近獲の二三史料

 
オープンアクセスNDLJP:261 「近獲の二三史料」に出でたる

   百済王子扶余隆墓誌

オープンアクセスNDLJP:262 オープンアクセスNDLJP:263  「近獲の二三史料」に出でたる

   高句麗泉男生墓誌及蓋

          唐欧陽通書

オープンアクセスNDLJP:264 オープンアクセスNDLJP:265  「近獲の二三史料」に出でたる

   高昌陰長史造寺碑 縦横失記

         伯林人類博物館所蔵

オープンアクセスNDLJP:266 オープンアクセスNDLJP:267 

 
近獲の二三史料
 
 
、阿什哈達磨崖字
 

 吉林通志の金石志に標題の如き一条あり、註して曰く、字四行。多刓欠。在吉林城東十二里江辺。と其文は左の如し。

奉天遣興孔兵馬陣前将軍遼東郡同都指揮使劉書丁未十八年領軍至此

洪熙元年領軍至此

□□七年領軍至此

通志の筆者は之に按を加へて曰く、

按遼東設郡。始於燕秦。都指揮使司之設。始於明洪武八年。此明官而仍題遼東郡。蓋猶文士以古名施於今地之陋習耳。又考洪武以後。洪熙以前。両遇十八年。皆非丁未。丁未二字。疑為永楽之剥文。考明史洪武二十六年。遼東都指揮使司奏。朝鮮招引女直五百余人。欲入寇。蓋洪武永楽間。甞用オープンアクセスNDLJP:268 兵於女直。故領軍者。得以至此也。

余は明治三十三年に於て永寧寺記〈今浦塩斯徳に移蔵せる碑記〉を考証し、其後吉林通志を読みて、此磨崖あることを知りたるを以て、明治四十一年九月、吉林地方を旅行せる際、松花江辺の江沿児といへる地にて、遥かに磨崖らしき者を望みたれば、数日の後、同行の法学士大里武八郎君と共に往きて之を探りしに磨崖と見えしは、石上に苔蘚の生じたるに過ぎずして大に失望して帰りしことあり。其後四十五年春間、奉天に在りて、吉林掌故に精通せる第一の史家曹彝卿〈名は延杰、民国五年に死せり。〉に邂逅したるにより、此の磨崖の事を問ひたるに、確かに今猶存在するよしを答へたり。然るに去年、稲葉君山が北満地方旅行の際、吉林駐在の斎藤大佐と共に、松花江辺龍王廟に於て遂に之を発見し、稲葉君が東京に帰りし後、大佐は其の拓本二部を作りて君に贈りたれば、君は其一を余に分たれ、是に於て多年心にかゝりし此の磨崖字に関して、始めて正確なる知識を得るに至れり。然るに其拓本を見るに及び、先づ驚くべきは吉林通志の誤読なり。今左に其の全文を録す。

欽委造船総兵官駆騎将軍遼東都司都指揮使劉清第一行

 永楽十八年領軍至此第二行

 洪熙元年領軍至此第三行

 宣徳七年領軍至此第四行

□□設立龍王廟宇□□□年□□第五行

 宣徳七年重建第六行

 宣徳七年二月吉日第七行

吉林通志に四行とあれども、実は七行にして、其の誤読の甚しきは、真に一笑話に値すべき程にて、かく誤読を訂正せば、通志が折角附したる按語の大部分も、全く其価値を失ふことゝなるべし。但し此の磨崖字に関する事実は、之を前の永寧寺記等に参照して、精細に考証すべき者なるが、稲葉君に其の企てあらんも知れざれば、今は只だ其の本文を挙げて、同好の人に示すのみ。

 
、大唐故光禄大夫行太常卿使持節熊津都督帯方郡王扶余君墓誌
 
オープンアクセスNDLJP:269 

 これ百済亡国の主義慈王の王子扶余隆の墓誌なり[1]。近時支那河南地方より出土せる所にして、羅叔言参事が天津より寄せ来れる者なり。参事は去年天津に帰寓してより、金石拓本数種を得たりとて、十一月頃の来凾に左の如く云へり。

去国八年。敵邦所出古器物。未嘗寓目者不少。多可資学術之研究。即以石刻一端言之。新疆有高昌麹斌造寺銘。其陰載高昌王麴宝茂名。石即立于宝茂之元年乙亥。元年上勲二字。宝茂即田地公茂。元年上所泐。以大谷伯所得維摩義記巻四後署建昌二年丙子考之。則是建昌二字。可為公往者所考高昌国紀年之証。又中州出唐百済王子扶余隆墓誌。可訂正新旧書。此誌弟得拓本二。敬以其一奉贈。又漢中出晋石一。(惜太泐)無年月。又唐碑一。皆前賢所未及知者也。〈此の来国の全文は「高昌国の紀年に就て」の附記に見ゆ〉

此の数種の中、扶余隆墓誌は其の拓本を、又麹斌造寺記は其の文を録し詳しき考を附して送られたり。・今先づ扶余隆墓誌を左に挙ぐ。

公諱隆。字隆。百済辰朝人也。元□□孫啓祚。陽谷称雄。割拠一方。跨躡 〈以上第一行〉千載。仁厚成俗。光楊漢史。忠孝立名。昭彰晋策。祖璋。百済国王。撝冲清〈以上第二行〉秀。器業不羣。貞観年。〈空三字〉詔授開府儀同三司柱国帯方郡王。父義〈以上第三行〉慈。顕慶年。授金紫光禄大夫衛尉卿。果断沈深。声芳独劭。越藁街而沐〈以上第四行〉化。績著来王。登棘署以開栄。慶流遺胤。公幼彰奇表。夙挺壊姿。気蓋三〈以上第五行〉韓。名馳両貊。孝以成性。慎以立身。択善而行。聞義能従。不師蒙衛。而□〈以上第六行〉発慙工。未学孫呉。而六奇間出。顕慶之始。王師有征。公遠鑒天人。深知〈以上第七行〉逆順。奉珎委命。削衽帰仁。去後夫之凶。革先迷之失。欵誠押至。褒賞荐〈以上第八行〉加。位在列卿。栄貫蕃国。而馬韓余燼。狼心不悛。鴟張遼海之浜。蟻結丸〈以上第九行〉山之城。〈空三字〉皇赫斯怒。天兵耀威。上将擁施。中権奉律。呑噬之算。雖〈以上第十行〉〈空三字〉廟謀。綏撫之方。且資人懿。以公為熊津都督。封百済郡公。仍〈以上第十一行〉為熊津道総管兼馬韓道安撫大使。公信勇早孚。威懐素洽。招攜邑落。〈以上第十二行〉忽若拾遺。翦滅姦匈。有均沃雪。尋奉〈空三字〉明詔。修好新羅。俄沐〈空二字○以上第十三行〉鴻恩。陪観東岳。勲庸累著。寵命日隆。遷秩太常卿。封王帯方郡公。事君〈以上第十四行〉竭力。徇節亡私。屢献勤誠。得留宿衛。比之秦室。則由余謝美。方之漢朝。〈以上第十五行〉則日弾慙徳。雖情深匪懈。而美疾維幾。砭薬オープンアクセスNDLJP:270 罕徴。舟壑潜徙。春秋六十〈以上第十六行〉有八。薨于私第。贈以輔国大将軍。謚曰〈空二字〉。公植操堅懲。持身謹正。高〈以上第十七行〉情独詣。遠量不覊。雅好文詞。尤翫経籍。慕賢才如不及。比声利於遊塵。〈以上第十八行〉天不愁遺。人斯背悼。以永淳元年歳次壬午十二月庚寅朔二十四日発酉。葬于北芒清善里。礼也。司存有職。敢作銘云。〈以上第十九行〉

