも私(わし)は知っていたのじゃ。私の方から言うた方がと思ったこともこの頃ある。それで最早(もはや)お前から聞れてみると猶(な)お言うて了(う)が可(え)えから言うことに仕よう」とそれから父は長々と物語りました。
けれども父の知らしてくれた事実はこれだけなのです。周防(すおう)山口の地方裁判所に父が奉職していた時分、馬場金之助という碁客(ごかく)が居て、父と非常に懇親を結び、常に兄弟の如く往来(ゆきき)していたそうです。その馬場という人物は一種非凡なところがあって、碁以外に父はその人物を尊敬していたということです。その一子が則(すなわ)ち僕であったのです。
父はその頃三十八、母は三十四で最早(もはや)子は出来ないものと諦(あきら)めていると、馬場が病で没し、その妻も間もなく夫の後を襲(おそう)てこの世を去り、残ったのは二歳(ふたつ)になる男の子、これ幸(さいわい)と父が引取って自分の児とし養ったので、父からいうと半分は孤児を救う義俠(ぎきょう)でしたろう。
僕の生(うみ)の父母はまだ年が若く、父は三十二、母は二十五であったそうです、けれども母の籍が未だ馬場の籍に入らん内に僕が生れ、その為でしょう、僕の出産届が未だ仕てなかったので、大塚の父は僕を引取るや直(ただち)に自分の児として届けたのだそうです。
以上の事を話して大塚の父のいうには、
「その後私(わし)は間もなく山口を去ったから、お前を私の実子でないと知るものは多くないのじゃ。私達夫婦は飽くまで実子の積でこれまで育てて来たのじゃ。この先も同じことだからお前も決して僻見(ひがみ)根性を起さず、何処(どこ)までも私達を父母と思って老先(おいさき)を見届けてくれ。秀輔は実子じゃがお前のことは決して知らさんから、お前も真実の兄となって生涯あれの力ともなってくれ」と、老の眼に涙を見るより先に僕は最早(もう)泣いていたのです。
其処(そこ)で養父と僕とはこれ等の秘密を飽くまで人に洩8もら)さぬ約束をし、又僕がこの先何かの用事で山口へゆくとも、ただ他所(よそ)ながら父母の墓に詣(もう)で、決して公けにはせぬということを僕は養父に約しました。
その後の月日は以前よりも却(かえ)って穏かに過たのです。養父も秘密を明けて却(かえ)って安心した様子、僕も養父母の高恩を思うにつけて、心を傾けて敬愛するようになり、勉学をも励むようになりました。
そして一日も早く独立の生活を営み得るようになり、自分は大塚の家から別れ、義弟の秀輔に家督を譲りたいものと深く心に決するところがあったのです。
三年の月日は忽(たちま)ち逝(ゆ)き、僕は首尾よく学校を卒業しましたが、猶(な)お養父の言葉に従い、一年間更に勉強して、さて弁護士の試験を受けましたところ、意外の上首尾、養父も大よろこびで早速その友なる井上博士の法律事務所に周旋してくれました。
ともかく一人前の弁護士となて日々(にちにち)京橋区なる事務所に通うていましたが、もしあのままで今日になったら、養父もその目的通りの僕を始末し、僕も平穏な月日を送って益々前途の幸福を楽んでいたでしょう。
けれども、僕はどうしても悪運の児(こ)であったのです。殆(ほとん)ど何人(なんびと)も想像することの出来ない陥穽(おとしあな)が僕の前に出来ていて、悪運の鬼は惨刻(ざんこく)にも僕を突き落しました。


