蒙古開国の伝説

 
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蒙古開国の伝説
 
 蒙古人は其の開国の祖先に関し、二重の伝説を有せり。一は狼鹿配偶の説にして、一は阿闌豁阿、夫なくして子を生むの説なり。元朝秘史はこの二重の伝説を兼ね取りて、繋ぎ合せたり。蒙文秘史の那珂博士の訳文に拠れば、

​タカマノハラ​​上天​より​ミコト​​命​ありて生れたる​アヲ​​蒼​​オホカミ​​狼​ありき。(蒙語​ボルテチノ​​孛児帖赤那​)その​ツマ​​妻​なる​ナマジロ​​惨白​​メシカ​​牡鹿​ありき。(蒙語​ゴアイマラル​​豁埃馬喇勒​​テンギス​​騰吉思​(海又は大なる湖)を渡りて来ぬ。​オナンムレン​​斡難木嗹​(斡難河)の源に​ブルカンカルドン​​不児罕合勒敦​(不児罕岳、即ち神が岳)に​イヘヰ​​営盤​して、生れたる​バタチカン​​巴塔赤罕​ありき。

とあり、巴塔赤罕より十世の孫を​ドブンメルゲン​​朶奔篾児干​とし其妻を​アランゴア​​阿闌豁阿​といふ。​アランビメ​​阿闌媛​は朶奔篾児干に嫁して二子を生み、​ブグヌタイ​​不古訥台​​ベルグヌタイ​​別勒古訥台​と名けたり。

かく​ス​​住​める程に​ドブンメルゲン​​朶奔篾児干​​ナ​​無​くなれり。​ドブンメルゲン​​朶奔篾児干​​ナ​​無​くなしたる後、​アランビメ​​阿闌媛​は、​ヲトコナ​​男無​きに​ミタリ​​三人​の子を生めり。​ブクカタギ​​不忽合塔吉​​ブカトサルヂ​​不合禿撒勒只​​ボドンチヤルモンカク​​孛端察児蒙合黒​​イ​​云​へるなりき。

オープンアクセスNDLJP:104 ​サキ​​前​​ドブンメルゲン​​朶奔篾児干​より​ウマ​​生​れたる​ベルグヌタイ​​別勒古訥台​​ブグヌタイ​​不古訥台​​フタリ​​二人​の子はその​ハヽ​​母​​アランビメ​​阿闌媛​​カゲ​​背処​にて​イ​​言​​ア​​合​へらく「この​ワレラ​​我等​​ハヽ​​母​は、​アニホトヽ​​兄弟​なる​バウシン​​房親​​ヒト​​人​〈夫の兄弟〉​ナ​​無​く、​オトコ​​男​〈外夫〉​ナ​​無​くありつゝ、この​ミタリ​​三人​​コ​​子​を生めり。家の内に​ヒトリ​​独​​マアリクバヤウダイ​​馬阿里黒伯牙兀歹​​コ​​子​あり。この​ミタリ​​三人​​コ​​子​は、​カレ​​彼​のなるぞ」と​ハヽ​​母​​カゲ​​背処​にて​ウハサ​​噂​し合へるを、その​ハヽ​​母​​アランビメ​​阿闌媛​​サト​​覚​りて、​ハル​​春​​ヒトヒ​​一日​​フアウヤウ​​臘羊​​ニ​​煮​て、​ベルグヌタイ​​別勒古訥台​​ブヽヌタイ​​不古訥台​​ブクカタギ​​不忽合塔吉​​ブカトサルヂ​​不合禿撒勒只​​ボドンチヤルモンカク​​孛端察児蒙合黒​この​イツタリ​​五人​の子どもを​ナラ​​列​​ス​​坐​ゑて、​ヒトスヂ​​一条​づゝの​ヤ​​箭​を「​ヲ​​折​れ」と​イ​​云​ひて​アタ​​与​へたり。​ヒトスヂ​​一条​づゝをいかで​トヾ​​留​めん、​ヲ​​折​りて​ノ​​去​けたり。​マタ​​又​​イツスヂ​​五条​​ヤ​​箭​を一つに束ねて、「​ヲ​​折​れ」と​イ​​云​ひて​アタ​​与​へたり。五人にて、​イツスヂ​​五条​​ツカ​​束​ねたる​ヤ​​箭​を人ごとに​ト​​取​りて、​マハ​​廻​して​ヲ​​折​りかねたり。