海隅開族。河孫効祥。崇基峻峙。遠派霊長。家声克嗣。代業愈昌。沢流㴲 〈以上第二十行〉水。威稜帯方。余慶不□。英才継踵。執爾貞懲。載其忠勇。徇国身軽。亡家義〈以上第二十一行〉重。廼遵王会。遂膺〈空三字〉天寵。桂婁初擾。遼川不寧。薄言檇育。寔頼〈以上第二十二行〉威霊。信以成紀。仁以為経。宣風微塞。侍蹕云亭。爵超五等。班参九列。虔〈以上第二十三行〉〈空三字〉天階。粛恭臣節。南山匪固。東流遽閱。敢託明旌。式昭鴻烈〈以上第二十四行〉

大唐故光禄大夫行太常卿使持節熊津都督帯方郡王扶余君墓誌〈以上第二十五行〉

扶余隆が事の史乗に見えたるは新旧唐書冊府元亀、資治通鑑等にして、而かも皆扶余隆が晩年の事を詳かにせず、三国史記の百済本紀の若きは、新唐書によりて、高勾麗に寄治して死せりと記したれども、此の墓誌によれば、洛陽にて死したるにて、晩年は宿衛に留りたること明らかなり。猶ほ詳しくは今西学士等の考証を煩さんと欲す。

  附註

  1. 扶余隆幕誌は縦横凡そ一尺九寸程あり、分隷を以て書せり。
 
、扶余隆と新羅王との盟文
 
 此文は近ごろ獲たる資料にあらざれども、扶余隆の墓誌を挙げたる序に、牽連して此に出さんとす。唐の麟徳二年八月、扶余隆が唐人の後援によりて、其旧領土たる熊津城に至り、新羅王金法敏と会盟せしことは、新旧唐書、冊府元亀、三国史記新羅紀、百済紀等に共に載せたる所にて、中にも旧唐書、冊府元亀、並に三国史記の新羅紀

〈文武王紀上五年の条〉には劉仁軌の撰にかゝれる其の盟誓文を録したり。新唐書は甚しく其の文辞を節略したれば、信を取るに足らざるも、旧唐書、冊府元亀に載せたる文は、新羅紀の文と大同小異なるが、近刊の張氏適園叢書中に収められたる唐大詔合集巻一オープンアクセスNDLJP:271 百二十九に載せたる「扶余与新羅盟文」と題せる文も、亦同様なれば、動もすれば之を以て劉仁軌の原撰と認めらるゝ恐れあり。然るに余は十年前、前田侯爵家の蔵書なる天地瑞祥志を見たるに、其中に載せたる此の盟文が真に当時の原文にて、史書の録する所は皆節略を免がれざることを知ることを得たり。天地瑞祥志は支那には巳に佚せる書にて全部二十巻の本なれども、現存せるは一、七、十二、十四、十六、十七、十八、十九、二十の九巻なり。麟徳三年四月日大史薩守真の上啓を載せたれば、其の書を成せしは此の盟文の成りし翌年に在り。盟文は其の第二十巻に載せられたり。今左に之を出す、其の史書と異なる処は之を注す、其の顕然たる誤字は亦史書を参照して之を校改す。

大唐麟徳二年秋八月。勅使劉仁願、新羅王、百済隆盟于就利山。〈山百済地也由盟改乱山為就利山在只馬県也〉 其文曰。維大唐麟徳二年。歳次己丑。八月庚子朔。十三日壬子。鶏林州大都督左衛大将軍開府儀同三司上柱国新羅王金法敏。司稼正卿行熊津州都督扶余隆等。敢昭告于皇天后土山谷神祇。以上史書に無し往者百済先王。迷於逆順。不敦隣好。不睦親姻。結託高麗。交通倭国。共為残暴。侵削新羅。剽〈冊府元亀 三国史記、唐大詔令集同じ新旧唐書、三国遺事、破に作る〉邑屠城。略無寧歳。丁壮苦於征役。老弱疲於転輪。脂膏潤於野草。僵屍遍於道路。〈丁壮以下四句、史書並になし〉天子憫一物之失所。憐百姓之無辜。頻命行人。遣其和好。負嶮恃遠。侮慢天経。皇赫斯怒。襲行弔伐。旌旗所指。若火燎原。電掃風駆。〈若火以下二句史書になし〉一戎大定。威績截於海外。声教被於殊方。 〈威績以下二句史書に載せず〉固可潴宮汗宅。作範〈旧唐書、国史記、唐詔令集並に誠に作る〉来裔。塞源抜本。垂訓後昆。然懐柔伐叛。前王之令典。興亡継絶。往哲之通規。事必師古。伝諸曩冊。故授前百済太子司稼正卿扶余隆。為熊津都督。守其祭祀。保其桑梓。依倚新羅。長為与国。各除宿憾。結好和親。恭承詔命。永為藩服。乃遣使人右威衛将軍上柱国〈三字史書に無し〉魯城県開国〈二字史書に無し〉公劉仁願。親臨勧喩。〈三国史記誘に作る〉〈三国史記寔に作る〉宣成旨。約之以婚姻。申之以盟誓。刑牲歃血。共敦終始。分災恤患。恩若弟兄。祗奉綸言。不敢失墜。既盟之後。共保歳寒。若有乖背〈二字、冊府元亀、三国史記には肯盟に作り詔令集は背叛に作り旧唐書には棄信に作る〉不恒。〈三国史記冊府元亀、此二字なし旧唐書詔令集は此本に同じ〉二三其徳。興兵動衆。侵犯辺陲。明神鑒之。百殃是降。使其〈二字史書並になし〉子孫不育。〈旧唐書に育を昌に作る〉社稷無守。種祀磨滅。罔有遺余。故作金書鉄劵。蔵之宗廟。子孫万代。無敢或犯〈三国史記敢違祀に作り冊府元亀、東国輿地勝覧敢オープンアクセスNDLJP:272 違犯に作り旧唐書或敢犯に作る今詔令集により校定す〉神之聴之。是饗是福。

(大正九年三月芸文第十一巻第三号)

