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「もう何時かしら」と眼ざめた瞬間におちかは思った。思わずはっとした気持で、頭を上げて雨戸の方を見た。戸の外はまだひっそりして、隙間(すきま)のどの一つからも白んだ向うはのぞかれはしない。安心して、寝返りを打ったが、まだどこか心の焦点のきまらぬ気持で眼をしばたたいていると、闇(やみ)のなかに浮動する樟脳(しょうのう)の匂(にお)いがかすかに動いた部屋の空気につれてほのかに鼻さきににおうて来た。すると急にさめてきた心にどきんと胸をつく強さで今日という一日の重さが感じられた。血がすーっと顔から引いて、動悸(どうき)がしだいにたかまって来た。おちかは布団(ふとん)をずり下げ、上半身を乗り出して手をのばして枕(まくら)もとをさぐってみた。ゆうべ寝るときに取り揃(そろ)えておいた衣類やその他身のまわりのものがそのままそこにある。それらを一つ一つさぐってみているうちに、昨夜夜ふけてひとり起き、羽織の乳(ち)に紐(ひも)を通しなどしたとき胸にわいた思いが、今またしみじみとしたものとして生きかえって来るのだった。その思いにあたためられ、六十を越えた齢(とし)にあけがたはもうかなりに冷えをおぼえるこのごろの季節なのが、今朝はさほど苦にはならなかった。手足をのばし、おちかはしばらくうっとりとしていた。が、すぐに小きざみにからだがふるい出し、ふるいは容易にとまらなかった。根のゆるんだ歯がかたかたと音をたてて鳴った。汗さえ流れでて来るようであった。ふたたび寝がえりをうち、のばしていた手足をまるめて何かだいじなものを抱くような気持と姿勢でおちかはじっとたえているのであったが、それはなにも寒さからではなかった。間もなく時計が五時をうった。
おちかは掻巻(かいまき)のまま寝床の上に起き上った。肩をすぼめ、首を垂(た)れ、両手を胸のあたりで組むようにして坐った。自然に祈りの心になった。はずんで来る呼吸のみだれをととのえることができなかった。とうとうその日が来た、と、そうせねば一度つかみかけたものも手からずり落ちてしまいそうなあやふやな気持で、おちかは自分に言ってみた。なんという長い五年の月日であったことだろう!今となってふりかえってみれば、ただもうわるい夢を見つづけて来たようなものだが、五年前のその日はるかに今日の日をのぞみみたときには、考えてみただけでもう精根の尽きはてるおもいがするのであった。
「なあに、過ぎ去ってみれば短いもの、案じるほどのことはありゃしない、よしんば案じてみたところでなるようにしきゃならないんだから」
からくもふるえる声で自分自身に言った。そばかすのある顔は青ざめ、眼はどこかあらぬ方を眺(なが)めているようであった。今までとても世のいざこざおすべてをその考え一つで押しきって来た六十年の老いの経験が、この際も一応はおちかの気をしゃんと立てなおしたかに見えたのであったが、さてその日から実際にはじまった一日一日は信じがたいほどの重さでのしかかって来た。一日明ければもうその瞬間から明日の日を待ちのぞんでいるのであった。仕事のあいまには一日に何度も暗がりにしゃがんで息をつき、その都度肩や腰のあたりからからだの精が抜けおちて行くような気持だった。昭和×年十月××日と、檜(ひのき)のうす板に書いて、自分の居間になっている四畳半の神棚(かみだな)に上げ、朝夕それを見あげるごとに針を持つ手もふるえがちなこのごろの身の衰えをおもった。はたしてその日まで、向うは無事でもこっちはどうであろうとおちかは心細がった。しかし人に向ってはかたくななほどにぷっつり口をつぐみ、慰めの言葉をもらっても一と通りの挨拶(あいさつ)で受けるだけで、その挨拶にも顔のいろにもつっぱねたものが感じられた。いろいろとかきくどき、うわずった声でいうだろうと予想して来た人たちにはなにかもの足らぬ感じを与えたのである。
「なんで情のこわい婆(ばあ)さんだろう。なるほどね、息子もあれに似たんだね、業(ごう)さ、業たかりだよ」
人々はそっと陰口をたたいた。自分には直接かかわりのない人間の不幸を、一定の距離をおいて眺め、やさしい言葉をかけることのなかに感じる残酷な喜びを裏切られた憎らしさがそこにはこめられていた。おちかは人の眼のとげを感じながら、だまって目立たぬように生きて行った。そうして自分ひとりでじっとたえて来た心の重しは、五年後の今日、今はかくしきれぬものとなってあらわに肉体に刻み残されている。痩(や)せるだけ痩せ、顔は小さくなり、眼だけがこれを限りと一つものにしがみつく必死な光りを放っていた。
おちかは立ち上って着ものを着かえた。坐った当初から心の隅(すみ)にきざし、しだいに大きくひろがって来た不安にもうじつとしていることができなかった。この手にたしかに握ってみないうちは、その約束の時が近づけば近づくほどかえってますます大きなものになって行くあの不安である。おもいもかけない何らかの障害が、今、渇望(かつぼう)の満たされようというその瞬間にふいにどこからか割り込んで来てすべてをぶちこわしにしてしまう、いためつけられ通しの六十年の過去にそういう事実は一再にとどまらなかった。その暗いかげにおちかはおびえた。
おちかは雨戸を一枚だけあけ、空をうかがおうとからだをのり出した。さっと音もなく繁吹(しぶ)きが来て顔をぬらした。あ、雨か、と今はじめて気づいた。うっすらと向うから白みかけて来る空のなかに細い雨脚(あまあし)がみだれている。
おちかはそっと廊下を行き、台所へ来て、ことこととひそかな音をさせながら朝の支度(したく)にとりかかった。
「ねえさん、もうそんな時間なの」
茶の間につづく座敷に寝ているひさがねむそうな声でいった。
「さあ、何時だやら、眼がさめたんですぐに起きてきたんだけれど」
何気ないふうをよそおって言った。やっぱしその日の朝となればおちついて寝てもおれんじゃないか、平気らしく構えているのはうわべばかしさ、とあざわらいの気持で心の底をのぞこうとしているものたちがいる。
夜明けから降りだしたらしい雨は小止(こや)みなしに、昼すぎからは風さえ出て来た。壁は湿気を吸い込み、火鉢(ひばち)の欲(ほ)しいような寒さは、腰の神経痛にひとしおこたえしんしんと疼(うず)き出すのであった。この部屋は狭いせいかあったがだね、と玄関に近い三畳の小女の部屋にひきこもり、小女相手におちかが雑巾(ぞうきん)を刺しているのにはわけがあった。新市域にはいってから近年この界隈(かいわい)にはめっきり家がふえ、駅につづく表の街道(かいどう)は人通りも増し、午後円タクがひっきりなしに往(ゆ)き来した。姿は見えないが、その一つが家の前近くにとまるとき、この小さな部屋にいてはっきりそれとわかるのである。そのたびごとにおちかはどきんとし、からだじゅうの神経を一つにして、聴(き)き耳を立てるのだ。くぐりを開(あ)け、砂利(じゃり)を踏んで来る足音をとらえようと焦(あせ)るのである。そっと音のせぬように廊下へ来て、襖(ふすま)を半ばあけ、のぞきこんで、そんなちかを眼で弄(もてあそ)ぶようにじろじろ見ながらひさが言った。
「そうそう、今日は順吉さんが帰って来る日だったのねえ。今気がついた。停車場まで迎いに行ってあげたらいいに」
通りしなにふと気づいて襖をあけあらしくつくろってはいるが、実はわくわくする興味をおさえかねてわざとのぞきに来たことをその眼は語っている。たった一人の甥(おい)の喜びの日を忘れていたという、それだけでもう自分の薄情をさらけだしている、事実はしかし一ヵ月も前からおちかとはちがった関心から今日の日のことを考え、それにのみこだわって着たようなひさであった。