そこに​アランビメ​​阿闌媛​なる​カレラ​​彼等​​ハヽ​​母​は言へり。「​ナンヂラ​​汝等​​ベルグヌタイ​​別勒古訥台​​フグヌタイ​​不古訥台​なる我が​フタイ​​二人​​コ​​子​よ。​ワレ​​我​を「この​ミタリ​​三人​の子を生めり。​タレ​​誰​​ナニ​​何​​コ​​子​なるか」と​ウタガ​​疑​​ア​​合​ひて​ウハサ​​噂​​ア​​合​へり。​ナンヂラ​​汝等​​ウタガ​​疑​ふも​モツトモ​​是​なり。​ヨ​​夜​ごとに​ヒカ​​光​​キイロ​​黄色​の人、​ヘヤ​​房​​ソラマド​​天窻​の戸口の明処より入りて、我が腹を摩りて、その​ヒカリ​​光​​ハラ​​腹​​ウチ​​内​​トホ​​透​るなりき。​イ​​出​づるには、​ヒヅキ​​日月​​ヒカリ​​光​にて、​キイヌ​​黄狗​​ゴト​​如​​ハ​​爬​ひて​イ​​出​づるなりき。​カルハズミ​​軽率​(迭列蔑)に​ナン​​何​​イ​​言​​ナンヂラ​​汝等​これ(帖兀別児)にて​ミ​​察​れば、​アキラ​​明​かに(忝逃克)​カレ​​彼​の(光る人の子)は​アマツカミ​​皇天​(騰格里)の​ミコ​​御子​なるぞ。​クロ​​黒​き(合喇)​カシラ​​頭​(帖里兀)の​ヒト​​人​​クラ​​比​べて(合湿勒罕)​ナン​​何​​イ​​言​ふ、​ナンヂラ​​汝等​​カムクンカト​​合木渾合惕​(普き君、すめらぎ、合木渾罕の複称)とならば、​タミクサ​​民草​は(合喇除思)そこに覚えんぞ」と云へり。

​マタ​​又​​アランビメ​​阿闌媛​​イツタリ​​五人​​コ​​子​​ヲシ​​教​ふる​コトバ​​言​​イ​​言​はく「汝等我が五人の子は、​ヒトリ​​独​​ハラ​​腹​より生れたり。​ナンヂラ​​汝等​は、​アタ​​恰​かも​イツスヂ​​五条​​ヤ​​箭​の如し​ヒトリヒトリ​​独独​にならば、​カ​​彼​​ヒトスヂ​​一条​づゝの​ヤ​​箭​の如く、​タレ​​誰​にも​タヤス​​容易​く折られん、​ナンヂラ​​汝等​​カ​​彼​​ツカ​​束​ねたる​ヤ​​箭​の如く、​モトモ​​諸共​​ヒト​​一​つの​ハカラヒ​​商量​あるとならば、​タレ​​誰​にも​タヤス​​容易​くは​ナン​​何​ぞならん、​ナンヂラ​​汝等​」と云へり。かく​ス​​住​める​ホド​​程​に、​アランビメ​​阿闌媛​なる​カレラ​​彼等​​ハヽ​​母​​ナ​​無​くなれり。

 波斯文の蒙古史、即ち世に所謂​ラシツド​​拉施特​の書にては、蒙古種の起源を狼鹿配偶説に帰せずして、更に以前に蒙古族が他族と戦ひ敗れて、僅かに男女各二人を遺し、​アルゲナイグン​​阿児格乃袞​の山中に匿れたることを説けども、〈此説に就きては、後に弁ずべし。〉此の山中より出でたる蒙古人にて、最も知られたるは、​ボルテチノ​​孛児特赤那​にして、其の数多き妻の内、長妻を​ゴワマテル​​郭斡馬特児​といふことを載せたり。但しこゝには​ボルテチノ​​孛児特赤那​​ゴワマテル​​郭斡馬特児​を人名として、狼鹿オープンアクセスNDLJP:105 相配とはせされども、其人名は依然として、蒙古語の狼といふ​チノ​​赤那​なる語、鹿といふ​マランル​​馬闌勒​の変形せる​マテル​​馬特児​を用ひたれば、伝説の一源に出でたることは、論ずる迄もなし。蒙古源流には此の男の名を​ブルテチノ​​布爾特斉諾​として​トバト​​土伯特​(西蔵)の​ニヤテザンボハン​​尼雅特賛博汗​の七世の孫、​セルデテザンボハン​​色爾特賛博汗​の子なりとし、女の名を​ゴオマラル​​郭斡瑪喇勒​としたり。