 
、泉男生泉男産墓誌銘
 
 扶余隆の墓志が出土して後、数年にして、同じく洛陽北邙山附近より、又高句麗の泉男生、泉男産の二墓志を出せり。余は羅叔言より前志を、北京大学より後志を獲たるが、並に史実を考ふるに益あること少からず。特に前志は欧陽通の書にして、通が有名なる道因法師碑を龍朔三年に書せし後、十六年なる儀風四年に書せし者なり。其の書は道因法師碑よりも更に其父欧陽詢の風に近く、唐石中有数の名筆と称すべき者なるが、其中に含まれたる史実は、書法よりも更に多く吾人の興味を惹く者あり。今少しく其の考へ得たる所を述べんとす。

 此墓誌は縦横二尺九寸許りにして大字篆盖あり、

大唐故特進泉君墓誌

と三行に書し、而して誌の全文は左の如し。

大唐故特進行右衛大将軍兼検按右羽林軍仗内供奉上柱国卞国公贈并州大都督泉君墓誌銘〈并序〉

   中書侍郎兼検按相王府司馬王徳真撰 朝議大夫行司勲郎中上騎都尉渤海県開国男欧陽通書」

若夫虹光韞石。即任土而輝山。蠙照涵波。亦曰川而媚水。泊乎排朱閣。登紫盖。騰輝自遠。踰十乗於華軒。表価増高。裂五城」於奥壌。况復珠𨂷角互。垂景宿之精芒。碧海之罘。感名山之気色。舉踵柔順之境。濫觴君子之源。抱爼豆而窺律呂。懐錦繍」而登廊廟。移根蟠壑。申大廈之隆材。転職加庭。奉元戎之切寄。与夫隋珠薦積。楚壁繊縄。豈同年而語矣。於十国公斯見之」焉。公姓泉。諱男生。字元徳。遼東郡平壌城人也。原夫遠系。本出於泉。既託神以随社。遂因生以命族。其猶風産丹穴。発奇文」於九苞。鶴起青田。禀霊姿於千載。是以空桑誕懿。虚竹随波。並降乾精。式標人傑。遂使洪源控引。態掩金枢。曽堂延袤。勢臨」瓊檻。曽祖子遊。祖太祚。並任莫離支。父盖金。任太大対盧。乃祖乃父。良冶良弓。並執兵鈴。咸専国柄。桂婁盛オープンアクセスNDLJP:273 業。赫然凌替之」資。蓬山高視。確乎伊霍之任。公貽厥伝慶。弁情乃王公之孫宴翼聯華。沛鄒為苟合之子。在髫無弄。処卯不群。乗衛玠之車」。塗光玉粋。綴陶謙之帛。里暎珠韜。襟抱散朗。標置宏博。広峻不疵於物議。通介無滞於時機。書劒双伝。提蔗与截蒲倶妙。琴」碁両翫。属行与鶴迦同傾。体仁成勇。静迅雷於誕㨿。抱信由衷。乱驚波於禹鑿。天経不置。教乃由生。王道無私。忠為令徳。澄」陂万頃。游者不測其浅深。緑垣九仭。談者未窺其庭宇。年始九歳。即授先人。父任為郎。正吐入榛之弁。天工其代。方昇結艾」之栄。年十五。授中裏小兄。十八授中裏大兄。年廿三。改任中裏位頭大兄。廿四兼授将軍。余官如故。廿八任莫離支。兼授三」軍大将軍。卅二加太莫離支。捻録軍国。阿衡元首。紹先疇之業。士識帰心。執危邦之権。人無駁議。于時 蘿図御寓。楷矢褰」期。公照花照蕚。内有難除之草。為幹為楨。外有将顛之樹。遂使桃海之浜。鑒八条於礼譲。蕭墻之内。落四羽於干戈。公情思」内欵。事乖中執。方欲出撫辺甿。外巡荒甸。按嵎夷之旧壌。請義仲之新官。二弟産建一朝兇悖。能忍無親。称兵内拒。金環幼」子。忽就鯨鯢。玉膳長莚。俄辤顧復。公以共気星分。既飲涙而飛檄。同盟両集。遂衝胆而提戈。将屠平壌。用擒元悪。始達烏骨一之郊。且破瑟堅之塁。明其為賊。鼓行而進。仍遣大兄弗徳等。奉表入朝。陳其事迹。属有離叛。徳遂稽㽞。公乃反施遼東。移軍」海北。馳心 丹鳳之闕。飭躬玄兔之城。更遣大兄冉有。重申誠効。曠林積怨。先尋閼伯之戈。洪池近遊。豈貪虞叔之劔。   」皇帝照彼青丘。亮其丹懇。覧建産之罪。発雷霆之威。丸山未銘。得来表其先覚。梁水無孽。仲謀憂其必亡。軋封元年。公又遣」子献誠入朝。   帝有嘉焉。遥拝公特進。太大兄如故。平壌道行軍大捻管兼使持節安撫大使。領本蕃兵。共大捻管契」苾何力等相知経略。公率国内等六城十余万戸。書藉轅門。又有木底等三城。希風共欵。最尓危矣。日窮月蹙。二年奉  」勑。追公入朝。総章元年授使持節遼東大都督上柱国玄免郡開国公食邑二千戸。余官如故。小貊未夷。方傾巣䴏之幕。  」大君有命。還帰盖馬之営。其年秋。奉

 勑共司空英国公李勣相知経略。風駆電激。直臨平壌之城。前哥後舞。遥振崇」塘之堞。公以罸罪弔人。憫其塗地。潜機密構。済此膏原。遂与僧信誠オープンアクセスNDLJP:274 等内外相応。趙城抜幟。豈労韓信之師。鄴扇抽関。自結」袁譚之将。其王高蔵及男建等。咸従俘虜。巣山潜海。共入限封。五部三韓。並為臣妾。遂能立義断恩。同鄭伯之得儁。反禍成」福。類箕子之疇庸。其年与英公李勤等。凱入京都。策動飲至。献捷之日。男建将誅。公内切天倫。請重開而蔡蔡叔。上感  」皇睠。就軽典而流共工。友悌之極。朝野斯尚。其年蒙授右衛大将軍進封下国公。食邑三千戸。特進動官如故。兼検技右羽」林軍。仍令仗内供奉。降礼承優。登壇引拝。桓珪輯中黄之瑞。羽林光太紫之星。陪奉輦輅。便繁左右。恩寵之隆。無所与譲。腎」膓之寄。莫可為儔。儀鳳二年奉

