諸原理について/II/第9章

第2巻

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第9章

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世界と、善悪を問わず理性的な生き物の運動、そしてその原因について

さて、ここで、私たちが提案した議論の順序に戻り、理解力が神の創造の始まりを見ることができる限り、創造の始まりを見てみましょう。その始まりにおいて[1]、神は、私たちが以前理解力と呼んでいた、非常に多くの理性的または知的な生き物(またはそれらを何と呼ぶにしても)を創造したと想定することになります。神がそれらを、神自身があらかじめ定めた一定の数に従って作ったことは確かです。なぜなら、ある人が言うように、生き物には限界がないと想像すべきではないからです。なぜなら、限界がなければ、理解も制限も存在しないからです。さて、もしこれが事実であるなら、確かに創造されたものは神によって制限も管理もできないでしょう。なぜなら、当然のことながら、無限なものは理解できないものでもあるからです。さらに、聖書が言うように、「神はすべてのものを数と量で配置した」のです[2]。したがって、数は理性的な被造物や理解力に正しく適用され、それらは非常に多く、神によって配置、統治、制御される可能性がある。しかし、量は物質的な物体に適切に適用される。そして、この量は、神が世界を飾るのに十分であると知っていたように神によって創造されたと私たちは信じるべきである。したがって、これらは、神によって初めに、つまりすべてのものの前に創造されたと私たちが信じるべきものである。そして、これは、モーセがいくぶん曖昧な言葉で導入した「初めに神は天と地を創造された」という言葉の中にさえ示されていると私たちは考える[3]。 というのは、ここで言及されているのは大空や陸ではなく、後に私たちが目にするこの現在の天と地が名前を借りた天と地であることは確かだからである。


しかし、私たちが上で述べた理性的な性質は、初めに作られたものであり、それ以前には存在していなかったときに創造されたため、その非存在と存在の始まりというまさにこの事実の結果として、必然的に変化しやすく、変わりやすいものである。なぜなら、それらの本質にあった力は、自然によってそこにあったのではなく、創造主の善良さの結果であったからである。したがって、それらが何であるかは、それら自身のものではなく、永遠に続くものでもなく、神によって授けられたものである。なぜなら、それは常に存在していたわけではないからである。そして、賜物であるものはすべて、取り去られ、消え去ることもある。そして、取り除かれる理由は、魂の動きが正当かつ適切に従って行われないことにある。なぜなら、創造主は、彼によって創造された理解力に、自由で自発的な行動の力を与えたからである。それによって、それらの中にあった善は、彼ら自身の意志の行使によって保存され、彼ら自身のものになる可能性がある。しかし、怠惰、善を保つための労働を嫌うこと、そしてより良いものに対する嫌悪と無視は、善から離れる始まりとなった。しかし、善から離れることは、悪になることに他ならない。なぜなら、善を欲することは邪悪であることは確かだからである。したがって、人が善から離れるほど、同じ割合で邪悪に巻き込まれることになる。その状態では、それぞれの理解は、その行動に応じて、より大きく、またはより限定的に善を無視し、善の反対に引きずり込まれ、それは間違いなく悪である。そこから、万物の創造主は、理解の多様性、すなわち理性的な被造物の多様性に応じて多様性と多様性を創造するために、多様性と多様性の特定の種子と原因を認めたことが明らかである。その多様性は、私たちが上で述べた原因から彼らが思いついたと想定されなければならない。そして、多様性と多様性が何を意味するのかを、今説明したい。