 然るに元史は独り太祖十世の祖​ボドンチヤル​​孛端叉児​より筆を起し、其の以前を省略せり。

其十世祖​ボドンチヤル​​孛端叉児​。母曰​アランゴホア​​阿蘭果火​。嫁​ドブンメリゲン​​脱奔咩哩犍​。生二子。長曰​ボカンカダキ​​博寒葛答黒​。次曰​ボカトサリヂ​​博合覩撒里直​。既而夫亡。​アラン​​阿蘭​寡居。夜寝帳中。夢白光自天意中入。化為金色神人。来趨臥榻。​アラン​​阿蘭​驚覚。遂有娠。産一子。即​ボドンチヤル​​孛端叉児​也。​ボドンチヤル​​孛端叉児​状貌奇異。沈黙寡言。家人謂之痴。独​アラン​​阿蘭​語人曰。此児非痴。後世子孫。必有大貴者。

 元史の太祖本記の文は此の如くなれば、是れ秘史其他に載せたる狼鹿配偶説をは全く删り去りたるなり。​ドブンメリゲン​​脱奔咩哩犍​は秘史の​ドブンメルゲン​​朶奔蔑児干​にして、​アランゴホア​​阿闌果火​​アランゴア​​阿蘭豁阿​​ボカンカダキ​​博寒葛答黒​​ブクカタギ​​不忽合答吉​​ボカトサリヂ​​博合覩撒里直​​ブカトサルヂ​​不合禿撒勒只​なれば、秘史に​ボドンチヤル​​孛端察児​と同じく神人に感じて生れたりとせる二子を元史は​ドブンメルゲン​​朶奔蔑児干​の子としたり。​ラシツド​​拉施特​、及び蒙古源流は、略ぼ秘史の説に同じ。〉元史編纂の際は秘史は未だ訳述せられざれば、 〈元史の成りしは洪武二年にして、移史の訳せられしは十五年なり。〉元史の拠依したる太祖実録には、或は狼鹿配偶説なかりしや、将た実録に此説ありしも、史臣たる宋濂等の意見にて删り去りしや、今明らかに知り難し。されど狼鹿配偶説の有無は、必ずしも問はず。こゝに疑問とすべきは、同一種族の開国伝説に狼鹿配偶説と、無夫生子説と二重に存在せる、果して孰れを其の固有のものとすべきやに在り。何となれば、此の二説並びに支那塞外の或る種族間に通有せる所にして、之によりて蒙古人が何種族に属すべきかを定むる材料ともなるべき者なればなり。

 先づ狼鹿配偶説と類似せる伝説を左に列挙せん。其一は突厥の開国説なり。突厥の開国説は、北周書隋書、北史に載せたり。其中、北史は衆説を綜合して、詳備を致したれば、今は其文を引用すべし。

突厥者其先居西海之右。独為部落。蓋匈奴之別種也。姓阿史那氏。後為隣国所破。尽滅其族。有一児。年且十歳。兵人見其小。不忍殺之。乃刖足断其臂。棄草沢中。有牝狼以肉餌之。及長与狼交合。遂有孕焉。彼王聞此児尚在。重遣殺之。使者見在狼側。并欲殺狼。於時若有神物。投狼於西海之東。落高昌国西北山。山有洞穴。穴内有平壌茂草。周廻数百里。四面倶山。オープンアクセスNDLJP:106 狼匿其中。遂生十男。十男長。外託妻孕。其後各為一姓。阿史那即其一也。最賢。遂為君長。故牙門建狼頭纛。示不忘本也。(〈中略〉)或云。突厥本平凉雑胡。姓阿史那氏。魏太武皇帝滅沮渠氏。阿史耶以五百家奔蠕蠕。世居金山之陽。為蠕蠕鉄工。金山形似兜整。借号兜整突厥。突厥因以為号。又曰。突厥之先。出於索国。在匈奴之北。其部落大人曰阿謗歩。兄弟七十人。其一日伊質泥師都。狼所生也(小)此説雖殊。終狼種也。