「子供じゃないんだし、それに着く時間もわからないしするから」
ぼそぼそと低く口のなかで答えた。針を持つ手の細かなふるいが剝(は)ぐような意地わるな眼に映りはしないかとおそれるのだ。だらしなくスリッパをひきずるようにして足音が遠ざかると、家じゅうの誰彼をつかまえて、電報一本うたぬ息子も息子だし、迎いに行こうともしない親も親だと陰口をきいているひさが眼に見えるようである。ときどき空に眼をやり、街路の音に気を持ちつづけ、ついに日暮れちかくになって車が一台この家の塀(へい)の曲り角に近くとまった。たしかにそれとすぐに胸にじかに来た予感があった。おちかは急いで立って、街路がそこからまっすぐ見通せる玄関横の応接間にっはいって窓から見た。行李(こうり)を地におろし、こっちに背を見せながら若い男が金を払っている。季節にはまだ早いはねあげたとんびの袖(そで)の間からは、あきらかに自分が手がけて縫った着物の柄がのぞかれた。おちかは部屋を出ると、台所にかけてあったはたきと箒(ほうき)を手にして二階へ上って行った。もう夕方の掃除(そうじ)の時間が来たと、なにげなく見せかけるふうであったが、胸はわれるように早鐘をうっていた。しばらくすると下の方に、廊下を往き来する足音と、ひさに女中、それに男の声がまじって話すこえがきこえた。バタバタと子供が走ってくる音がすると、「花子や、おばあさんにね、順吉さんがお帰ったからすぐにいらっしゃいって」と、ひさがいっている。
「おばさん、どこ?」「さあ、お二階でお掃除かしら」
すぐにそこの階段の中ほどに足をかけ、くりかえす花子のこえがきこえて来た。
「おばさん、おばさん、順吉さんがお帰ったからすぐにいらっしゃいって」
塵(ちり)もないそこらあたりにそわそわと箒をあてていたおちかは、あい、今行きますよ、と高く答えながらそのこえははっきりふるえていた。
下の座敷へ下りてみると、順吉はそこにきちんと膝(ひざ)を重ね、叔父夫婦と向い合って坐っていた。後ろ向きにやや斜めに坐っている順吉の、のばしかけてまだいくらにもならない髪の毛が子供のそれのようにぽやぽやと細く柔らかに、色はうすく赤味がさし、栄養の悪い感じで、額が目立ってぐっと禿(は)げあがっているのが、まっさきにおちかの眼をとらえた。足音に母親と知ると、順吉は頭をかえしてまっすぐにこっちを見た。正面からおちかの眼にじっと見入り、しっかとすわっあその眼つきはおちかがかねて心のどこか奥の方で予想していたものよりは、はるかに強いものであった。こわばった表情で受けとめ、ふたたび視線のそれるまでの瞬間の激情におちかはからくも踏みこたえたのである。
「御挨拶はすんだのだね」
おちかのはじめての言葉であった。順吉は静かにうなずいた。
「おまえ、ちょっと失礼して着ものを着かえたら……」
隅の方に坐って、臆病(おくびょう)そうにおちかはまた言った。同時に、これがあの五年のあいだ夢寐(むび)にも忘れることなく待っていたその瞬間かとおもえば噓(うそ)のような気もし、崩(くず)おれて行く心の疲れをどうすることもできなかった。


帰って来た順吉の心をおちかはどうにもはかりかねるのであった。その夜、二人だけの四畳半にはいり、向い合って坐ると、順吉は母の前に手をついて言った。
「ほんとうにお母さん、長い間いろいろ御心配をおかけして、……」
言葉はそこでぶっつりときれ彼はおもわずこえをのんだ。身体(からだ)はこのごろどうですか、神経痛はやっぱり出ますか、とそういうことをやさしくいたわるようにきいた。その言葉にこもるしみじみとしたものに感じておちかは見失ったわが子をふたたびこの手につかんだと思った。が、そう思った次の瞬間におちかはもう不安であった。五年のあいだの恐ろしい生活に少しも挫(くじ)けて見えぬはげしい意地の張りがおもいをかけず順吉の眉目(びもく)にひらめくからである。順吉の無事の帰宅を祝う意味で、かたばかりの祝いの膳(ぜん)にその晩一家じゅうのものがついたとき、思ったより順さんは元気に見えるといい、ひさはしきりにはしゃいで見せた。叔父の奎吾(けいご)もその言葉を受けて大きくうなずき、近しくしている府会議員の某が、収賄(しゅうわい)で十ヵ月やつれようあどは見られたものではなかった、やはり気一つのものと見える、などと話した。順吉は尾頭(おがしら)づきの魚の塩焼きに箸(はし)をつけて、何年ぶりでたべるかとわらい、酒はお愛想(あいそ)に一と口受けただけで二人が話しかける言葉を口数すくなく受け流すのだった。そういう彼を側に身ながらおちかは人知れずひとり気をもんだ。奎吾やひさの饒舌(じょうぜつ)はなにも順吉にたいする好意からではない、向い合って坐っている順吉にはきびしい感じで迫って来るものがあり、ふとした言葉のとぎれにはとくに重々しくのしかかって二人はその気づまりにたえないのである。垣(かき)をつくって力んでいるふうは少しもないのに、そこからよせつけぬというところがあり、うかつに順吉の過去にふれることを阻(はば)むものがあった。請負師という家業が持ついやしさに満ちて人を人とも思わぬ奎吾の面魂(つらだましい)をはじきかえして見える順吉を見ることは、うちひしがれ、卑屈になった彼を見るよち何ほどの喜びであるか知れはしない、だが今後どれほどの期間かここにこのまま世話にならねばならぬ母子(おやこ)の生活をおもえば、たとえ表向きだけでもちっと調子の合わせようもあろうにとおちかは気兼ねなのである。そういう順吉がおちかと二人きりでいるときにもひょいひょい顔をだした。心弱く挫けて母の膝に泣きくずれるような子であったらと、そんな順吉がむしろのぞましいものにおもわれさえするのだ。完全にこの手のうちに戻(もど)ったとまだいいきることのできぬ気がする。もう二度とどこへも行かないでおくれ、その言葉がのどまで出ながら、それをぐっと押し戻すものが順吉のどこかにまだ残っていた。
廊下のはずれにある北向きの暗い寒い四畳半にそうして母子二人のわびしい生活がはじまった。朝、まだうす暗いうちから、広い庭をはさんだ長い廊下には、さかさになって雑巾がけをするおちかの姿が見られた。赤児(あかご)の拳(こぶし)ほどの小さな白い髷(まげ)ののった頭を床板におしつけるようにして、両足を八字にぐっとつっぱり、永い廊下をあちこちと走った。息を切らし、ぜいぜいいう音がはなれていてもきこえた。一と走り走っては腰をのばし、せつなそうに深い長い息をつくのであった。たくりあげた裾(すそ)の下にあらわにのぞかれる両のふくらはぎには静脈瘤(じょうみゃくりゅう)が青くふくらみ、蛇(へび)のようにまがりくねっていた。順吉の留守中のおちかの生活の一切がそこからのぞかれた。その姿からそらした眼を、秋の日のなかに立つ庭の葉鶏頭(はげいとう)の燃えるようなくれないにうつし、順吉はしばらくじっと堪えるのであった。昼ちかく、仕事が一応片づいて自分の時間ができるとおちかは部屋へ帰って来る。おちかはいそいそとし、順吉が持ち帰った行李や風呂敷(ふろしき)包みをひらくのだった。二度と使いみちにならないよれよれの着ものや、洋服や、襟(えり)つきのワイシャツや、いくらかの書物や、そういうもののなかにはわずかに人のうわさを通してあれこれと思いめぐらしてみるにすぎない、別れて音信も不通になって以来の順吉の生活がじーっとひそんでいるようであった。それは奥深く、ものおそろしげで、おちかにはついにうかがい知ることのできぬものにおもわれた。和服などはおちかが手がけたものがそのままに残っていた。いつまでもおちかはあれこれといじくりまわしていた。かび臭い、ごみ臭い、また饐(す)えたようなもののにおいは複雑なおもいを誘ってやまなかった。順吉が帰らぬうちのことであったならば、それらは胸もつぶれるほどのおそれとかなしみのたねになるだけであったろう。今はしかしなつかしさと、なにか珍らしいものでも見るような気持でくりひろげることができるのである。