勅存撫遼東。改置州県。求瘻郎隠。襁負如帰。劃野踈疆。奠川知正。以儀鳳四年正月」廿九日選疾。薨於安東府之官舎。春秋卌有六。震房傷鼙。台衡怨笛。四郡由之而罷市。九種因之以輟耕。      詔曰。懋功流賞。寵命治於生前。縟礼贈終。哀栄責於身後。式頭忠義。豈隔存亡。特進行右衛大将軍上柱国下国公泉男生」。五部曽豪。三韓英傑。機神頴悟。識具沉遠。秘算発於鈴謀。宏材申於武芸。僻居荒服。思効欵誠。去危就安。允叶変通之道。以」順図逆。克清遼浿之浜。美勤退著。崇章荐委。入典北軍。承宴私於紫禁。出臨東階。光鎮撫於青丘。佇化折風。溘先危露。興言」永逝。震悼良深。宜増連率之班。載穆追崇之典。可贈使持節大都督并汾箕嵐四州諸軍事并州刺史。余官並如故。所司備礼冊命。贈絹布七百段、米粟七百石。凶事葬事所須。並宜官給。務従優厚。賜東園秘噐。差京官四品一人摂鴻臚少卿。監護」儀仗。鼓吹送至墓所徃還。五品一人持節売重書弔祭。三日不視事。霊柩到日。仍令五品已上赴宅。寵贈之厚。存歿増華。哀」送之盛。古今斯絶。考功累行。謚曰襄公。以調露元年十二月廿六日壬申。窆於洛陽邙山之原。礼也。哀子衛尉寺卿献誠。夙」奉庭訓。早紆朝黻。拝前拝後。周魯之寵既隆。知死知生。弔贈之 恩弥縟。茹茶吹棘。践霜移露。痛迭微之顕傾。哀負趍之潜」度。毀魏墳之旧漆。落漢台之後素。刊翠琬而伝芳。就黄墟而永固。其詞曰。

三岳神府。十洲仙庭。谷王産傑。山祇孕霊。計謨国緯。鳥奔人経。錦衣繍服。議罪詳刑。其伊人間出。〈其一〉承家畳社。矯矯風雛。昂昂驥子。体智川積。オープンアクセスNDLJP:275 懐仁岳峙。州牧薦刀。橋翁授履。〈其二〉消灌務擾。鄒盧寄深。文枢執柄。武轄操鈴。荆樹鶚起。蘆川鴈沉。既傷反袂」。且恨移衾。〈其三〉粛影麟洲。輸誠 鳳闕。朝命光寵。           天威弔伐。殄冠瞻星。行師計月。夷舞帰献。凱哥還謁。〈其四〉彎弧対泣。叫閽祈帝。遽従秋茶。復開春様。鏘玉高秩。街珠近衛。宝劔舒蓮。香車䮍桂。〈其五〉軽軒出撫。重錦晨遊。抑揚穟穴」。堤封亶洲。瞻威仰恵。望景思柔。始稽来軸。俄慌去輈。〈其六〉斂革勤王。聞鼙悼 展。九原容衛。三河兵士。南望少室。北臨太史。海」就泉通。山随墓起。 〈其七〉霜露年積。春秋日居。墳円月満。野曠風踈。幽壌勒頭。貞珉瘞書。千齢障曄。一代丘墟。〈其八〉

 泉男生は高句麗末造の梟雄と称せらるゝ泉盖蘇文の長子にして、誌中の盖金は即ち盖蘇文なること、新唐書高麗伝に見ゆ。盖蘇文の事は我が日本書紀にも屢〻記載せられたるが、往々にして支那、朝鮮の史書と合せざることあり。皇極天皇紀元年二月丁未の条に高麗使人が白せし語を挙げて、

去年六月弟王子薨。秋九月大臣伊梨柯須弥弑大王。并殺伊梨渠世斯等百八余人。仍以弟王子児為王。以己同姓都須流金流為大臣。

とあり。この伊梨柯須弥とあるが即ち泉盖蘇文の対音なり。三国史記の地理志に高句麗の州郡県を挙げたる中に、泉井口県に一云於乙買串と注し、泉井郡に一云於乙買と注せるは、即ち泉の高句麗語が於乙たることを示せる者にして、買の水と訳さるゝことは水谷城県に買且忽と注し買忽に水城と注したるにて明かなり。 〈この両地名にては、於乙買にて泉井と課されたる如し。宋の孫穆の鶏林類事には泉曰泉、井曰烏没とありて、崔世珍の訓蒙字会に泉に〈[#ハングル文字]〉と注し、井に〈[#ハングル文字]〉と注したると同じく、於乙買の語が転訛したる痕跡を認め得べし。〉我が上代の音は、イとウ、リとルとの区別判然たらざれば、其の伊梨と音訳せられしことは異しむに足らず。盖蘇文の柯須弥となれるも同じ理なるべし。金の韓語はなるが、或は古代には소可と発音しけんも知るべからず、されば盖蘇文、柯須弥の盖金と同語なることも亦推定し得べし。但だ盖蘇文が栄留王を弑せし年月を日本紀には以て皇極元年の前年即ち舒明天皇の十三年秋九月の事と為し、唐の太宗貞観十五年、高句麗の栄留王二十四年に当れども、旧唐書には貞観十六年の事と為し、〈月を書せず、新唐書には年月並びに書せず。〉三国史記の高句麗本紀も之に同じく、栄留王二十五年十月の事と為せり。独り資治通鑑は貞観十六年十一月丁巳に営州都督張倹が泉盖蘇文の其王建武〈即ちオープンアクセスNDLJP:276 栄留王の名〉を殺せしことを奏すとあるのみにて、其殺せし年月を詳らかにせず、今此の墓誌も亦其事を書せざれば、此の疑問は之を決するに由なし。但だ此の墓誌によつて新たに知り得たるは盖蘇文の父祖の名にして、是れ史書の載せざる所なり。

 又天智天皇紀三年冬十月の条に、

是月高麗大臣盖金終於其国。遺言於児等曰。汝等兄弟。和如魚水。勿争爵位。若不如是。必為鄰笑。

とありて、此年は唐の麟徳元年に当り、支那朝鮮の史書と多く合せず。旧唐書高麗伝には

乾封元年。高蔵〈高麗王〉遣其子入朝陪位於太山之下。其年蓋蘇文死。其子男生代為莫離支。

とあり。新唐書には、

乾封元年。蔵遣子男福。従天子封泰山。還而盖蘇文死。子男生代為莫離支。

とあり。通鑑には乾封元年五月の条に、

高麗泉盖蘇文卒。長子男生代為莫離支。

とありて、いづれも乾封元年に死せりとなし、而して三国史記の高句麗本紀、蓋蘇文伝ともに之を踏襲せり。惟だ冊府元亀のみは、乾封元年六月、契苾何力に詔して遼東道安撫使とし、高麗王に応接せしむることを記せし下に、

初高麗莫離支蓋蘇文死。其長子男生代父為莫離支之位。

とありて、盖蘇文の死が必ずしも是歳に在らざることを見せり。今此の墓誌によれば、男生の卒せるは、儀鳳四年に在りて、四十六歳なれば、草離支となれる二十八歳は龍朔元年に当れども、通鑑には是歳盖蘇文が男生を遣して兵を以て鴨緑水を守らしめしことを記し、新唐書には龍朔二年に魔孝泰が蛇水に壁し、蓋蘇文が之を攻めて全軍を没せしめしことを記せば、男生が父に代りて莫離支と為りしといふは、此誌に三十二にして太莫離支を加ふとあるを指せるなるべく、即ち麟徳二年の事にして、天智紀にいへる蓋蘇文が死せし年の翌年に当れり。此誌に捻録軍国。阿衡元首とあるは、冊府元亀に既初知国政〈通鑑には既字なし〉とあるに恰も合せる等を併せ考ふれば、天智紀の盖蘇文卒年を此誌によりて裏書せりともいふべし。男生が二弟男産、男建と相閲ぎし事も、此誌によれば麟徳元年二年間の事にして、冊府元亀が初のオープンアクセスNDLJP:277 字を文中に用ゐし意もこれによりて明白なりと謂ふべし。