其一は高車の伝説にして、亦北史に見ゆ。

高車蓋古赤狄之余種也。初号為狄歴。北方以為高車丁零。〈通典には北方以為勅勒。諸夏以為高車丁零焉。に作れり。〉其語略与匈奴同。而時有小異。或云。其先匈奴甥也。(〈中略〉)俗云匈奴単于生二女。姿容甚美。国人皆以為神。単于曰。吾有此女。安可配人。将以与天。乃於国北無人之地。築高台。置二女其上。曰請天自迎之。経三年。其母欲迎之。単于曰。不可。未徹之間耳。復一年。乃有一老狼。昼夜守台啤呼。因穿台下為空穴。経時不去。其小女曰。吾父処我於此。欲以与天。而今狼来。或是神物。天使之然。将下就之。其姉大驚曰。此是畜生。無乃辱父母。妹不従。下為狼妻而産子。後遂滋繁成国。故其人好引声長歌。又似狼嘷。

又後漢書西羌伝にも武都の羌が参狼種たることを記せるも、其の所由を詳かにせず。右の如く突厥、高車、並に狼種の説ありて、一は牝狼が人に配すとし、一は老狼が少女に配すとするの差あるも、恐らく一源に出でたる者なるべく、羅馬の祖先が狼に養はれたるの説と類する処あるなどより推せば、古代東西倶に此種の伝説を有せしことを知るべし。故に蒙古人にして単に狼鹿配偶の伝説のみを有したらんには、突厥、高車に近き種族なりと断ずるも不可なきに似たり。

 然るに蒙古人には更に​ボドンチヤル​​孛端察児​の降誕に関する伝説を有し、此の伝説は​ラシツド​​拉施特​に在りては、少しく秘史に異なれる処あり。則ち​アランゴワ​​阿闌郭斡​が寡居して孕みし時、之を疑ひしは夫の弟及び親族なりとし、阿闌郭斡が語は、略ぼ元史に同じく、親族等は黎明の頃之を伺ひしに果して阿闌郭斡が言ひしに違はず、白光の帳に入るを見たりしかば、疑を霽したりとせり。蒙古源流にも​アロンゴワハトン​​阿隆郭幹哈屯​​ドボメルゲン​​多博墨爾根​〈即ち​ドブンメルゲン​​朶奔蔑児干​が卒したる後、毎夜、夢に一奇偉男子ありて、之と共に寝ね、天明くる頃起き去りたれオープンアクセスNDLJP:107 ば、伊が妯娌及び侍婢等にも告げて知らしめたりといへり。要するに霊異に感じて、夫なくして予を生むの説にして、此に類する伝説は、亦塞外民族中に少からず。就中、夫余、高匈麗、百済等に通有する東明の説は頗る相近き点あり。此説の最も旧く見えたるは、王充の論衡にして、其の吉験篇に云く、

北夷​トオリ​​橐離​国王侍婢有娠。王欲殺之。婢対曰。有気大如鶏子。従天而下我。故有娠。後産子。捐於豬溷中。猪以口気噓之。不死。復徒置馬欄中。欲使馬藉殺之。馬復以口気噓之。不死。王疑以為天子。令其母収取。奴畜之。名東明。合牧牛馬。東明善射。王恐奪其国也。欲殺之。東明走。南至掩号水。以弓撃水。魚鼈浮為橋。東明得渡。魚鼈解散。追兵不得渡。因都王夫余。故北夷有夫余国焉。

 三国志夫除伝に魏略を引けるも、其文之と略ぼ同じく後漢書の夫余伝は文稍異なるも、事は全く同じ。魏書に至り、此事を以て高勾麗が夫余より出でたる開国説と為し、其の説も更に繁密を加へ、且つ其の東明といふ名を改めて、朱蒙となせり。