さて、私たちは、天の上にあるもの、天にあるもの、地上にあるもの、または下層と呼ばれる場所にあるもの、あるいはどこにでも存在するすべての場所とその住民を世界と呼びます。したがって、この全体を世界と呼びます。その世界では、特定の存在が超天的であると言われています。つまり、より幸福な住居に配置され、天国の輝く体をまとっています。これらの中には多くの区別があることが示されています。たとえば、使徒は次のように述べています。「あるものは太陽の栄光であり、あるものは月の栄光であり、あるものは星の栄光です。星の栄光は星によって異なります。」[4] 特定の存在は地上的と呼ばれ、それらの間、つまり人間の間には小さな違いはありません。彼らの中には野蛮人もいれば、ギリシャ人もいます。野蛮人の中には野蛮で凶暴な人もいれば、より温和な人もいます。そして、彼らの中には徹底的に承認された法律の下で生活している人もいます。また、ある者はより一般的で厳しい種類の法律の下にあり、またある者は、法律というよりは非人間的で野蛮な性質の慣習を持っています[5]。そして、彼らのうちの何人かは、生まれたときから屈辱と服従に貶められ、主人、君主、または暴君の支配下に置かれ、奴隷として育てられます。また、他の者は、より自由と理性に調和した方法で育てられます。ある者は健康な体を持ち、ある者は幼い頃から病気の体を持ちます。ある者は視覚に障害があり、ある者は聴覚と言語に障害があります。ある者はそのような状態で生まれ、ある者は生まれた直後に感覚を奪われ、または少なくとも成人するとそのような不幸を経験します。そして、ある者はそこから解放され、ある者は巻き込まれた人間の悲惨さの恐ろしさをすべて繰り返し列挙する必要があるでしょうか。各人が自分でそれらを評価して検討できるのですから。地上のものが管理するために委ねられている特定の目に見えない力もあります。そして、人間の間にも見られるように、彼らの間には小さな違いが存在すると信じられなければならない。使徒パウロは確かに、ある種のより低い力があることを暗示しており[6]、同様に、それらの中にも、間違いなく多様性の根拠が求められなければならない。口のきけない動物や鳥、水中に住む生き物に関しては、要求するのは不必要であるように思われる。なぜなら、これらは主要なものではなく、従属的な地位にあると見なされるべきであることは確かだからである。


ですから、すべての創造されたものはキリストを通して、またキリストにおいて造られたと言われています。使徒パウロは次のように極めて明確に述べています。「すなわち、すべてのものは、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座であれ権威であれ支配権であれ主権であれ主権であれ、すべては彼によって、また彼において造られたのです。」[7]また、福音書の中でヨハネも同じことを述べています。「初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。言葉は初めに神とともにあった。すべてのものは彼によって造られた。彼によらないで造られたものは一つもなかった。」[8]また、詩篇にも、「あなたは知恵をもって、すべてを造られました。」と書かれています[9]。それで、キリストがいわば言葉と知恵であり、また正義でもあるのを見ると、言葉と知恵によって創造されたものは、キリストであるその正義によっても創造されたと言われるのは疑いようがないであろう。つまり、創造されたものには不正や偶然は何一つなく、すべてのものが公平と正義の法則に従っていることがわかるのである。それでは、このように多種多様なもの、このように多様性が、まったく公正で正義であると理解されるにはどうしたらよいのか、私たちがひれ伏して嘆願者として、神の独り子であり、その恵みによって私たちの感覚にご自身を注ぎ、暗いものを照らし、隠されたものを明らかにし、秘密のものを明らかにしてくださる言葉と知恵と正義そのものに祈らない限り、人間の力や言葉では説明できないと私は確信している。実際に、私たちが、求めるときに受けとめられ、求めるときに見いだされ、たたくときに開かれるにふさわしいほど、ふさわしく求めたり、尋ねたり、たたいたりしているのがわかったとしたらどうでしょう。ですから、私たち自身の力に頼るのではなく、万物を創造したあの知恵と、そのすべての被造物にあると私たちが信じるあの正義の助けに頼りましょう。たとえ当面それを宣言することはできないとしても、それでも神の慈悲に信頼して、世界のその大きな多様性と多彩さが、すべての正義と理性とどのように一致しているように見えるのかを調べ、探究するよう努めましょう。もちろん、私が言っているのは、一般的な理性だけです。なぜなら、個々のケースごとに特別な理由を求めるのは無知のしるしであり、特別な理由を与えるのは愚かさのしるしだからです。