「なんとまアえらい汚(よご)れだこと、どんなに丈夫なものでもこうなっちゃ」
事実、ちょっと手でひっぱっただけでびりびりと裂ける紙のようになった切れ地なぞがあった。
「そうでしょうね、なにしろわたしがあそこにいるあいだ、ずーっと役所の庫(くら)のなかにほうりこんであったんだから
順吉は行李の底から取り出した手紙の束をほどいてたんねんによみかえし、差出人の所書きを手帳にうつしたりするのだった。時間になるとおちかは二人分のたべものを部屋にはこんだ。おちかは家人におくれて女中とともに食事をする今までのならいであった。台所と部屋との間をたべものを持ち運んで往き来するおちかは何かこそこそと人眼をはばかる感じだった。夜食は順吉だけ、叔父夫婦とともにすることがあった。夜は、母子は火鉢をなかにはさんで坐り、なんということなくいつまでも起きていた。
「まア蟋蟀(こおろぎ)がよく鳴くこと」と、おちかは眼を細くして言った。遠いくにの田舎(いなか)でも思い出しているのかも知れなかった。「ほんとうにこのへんは夜になるとまだまだ田舎じゃ」
風に木立の騒ぐ音が遠く水の流れのように聞えた。
虫の音や風の吹き落つる音はつい数日前まで彼がそこに朝夕を送っていた世界へ順吉の心を連れて行った。彼は一日に何度かまだ自分がどこにいるかをも忘れているようなみじかい時間があった。ぼんやり夢見てるようなうつろは心からふと我にかえり、自分が今坐っている部屋の現実のありさまに気づくとき、「おれは自由だ」と彼は声に出して自分自身に言ってみずにはいられなかった。彼は高く晴れた秋空を見、老衰した母親を見、小ざっぱりとした絣(かすり)に着かえた自分の姿を鏡に映して見た。現実に我ものとなった自由をたしかめることができた。しかし彼が長年のあいだ待ちのぞんでいたっほどの大きな喜びはなかった。心は喜びから遠い暗さのなかに落ちこんで行くばかりだった。制限を附された自由のゆえにか、それとも出所後の彼がたどらねばならぬ苦痛の道のゆえにであろうか?帰って来て二、三日のうちは、あけがたの寝床に夢うつつでいながら、起床の汽笛と点検の声を心待ちにしているような自分に気づきおもわず苦笑されるのだった。眼ざめた瞬間に窓の明るさに眼を射られ、あわてて布団を蹴(け)って起き上った朝もある。夜聞く蟋蟀の声や風の騒ぎは今いる部屋をそのまま独房の一つに代えてしまった。彼が長の年月そのなかに過した独房は木造の旧式な建物で床が高く、その床下あたりに来て虫が夜どおし鳴いた。ある日の運動時間に道を行く彼の前を跳(は)ねて行くその虫の一つを素早く捕えて持ち帰り房内に放ったことがあった。その夜は鳴かなかったが、翌日からは一日じゅうが日暮れどきのように暗い曇り日は昼さえも洗面器や便器の陰などでよく鳴くのであった。季節季節にそれぞれの心で聞かれた雨風の音も今なお耳に残っているようである。
時々ついぞ見かけたことのない背広に口ひげの紳士がたずねて来て順吉に会うのであった。二人のことがあり、また一人のことがあった。
「当分ここにいるのかね」
「丈夫そうじゃないか、そのぶんならまだまだどうして」
「誰も歓迎会をやってはくれないのかね、昔の同志諸君はどうした」
あるときは玄関先にどっかと腰をおろし、あるときはぬっと立ちはだかり、そこへ順吉を呼びだして低いねっとりした口調でいうのであった。微笑をさえふくんでいるのだが、声を立てては決して笑うことのない、すばしこく動きながらへんに眼つきのすわった彼らの姿が門の内にちらちらするごとに、家じゅうのものはおちつけなく、いくども立って来ては様子をうかがうのだった。出された茶呑(ちゃの)みを口にあてて鋭く奥の方を一瞥(いちべつ)した。順吉はふところ手にしたり、帯の間に手をはさんだりしたまま、向いあってのっそり立ち、口数はすくなく、彼らがいうだけのことをいうのを見すますと、だまって戻って来るのだっあ。順吉が留守のとき彼らが来ることがあり、そういうとき彼らは帰ると見せかけてかならず裏手へまわり、勝手口から首をつっこみ、手をあげて、ばあさん、ばあさん、と奥の暗がりにいるおちかを呼んだ。
「どうかね、毎日でかけるのかね。友だcっひがたずねて来るだろう?え?一番このごろに来たのはいつだ。え?昨日かね、おおといかね」
急(せ)きこんだ口調でおどすようにいい、おちかの顔から眼をはなさなかった。深夜けたたましくベルが鳴り、電報かと寝間姿のまま出て見ると、戸外の暗闇にだまって彼らつっ立っていることがあった。彼らが立ち去ったあとお玄関はしんとしずまりかえり、戸じましりしてもどるおちかは毒気にあったもののように蒼(あお)ざめた。
「あの人たちはどんなお人だね?」
けれども順吉は、なあに、とこともなげに笑ったきり、じっと見つめて待っているおちかをほかの言葉でまぎらし、そうして彼が家をあける日はしだいに多くなって行くのであった。朝飯がすむとすぐに出かけ、晩の九時近くようやくかえって来ることがあった。おっ母さん、晩ごはんがまあなんだけれど、と順吉はいい、そういうときおちかは茶の間の片隅にちゃぶ台を据(す)えて支度をしてやりながら、鼠入(ねうみい)らずのあけたての音にさえひさに気兼ねであった。順吉はしかしさらさらろ茶漬(ちゃづ)けの音をさせてゆっくりとうまそうに食い、いつの間にか側の長火鉢の前に来て坐るひさにも気づかぬふうに見えるのだった。そういうある夜、順吉が帰って来たとき、やはり遅(おそ)く帰った主人の奎吾が膳につき、酒を酌(く)んでいるのに逢(あ)った。ひさもおなじ座にあった。
「まあ、少し話して行きなされ」と、盃(さかずき)を干して順吉にさし奎吾は言った。「このごろは毎日どこへおでかけか」
奎吾は妙に意気ごみ、いおうとすることの促拍に息をさえはじませていた。しかしすぐにはいえず何かこの若造が、と心をはげましているふうであった。もうかなり酔ってどんよりと坐った眼の眼尻(めじり)がたるむと、彼はにわかに態度も言葉の調子もかえて、べつなことをいいだした。
「どうもわしはせわしなくって、この一週間あまりというものまるで家におちつくひまもなかったが、新宿の××屋の建築工事な、あれが今度いよいよわしの手に落ちることにきまったもんでな」
何しろ工事の総予算がこれこれになる仕事なんだからと、片手をあげ、妙な手つきで指を折ってみせたりした。順吉はだまってつがれた酒を一と口飲み、とぎれがちな二人の間をこっちから話かけてつなごうという話題はべつにないのだった。ただ、大阪の武夫(たけお)からも君のことを心配して手紙が来ていた、と聞かされたとき、武夫君はその後どうしておられるか、とたずねてみた。すると奎吾よりもさきに、ひさが、盛り上がった膝をのりだすようにして二人の話に割ってはいった。
「うちの武夫もねえ、順さん、学校を出てまだ五年だけど、もうじき博士になれるってこってね、論文とやらをこのあいだだしたが、それがまたねえ、何やら大へんな研究だとかいうことで」ひさは、花子や、花子やとまだ寝ずにいる娘を呼んだ。「お座敷のお父さんの机の曳出(ひきだ)しからいつぞやの新聞を持っておいで、あの、大阪の兄さんの写真がのってる」