高勾麗者出於夫余。自言先祖朱蒙。朱蒙母河伯女。為夫余王閉於室中。為日所照。引身避之。日影又逐。既而有孕。生一卵。大如五升。夫余王棄之与犬。犬不食。棄之与家。家又不食。棄之於路。牛馬避之。後棄之野。衆鳥以毛茹之。夫余王割剖之。不能破。遂還其母。其母以物裏之。置於暖処。有一男。破殻而出。及其長也。字之曰朱蒙。其俗言朱蒙者善射也。夫余人以朱蒙非人所生。将有異志。請除之。王不聴。命之養馬。朱蒙毎私試知有善悪。駿者減食令痩。駑者善養令肥。夫余王以肥者自乗。以痩者給朱蒙。後狩于田。以朱蒙善射。限之一矢。朱蒙雖矢少。殪獣甚多。夫余之臣又謀殺之。朱蒙母陰知告朱蒙曰。国将害汝。以汝才略。宜遠適四方。朱蒙乃与鳥引鳥違等二人。棄夫余。東南走。中道遇一大水。欲済無梁。夫余人追之甚急。朱蒙告水曰。我是日子。河伯外孫。今日逃走。追兵垂及。如何得済。於是魚鼈並浮。為之成橋。朱蒙得渡。魚鼈乃解。追騎不得渡。朱蒙遂至普述水。遇見三人。其一人著麻衣。一人著納衣。一人著水藻衣。与朱蒙至紇升骨城。遂居焉。号曰高勾麗。因以為氏焉。

 高勾麗の広開土境好太王碑には、朱蒙を​シユモウ​​鄒牟​とし、普述水を​フルル​​沸流谷​とし、乾升骨城オープンアクセスNDLJP:108 ​フベン​​忽本​とし、論衡、後漢書等の掩淲水を​ヤンリダシユイ​​奄利大水​としたれども、〈魏略には施掩水とす〉其事の稍々略せるのみにて、意は全く同じ。然るに隋書には、論衡、魏略、後漢書の東明説を以て、百済の開国説とし、嚢離国を以つて改めて高麗国とし、夫余を改めて百済としたり。 〈文も略ぼ同じければ、こゝには引かず。〉北史には高勾麗伝に魏書を襲取し、百済伝に隋書を襲取したれば、同一源の新旧二説が、各別なる二国の開国説として、両存するの奇観を呈したり。されども百済の開国説に、東明説あることも、必ずしも史家の杜撰にはあらずして、魏書に載せたる百済国余慶〈即ち蓋鹵主〉が魏に上れる表に、臣与高勾麗。源出夫余。の語あり、我が続日本紀延暦八年十二月乙未皇太后崩の条に連書したる明年正月壬子、太后を葬る条に、

其百済遠祖都慕王者。河伯之女。感日精而所生。〈延暦九年津連真道の上表にも百済太祖、都慕大王者、日神降霊。奄扶余而開国の語あり〉

とあり、都慕とは即ち東明、鄒牟、朱蒙と音訳の異なるのみなれば、この説は我邦に帰化せる百済人にも伝へられたることを見るべし。

 三国史記の高勾麗紀には扶余の老王の名を解夫婁とし、其の収養せる少王の名を金蛙とし、河伯の女の名を柳花とし、河伯の女に私せる天帝の子の名を解慕漱として、河伯の女より東明王、諱は朱蒙が生れたりとなせるだけ、魏書の説に附加せられしのみにて、大要は魏書の説と同じ。独り新羅の開国には、此説なきが若くなれども、我 古事記には応神天皇の条に

又昔有新羅国王之子。名謂天之日矛。是人参渡来也。所以参渡来者。新羅国有一沼。名謂阿具奴摩。〈自阿下四字以普〉此沼之辺。一賤女昼寝。於是日耀如虹。指其陰上。亦有一賤夫。思異其状。恒伺其女人之行。故是女人自其昼寝時姙身。生赤玉。爾其所伺賤夫。乞取其玉。恒裹着腰。此人営田於山谷之間。故耕人等之飲食負一牛。而入山谷之中。過逢其国主之子天之日矛(〈中略〉)解其腰之玉。幣其国主之子。故赦其賤夫。将来其玉。置於床辺。即化美麗嬢子。仍婚為嫡妻。(〈下略〉