さて、この世界は、上で説明したように神によって創造された多様性をもって確立されたと我々が言うとき、そしてこの神は善であり、正義であり、最も公正であると言うとき、多くの個人、特にマルキオン、ヴァレンティヌス、バシレイデスの学派から来て、異なる性質の魂がいると聞いた人々は、我々に反対し、神が世界を創造した際に、その被造物の一部に天の住居を割り当て、そのようなより良い住居を与えるだけでなく、彼らにさらに高く、より名誉ある地位を与えることは、神の正義にかなわない、他の者に君主権を与え、ある者に権力を、他の者に領土を与え、ある者に天の法廷で最も名誉ある席を与え、ある者がより輝かしい栄光で輝き、星のような輝きで輝くようにすることは、神の正義にかなわない、と我々に反対する。ある者に太陽の栄光を与え、他の者に月の栄光を与え、他の者に星の栄光を与え、ある星の栄光を他の星と異ならせる。そして、最後に、そして簡潔に言えば、創造主である神が、善良で完全な仕事を遂行する意志も、それを完成する力も望んでいないのであれば、理性的な性質、すなわち神自身が存在の原因となっている存在の創造において、ある者を高位に、他の者を二番目、三番目、あるいは多くのより低く劣った等級に造る理由が何にあるだろうか。次に、地上の存在に関して、ある者は他の者よりもむしろ生まれつき幸福な運命をたどる、と彼らは我々に異議を唱える。例えば、ある人はアブラハムから生まれ、約束によって生まれたが、別の人はイサクとリベカから生まれ、まだ胎内にいる間に兄弟に取って代わり、生まれる前から神に愛されていたと言われている。いや、この状況自体、特に、ある人は神の法を教えられているヘブライ人の中に生まれ、別の人は彼ら自身も賢く、学識のあるギリシア人の中に生まれ、さらに別の人は人肉を食べる習慣のあるエチオピア人の中に生まれ、あるいは親殺しが法律で認められているスキタイ人の中に生まれ、あるいは外国人が犠牲に捧げられるタウルス人の中に生まれているという状況自体が、強い反対の根拠となっている。したがって、彼らの議論は次のようになる。このような大きな状況の多様性、そして自由意志の能力が及ばない出生による多様で変わりやすい状態(誰も自分がどこに、誰と、どのような状態で生まれるかを自分で選ぶことはできない)があるならば、それでは、これが魂の性質の違い、つまり、邪悪な性質の魂は邪悪な国に運命づけられ、善良な魂は正義の国に運命づけられていることによるものでなければ、これらのことは偶然と運によって制御されていると想定しなければならないという結論以外に何が残るだろうか。そして、もしそれが認められるなら、世界が神によって作られたとか、神の摂理によって管理されているということはもはや信じられなくなるだろう。そしてその結果、各個人の行為に対する神の裁きは、期待すべきものではないと思われる。実際、そのことに関して、物事の真実が何であるかは、すべてのこと、神の深遠なことさえも探究する神だけが知る特権である。


しかし、我々は人間に過ぎないが、沈黙することで異端者の傲慢さを助長しないために、能力の及ぶ限り、彼らの反論に対して思いつく限りの答えを返すつもりである。我々は、聖書から引き出すことができた宣言によって、万物の創造主である神は善であり、公正であり、全能であることを何度も示してきた。神が最初に創造したいと望んだ存在、すなわち理性的な性質を創造したとき、神は自らの善良さのため以外に、それらを創造する理由はなかった。したがって、神自身が創造されるべきものの存在の原因であり、それらにはいかなる変化も変化もなく、力の不足もなかったため、神は、自らの中に多様性や多様性を生み出す理由がなかったため、すべてを平等かつ類似したものとして創造したのである。しかし、理性的な被造物自身は、これまで何度も示してきたように、また適切な箇所で今後も示すように、自由意志の力を授けられていたので、この意志の自由は、各人を神を模倣して進歩させるか、怠慢によって失敗に導くかのどちらかであった。そして、すでに述べたように、これが理性的な被造物間の多様性の原因であり、その起源は創造主の意志や判断からではなく、個々の意志の自由から来ている。さて、神は、被造物をその功績に応じて配置することが正しいと考え、これらの異なる理解を一つの世界の調和の中に降ろし、いわば一つの住居を飾ろうとした。そこには、金や銀の器だけでなく、木や土の器(確かに、あるものは名誉を与え、あるものは不名誉を与える)も、それらの異なる器、魂、理解でなければならない。そして、これが、私が思うに、その世界が多様性の様相を呈する一方で、神の摂理が各個人の動きや感情や目的の多様性に応じて各個人を規制し続ける理由である。そのため、創造主は(すでに述べた理由により)各人の功績に応じて分配する際に不公平であるとは思われず、各人の誕生の幸福や不幸、あるいはその人に降りかかる運命が何であれ、偶然とはみなされず、異なる創造主や異なる性質の魂が存在するとは信じられない。


