本文 編集

此頃私は長い小説を書いてゐるので、まとまつた讀書は出來ない。又難かしい本も讀めない。机の周圍に雜然と本を散らかしておいて、書くことに疲れれば手當り次第に開いて四五十頁も讀むといふやり方である。しかしこれはなかなか樂しく讀め、又頭にもよく入る。新刊書などもかうしてかなり讀んだが、古い本でこの二三日讀んでゐるのは、宮崎安貞編錄「農業全集」(岩波文庫)である。この著者は二百五十年近く前に死んだ人である。農業全集といつても、農業經濟などを論じた本ではなく、南瓜の作り方だとか大根の作り方だとかいふことを書いた本だが、私には興味がある。近頃の此種の本には必要をはなれた讀みものとして讀んで面白い本などはないが、此の本は別である。大根を作るにはどのやうにして植ゑ、肥料はどうやるかといふやうな説明的記述をしてゐるだけだが、それらの文字が光って生きてゐる。元來百姓に農業の實際知識を與へる目的からだけ書いたものだから、何も描寫してゐるわけではないのに、説明的記述の間から百姓の汗のしたたりが感じられるといふのはどういふことであらうか。しかしこれは不思議ではない。この書には農民としての著者四十年の體驗がこめられてゐるのだ。彼は著述のために著述したのではない。自ら農民として、辛苦し、一般の農民が「稼穡の方にうとき事を歎いて」自分の體驗に基づく知識をこれに與へようとして書き著したものなのである。彼はこの書の公刊を見ずに死んだといふ。私は著述といふ仕事の嚴肅さを思はずにはゐられない。私は又かうして書かれたこの實際的な書物が、作家としての私に藝術的な感興をさへ與へる箇所を多く含んでゐることを深く思はないではゐられない。藝術とは何であるか、又藝術的表現とは?そんな根本まで歸つて何か思はずにはゐられない。
二百何十年も前に書かれた本が、その農耕の實際的知識に於て、今日も尚通用する所が多いといふのも考へさせられることだ。今日の農業に機械は入つてゐるが、部分的だし、主として調製加工といふやうな方面に於てのやうである。東北のある地方などでは今でもこの本に書かれた所に餘り遠からぬ方法でやつてゐるのではないか。
「川端康成選集」の上梓を私は最も喜び、且つ感謝したものの一人である。私は川端さんの最近のものは全部讀んでゐるが、昔のものには讀んでゐないものがある。作家的修業から言へば、私のやうに生なものの多い、雜駁に流れ勝ちなものは、つねにかうした醇乎たる藝術に接して自らをいましめることを必要とされるのである。この類稀な人格に、日常生活の上に於ても接する喜びを、日はまだ淺いが、今の私は持つてゐる。昔讀んだものも今の眼で讀み返してみたならば、新しい發見をすることが非常に多いであらうと、私は期待し、また樂しみにしてゐるのである。
 

この著作物は、1945年に著作者が亡くなって(団体著作物にあっては公表又は創作されて)いるため、ウルグアイ・ラウンド協定法の期日(回復期日を参照)の時点で著作権の保護期間が著作者(共同著作物にあっては、最終に死亡した著作者)の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)50年以下である国や地域でパブリックドメインの状態にあります。


この著作物は、アメリカ合衆国外で最初に発行され(かつ、その後30日以内にアメリカ合衆国で発行されておらず)、かつ、1978年より前にアメリカ合衆国の著作権の方式に従わずに発行されたか1978年より後に著作権表示なしに発行され、かつウルグアイ・ラウンド協定法の期日(日本国を含むほとんどの国では1996年1月1日)に本国でパブリックドメインになっていたため、アメリカ合衆国においてパブリックドメインの状態にあります。