といふ話あり。日本紀には垂仁天皇紀二年の注に天之日矛の代りに任那の都怒我阿羅斯等の事として赤玉を白石とし、白石出で来し所以には、何等の所説なけれども、恐らくは同一説の後に変成せし者ならん。古事記には此下に天之日矛が其オープンアクセスNDLJP:109 妻の逃れて日本に来りしを跡追ひて渡り来つる話ありて、其の趣は三国遺事に載せたる日月の精、延鳥郎、細鳥女夫婦が日本に渡り去りて、新羅国内日月光なくなりしとの説に類し、特に跡を追ふ男女の相反せるのみなれば、これも亦恐らくは其の起源を一にする者ならん。されば新羅にも此の伝説は存在したりと謂ふべし。

 元来夫余の東明王の説は、其の鶏子の大さある気が天より下りし事を除けば、其他の事は頗る周の祖たる后稷の伝説に似たる処多し。后稷の説は、詩の大雅生民の篇に見え、

厥初生民。時維姜嫄。生民如何。克種克祀。以弗無子。履帝武敏散。攸介攸止。載震載夙。載生載育。時維后稷。誕弥厥月。先生如達。不坼不副。無旧無害。以赫厥霊。上帝不寧。不康種祀。居然生子。誕輿之隘巷。羊牛腓字之。誕寞之平林。会伐平林。誕寞之寒氷。鳥覆翼之。鳥乃去矣。后稷呱矣。(〈下略〉

とありて、鄭玄の説によれば、姜嫄が大神の足跡の拇指の処を履みて之に感ぜしこと、人道即ち交合の道によりて感ずるが若くなりしが、其の天帝の気によりて、子を生みたるも、人道なくして之を生みたるを以て、自ら安ぜず、之を棄てたるに、隘巷に寘けば羊牛之を愛し、平林に寅けば、人に収め取られ、塞氷に寘けば鳥来り覆翼せりと解すべし。但だ此の類似を以て、夫余其他の民族が、周人の旧説を襲取せりとは解すべからず。時代に前後ありとも支那の古説が塞外民族の伝説と同一源に出でたりと解せんには如かず。更に奇とすべきは、三国の時、呉の康僧会が訳せる六度集経にも、之に類する棄児説あることなり。文繁ければ左に節録せんに

昔者菩薩。生於貧家。貧家不育。以氈裹之。夜無人時。黙置四街。并銭一千。送著其首。(〈中略〉)有一理家。独而無嗣。聞之黙喜。令人四布索棄子者。(〈中略〉)得其所在。曰吾四姓富而無嗣。尒以児貢。可獲衆宝。母曰。可留銭送児。従欲索貨。母獲如志。育児数月而婦姙娠。曰吾以無嗣。故育異族。天授余祚。今以子為。以氈裹之。夜着井中。家羊日就而乳。牧人尋察。覩児即歎曰。上帝何縁落其子于茲乎。取帰育之。以羊湩乳。四姓覚知。詰曰。縁窃湩乎。対曰。吾獲天之遺子。以湩育之。四姓悵悔。還育数月。婦遂産男。悪念更生。又如前以氈裹之。着車轍中。児心存仏三宝慈向其親。晨有売人オープンアクセスNDLJP:110 数百乗車。径路由茲。牛躓不進。賞人察其所以。覩児驚曰。天帝之子。何縁故茲乎。抱着車中。牛進若流。(〈下略〉

 此の説は印度より伝はれるか将た康僧会の本国たる康居より伝へたるか、明らかならざるも、其の后稷東明の棄児説に属する一半と暗合するを見れば、此種の伝説の播敷も頗る広き者なることを知るべし。

 蒙古源流にも​トバト​​土伯特​(西蔵)の​ヂグムザンボハン​​智固木賛博汗​が奸臣​ロンアム​​隆阿木​に纂弑せられ、其三子、​ヂユチ​​罝持​​ボロヅア​​博囉咱​​ブルテチノ​​布爾特斉諾​〈即ち蒙古の祖となりし者にて、秘史の孛児帖赤那なり〉倶に逃れて他方に往きし後、旧の大臣等、福