 天智紀六年冬十月の条には又、

高麗大兄男生出城国。於是城内二弟聞側助士大夫之悪言。拒而勿入。由是男生奔入大唐。謀滅其国。

とあり。是歳は唐の乾封二年にして、高麗王蔵の廿六年に当る。誌によれば奉勅追公入朝とあれば、天智紀は前年来の事をこゝに一括して記せるにて、二弟との争円が是歳に起りしといふにはあらざるべし。されば日本紀の記事は年時を誤れるにはあらざるなり。

 新唐書には泉男生伝〈巻一百十〉あり、其の全文左の如し。

泉男生字元徳。高麗蓋蘇文子也。九歳以父任為先人。遷中裏小兄。猶唐謁者也。又為中裏大兄。知国政。凡辞令皆男生主之。進中裏位鎮太兄。久之為莫離支。兼三軍大将軍。加大莫離支。出按諸部。而弟男建男産知国事。或曰男生悪君等逼巳。将除之。建産未之信。又有謂男生。将不納君。男生遣謀往。男建捕得。即矯高蔵命召男生。懼不敢入。男建殺其子献忠。男生走保国内城。率其衆。与契丹靺鞨兵内附。遣子献誠訴諸朝。高宗拝献誠右武衛将軍。賜乗輿馬瑞錦宝刀使還報。詔契苾何力率兵援之。男生乃免。授平壌道行軍大総管兼持節安撫大使。挙哥勿、南蘇、倉巌等城以降。帝又命西台舎人李虔繹。就軍慰労。賜袍帯金釦七事。明年召入朝。詔所過州県伝舎作鼓吹。右羽林将軍李同以飛騎仗廷寵。遷遼東大都督玄菟郡公。賜第京師。因詔還軍。与李勤攻平壌。使浮屠信城内間。引高麗鋭兵。潜入禽高蔵。詔遣子斎手制金皿。即遼水労賜。還進右衛大将軍下国公。賜宝器宮侍女二馬八十。儀鳳二年詔安撫遼東。并置州県。招流冗。平斂賦。罷力役。民悦其寛。卒年四十六。帝為挙哀。贈并州大都督。喪至都。詔五品以上官哭之。謚曰襄。勒碑著功。男生純厚有礼。奏対敏弁。善射芸。其初至。伏斧鑕待罪。帝宥之。世以此称焉。

 其の事実の墓誌と密符せるを見れば、新唐書脩纂の当時までは、墓誌と同じき資料の猶存せしことを知るべく、墓誌を以て伝の注脚と為すに足る、而して旧唐書に、

男生以儀風初卒於長安

オープンアクセスNDLJP:278 といへるの誤れることを断ずべし。

 誌中に見えたる高句麗の官職に就ては、下に至りて、泉男産、高慈の両墓誌と併せて考証すべし。

 泉男産墓誌は縦横二尺五寸にして、亦篆盖あり、

大唐故泉府君墓誌銘

の九字を三行に刻し、誌文は左の如し。

大周故金紫光禄大夫行営繕大匠上護軍遼陽郡開圀公泉君墓誌銘并序」君諱男産。遼東朝鮮至也。昔者東明感気。踰漏川而啓圀。朱蒙孕𡆠。臨浿水」而開都。威漸扶索之津。力制蟠桃之俗。雖〇辰海岳。莫繋於要荒。而爼豆詩」書。有通於声教。承家命氏。君其後也。乃高乃会。継中裏之顕位。惟祖惟補。伝」対盧之大名。君斧嚢象実。金冊余慶。生而敏恵。勿則過𤯔。𠡦始志学。本圀王」教小兄位。𠡦十八教大兄位。十三等之班次。再挙而昇。二千里之城池。未冠」能理。至於鳥拙、使者、翳属、仙至。雖則分掌機権。固以高惟旌騎。年廿一加中」裏大活。廿三遷位頭大兄。累遷中軍主活。卅為太大莫離支。官以埊遷。寵非」王署。折風挿羽。栄絶句驪之郷。骨籍施金。寵殊玄菟之域。属  唐封遠曁。」漢城不守。貊弓入献。楛矢来王。君以捴章元𠡦襲我冠帯。乃𥡾司宰少卿。仍」加金紫光禄大夫。員外置同𠙺員。昔王満懐燕。裁得外恵之要。遂成通漢。但」聞練帛之栄。君独鏘玉於藁街。腰金於棘署。晨趍北闕。閒簮筆於夔龍。夕宿」南隣。雑笙歌於近能。象胥之籍。時莫先之。理暦二𠡦。𥠢上護軍。  而𥠢三」率封遼陽郡開圏公。又遷営繕監大匠員外。置同𠙺員。坐闢朱門。遂封青土」。列旌旃於棨㦸。期帯属於山河。奄宅嵎夷。遂荒徐服。鳴呼蚕支啓胙。蕃屏未」勤。鯷壑推鱗。遷舟遽遠。𠡦六十三。大足元𠡦参𠥱廿七𡆠。遘疾薨于私第。以」某𠡦四𠥱廿三𡆠葬於洛陽県平陰郷某所。邙山有阡。長没鍾儀之恨。遼水」無極。証聞荘鳥之吟。故圀途遥。転車何𡆠。鶴飛自遠。令威之城郭永乖。馬鬣」空存。滕公之居室長掩。雖黄膓題湊。与而壊而無窮。而玄石紀勲。変陵谷而」識識。其詞曰。

於廓霊海。百川注焉。東明之裔。寔為朝鮮。威胡制貊。通徐拒燕。憑険負固。厥」古莫遷。爰逮有  唐。化涵東戸。賔延溟渤。綏懐水滸。藍夷会同。オープンアクセスNDLJP:279 桂婁董薄」。惟彼適長。襲我亀組。遂栄薬街。爰分棘列。甲第朝啓。承明旦謂。勲懋象胥。寵」均龍禹。遽開青社。山河网絶。遼陽何許。故圀傷心。鍾儀永恨。荘舃悲吟。旌旃」棨戟。珮玉腰金。鼓鍾憂眩。逾憶長林。㽞秦独思。済洹為谷。声明長畢。佳城永」久。託体邙山。遊魂遼阜。勒銘幽石。庶伝不朽。