奎吾が受け取ってひろげて見せたその古新聞の社会爛は、医科大学の外科の助手、野田武夫の画家的な研究というものを報道していた。癌(がん)、結核等の難症と、内分泌(ないぶんぴ)との関係を明らかにし、睾丸(こうがん)の移植によって酸素消費量を増大し、内分泌をさかんならしめて病気の進行を防ぐというのがその研究の内容らしかった。奎吾はうろおぼえの医学上の術後を交え、いくどかおなじことを人に語り慣れたことをおもわせるなめらかさで説明し、近いうちに外科学会が開かれるから東京へやってくる、そのときにはあんたも会えるこったろうといい、最後に指導教授の某氏から娘をやろうとの話があり、話は進んでいるとつけ加えた。「ちっと身分ちがいだとおもわんでもないが、向うからあった話だし、それに本人は、そりゃもうよりどこといって申し分のない娘ごだによって」
聞き手にまわっていたひさは、すぐその言葉のあとを受けついで言った。
「どうもしかしわたしゃ上方(かみがた)の娘さんをもともと好かんのさ。あのおまへん言葉を聞くとわたしゃ胸がむかついて来てね。そりゃいいとこの娘さんだし、器量よしじゃあるけどね。写真があるから順さんに一つ鑑定してもらいましょうかね」
おさえがたい喜びをかくそうともしない白々しさだった。障子の陰の台所ではおちかが奎吾のために料理の次の皿(さら)を支度しながら聞いていた。秘蔵息子の自慢話にはげまされたらしい奎吾は、それに加わる酒のいきおいもあって、依然むっつりしている順吉を正面に見据えながら、ようやく興奮して来た。がぶっと大きく飲み干し、それをきっかけにはずんだ語勢で、これだけはいつかはいってやろうと前々から腹にためこんでいたらしい言葉をとうとう口から吐き出すのだった。
「時にね、順吉つぁん、おまえさんもさ、考えてみりゃずいぶんつまらんことになったもんじゃないか、ええ?、満足に行ってりゃ、おまえさんも今時分は役人か弁護士か銀行員なんぞでさ、それとも理屈好きなおまえさんのこったから学者にでもなってるかね、まなんにしたところで今よりゃましだあね、こんなこといっちゃ失敬だが、母子して人ン家(ち)の軒下を借りとる今よりゃね、わしは学問がないから理屈はなにも知らん、ただ何事にまれ、はじめっから成り立つ見込みのないことには手出しをせんのが利口だということだけは知っとる。腕一本脛(すね)一本のものが五百や千あつまっておかみに楯(たて)ついてみたところで、それがどうなるというのさ、平(たいら)の将門(まさかど)、由井正雪(ゆいしょうせつ)の昔から西郷(さいごう)さんの近ごろまでむほんの勝ったためしがあったかさ、過激なことはなんによらず天の理にもどるによって勝てんのだ、人のため人のためとお前さん方はすぐいうが、こういっては失敬だが、自分ひとりの口すぎもようでけんものに人の世話がやけるもんでもあるまい、おまえさんにしたところで今になってふりかえってみりゃ、おっ母さんを泣かせ、親戚(しんせき)に迷惑をかけ、世のなかをせばめたぐらいがおちだったじゃないか、わしはなにもおっ母さんの世話がいやでいうんじゃないが、おまえさんももう人のことよりゃ自分の身の始末を考えてみちゃどうだね、主義とかなんとかいえばきれいだが、人間誰しも腹の底をわってみりゃみんな自分本位なものだ、うわべのきれいごとはみんな噓さ、そうともさ、どんなにえらそうな口をきいているものだってみんなそうさ、人間なにが幸福だとて、はよう嫁もろうて一家をなし、財産も子宝もふえ一家さかえて行くのを見る以上のたのしみなんてものはほかにないもんさ」
分厚い唇(くちびる)がまくれ、紫の歯茎がむきだしになり、酒焼けに焼けた奎吾の顔には汗がながれていた。順吉は微笑した。ああこれか、と余裕のある腹でおもった。このあいだじゅうから何かをいおうとし、妙に意気ごんではいるが、正面に顔が合うととたん挫けてしまう奎吾であった。それはこんなことをいおうがためであったのかと案外な奎吾の弱気がむしろおかしかった。順吉にとっては朝夕の挨拶ほどに耳慣れたものになっているそれらの言葉ではないか。はげしい言葉で一蹴(いっしゅう)し、あるいは冷笑して受け流すことになれてはいたが、今は、「ええ、いろいろ御心配をおかけしてすみません、ぼくもいろいろ考えてみますから」と、無下にははねかえさず、軽くやわらかに受けとめたのである。
自分の部屋に隠れ、灯(あか)りもつけず、暗がりのなかに坐っておちかはひとり泣いていた。両手で顔をおおい、声は立てずただ涙の溢(あふ)れるに任せておいた。いうことのよしあしは別として帰って来て早々の順になにもあんなふうにいわぬでもよかろう。またそれぐらいのことをわきまえぬような順でもない、もっといたわったらどんなものかと、何よりもまずその口惜(くや)しさが先に立ったが、もとより悲しみの根ははるかに古く深いのである。死んだ夫の米吉(よねきち)は故郷仙台(せんだい)から早く北海道に渡り、札幌(さっぽろ)に住んで、諸官庁や学校に出入りしてかなり手広く諸工事を請け負っていた。小柄だったがどこもかしこもまるい感じで、笑うと眼がなくなり、器用人で人柄に一種の魅力があって人々に愛された。が、酒に酔い痴(し)れると一時全く狂気してあらゆる暴力がふるわれ、それを取り鎮(しず)めるにはやはり暴力をもってするかあるいは放任して時を待つかするのほかはないのだった。嫁(とつ)いで来て一週間目にはじめてそういう夫を知ったとき、おちかはがたりと気落ちして台所の板の間に腰をおとしたまましばらくは立てなかった。おちかはこれが二度目の結婚であった。最初嫁いだ先は官吏だったが、数多い小姑(こじゅうと)にいびられて一年足らずで不縁になった。死ぬまでいるおちかの肚(はら)であったのだが、ある日夫が机の曳出しに入れておいた札が一枚紛失した、それがおちかの持ちもののなかからあらわれたとの理由で出されたのである。旧藩士で開拓使の役人だった父親は斬(き)ってしまうといって日本刀を持ちだしたりした。だから再縁の話があり、相手もやはり二度目で先妻の子がよにんに姑もいると聞いたとき、そしてそれが到底避け得ないものであると知ったとき、おちかは生きた心地(ここち)もなかった。今はただ一度顔を合わしたきり、そしてその限りではやさしく頼もしそうに見えた夫一人が力だった。その夫が今は酔えばおちかの髪の毛を腕にまいて家じゅうをひきずりまわしてあるくのである。その時以来おちかは、何事にまれおのれを殺すことがたった一つの自分の生き方であるとのあきらめに深くも居座って生涯(しょうがい)動くことがなかったのである。近く中学校を卒業しようという長男を頭に四人の子供らも、そういう父親の濁った血を受けているせいであろうか、どれもこれも意志の弱い、人間の享楽的な生活に向ってだけ早く眼がひらけるといったような子供らだった。絶えず何かにつけねらわれてでもいるようにおどおどしながら暮して来たおちかはその年の秋みごもるとあらたな恐怖におそわれた。やがて生れようとする自分の子供を父親とかの四人にひきぐらべて考えるのである。おちかの再婚とおとんど前後しておちかとは十以上ちがう妹のひさが、米吉の下に使われていたっ奎吾に嫁いだ。後年彼らは米吉の世話で上京し、仕事の上で独立したのだった。
