臺南市讀本/新しい町名
この原稿を記してゐる間にも臺南の町は発展してゐる。丁度時計の針のやうに止ることなく進んでゐるのである。何だかこれを書いてゐても追ひ廻されてゐるやうな氣持になる。都市の明朗化をはかるために町名が改められた。しかし、總督府の許を得なければ正式のものでないが、それまでは一般のとほり名として用ひられるであらう。
今度改められた町は主として新しく出來た町で、それ等の町は昔のまゝの土地名を町名にしてゐた。それを新しい町名に改めたのあある。
先づ鄭子寮の縱貫道路西側と陸軍墓地一帶もふくめて鄭子寮から伏見町と呼ばれるやうになつた。臺南入城の際、伏見宮貞愛親王殿下の御道筋であつたからである。同じく東側は三分子の一部分と一しよに水道町と呼ばれる。水源地道路に面してゐるからだらう。
又、白川町といふのが出來る。二中裏から長榮中學女學校一帶である。これは北白川宮殿下臺南御入城のの道筋に當つてゐるからである。竹篙厝の縱貫道路の東の方は糖業試驗所附近と共に若竹町となつた。
師範學校、野球場一帶は乃木町と呼ばれ、臺南入城の道順から出た名であることは白川町、伏見町同樣である。乃木町の南、野球場と桶盤淺(たんぱんせん)は青葉町と名付けられた。五妃廟、二高女、末廣公學校から織布會社までを昭和町、野球場の西側、陸上競技場から無線電信局までを汐見町と呼ばれるやうになつた。
又、旭町、東門町、濱町は其の區域を擴張された。
實に臺南市は伸びる一方であると言へる。
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