             通直郎襄城県開圀子泉光冨𠡦十八

               長安二𠡦四𠥱廿三𡆠葬於洛陽県界

 誌文によれば男産三十にして太大莫離支となれりとあり、是れ乾封三年、即ち総章元年の事にして、是歳九月、平壌城陥いり、高句麗亡びたり、而して男産は又平壌陥いるに先だち、王蔵の命により、首領九十八人と白幡を持して、唐将李勤に詣りて降りたれば、男産が太大莫離支の位に在りしは、僅かに数月に過ぎざるべし。男産は男生より少きこと五歳なり。

 此誌中の官職と文中に用ゐたる則天製字に就きては、亦下に別に考証すべし。

 
、高慈墓誌
 
 高慈墓誌は泉氏兄弟の墓誌と殆ど同時に出土せる者にして、余は亦羅叔言より贈られたり。縦横二尺四寸許りにして盖を佚せり、其文は左の如し。

大同故​壮武将?​​□□□​軍行左豹相衛術将贈左玉鈐衛将軍高公墓誌銘并序

夫捻旅□軍。陥陣降城者。号良将。有一無二。糜軀殞首者。謂忠𢘑。詳諸結刻巳還。弦剣之後。実」不双済。名罕両兼。緬尋東観之書。遐披南史之筆。文才接踵。武士磨肩。其於資父事君。軽身重」義。植操於忠貞之表。定志於吉凶之分。雷霆震而不変。風雨晦而未巳。在於将軍矣」

公諱慈。字智捷。朝鮮至也。先祖随朱蒙王平海東諸夷。建高麗圀。已後代為公侯宰相。至後漢」末。高麗与燕墓容戦。大敗。圀幾将滅。廿代祖密。当提戈独入。斬首尤多。因破燕軍。重存本圀。賜」封為王。三譲不受。因賜姓高。食邑三千戸。仍賜金文䥫劵。日宜令高密子孫。代代封侯。自非烏頭白、鴨緑竭。承襲不絶。自高麗𡔈立。至圀破巳来七百八𠡦。卅余代。代為公侯オープンアクセスNDLJP:280 将相不絶。忠為」令徳。勇乃義基。建社分茅。因生祚土。無隔遐裔。有道斯行。况乎埊蘊三韓。𤯔承八教。見危𥠢命」。転敗為功。圀頼其存。享七百之綿祚。家嗣其業。纂卅之遥基。源流契郭樸之占。封崇符畢万之」筮。禦侮伝諸翼子。帯砺施於謀孫。此謂立功。斯為不朽。曽祖式本蕃任二品莫離支。独知圀政」。位極摳要。職典機権。邦圀是均。尊顕莫二。祖量本蕃任三品柵城都督。位頭大兄。兼大相。少禀」弓治。長承基構。為方鎮之領袖。実属城之准的。父文本蕃任三品。位頭大兄。兼将軍。預見高麗」之必亡。遂率兄弟。帰欵   𨲢朝。奉総章二𠡦四𠥱六𡆠   制。𥠢明威将軍行右威衛」翊府左郎将。其𠡦十一𠥱廿四𡆠奉   制。𥠢雲麾将軍行左威衛翊府中郎将。永隆二𠡦」四𠥱廿九𡆠。除左威衛将軍。舟僑遂去。知号公之禄殃。宮奇族行。見虞邦之不臘。庇身可封之」域。鶡弁司階。革面解慍之朝。膚責陪輦。禁戎五校。衛尉八屯。長劔陸離。琱孤宛転。奉光宅元𠡦」十一𠥱廿九𡆠    制。封柳城県開圀子食邑四百戸。累奉   恩制。加𥠢柳城郡開圀」公食邑二千戸。桓子之狄恵千室。比此為軽。武安之援郢三都。方茲豈重。公少以父勲。廻𥠢上」柱圏。又𥠢右武衛長上。尋𥠢游撃将軍。依旧長上。又汎加寧遠将軍依旧長上。又奉    」恩制。汎加定遠将軍。長上如故。万歳通天元𠡦五𠥱奉  勅。差父充瀘河道討撃大使。公奉」  勅従行。縁破契丹功。𥠢壮武将軍行左豹韜衛翊府郎将。忝跡中権。立功外域。既等耿恭之寄」。旋霑来歙之栄。尋以冠賊憑陵。昼夜攻逼。埊孤援闊。根尽矢弾。視死猶生。志気弥励。父子俱陥」。不屈賊庭。以万歳通天二𠡦五𠥱廿三𡆠終於磨米城南。春秋卅有三。    𨲢上哀悼。傷働」于懐。    制曰。故左金吾衛大将軍幽州都督高性文男智捷。随父臨戎。殞身赴難。忠孝兼」極。至性高於二連。義勇倶申。遺烈存於九死。永言喪没。震悼良深。宜加褒贈。式慰泉壌。可左玉」玉鈐衛将軍。又奉   勅曰。高性文父子。忠鯁身亡。令編入史。又奉  勑。令准式例葬。粤」以𨲢暦三𠡦臘区十七𡆠。窆於洛州合宮県平楽郷之原。礼也。公忠孝成性。仁智立身。克嗣家」風。夙標圀望。雖次房之見獲苟宇。宜僚之被脅楚勝。形則可銷。志不可奪。精誠貫𡆠。哀響聞 」天。爰加死事之栄。𡕀編良史之冊。有子崇徳。奉   制襲父左豹韜衛翊府郎将。オープンアクセスNDLJP:281 𠡦登小学」。才類大成。孝自因心。哀便毀児。始択牛亭之埊。爰開馬𨲢之封。将営白鶴之墳。先訪青鳥之𡉵」。将恐舟堅潜運。陵谷貿遷。雖帰東岱之魂。終紀南山之石。其銘曰。

蓬丘趾峻。遼海源長。種落五族。襟帯一方。気苞淳粋。至号貞良。戎昭致果。胤嗣承芳。〈其一〉卓矣顕」顧。猗哉若至。横戈靖難。抜劔清塵。見義能勇。有譲必仁。丹青信誓。砺帯書紳。〈其二〉蠢尓犬羊。扇茲」児慝。    王子出師。既成我服。揚駆滄溟。撝戈䖥蠈。子孝恵𢘑。自家形圀〈其三〉積善無禄。輔徳」有違。蒭狗一致。美悪同依。白狼援絶。黄龍戍稀。李陵長往。温序思帰。諒𡆠𠥱之更謝。寄琬琰於」泉扉〈其四〉

 高慈が事は新旧唐書、通鑑、冊府元亀、三国史記等にも、一も載する所なく、誌中にいへる祖先の事実も、十六国時代の慕容晃が高句麗を破りしを誤つて後漢末の事とせる程なれば、輒すくは信用しがたし。但だ武后の万歳通天年間、契丹の孫万栄を伐ちしことは、新旧唐書契丹伝、及び通鑑に見えたれば、高性文父子従軍戦死の事も、事実なるべし。