六年経(た)って夫が脳溢血(のういっけつ)でぽっくり死んだとき、おちかは涙も出ず、かえってがっかりと虚脱したような安心をおぼえた。一時に疲れがでて一週間ほども寝こんだ。急に年をとったことを感じた。腹をいためぬ子供たちはみなもう大きかったので、一人児の順吉を連れて分家した。米吉はどれだけのものも残して行かず、おちかへの分け前はあらたに一家を構えると同時に消え去ってしまったほどのもので、その日からすぐにも附合いだけは広かった亡夫の顔を利用して針仕事の口などをさがしまわらねばならなかったが、それでもおちかは長年もとめあぐんだものを順吉とただ二人きりの生活のなかにはじめてしかとつかみ得た心地がしたのである。順吉が小学校に通うようになっては、長い縞(しま)の、がわがわした小倉の袴(はかま)の紐をしめてやる朝々のおちかの手には一種の感慨がこめられていた。子もまたそういう気持を受けてか順吉ははじめから出来のいい子であっあ。後半生の生甲斐(いきがい)を順吉の将来にだけ見出していたのはもとより最初からではあったが、そういう順吉を見て希望がしだいに現実に近づきつつあるとおちかが感じたのは当然であろう。妹夫婦の武夫についての自慢話を耳にするごとに、そのむかしおなじ高等学校をおなじ年に受験し、順吉ははいったが武夫はおちて一年遊ばねばならなかった事実をかなしい口惜しさでおもいおこすのだ。武夫もまた妹夫婦にとってはただ一人の男の子であった。双方の一人児をなかにはさんで、親たち同士が、互いに競い合うかのような心の状態におかれることははじめから避け得なかった。ひさが時々帰道し、おちかに会うごとに二人の感情はからみ合った。同じ受験の時以後それはますます露骨なものになって行った。おちかが順吉の学費のためにいくばくかの補助を願い出、ひさがそれをにべもなく蹴った、昔のことを恩に着せようってのがわたしゃいやなのさ、とひさは傍人に語ってあるいたが、その時以来、おちかの順吉への期待はあらたな情が加わったのである。後年順吉は学業を途中で放擲(ほうてき)し、他国に行って民衆のなかに入り法にふれるようなことになったが、その事実をおちかは長い間知らなかった。そのおちかへ、どこで手に入れたかひさは順吉の事件のいきさつを写真入りで巨細報道した地方新聞の切り抜きをわざわざ送ってやった、簡単な見舞いの手紙がそれには添えられていたが、それ御覧な、と手を叩(たた)いているようなひさを言葉の陰に感じたとしてもそれはあながち不幸なおちかの邪推とばかりはいえなかったであろう。よるべを失ったおちかは間もなくひさのもとに身をおくにいたったが、そこでは決して姉として迎えられはしなかった。今まで二人いた女中は一人に減った。奎吾も五十を越えて仕事の上にもあぶらが乗り、財も出来、ひさは更年期の女らしく肥えふとって何事によらずあけすけものをいい、けばけばした成り上りものらしひいやらしさが家じゅうには充(み)ちていた。武夫の話をするときは必ず順吉を引合いに出しておちかの胸をえぐった。今なお米吉に顎(あご)で使われた昔は忘れがたく、みじめなおちかを見ることでひそかに成り上りものの快味を味わっているものとおもわれる。
順吉が高等学校へはいるようになって、ぼしははじめて遠くはなればなれに暮した。ときどき帰って来る順吉の顔はそのたびごとに思慮深い大人らしさを増し、するどくひきしまって見えた。しかしいつも不機嫌(ふきげん)そうに蒼ざめ、声を立ててわらうこともないのが気になった。ちょうどそういう年ごろではあるが、年のせいとのみはいえないものがあり、眼に見えない気質の病が感じられ、ふとあることに思いあたっておちかは顔いろを変えた。死んだ夫の血を思い起したのである。極端な父の陽性と子の陰性とその正反対なものの間に相通じるものが感じられた。母のこのおそれはあたっていたといえる。しかしそればかりではなかった。母からは月々わずかな小遣(こづか)いを受けるだけで、順吉は自活し、そのために強(し)いられる卑屈さは若さのゆえひとしおこたえた。そういう彼の実生活を通して来る社会の重さがあり、一般に当時の青年がその下に喘(あえ)がねばならなかった時代の圧力があった。青春は失われるか、歪(ゆが)められるかしていた。当時の経過として一つの思想が進路において順吉をとらえた。それは彼を救った。会うごとの彼の相貌(そうぼう)に深さを増して行った神経的な鋭さは、それらすべてのものの複合の所産であった。
しだいに音信がとだえがちになり、帰るべき夏にも帰らなくなった。母はおそれながらも子を疑わず、時は流れ、今は学業の終りの日が待たれるばかりとなった。ある日おちかはひさから一通の手紙を受けとった。
おちかは漠然(ばくぜん)と何かが起ったのを感じた。彼女はしかし新聞が読めなかった。当時のおちかはある会社の若い独身社員たちの合宿所の飯炊(めした)きをしていた。すでに老年の底翳(そこひ)が眼に来、針めどは見えず、手はふるえて二十年の活計(くらし)を支(ささ)えて来た仕事とも別れたのだった。おちかは社員の一人に新聞の切抜きと手紙とを示し、読んでくれといってたのんだ。彼はけげんな面持でそれを手にし、おちかの顔とを見くらべた。彼は読んだ。愕然(がくぜん)として再びおちかの顔をぬすむように見た。ことの重大さを知り、どうおちかに伝えるべきかについて迷った。しかし彼はどうにかしてそれを伝えた。おちかは口のなかで何かぶつくさいい、頭を垂れ、足をひきずるようにして自分の居間へ帰って行った。
周囲の壁に押しつぶされそうな息づまる感じから、窓により眼を遠くにやって見たが、ものの遠近が一つであった。しばらく見ているうちに眼の前が曇って来た。夜にはいってからさきの社員が心配してそっとおちかの居間をのぞいてみると、おちかは部屋の隅にぴったり壁に向い合って坐り、人には聞えぬほどの低さで、しきりに自分自身に語りつづけてた。それは孤独な彼女が心の惑乱からおのれを救うたった一つの方法であった。長年の独り暮しに思い出した時にはしっばしばこの方法にたよった。何かにとりすがる必死な気持ちで口から出任せにおのれに向いかきくどいた。するとそのうち次第に失われた心のおちつきを取り戻して行くのである。
翌朝、もう一度新聞の切抜きをとりだし、恐ろしいものをのぞきこむように載っている写真を見た。髪を乱し、眼鏡(めがね)などをかけ、顎鬚(あごひげ)はまばらに、シャツのボタンはとれ胸ははだけている、これがあの順吉だと誰がいうのだ、順吉は何をやったというのであろう。おちかは心のきまったふうでまた昨日の社員のところへ出かけて行った。
「ここからだいぶありますかしら。××県というとこは。あなたおいでなすったことがおありで」
「ええ、ありますよ」彼は実は一度も行ったことがなかった。「ここからはずいぶん遠方ですがね」
「ほう」とおちかは意気ごんだ。「そりゃどんなところで。寒いところですか、それともあったかな……」
「暖かなところですよ。それに花莚(はなむしろ)というのがありましょう。あれができるんで名高いところです」
「東京のこっちですか、それとも向うですか」
「向うです」
「大阪よりは」
「大阪よりも向うなんです」
「一体どのくらい汽車や船に乗ったら行けるんでしょう」
おちかは叫ぶように言って、それきり考えこんだ。若い社員は地図を持ち出して来ておちかの前にひろげ、詳しく説明してきかせた。