編集

井上博士は横浜にも一ヵ所事務所を持ていましたが、僕は二十五の春、この事務所に詰めることとなり、名は井上の部下であってもその実は僕が独立でやるのと同じことでした。年齢(とし)の割合には早い立身と云っても可いだろうと思います。
ところが横浜に高橋という雑貨商があって、随分盛大にやっていましたが、その主人(あるじ)は女で名は梅、所天(つれあい)は二三年前に亡(なく)なって一人娘の里子というを相手に、先(ま)ず贅沢(ぜいたく)な暮(くらし)を仕ていたのです。
訴訟用から僕はこの家に出入(しゅつにゅう)することとないr、僕は里子と恋仲になりました、手短に言いますが、半年経(たた)ぬうちに二人は離れることの出来ないほど、逆(のぼ)せ上げたのです。
そしてその結果は井上博士が媒酌となり、遂に僕は大塚の家を隠居し高橋の養子となりました。
僕の口から言うも変ですが、里子は美人というほどでなくとも随分人目を引く程の容色(きりょう)で、丸顔の愛嬌(あいきょう)のある女です。そして遠慮なくいますが全く僕を愛してくれます、けれどもこの愛は却って今では僕を苦しめる一大要素となっているので、もし里子がかくまでに僕を愛し、僕が又たこうまで里子を愛しないならば、僕はこれほどに苦しみは仕ないのです。
義母の梅は今五十歳ですが、見たところ、四十位にしか見えず、小柄の女で美人の相を供え、なかなか立派な婦人です。そして情の烈(はげ)しい人柄といえば、智慧(ちえ)の方はやや薄いということは直ぐ解るでしょう。快活で能く笑い能く語りますが、どうかすると恐し程沈鬱(ちんうつ)な顔をして、半日何人(なんびと)とも口を交えないことがあります。僕は養子とならぬ以前からこの人柄に気をつけていましたが、里子と結婚して高橋の家に寝起することとなりて間もなく、妙なことを発見したのです。
それは夜の九時頃になると、養母はその居間に籠(こも)って了い、不動明王を一心不乱に拝むことで、口に何ごとか念じつつ床の間にかけた火炎の像の前に礼拝(らいはい)して十時となり十一時となり、時には夜半過(よなかすぎ)に及ぶのです、昼間の中、沈鬱(ふさ)いでいた晩は殊(こと)にこれが激しいようでした。
僕も初めは黙っていましたが、余り妙なので或日このことを里子に訊(たず)ねると、里子は手を振って声を潜め、「黙っていらっしゃいよ。あれは二年前から初めたので、あのことを母に話すと母は大変気嫌(きげん)を悪くしますから、なるべく知らん顔をしていたほうが可いんですよ。御覧なさい全然(まるで)狂気(きちがい)でしょう」と別に気にもかけぬ様(さま)なので、僕も強(しい)ては問いもしなかったのです。
けれどもその後(ご)一月もして或日、僕は事務所から帰り、夜食を終(おえ)て雑談していると、養母は突然、
「怨霊(おんりょう)というものは何年経(たっ)ても消えないものだろうか」と問いました。すると里子は平気で、
「怨霊なんて有るもんじゃアないわ」と一言(いちごん)で打消そうとすると、母は向(むき)になって、
「生意気を言いなさんな。お前見たことはあるまい。だからそんなことを言うのだ」
「そんなら母上(おっかさん)は見て?」
「見ましたとも」
「見ましたとも」
「オヤそう、どんな顔をしていて?私も見たいものだ」と里子は何処(どこ)までも冷かしてかかった。すると母は凄(すご)いほど顔色を変えて、
「お前怨霊が見たいの、怨霊が見たいの。真実(ほんと)に生意気なことをいうよこの人は!」と言い放ち、つッと起(たっ)て自分の部屋に引込(ひきこ)んで了った。僕は思わず、
「母上(おっかさん)どうか仕ていなさるよ、気を附けんと……」
里子は不安心な顔をして
「私真実(ほんと)気味が悪いわ。母上(おっかさん)は必定(きっと)何にか妙なことを思っているのですよ」
「ちっと神経を傷めていなさるようだね」と僕も言いましたが、さて翌日になると別に変ったことはないのです。変っているのは唯々(ただ)何時(いつ)もの通り夜になると不動様を拝むことだけで、僕等もこれは最早(もはや)見慣れているから強(しい)て気にもかかりませんでした。