〈皇后の義〉を奉じて、隆阿木を誅戮し、汗の三子内に於て一人を選で立てんことを議したるに、

福晋云。我従前生​ボロヅア​​博囉咱​時。夜夢与一白色人同寝。迄後産一卵。此子出卵中。観此当是一有福佳児。宜将彼迎至。於是遂将​ボロヅア​​博囉咱​迎即汗位。

とあり。此の説も果して西蔵伝来のものなりや、将た蒙古人が孛端察児の説より分ちて作りしやは、知るに由なきも、もし前者とせば、感生説に属する一半の播敷も亦更に広くなれるなり。〈屠寄の蒙兀児史記に、​アランゴア​​阿闌豁阿​​ヂグム​​智固木​の福晋の故智を襲へりと解せるは、伝説を以て史実と誤解せるなり。〉

 此種の感生説は我邦にも古くより伝はれり、賀茂縁起に、

玉依日売於石河瀬見小川之辺。為遊時。丹塗矢自川上流下。乃取挿置床辺。遂感孕生男子。至成人時。外祖父建角身命。造八尋屋。堅八戸扉。醸八醒酒而。神集集而七日七夜楽遊。然与子語言。汝父将思人。令飲此酒。即挙酒杯而向天為祭。分穿屋甍而升於天。乃因取外祖父之名。号賀茂別雷命。

とあるが如き、是なり。遼史に太祖阿保機が降誕を記して

初母夢日堕懐中。有娠。及生室有神光異香。

とあるをさへ、此の感生説と同一源に帰する者あれば、我が豊臣秀吉の母が日輪懐中に入ると夢みて娠みたりとの説も、之を牽聯し難きにあらず。​ボドンチヤル​​孛端察児​の母が箭を折るの説も、我が毛利元就が遺言の説と同じきなど、益々草昧の史実が伝説と区別し難きを思はしむ。もし更に牽聯の範囲を拡めば、河伯の女柳花に二妹ありて、萱花、葦花といふと記せる、東国李相国集〈高麗李奎報の集〉の東明王篇の説より、満洲の祖たる布爾呼里の三神女に牽聯し、神女朱果を啣むの説より、古代商契の母、簡秋が玄鳥卵を堕せるを呑みたる説に牽聯し、我が羽衣の天女の説にも及ぼし得ざるにあらオープンアクセスNDLJP:111 ず。此の如く古今各地の伝説が、互に絡み合へる形あるも、民族の或は一源なる、若しくは相触接せるより起れることなるべければ、単に之を暗合として放過すべきにあらざることは、言ふまでもなし。此の如く絡み合へる中にも、其の最も近き伝説を共有せる各民族は、最も親しき関係ある者と看ること、強ち理なきにあらずとせば、蒙古種族と夫余、高勾麗、百済とは、他種族に比して密接の関係ある者と看ることを得べし。又此の如く此等の種族は皆無夫感生の説を以て、其の開祖に系くることより推せば、蒙古種族が原来有せる開国伝説は、​ボドンチヤル​​孛端察児​の降誕を以て始まるを至当とすべく、かの狼鹿配偶説は、蒙古族が突厥族と接触せる後に其説を襲取して附加したる者なること疑なし。宋濂の元史本紀が​ボドンチヤル​​孛端察児​より以前の十余世を全く删去せるも、必ずしも見る所なくして為せる疏漏なりとは言ひ難きに似たり。屠氏の蒙兀児史記が旧唐書の蒙兀室韋を以て、蒙古種の記録に見はれたる最先の者とし、契丹と同種なりとするの説も亦全く排斥し難きに似たり。