おちかはわずばかり残っていた家財道具を売り払い、手まわりの品だけを行李一つにまとめて汽車に乗った。津軽海峡を渡る船の上、雨のそぼ降る海の海鳴りを闇のなかで聞いたとき、かつて遠い他人のものであるに過ぎなかった一つの誘惑を自分自身に感じた。電光のひらめきのごとく彼女はそれを感じたが、同時にそうけだつ思いで、船室に帰った。飲み食い、笑いさざめいている旅客たちをじっと見ているうち、彼女はおのれのうつつ心がしだいにあやしく乱れ出して行くのを感じた。東京へ行き着いたが、ほかに身をよせるところとてない、ひさのもとに一晩泊ったが、ひさの顔をまともに見ることはできなかった次の日の夜一夜の泊りでかえって疲労の増したようなからだでふたたび汽車に乗った。翌日目的地に着き、そのまた次の日泊った宿の女中に連れられて町はずれの刑務所に行き、そこで順吉に会うことができた。彼はふくれていて青く、水にふやけた瓜(うり)のような感じであった。会ったとて何もいうことなどはありはしないのだ。ほんの二言三言話したきりで宿へ帰り、そこで少し泣き、その夜のうちにおちかは帰京の途に着いた。
二人は三年ぶりで会ったのだ。そして今度は五年待たなければならなかった。むろんその間にも逢うことはできる。しかしおちかはその後一度も訪(たず)ねては行かなかった。
追いまわされつづけて来た自分の生涯が、ようやく終局に近づきつつあることをおちかは感じていた。堪えつづけて来たものだけが持つ頑強(がんきょう)さで、尽きそうで尽きないしかし今は最後のものとおもわれる力をよびさましはげますことができるまでには、かなりの間があったのである。


追いつめられて行く自分を一日一日感じながら順吉はやはり毎日のように外出し、このごろようやくその消息がわかった昔の友達の島田に会うのであった。はじめ順吉は毎日図書館に通い古い新聞を繰りひろげて見て、自分が留守であった五年間の社会の動きについてたとえその表面にあらわれたところだけでもできるだけ詳しく知ろうと努力した。思いもかけなかった、しかしことの本質を考えてみるときはその生起をみじんも不思議とはしない事象の次から次への壮大な展開は完全に彼を圧倒した。歴史は流れている!彼は血潮のわき立つ実感をもってそれを感じた。刺戟(しげき)はしかしあまりにも強かった。眼と神経がすぐに疲れた。彼はもみくちゃにされ、興奮し、酔っぱらったものの足どりで家へ帰るのだった。図書館通いが一と句切りつくと学生時代の友人や、自由になっている昔の仲間たちを訪ねて街(まち)から街をあるいた。居所が不明であったり、相手の今日の社会的地位が全く思いがけないもので自分との間にあまりにも大きなかけ離れが感じられたりして、会えないものが多かった。それでも彼らのうち四人のものが、順吉の無事出所を知って、ある一夜、彼を招(よ)んでくれた。親戚の一人がそこの幹部である新聞社の記者をしている山下がいた。当時としては意想外な株屋に転向し持って生まれた機敏な才能を生かしてもうかなり儲(もう)けていると噂(うわさ)されている田辺(たなべ)がいた。小説書きになった高山がいた。歴史研究家の杉村(すぎむら)がいた。
「日ソはいよいよやるらしいね、ほとんど隔日だそうだ」と山下が言った。食事もすみ、順吉を中心としての話題も尽きたあとであった。「おれや、今日も出先で聞いたんだがね」
重大なことを語り出すらしい気取りを見せ、彼はみんなの注意をひきつけながらしゃべった。職業柄他人の容易に知り得ない新しい内外の情勢の聞込みについてしゃべることに充分な愉快を感じているらしかた。最近の要人の意嚮(いこう)とその動きとについて彼は語るのであった。自分だけが知っているという得意な気持ちは、話を誇張にみちびいていった。聞き手の受け取り方ひとつによっては、それらは有益でないことはなかった。だが、話し手である山下自身は、それらすべての動きを主体的にどうつかんでいるのであるか?それらすべての動きのなかに、彼自身の生き方の態度はどのように設定されているのであるか?その二つはバラバラなものであっていいのか?よく動く彼の口をいつまでも見つめていても、順吉が昔の友だちから聞きたいと思うことは、ついに聞くことができなかった。山下はあちこちをこまめにわたりあるいて、かきあつめた新しい情報をまたあちこちでくりかえし放送してあるくのだろう。よく切れる有能な記者と評判されること、今の彼の生き甲斐とはそういうものであるのだろう。そうだ、もはや彼はただの記者以外の何ものでもない。彼の昔の経験は、情報をかきあつめたり、それの解釈にちょっぴり塩をきかせたりすることのなかに生かされて、無駄(むだ)ではなかった、ということになる。ふりかえってみて、悔やみなき人生行路と思いこむことができる。
「ブルジョアの機構という奴(やつ)あ考えてみりゃみるほど巧妙にできてるね。基礎もガッチリしてるよ。はたでみるようなあまいもんじゃない。なかへとびこんでみてはじめてわかるんだ」と、株屋の田辺がいった。「実際おれたちは人間の生活というものについては何も知らなかったからなア。生活の複雑さには実際おどろくね。ちょっとした一見じつにつまらなく見える日常生活の習慣なんてものも、決して単なる残滓(ざんし)ではなくて、今日の社会関係、人間関係の上にじつに大きな意味をもって生きてるんだものね。そういうことを無視しては民衆なんかついて来んさ。昔の大胆不敵さを思うと空恐ろしくなるよ。つくづく現実て奴は一筋縄(ひとすじなわ)じゃいかん曲者(くせもの)だね」
彼はいかにも実際家らしい、生活のおとならしいおちつきを示した。言葉そのものはいかにももっともであるというのほかはないものである。そういうことをいうにふさわしく、彼は肥えふとり、あぶらぎっていた。昔の青白い神経質なおもかげなどはどこにもなかった。彼はどこかふてぶてしく居坐ったという感じであった。
「まア自分の能力に応じて出来るだけの仕事をやって行くんだね、こんな時代には」と、今度は小説家の高山がいった。
自己による才能の再発見、あるいはそれへの復帰は、彼自身にとっては喜ぶべきことであろう。しかしながら、高山のみならず多くの青年は、彼らの稟質(ひんしつ)と才能とについての自覚を欠いたものばかりであったであろうか?「汝(なんじ)自身を知れ」との訓言の前に、ただ頭を垂れなければならぬ者たちばかりであったであろうか?彼らに人なみすぐれた自覚はあった。しかも自己を知り、個的人間完成のためんお知恵の光りをうちにみがくことをもはや最上のことと思えぬにいたったこと、所詮(しょせん)かくのごときものと観念したおのれにさえも反逆し、ある意味では破滅の道と知りながら、高く飛躍し、生命を燃焼させずにはいられなかったこと、そこにこそ青年の苦悩があり時代の悲劇があった。高山などもその苦悩をなやんだ一人である。今の彼には、本来いつくべきところへ帰ったという安らかさが見える。その安らかさを皮肉な眼で見るのではない。しかしその安らかさはどのようにして得られたものであるか?筆をとるという仕事を、自分の過去のつながりにおいて、どのように考えているのであろう。
「××派の川島がまたぞろ小作料の性質について雑誌に論文を書いてね。もちろん封建制遺制の問題なんだ。おんなじ問題を何回も厄介(やっかい)だがね、おれや論争を買って出たよ。今度は少し本腰でやるつもりだ」最後に、経済史家で理論家の杉村がいった。
厄介とか本腰とかいったとて、それらはただ会話のはずみでひょいひょい出てくる言葉にすぎない。一つ一つの言葉ではなく、彼の話全体にそんなところがあった。反駁(はんばく)文章を書いて発表するというころが彼にはたのしいらしい。そういう文章を書いて発表したということと書かれた内容に対して、彼は、はたして身をもって責任を負おうとするものであるのだろうか?反駁される川島も、反駁する杉村も、日常の生活意識や行動の上ではなんのちがいがあるのではなく、あらそいはただ印刷された紙の上のことではないのか?