 
、三墓誌に出でたる高麗官職
 
 三誌に出でたる高麗官職名は、

莫離支  太莫離支  太大莫離支

対盧  太大対盧

先人  仙𤯔

小兄位  中裏小兄

大兄  大兄位  中裏大兄  位頭大兄  中裏位頭大兄  太大兄

烏拙

使者

翳属

中裏大活

中軍主活

柵城都督

オープンアクセスNDLJP:282 大相

十三等之班次

等の語なるが、高句麗の職官を記せる史書中、最も古きは陳寿の三国志にして、魏志高句麗伝に

相加 対盧 沛者 古雛加 主簿 優台 丞 使者 阜衣先人

の九種を出し、且つ其置官。有対盧則不置沛者。有沛者。則不置対盧といひ、其大加皆称古雛加。といひ、諸大加亦自置使者、阜衣先人。名皆達於王。如卿大夫之家臣。会同坐起。不得与王家使者阜衣先人同列。といへり。

 後漢書には古雛加を古都大加に作り、主簿を主部に作り、阜衣先人を帛衣先人に作り、丞の一職は載せず。

 隋書には

大大兄、次大兄、次小兄、次対虚、次意侯奢、次島拙、次太大使者、次大使者、次小使者、次褥奢、次翳属、次仙人。凡十二等。復有内評外評五部褥薩。

といひ、北史も略之に同じく、但だ対盧を大対虚として、之を太大兄の上に置きし小異あるのみ。其の意侯奢を竟候奢に作りしは、字の訛りたるのみ。

 通典と新唐書とは、其の記載頗る相近く、之を翰苑に引ける高麗記に参照するに、二書皆高麗記より出でたることを見るべし。今翰苑の記する所、最も翔実なるを以て、其の文を主とし、通典、新唐書を以て校対すること左の如し。〈輸苑写訛の字は之を校正す〉

其国建官有九等。〈通典同、新唐書云官凡十二級。〉

其一曰吐捽。〈通訊昨没反〉比一品。旧名大対盧。〈新書云大対盧或日吐捽。〉総知国事。三年一代。若称職者。不拘年限。交替之日。或不相祗服。皆勒兵相攻。勝者為之。其王但閉宮自守。不能制禦。〈上四十一字。新書改為乗国政三歳一易。善職則否。凡代日有不服則相攻。王為閉宮守。勝者聴為之。在阜衣先人者也句下。〉

次曰太大兄。比二品。一名莫何〻羅支。

次鬱折。〈通典之悦反〉比従二品。華言主簿。〈新書云主図簿者〉

次大夫使者。〈通典作太大夫使者。新書作太大使者。〉比正三品。亦名謁奢。

次阜衣頭大兄。比従三品。一名中裏阜衣頭大兄。東夷相伝所謂阜衣先人者也。〈新書作帛衣頭大兄。所謂帛衣者先人也。阜訛帛、阜衣先人句文倒。又以上五官新書脱太大兄。〉

以前五官。掌機密。謀政事。徴発兵。選授官爵。

オープンアクセスNDLJP:283 次大使者。比正四品。一名大奢。

次大兄加。〈通典新書並無加字。〉比正五品。一名額支。

次抜位使者。〈通典作収位使者。新書無之〉比従五品。一名儒奢。

次上位使者。比正六品。一名契達奢使者。一名乙耆。〈按使者一名乙者六字。疑当作小使者一名乙者。〉

次小兄。比正七品。一名失支。〈新書無。〉

次諸兄。比従七品。一名翳属。一名伊紹。一名河紹還。〈新書此下有小使者一官。〉

次過節。比正八品。

次不節。〈通典作不過節。〉比従八品〈新書無。〉

次先人。比正九品。一名失无。一名庶人。又有抜古鄒加。〈通典作状古都加。新書以此為十二級之一。〉掌賔客。比鴻臚卿。以大夫使者為之。〈大夫使下原無者字。拠通典補。〉又有国子博士、大学博士、舎人、通事、典客。皆以小兄以上為之。〈大学博士原脱博字。拠通典補。〉又其諸大城。置傉薩。〈通典内屋反〉比都督。諸城置処間近支。〈原無近支二字。拠通典新書補。〉匹刺史。亦謂之道使。道使治所名之曰備。

諸小城置可選達。比長史。又城置婁省。比県令。

其武官曰大模達。比術将軍。一名莫何邏繍支。一名大幢主。以皁衣頭大兄以上為之。

次末若。〈通典作客〉比中郎将。一名郡頭。以大兄以上為之。

其領千人以下。各有等級。

 之を三墓誌に出でたる官名に比するに、烏拙の鬱折たることは疑なく、先人は又仙人ともいひしなるべく、都督は即ち伝薩なるべし。官名の上に大若くは太大、又は頭を附するは、其の官位を漸次に進めたる跡を見るべし。されば新書の泉男生伝に中裏位鎮太兄とあるは、墓誌の中裏位頭大兄とある方正しきこと、いふまでもなし。不審なるは、莫離支の如き著しき官職が、高麗記にも、通典、新書にも見えざることなるも、高麗記に見えたる莫何〻羅支は其音近ければ、即ち是ならんと推定さるゝのみ。〈離の古音は羅なり〉大相は高麗記、通典、新書ともに載せざれども、日本紀には天智紀十年正月丁未の条に高麗遣上部大相可婁等進調の事あれば、〈秋八月丁卯の条には上部大相可妻罷帰の事あり〉亦我が史に徴あるなり。且つ日本紀斉明紀六年正月及び七月に見えたる乙相賀取文 〈この賀取文も蓋蘇文と同じ高麗語の異訳なるべし〉天智紀五年十月に見えたる乙相奄鄒、逹相遁等の乙相、達相等も支那朝鮮の史書に漏れたれば、泉男産誌の大活、主活等が漏れたるも怪しむに足らざオープンアクセスNDLJP:284 るなり。

 冊府元亀には一説として大対虚、太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者、小使者、褥奢、翳属、仙人、并褥薩を挙げて、凡そ十三等と記せり。実は十二等なれども、三国史記に之を引きて、亦十三等とすれば原より十三等とありしなるべく、宜しく隋書に拠りて大使者を補ひ、其数を足すべきなり。隋書の意候奢を意俟奢に作れるも、亦軽々しく改むべからず。

 
、則天製字
 
 泉男産、高慈二誌は武后の時に成れるを以て、則天製字を用ゐたり、即ち左の如し

𤯔 𡆠 𠥱 〇 圀 𠡦 埊 𠙺 𢘑 𥠢 天 𨲢 𡔈 𡕀

 則天製字は新唐書后妃伝、宣和書譜、鄭樵通志、郭忠恕佩觿、王観国学林丁度集韻、龍龕手鑑、等に載せられ、其最も多き者十九字ありと伝へられ、顧炎武金石文字記、畢沅中州金石記等、已に考証せる所なるが、今此二誌には十四字を出せり。𠥱字は韻会に以て生字となせりとて顧炎武は其の誤れることを指摘したるが、此二誌によりても、顧説の正しきことを知るべし。〈集韻の誤も韻会に同じ〉冊字を〈[#「冊」の異体字]〉に作ることは従来の史書に載せざれども、此二誌に出づるを見れば、亦武后の製字なるが如し。