 已に言へるが如く、​ラシツド​​拉施特​によれば、又狼鹿配偶説の前に左の説を附加すべきが如し。

相伝古時。蒙兀与他族戦。全軍覆没。僅遺男女各二人。遁入一山。斗絶嶮幟惟一径通出入。而山中壌地寛平。水草茂美。乃携牲畜輜重往居。名其山曰阿児格乃衰。二男一名脳古。一名乞顔。乞顔義為奔瀑急流。以其膂力邁衆。一往無前。故以称名。乞顔後裔繁盛。称之曰乞要特。乞顔変音為乞要。曰特者統類之詞也。後世地狭人稠。乃謀出山。而旧径蕪塞。且苦艱険。継得鉄礦。洞穴深邃。爰伐木熾炭。篝火穴中。宰七十牛。剖革為筒。鼓風助火。鉄石尽鎔。衢路遂闢。後裔於元旦。鍛鉄於炉。君与宗親。次第捶之。著為典礼。〈元史訳文証補による〉

 されど此の伝説の一半は牝狼に養はれたる男児の山中に匿れたる説より来り、一半は​アシナ​​阿史那​が世々金山に居りて、鉄作に工なりとの説より来りたる者なれば、倶に突厥説の枝派なり。​ラシツド​​拉施特​が親しく見たる捶鉄の典礼も、突厥族の習俗に感染せること多き、西域​イルハン​​伊児汗​国の風とも看るべし。​キヤン​​乞顔​といふ語は、複数にしては​キヤト​​乞要特​となり、元史の​キヤウン​​奇渥温​に当り、姓氏の由来する所なれば、何等かの解釈なかるべからずともいはん。こは成吉思汗の祖、​バルタンバアトル​​把爾壇把阿禿児​の長子にして、成吉思の父オープンアクセスNDLJP:112 ​エスガイ​​也速該​の兄を​モンゲトキヤン​​忙格禿乞顔​といひ、​エスガイバアトル​​也速該把阿禿児​も亦​エスガイキヤン​​也速該乞顔​と称し、綜べて其の兄弟を​キヤト​​乞牙惕​即ち​キヤト​​乞要特​と称すること秘史に見えたれば、必ずしも之を邈古の世に溯らしむるを要せず。故に此の説をば特に以て一重の伝説として論ずるの価値なき者と断じたり。

(大正二年十二月芸文第四編第十二号)


  附記

塞外種族に二重伝説あることは、蒙古種に限らず、北魏の拓跋氏の如きも、明らかに此の類例に属する者なり。魏書巻二、太祖紀に

太祖道武皇帝。諱珪。昭成皇帝之嫡孫。献明皇帝之子也。母曰献明賀皇后。初因遷徙。遊於雲沢。既而寝息。夢日出室内。寤而見光。自腸属天。数然有感。以建国三十四年七月十日。生太祖於参合陂北。其夜復有光明。昭成大悦。羣臣称慶。大赦告於祖宗。

とあるは、即ち阿闌豁阿の無夫生子説と同一源なる者にして、太祖より数世の前、聖武皇帝詰汾に関し、同書は又一説を載せたり。

初聖武帝甞率数万騎。田於山沢。教見輜軿自天而下。既至見美婦人。侍衛甚盛。帝異而問之。対曰。我天女也。受命相偶。遂同寝宿。旦請還。曰明年周時。復会此処。言終而別。去如風雨。及期帝至先所田処。果復相見。天女以所生男授帝曰。此君之子也。善養視之。子孫相承。当世為帝王。語訖而去。子即始祖也。故時人諺曰。詰汾皇帝無婦家。力微皇帝無舅家。

この始祖は即ち神元皇帝諱は力微にして、此の伝説は我が羽衣天女の伝説、及び満洲の三神女説と同一源に出づる者なり。又高句麗、百済、新羅に阿蘭豁阿と共通の伝説あることは、本文に述べたるが、三国遺事には又壇君説を出し、

時有一熊一虎。同穴而居。常祈于神雄。願化為人。時神遺霊艾一性、蒜二十枚曰。爾輩食之。不見日光百日。便得人形。熊虎得而食之。忌三七日。熊得女身。虎不能忌。而不得人身。熊女者無与為婚。故毎於壇樹下呪願有孕。雄乃仮化而婚之。孕生子。号曰壇君。

といへり。是れ狼鹿説を変じて、熊虎説と為せる者にして、此晩出の説を以て、三国の日精感生説の前に加へたること、亦蒙古と符を合せり。

(昭和三年十二月記)

 
 

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