順吉は杉村にだけは彼の留守中に起った政治的問題で疑問に思われることを二、三訊(き)いてみた。人前で意見を述べられぬような問題ではないはずだったが、彼は曖昧(あいまい)にいって答えなかった。答え得なかったのかも知れないし、答えることを避けたのかも知れなかった。ただ自分に都合のわるいある種の問題について答えを拒む時には、そんな質問をこんなとこでするのは非常識だ、という顔をするのがならわしらしいということを順吉ははじめて知った。集まりは散ってみんなにわかれ、順吉は電車に乗り、下りて家の方へひとり歩いて行った。
複雑な感情にゆすぶられながら彼はあるいて行った。彼は笑った。侮蔑(ぶべつ)や情なさや、また悲しさから来る笑いであった。真黒にくずぶった怒りと、言い知れぬ寂しさとを同時に感じた。昔を思え、なんという今のまえらの卑俗さ。それにつけても彼らをかくのごとくものたらしめた(原文五字欠)が思われた。四人は順吉に対して漠然たる対立意識を感じ、暗黙のうちに協同していた。自分らの虚を突かれることをおそれる風でもあった。彼らは自然饒舌になり、彼らのみ互いに理解し合い、順吉は沈黙し、ひとり取り残された。順吉が沈黙せねばならぬように仕向けておきながら、彼らはまた逆にその沈黙に刺激され、圧迫されるという風であっあ。(なに、出て来た当初だけさ、今にお前だって見ているがいい!)彼らは腹のなかではそう思っていた。
株屋になったって文士になったって学者になったって新聞記者になったって、そりゃいいだろう。れはひとを最高をもって律しようなんぞとは思わない。おれ自身恥ずかしい思いをして来た人間なんだ。おれはただ、彼らの今日の生活の形がどんなものであろうとも、彼らが自分の過去に対して責任を持つものであることを望むんだ。一人の人間の生の歴史が、発展もしくは没落の道が、納得のゆくようにずーっとつながっていることを望むんだ。自分自身のものでありながら、そんな過去があったか、というような顔がいやなんだ。変るにしても奇想天外な変りようであってはならないんだ。彼としてはもうどうにも(原文十三字欠)、と思わせるものがなくちゃならないんだ。そのあがきのあとを見るとき、おれの心ははじめて慰むんだ。そんなのは甘く、また感傷にすぎぬというか?それはそうかもしれぬ。しかしそれが、おれが人にも自分にものぞむところのものだ。その納得させるものが人間の誠実なんだ。……しかし今日逢った四人などはどうだろう。彼らはあがきもせず、じたばたもしなかった。当然彼らは傲慢(ごうまん)でさえもある。人間として堕(お)ちたと自覚しているものなんぞいやしない。こっちの出ようによっては、今でも、「民衆のため」なぞと言って反撃してくる用意さえあるんだ。……「おれは生きたいんだ、恥を忍んでも生きたいんだ!」そうは口に出してはなかなかいえない。しかしこじつけの理屈はやめてそういう人間の姿をじっと見つめている奴すらあのなかにはいやしないんだ……
順吉は家へ帰って、もらった雑誌をひろげ、杉村の論文を読んでみた。文学が議論の形にならべてあるだけだった。問題の取り上げ方と打ち込み方とは凡々たるものであった。何が新しくここから教えられるか。ましてや感動なぞは。反駁したり反駁されたり、平和なながめだった。論敵は千度でも起き上り小法師のごとく起き上るであろう。そしてそれはかえって双方にとって都合のいいことであろう。
ある日、思いがけなく、古い友達、というよりは先輩の島田から手紙が来、指定された日時に指定の場所へ出かけて行って、そこで何年ぶりかで彼を見たのであった。話してみて、順吉は島田を人間として信用した。彼においてはじめて心のたけを話すことのできる古い友達を見た。寂しさに堪えて来た順吉はほんとうに涙を流して喜んだ。喜びはまた更生への希望でもあった。彼は一途(いちず)に島田にたよった。彼は再び地方へ行き、農民の間で生活することを願ったのである。島田を見失ったなら、もはや万事がやむばかりのように、(原文六字欠)しようと焦って、広く深く考える心の余裕を失っていた。島田は危惧(きぐ)を感じなければならなかった。
彼らは三度四度と会った。そして最後に、「何も急ぐことはない、もう少し考えてみてはどうか」と島田は言い、今度逢うまでに一ヵ月の期間をおくことを申し出た。それは老練な島田として当然の処置であった。彼は順吉の一身上のことをそう簡単には考えなかったのである。順吉は不平であったが、結局一ヵ月後の日時と場所とを約し、二人はしばらく別れた。
順吉は血潮の高鳴りを聞き、若々しい情熱のよみがえるのを感じた。うちからこみあげて来る力感と、目標に向ってのたしかな希望とを感じた。自分がなおこのような心の状態に立ち直りうるということが彼によろこびと自信とをあたえた。秋も更(ふ)けて、巷(ちまた)に号外の鈴音がけたたましく鳴りひびき、その年の五月十五日の事件にたいする法のさばきが報ぜられた。彼が社会を留守にしていた間に起ったこの事件についての詳細は報道は、深刻な衝撃を彼に与えた。
しかし順吉のこの一見元気な恢復(かいふく)したかに見える心身の状態は決して長くは続かなかった。彼はしだいに疲れやすくなり、精気を失って、救いがたい無力な感じのかなによろめくようになった。最初彼はすべてを肉体的な生理的な原因に結びつけ、ことを簡単に考え、無理にも自分を安心させようとした。長い年月不自然な蟄居(ちっきょ)生活を送り、社会へ戻って来た当座は誰しも外貌も精神も思いのほかに生き生きとして見えるものなのだ。萎(な)え凋(しぼ)んでいた肉体の諸機能は一時に眼ざめ、どんな小さな刺戟にも敏感に反応する。涸(か)れ尽きそうであった情感の泉は溢(あふ)れ、青春を取り戻したかにさえ感じられる。見るもの聞くもののすべてが新鮮な刺戟に満ち、人間世界とはこんなにも壮大な素晴らしいものであったかと思う。人によっては躁狂(そうきょう)なほどにはしゃぎ、夜を徹してしゃべっても疲れることを知らぬのである。しかし間もなく反動が来る。世界が灰色に塗りこめられ、見るもの聞くもの何もかにもがただ味気なく、木石のような無感覚状態におちこんで茫然(ぼうぜん)としてしまうあの反動が。極端から極端へのこの振幅の度の激しさは、すべて神経の異常な疲労の結果であろう。島田に会った前後に取り戻した若々しい興奮をも上の一つの場合として片づけてしまうことは順吉の心をみたさなかった。しかしその後に来た無力感は、何らかほかのものであるのだろうか?