 
、高昌主客長史陰□造寺碑
 
 伯林の人類博物館に吐魯番出土の古碑二あり。一は北凉の且渠安周碑にして、一は高昌の陰□造寺碑なり。且渠安周碑は千九百九年にフランケ教授が独文の考証を発表し、故端忠敏公は又之を拓して支那に伝へ、羅叔言の西陲石刻録にも載せたれば、学界に知らるゝこと久しく、フランヶ氏の読解に多少の遺憾の処なきにあらざれども、羅叔言の録文によりて訂正すべき処もあり、〈尤もフランケ氏誤らずして、羅氏却つて誤れりと思はるゝ処も之あり〉

今更珍らしといふべからざるも、高昌陰□碑は未だ考証せる人あるを聞かざれば、大正十三年、余伯林に遊びし時、発掘者たるフオン・ルコック教授に之を拓せんことを請ひしも、遂に允されざりき。然るに近日友人梅原末治君は欧米游学より帰来して、其の照象片を貺られたれば、余は狂喜の余、直ちに之を写録したり。其文左のオープンアクセスNDLJP:285 如し。〈字傍に・点を附せるは、原碑不明にして、余が推読せる者なり。〉

主客長史陰尚□□□□□□□□□□□□□虎牙将軍令狐京伯撰」

□大旡色之□方□□□□□之中。猶称火宅。是知衆生无我。世諦无常。如 □□□如鏡含〈下欠〉」何可勝哉。莫不愛海倶沈。□□共□。寂寥長往。荒茫靡記。豈如歌鍾始輟。仍□□之林□〈下欠〉」之苑。荘矣麗矣。煥乎□乎。所謂廻向菩提。荘厳浄土者歟。然茲道場者。主客長史陰〈下欠〉隆之孫。都官長史驎和之子。緒其原系。本出南陽。自赤鳥降於岐豊。白魚登於舟機。□〈下欠〉」相斉。終成覇業。其後蘭馨桂馥。啓封陰陵。積善弥明。以世功而為族。経邦佐漢。以論道而〈下欠〉」将忘言者矣。曁玄精失数。九服乖離。遠祖城都侯及巴郡太守遂□。邦不入。乱〈下欠〉」居武威而重世。邑燉煌而宴安。霊既幽通。以開後祚。雲生世徳。載誕□臣。立竣節於□〈下欠〉」翼奉時主。避難茲邑。公乃風猷竣上。壮気雄天。妙達苦空。深明智□。自知乾城非久。堓〈下欠〉優填有恋。宝葉騰茂。乃眷前言。載懐景行。仍捐斯旧館。建是伽藍一所。別於□〈下欠〉」与離光争鮮。祇洹競蔚。彫瑩未至。奄纒霜露。子塩城令孟瑜。孫中書東宮舎人仕信等。 □〈下欠〉」父子諮詢。用之大雅。共相経営。倶契善因。□所以資道明霊。同帰常楽者也。願既獲矣。〈下欠〉」然華堂粛粛。珎台架迫。傍瞻星漢。耆闍尊相。□若浮空。諒以慕写鶏山。儀形鹿野。豈止〈下欠〉」於是閑居宴。鍾鼓恒鳴。憐館歌堂之台。法輪常転。積此微福。仰帰先功。次及无辺有〈下欠〉」業又勝矣。非嘆非述。来者何観。仍□平碑。式標浄土。雖積茄可満。払石有窮。惟此福田。 〈下欠〉」虗空无際。世界无辺。衆生有漏。輪転如環。行想滞著。愛取留連。不有法雨。易潤其田。□〈下欠〉」法門。大千作極。理出空有□□□□□𦨻庶類。□牑群識。爰有正士。天縦奇聡。既明且哲。〈下欠〉」□賄建功。捐茲旧館。廻□□□ □□既立尊□□関□□崨。霊閣靠鬼。神珠夜朗。照〈下欠〉」□来。歌堂儛館。□ 琴恒鼓。□□□□八聖。□□□□□功。仰帰先祖。凢厥含生」

            〈上欠〉中南呂下旬刊訖」

 陰氏は元和姓纂〈孫星衍、洪蛍同校の輯本〉によれば、周の文王の第三子管叔鮮の後にして、管夷吾七代の孫修、楚に適きて陰の大夫と為り、因て氏とせしより始まるといふ。文中、赤鳥降於岐豊、白魚登於舟檝となるは、周の文王武王の興りし時の事を用ゐしなり。

オープンアクセスNDLJP:286 相斉、終成覇業。其後蘭馨桂馥、啓封陰陵といへるは、管仲より其の裔孫が楚の封を受けしまでの事を指せり。後漢書列伝第二十二陰識伝に、

陰識字次伯。南陽新野人也。光烈前皇后之前母兄也。其先出自管仲。管仲七世孫修、自斉適楚。為陰大夫。因氏焉。秦漢之際。始家新野。陰興伝にも。〈初陰氏世奉管仲之祀。謂為相君とあり。〉

 碑文中、本出南陽といへるは之に拠りしなり。陰識の伝によれば、識の子躬、躬の弟の子に綱あり、綱の女は和帝の皇后たりしが巫蠱の事に坐せられて廃され、綱は自殺し、三子ありて輔は獄に下りて死し、軼と敵とは日南に徒されたりとあれども、其孫の事を言はず。然るに元和姓纂には、武威の陰は後漢の衛尉陰綱の孫常が武威の姑臧に徒りしより出でたりとせり。魏書列伝第四十には武威姑臧の人陰仲達あり、敦煌の人索敵の伝に郷人陰世隆と、文才を以て相友たりとあり。又隋書にも武威の人陰寿あり、是れ武威及び敦煌の陰氏の史に見ゆる者なり。近時仏国ペリオ教授の収めたる敦煌本中、沙州の望族の事を記せる一巻の断簡ありて、陰氏の事を述べたるも、但だ唐代の事を主としたるを以て、其以前の事は詳らかならず。碑文中、居武威而重世。邑敦煌而宴安とある由来は粗ば之にて明らかなり。

 碑文中、翼奉時主。避難茲邑とあれば、敦煌より更に高昌国中に移りし一族ありしを見るべし。此の碑は年月を詳らかにせざれども、其の体製、高昌の麴斌造寺碑記と甚だ相類し、同じく吐魯蕃に出で、而して撰者は令狐京伯といひ、合狐氏は高昌に存せしこと、本書「高昌国の紀年に就て」附記に出せる維摩詰経の写生に令狐善歓あるにても知らるべく、又造寺者たる陰□の官主客長史及び撰者令狐京伯の官、虎牙将軍が並びに高昌国の官名なるに徴すれば、〈主客長史は周書、及び北史に出づ。虎牙将軍は「高昌国の紀年に就て」に引ける墓誌等に見ゆ〉其の高昌国の碑なること疑を容れず。是れ西域新たに一古碑を加へたるなり。

(昭和四年五月記)

 
 

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