しかし、聖書でさえ、この秘密の性質について全く沈黙しているとは私には思えません。使徒パウロがヤコブとエサウの件について論じているとき、こう言っています。「子供たちはまだ生まれておらず、善も悪も行っていないのに、神の選びによる計画が、行いによるのではなく、召す方によるため、『兄が弟に仕える』と言われました。『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と書いてあるとおりです。」[10] そしてその後、パウロは自分自身に答えて言います。「それでは、何と言ったらよいでしょうか。神に不義があるのでしょうか。」 そして、これらの事柄について調べ、これらのことが理由なく起こるのではないことを確かめる機会を私たちに与えるために、パウロは自分自身に答えて言います。「決してそんなことはあり得ません。」[11] というのは、ヤコブとエサウに関して提起されたのと同じ疑問が、すべての天界と地上の生き物、さらには下界の生き物に関しても提起される可能性があるように私には思えるからです。そして同じように、彼がそこで「子供たちはまだ生まれておらず、善も悪も行っていない」と言っているように、他のすべてのものについても、「彼らがまだ」創造されていなかったとき、「善も悪も行っていないとき、神の選びによる定めが成就する」と言えるのではないかと思います。つまり、(ある人たちが考えるように)一方ではあるものが天に創造され、他方ではあるものが地に創造され、さらに他のものは地の下にあり、「行いによるのではなく」(彼らの考えるように)「召す方による」と。では、もしこれらのことが本当であるなら、私たちは何と言うべきでしょうか。「神に不義があるのでしょうか。そんなことはありません。」したがって、ヤコブとエサウに関する聖書を注意深く調べると、彼らが生まれる前、あるいはこの人生で何かをする前、「兄が弟に仕える」と言われたこと自体が神に対して不義ではないことがわかります。また、ヤコブが前世の功績に応じて神にふさわしく愛され、兄よりも優先されるに値すると私たちが感じるのであれば、胎内でヤコブが兄に取って代わったことも不義ではないことがわかります。天の被造物についても、多様性は被造物の本来の状態ではなく、以前から存在していた原因により、創造主が各被造物の功績の度合いに応じて異なる職務を用意していることに気づけば、それは同じである。実際、神によって理解力、つまり理性的な精神として創造された各被造物は、その心の動きや魂の感情に応じて、多かれ少なかれ功績を獲得し、神に愛される対象になったり、あるいは神に嫌われる対象になったりしているのである。一方で、より偉大な功績を持つ者たちの中には、世の秩序を飾るため、またより低い位の被造物に対する義務を果たすために、他の人々と共に苦しむよう任命されている者もいる。使徒の言葉によれば、彼ら自身も創造主の忍耐にあずかるためである。「被造物はむなしいものとされたが、それは自ら望んでではなく、被造物を従わせた方の御心によるのである。」[12] そこで、使徒がエサウとヤコブの誕生について語るときに「神に不正があるだろうか。そんなはずはない」と言ったときの感情を念頭に置いて、この同じ感情を他のすべての被造物の場合に注意深く適用するのが正しいと私は考えます。なぜなら、前に述べたように、創造主の正義はすべてのものに現れるはずだからです。そして、天上、地上、地獄のいずれの生き物であっても、それぞれの多様性の原因は自分自身にあり、肉体の誕生に先立つものであると言われると、このことは最終的にもっと明確にわかるように思われます。すべてのものは神の言葉と神の知恵によって創造され、神の正義によって整えられたからです。そして、神はその慈悲の恵みによってすべての人々に備えを与え、治癒につながるあらゆる治療法を使用するようにすべての人を励まし、彼らを救いへと導きます。