ところが今歳(ことし)の五月です、僕は平時(いつも)よりか二時間も早く事務所を退(ひい)て家へ帰りますと、その日は曇っていたので家の中は薄暗い中にも母の室(へや)は殊(こと)に暗いのです。母に少し用事があったので別に案内もせず襖(ふすま)を開けて中に入ると母は火鉢(ひばち)の傍(そば)にぽつねんと座っていましたが、僕の顔を見るや、
「ア、ア、アッ、アッ!」と叫んで突起(つったっ)たかと思うと、又尻餅(しりもち)を舂(つい)て熟(じっ)と僕を見た時の顔色!僕は母が気絶したのかと喫驚(びっくり)して傍に駈寄(かけよ)りました。
「どうしました、どうしました」と叫んだ僕の声を聞て母は僅(わずか)に座り直し、
「お前だったか、私は、私は……」と胸を撫(さ)すっていましたが、その間も不思議そうに僕の顔を見ていたのです、僕は驚ろいて、
「母上(おっかさんん)どうなさいました」と聞くと、
「お前が出抜(だしぬけ)に入って来たので、私は誰かと思った。おお喫驚(びっくり)した」と直ぐ床を敷(しか)して休んで了(しま)いました。
この事の有った後(のち)は母の神経に益々異常を起し、不動明王を拝むばかりでなく、僕などは名も知らぬ神符(おふだ)を幾枚となく何処(どこ)からか貰って来て、自分の居間の所々(しょしょ)に貼(はり)つけたものです。そして更に妙なのは、これまで自分だけで勝手に信じていたのが、僕を見て驚ろいた後は、僕に向っても不動を信じろというので、僕が何故信じなければならぬかと聞くと、
「ただ黙って信じておくれ。それでないと私が心細い」
「母上(おっかさん)の気が安まるのなら信仰も仕ましょうが、それなら私(わたくし)よりもお里の方が可いでしょう」
「お里では不可(いけま)せん。あれには関係のないことだから」
「それでは私(わたくし)には関係があるのですか」
「まアそんなことを言わないで信仰しておくれ、後生(ごしょう)だから」という母の言葉を里子も傍(そば)で聞ていましたが、呆(あき)れて、
「妙ねえ母上(おっかさん)、不動様がどうして母上と信造さんとには関係があって私には無いのでしょう」
「だから私が頼むのじゃアありませんか、理由(わけ)が言われる位なら頼はしません」
「だって無理だわ、信造さんに不動様を信仰しろなんて、今時の人にそんなことを勧(すすめ)たって……」
「そんなら頼みません!」と母は怒って了ったので、僕は言葉を柔げ、
「イヤ私(わたくし)だって不動様を信じないとは限りません。だから母上(おっかさん)まアその理由(いわれ)を話て下さいな。どんなことは知りませんが、親子の間だから少も明されないようなことは無いでしょう」と求めました。これは母の言うところに由(よっ)て迷信を圧(おさ)え神経を静める方法もあろうかと思ったからです。すると母は暫(しばら))く考えていましたが、吐息をして声を潜め、
「これぎりの話だよ、誰(たれ)にも知してはなりませんよ。私が未だ若い時分、お里の父上(おとうさま)に縁(えんづ)かない前に或男に言い寄られて執着(しゅうねく)追い廻されたのだよ。けれども私はどうしてもその男の心に従わなかったの。そうするとその男が病気になって死ぬ間際(まぎわ)に大変私を怨(うら)んで色々なことを言ったそうです。それで私も可い心持は仕なかったが、此処へ縁づいてからは別に気にもせんで暮していました。ところが所天(つれやい)が死(な)くなってからというものは、その男の怨霊がどうかすると現われて、可怖(こわ)い顔をして私を睨(にら)み、今にも私取殺そうとするのです。それで私が不動様を一心に念ずるとその怨霊がだんだん消て無(なく)なります。それにね」と、母は一増(ひとしお)声を潜め「この頃はその怨霊が信造に取ついたらしいよ」
「まア嫌(いや)な!」里子は眉(まゆ)を顰(ひそ)めました。
「だってね、どうかすると信造の顔が私には怨霊そっくりに見えるのよ」
それで僕に不動様を信じろと勧めるのです。けれども僕にはそんな真似(まね)は出来ないから、里子と共に色々と怨霊などというものの有るべきでないことを説いたけれど無益でした。母は堅く信じて疑がわないので、僕等も持余(もてあま)し、この鎌倉へでも来ていて精神を静めたらと、無理に勧めて遂(つい)に此処の別荘に入(いれ)たのは今年の五月のことです」