審判の日に善人と悪人とが分けられ、正しい人と正しくない人が神の判決によってそれぞれがそれぞれの功績に応じて、ふさわしい場所に分配されることに疑いの余地はないのと同じように、私も、以前そのような状況があったと考えています。神のご意志があれば、以下で説明します。神は、すべてのことを、いつでも、神の判断に従って行い、秩序づけると信じられなければなりません。使徒が「大きな家には、金や銀の器だけでなく、木や土の器もあり、あるものは尊ぶべきもの、あるものは卑しめるためのものである」と言うときの言葉は、神のご意志が、神のご意志によって、かつては存在していたことを示唆しています[13]。そして彼が付け加えた、「もし人が自分を清めるなら、彼は名誉のための器となり、聖別されて、主の御用に供し、あらゆる良い働きに用いられるであろう」[14]は、疑いなくこのことを指摘している。すなわち、この世にいる間に自分を清める者は、来世におけるあらゆる良い働きのために備えられるであろう。一方、自分を清めない者は、その不浄さの度合いに応じて、不名誉のための器、すなわち価値のない器となるであろう。したがって、清められたか否かにかかわらず、すなわち、自分を清めるかそうでないかにかかわらず、かつては理性的な器であった者もいたということ、そしてその結果、あらゆる器は、その清浄さや不浄さの度合いに応じて、この世で生まれながらにして場所、領域、または状態、あるいは果たすべき職務を与えられたということが理解できる。これらすべてを、最も卑しい者に至るまで、神はその知恵の力によって備え、区別し、最も公平な報復に従って、すべてのものをその支配的な判断によって配置し、各人がその功績に応じて支援され、世話されるべきである限りにおいて。そこには確かにあらゆる公平の原則が示されており、状況の不平等は功績に応じた報復の公正さを維持します。しかし、各個別の場合の功績の根拠は、神自身と、神の独り子の言葉、神の知恵、そして聖霊によってのみ真に明確に認識されます。


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脚注

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  1. この一節の原文は、ユスティニアヌスがコンスタンティノープル総主教メナスに宛てた書簡 apud finem にあります。「理解力によって認識できる始まりにおいて、神は自らの意志により、十分な数の知的存在を存在させました。なぜなら、神の力は有限であると言わなければならないので、神を称賛するふりをしてその限界を取り去ってはならないからです。神の力が無限であるなら、必然的に自分自身さえ理解できないはずです。なぜなら、本来無限であるものは理解できないからです。したがって、神は物事を非常に大きくし、把握してその力の下に保持し、摂理によって制御できるようにしました。同様に、神は装飾する力がある大きさ ( τοσαύτην ὕλην ) の物質も用意しました。」
  2. 知恵の書( Wisdom) 11:20、「あなたはすべてのものの寸法と数と重さを定められました。」
  3. 創世記 1:1
  4. 1コリント 15:41
  5. Vilioribus et asperioribus. 安くて粗い。
  6. Inferna. (Hell) 地獄。
  7. コロサイ 1:16
  8. ヨハネ 1:1, 2
  9. 詩篇 104:24
  10. ローマ 9:11, 12
  11. 本文は「Respondet sibi ipse, et ait」となっているが、これに対してルエウスは、この文は不完全であり、「absit」を補う必要があると述べている。この推測は翻訳に採用されている。
  12. ローマ 3:20, 21
  13. 2テモテ 2:20
  14. 2テモテ 2:21


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原文:
 

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翻訳文:
 

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