編集

高橋信造は此処(ここ)まで話して忽(たちま)ち頭(かしら)をあげ、西に傾く日影を愁然と見送って苦悩に堪(た)えぬ様であったが、手早く杯をあげて一杯飲み干し、
「この先を詳しく話す勇気は僕にはありません。事実を露骨に手短に話しますから、その以上は貴様(あなた)の推察を願うだけです。
高橋梅、則(すなわ)ち私の養母は僕の真実の母、生(うみ)の母であったのです。妻の里子は父を異(ことに)した僕の妹であったのです。どうです、これが奇(あや)しい運命でなくて何としましょう。かくの如きをも源因(げにん)結果の理法といえばそれまでです。けれども、かかる理法の下(もと)に知らず知らずこの身を置れた僕から言えば、この天地間にかかる惨刻(ざんこく)なる理法すら行なわるるを恨みます。
先ずどうしてこれ等の事実が僕に知れたか、その手続を簡単に言えば、母が鎌倉に来てから一月後、僕は訴訟用で長崎にゆくこととなり、その途中山口、広島などへ立寄る心組で居ましたから、見舞かたがた鎌倉へ来て母にこの事を話しますと、母は眼の色を変て、山口などへ寄るなと言います。けれども僕の心には生(うみ)の父母の墓に参る積がありますから、母には可(よ)い加減に言って置いて、遂に山口に寄ったのです。
兼て大塚の父から聞いていたから寺は直ぐ分りました。けれども僕は馬場金之助の墓のみ見出(みいだ)して、死(しん)だと聞た母の墓を見ないので、不審に思って老僧に遇(あ)い、右の事を訊(たず)ねました。尤(もっと)も唯(た)だ所縁(ゆかり)のものとのみ、僕の身の上は打明けないのです。
すると老僧は馬場金之助の妻お信(のぶ)の墓のあるべき筈(はず)はない。あの女は金之助の病中に、碁の弟子で、町の豪商某(なにがし)の弟(おとと)と怪しい仲になり、金之助の病気はその為更に重くなったのを気の毒と思(おもわ)ず、遂に乳飲児を置去りにして駈落(かけおち)して了ったのだと話しました。
老僧は猶(なお)も父が病中母を罵(のの)しったこと、死際(しにぎわ)に大塚剛蔵にその一子を托(たく)したことまで語りました。
そのお信が高橋梅であるということは、誰も知らないのです。僕も証拠は持ていません。けれども老僧がお信のことを語る中に早くも僕の今の養母が則ちそれであることを確信したのです。
僕は山口で直ぐ死んで了おうかと思いました。あの時、実にあの時、僕が思いきって自殺して了ったら、寧(むし)ろ僕は幸(さいわい)であったのです。
けれども僕は帰って来ました。一(ひとつ)は何とかして確な証拠を得たいため、一は里子に引寄せられたのです。里子はともかくも妹(いもと)ですから、僕の結婚の不倫であることは言うまでもないが、僕は妹(いもと)として里子を考えることはどうしても出来ないのです。
人の心ほど不思議なものはありません。不倫という言葉は愛という事実には勝てないのです。僕と里子の愛が却って僕を苦しめると先程(さきほど)言ったのはこの事です。
僕は里子を擁して泣きました。幾度も泣きました。僕もまた母と同じく物苦(ものぐるお)しくなりました。憐(あわ)れなるは里子です。総(すべ)ての事が里子には怪しき謎(なぞ)で、彼はただ惑いに惑うばかり、遂には母と同じく怨霊(おんりょう)を信ずるようになり、今も横浜の宅で母と共に不動明王に祈念を凝(こら)しているのです。里子は怨霊の本体を知らず、ただ母も僕もこの怨霊に苦しめられているものと信じ、祈念の誠を以て母と所天(おっと)を救(すくお)うとしているのです。
僕はなるべく母を見ないようにしています。母も僕に遇(あ)うことを好みません。母の眼にはなるほど僕が怨霊の顔と同じく見えるでしょうよ。僕は怨霊の児ですもの!
僕には母を母として愛さなければならん筈(はず)です、然し僕は母が僕の父を瀕死(ひんし)の際(きさ)に捨て、僕を瀕死の父の病床に捨てて、密夫(みっぷ)と走ったことを思うと、言うべからざる怨恨(えんこん)の情が起るのです。僕の耳には亡父(なきちち)の怒罵(どば)の声が聞こえるのです。僕の眼には疲れ果た身体(からだ)を起して、何も知らない無心の子を擁(いだ)き、男泣きに泣き給うた様が見えるのです。そしてこの声を聞きこの様を見る僕には実に怨霊の気が乗移るのです。
夕暮の空はほの暗い時に、柱に靠(もた)れていた僕が突然、眼(まなこ)を張り呼吸(いき)を凝して天の一方を睨(にら)む様を見た者は母でなくとも逃げ出すでしょう。母ならば気絶するでしょう。
けれども僕は里子のことを思うと、恨(うらみ)も怒(いかり)も消て、ただ限りなき悲哀(かなしみ)に沈み、この悲哀(かなしみ)の底には愛と絶望が戦うているのです。
ところがこの九月でした、僕は余りの苦悩(くるしみ)に平常(へいぜい)殆(ほとん)ど酒杯(さかずき)を手にせぬ僕が、里子の止(とめ)るのも聴(きか)ず飲めるだけ飲み、居間の中央に大の字になっていると、何と思ったか、母が突然鎌倉から帰って来て里子だけをその居間に呼びつけました。そして僕は酔っていながらも直ぐその理由(わけ)の尋常でないことを悟ったのです。
一時間ばかり経(た)つと里子は眼を泣き膨(は)らして僕の居間に帰て来ましたから、
「どうしたのだ」と聞くと里子は僕の傍(そば)に突伏つっぷ)して泣きだしました。
「母上(おっかさん)が僕を離縁すると云ったのだろう」と僕は思わず怒鳴りました。すると里子は狼狽(あわて)て、
「だからね、母が何と言っても所天(あなた)決して気にしないで下さいな。気狂(きちがい)だと思って投擲(うつちゃ)って置いて下さいな、ね、後生ですから」と泣声を振わして言いますから、「そういうことなら投擲(うっちゃ)って置く訳に行かない」とぼくはいきなり母の居間に突入しました。里子は止める間(ひま)もなかったので僕に続いて部屋(へや)に入ったのです。僕は母の前に座るや、
「貴女(あなた)は私(わたくし)を離婚すると里子に言ったそうですが、その理由(わけ)を聞きましょう。離婚するなら仕ても私は平気です。或(あるい)は寧(むし)ろ私の望むところで御座います。けれども理由(わけ)を被仰(おっしゃ)い、是非その理由(わけ)を聞きましょう」と酔に任せて詰寄りました。すると母は僕の剣幕の余り鋭いので喫驚(びっくり)して僕の顔を見ているばかり、一言(いちごん)も発しません。
「サア理由(わけ)を聞きましょう。怨霊が私(わたくし)に乗移っているから気味が悪いというのでしょう。それは気味が悪いでしょうよ。私は怨霊の児ですもの」と言い放ちました。見る見る母の顔色は変り、物もを言わず部室の外へ駈(か)け出て了いました。
僕はそのまま母の居間に寝て了ったのです。眼が覚(さ)めるや酒の酔の醒(さ)め、頭の上には里子が心配そうに僕の顔を見て坐っていました。母は直ぐ鎌倉へ引返したのでした。
その後僕と母とは会わないのです。僕は母に交(かわ)って此方(こちら)に来て、母は今、横浜の宅に居ますが、里子は両方を交(かわ)る交る介抱して、二人の不幸をば一人で正直に解釈し、ただただ怨霊の業(わざ)とのみ信じて、二人の胸の中の真(まこと)の苦悩(くるしみ)を全然(まるきり)知らないのです。
僕は酒を飲むことを里子からも医師からも禁じられています。けれどもどうでしょう。このような目に遇(あ)っている僕がブランデイの隠飲(かくしの)みをやるのは、果(はたし)て無理でしょうか。
今や僕の力は全く悪運の鬼に挫(ひし)がれて了いました。自殺の力もなく、自滅を待つほどの意気地のないものと成り果(はて)ているのです。
どうでしょう、以上ザッと話しました僕の今日(こんにち)までの生涯の経過を考がえてみて、僕の心持になって貰いたいものです。これが唯(た)だ源因結果の理法に過ないと数学の式に対する冷かな心持で居られるものでしょうか。生(うみ)の母は父の仇(あだ)です、最愛の妻は兄妹(きょうだい)です。これが冷かなる事実です。そして僕の運命です。
もしこの運命から僕を救い得る人があるなら、僕は謹(つつ)しんで教を奉じます。その人は僕の救主(すくいぬし)です」

編集

自分は一言(ごん)も交えないで以上の物語を聞いた。聞き終って暫(しばら)くは一言も発し得なかった。なるほど悲惨なる境遇に陷った人であるとツクヅク気の毒に思ったのである。けれども止(や)むなくんばと、
「断然離婚なさったらどうです」
「それは新らしき事実を作るばかりです。既に在(あ)る事実はその為めに消えません」
「けれどもそれは止(やむ)を得ないでしょう」
「だから運命です。離婚したところで生の母が父の仇である事実は消ません。離婚したところで妹(いもと)を妻として愛する僕に愛は変りません。人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限り、人は到底運命の力より脱(のが)るることは出来ないでしょう」
自分は握手して、黙礼して、この不幸なる青年紳士と別れた、日は既に落ちて余光華(はなや)かに夕(ゆうべ)の雲を染め、顧(かえりみ)れば我運命論者は淋(さび)しき砂山の頂(いただき)に立って沖を遥(はるか)に眺(ながめ)ていた。
その後自分はこの男に遇(あわ)ないのである。

関連項目 編集

  • 或る女 - 国木田独歩をモデルにした登場人物がこの小説の話題に言及する。
 

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。