それはたしかに肉体的なものからも来ていた。冬にはいると窓が北に展(ひら)いている小さな部屋は昼も暗くて寒かった。火鉢に粗悪な炭をつぎ、順吉はこもっていたが、じきにのどや鼻をいため、頭痛になやんだ。咳入(せきい)るごとに黄色くどろりとした痰(たん)が出て単純な風邪(かぜ)とはおもえなかった。彼は心を引き立てようとし、よく散歩に出、繁華な街を行き、人間のさまざまな営みを見てあるいたが、美しさやいきいきとした喜びは感じられず、醜さと軽蔑したい無意味なものだけが眼についた飲食し、繁殖する人間の生のいとなみ全体を引っくるめて嫌悪(けんお)した。彼は場所をかえ、電車にゆられて、遠く河向うの工場地帯までも出かけて行った。煤煙(ばいえん)をうかべて流れる大川のほとりや、鉛いろの空に煙を吐く大煙突の立つ塀(へい)の近くなどに立って時を過した。退(ひ)け時の工場の門をあふれる労働者の波にもまじった。労働者のあつまる飯屋の片隅の席にかけて、彼らの話に耳を傾けもした。そういうことが一体何になるというのだ?だが彼はそんなこともして見ずにはいられなかったのである。家へ帰っては最後まで手もとに残ったわずかな書物に、深く心をひそめようとした。しかし予期したものは酬(むく)いられなかった。頭は悪くない。むしろ冴(さ)えている。細かにたたみこんだ論理の筋道を追及することによく堪え得た。しかしそれは単なる理解にとどまった。一行一行が冴え返り、ひきつけられたり突きはなされたりするうちに、結局大きな喜びをともなって心底に消しがたいあとをとどめるというものではなかった。なんという乾(かわ)いたこれらの文字どもであることだろう。昔おなじものから受けた感動はどこへ行ったのだろう。
これが五年間の生活が自分にもたらしたもののすべてか?彼は全体的な衰弱と、生活力の喪失とを感じた。何によらず欲望が旺(さか)んで、未知なものを新しいものに心を惹(ひ)かれ、むさぼるように読み、書き、見、ほんとに生きていると感じ、全身が内からの活力に燃えていた時代を彼ははるかな昔のように感じた。自分はまだ三十の若さではないか。彼はおのれに向って歯ぎしりしたそういう彼を一ヵ月後の島田との約束の日が待っている。順吉はそこでほんとうに全身の不安とおそれとにおののいたのである。
生活のために闘(たたか)い得るものは、彼自身が積極的な生活者でなければならない。人間の欲望を肯定し、人間の生きる姿を美しと見、民衆の生活を深く愛し得るものでなくてはならない。順吉ははじめて今の自分のありのままの姿を見たような気がした。しまだに会うまでの時分は一体何の力で動いていたか?惰性で動いていたともいえるし、頭だけで動いていたともいえるし、強制された一つの力にひきずられていたともいえる。いずれにしてもやむことのできぬうちからの力にうながされての動きではなかった。決着をむやみに急いでいるのなども、自信のなさのあらわれであった。それではみじめなことになって終るのほかはない。
そして彼はすでに過去において右の経験者であった。古傷を癒(いや)そうと焦るのあまり、今またおなじ軌道につこうとする。だが古傷は癒されず、新しい傷を得るだけであろう。
一度おのれの内部に眼を向けるやいなや、彼は仮借なくおのれの弱点を摘発した。自分に流れている父祖の血のことを思った。父と母とから自分が受けついでいるもののことを思った。弱点とみられるものもそのもの本来の性質としては弱点でもなんでもなかった。むしろ美点となり得るものであるかも知れなかった。ただ、彼が(原文二字欠)の人として立ち現われる瞬間にたちまち否定さるべきものに変るのである。自分でそれと知って、自分で処理できるものはよかった、知っていながら、自分の意志の遠く彼方(かなた)にあるものにはだまって引きずりまわされるのほかはなかった。
あらゆる自分をひきとめる力に抗して順吉はしかし島田に会う日を忘れなかった。約束の日に約束の場所に行き、決着をつけなかったならば、それでおしまいだと彼は思った。このまま進むことで二度と起(た)てないような傷を受けるよりも、もっとだめな人間になってしまうだろう。ある日彼は自分自身に向って叩きつけた。「それがどうしたっていんだ。そりゃお前のいう通りさ。お前はやくざな人間だ、理論とか思想とかいうものだって何一つものになってやしないんだ、だがそれが一体どうしたっていうんだ?お前がそんな人間でいながら、しかもそんな道をたどらねばならなかったということはなんでもないことなのか?一体この国には、言葉のほんとうの意味での知識人、思想の人なんていうものがはたしているのか?(原文八行欠)」
しかしその間にも生活は悪くなって行き、心は荒(すさ)み、頭も濁って行くようであった。夜ごとに裏街のゆおなところをほっつきあるくことが多くなった。ある夜、彼はついにかつて足を踏み入れたことのない悪い場所へはじめて足を踏み入れた。必ずしも淫蕩(いんとう)な精神に追いやられての末ではなかった。むしろ過去と今後の自分を思った感傷の末であるといってよかった。彼は夜更けて家へ帰って来た。恐ろしい自己嫌悪につかまれて蒼白(そうはく)になり、口も利(き)けなかった。彼は布団をかぶって寝た。寝つけなくて幻影を描きつづけていたが、やがてとろとろと眠りのなかに落ちこんでしまった……何時間かして彼は眼をさました。母が枕元に坐っている。
おちかは心配そうに順吉の顔をのぞきこんでいた。手拭(てぬぐ)いでそっと額の汗をぬぐってくれたところであった。
「どうかおしかえ?たいへん汗をおかきのようだが。さっきはうなされとったし」
順吉はぎょっとして布団を蹴って起き上った。
「いや、なんでもないんです、なんだか少し夢を見てたもんだから」
彼は手拭いを借りて、脇(わき)の下や額の汗をぬぐった。また横になったが、ほんとうにわるい夢を見続けている気持であった。やがてそのなかからしだいに大きなものになって追って来る一つの像があった。おちかのそれであった。
彼はこの時ぐらい、母を大きく強く意識したことはなかった。日々顔を合わして暮し、彼は母を考えぬはずはなかった。むしろそれはあまりに重々しく彼を圧し、彼は正面から向うことを避けていたのであった。問題は解決を要求していた。彼は臆病からのばしのばししていたのだ。最後の土壇場(どたんば)までほっておき、その時が来たとき、「なに、なるようになるさ!」そういって過ぎることにも彼は慣れていた。それで結構、なるようになる問題もあった。だが、今彼が当面している問題はそれではすまなかった。
おちかは八方に気を兼ねながら生きていた。ひっそりと、自分の存在を眼立たぬものにし、そのくせこの一家内において彼女ほど忙しく立ち働いているものはないのだった。広い家じゅうの朝夕の拭(ふ)き掃除から、台所から洗濯(せんたく)から、子供の身のまわりの始末から、時には使い走りまでやった。順吉が来てからはとくに息せき切っていた。おちかは二人の現在に注がれているう世間の眼に射すくめられているばかりではない、一人子の順吉の前でさえ一度は胸で調べてみて、それからいいだすというふうだった。昔からおちかはそうであった。物心ついて以来順吉は日陰者にも似た母の姿以外のものを見たことがない。子供の順吉の最初の記憶に残る母の不幸はある日の食卓での出来事だった。四人の異母兄(あに)たちが、ずらりと食卓をかこみ、大急ぎでかっこんでいた。母は給仕をしていた。突然なかの一人が、箸を投げ出して叫んだ。「おつけに虫がはいっている!」汁(しる)の実にまじって何かの黒い小さな虫が煮られ、浮んでいた。子供たちはみな箸を投げ出し、わざとらしくのどをゲーゲーいわせ、賄征伐(まかないせいばつ)の寄宿舎の悪童のように卓をたたいてもう飯は食わぬといい出した。母は青くなった。騒ぎを聞きつけてまだ寝ていた父が起きて来て、子供らよりも母を叱(しか)りその場はそれでおさまったが、午後になって帰って来た子供らは口々に学校を遅刻したと父に訴え、父はそんな子供のいうことを取り上げて、母を呼びつけて強く叱った。母は一言もいわず、物陰で泣いていた。子供の順吉も悲しくなって泣いたが、その小さな心は、父や異母兄(あに)たちへの怒りより、母への愛と憎しみで一ぱいだった。母にたいするふしぎな感情に苦しんだこれが最初の経験だった。順吉の中学三年以後、母子はしばらくはなればなれに暮した。順吉は玄関番となり、おちかは家政婦として働いていたのである。時々順吉は訪ねて行った。おちかは勝手口から上げ、台所の隣の二階に通し、主人からの貰(もら)いもので今日の日のためにしまっておいたらしいそのころはまだ珍らしかった洋菓子などを取り出して来るのであった。自分にたいする愛撫(あいぶ)の情をあらわすにさえ遠慮がちな、そのくせ腹ではどんなにか自分のことばかり思っているか知れない母を見ると、順吉はいらだたしく不機嫌になり、眼の前の菓子を邪慳(じゃけん)におしやっていうのであった。
「おっかさん、僕はこんな薄荷(はっか)のはいったお菓子なんぞ嫌(きら)いさ」
すると母は世にも情けない顔になった。その姿がまたたまらないみじめさで胸に迫り、順吉は帰ろうと立ち上るのだ。おちかはうしろから追いすがるようにし、とめるのだが、きかぬと知るとだまって手に何かを握らせるのだった。感触といつもの例で、それが紙にひねった五十銭玉二つであることを順吉は知っていた。それを押し戻し、時にはそこへおとして帰ってくる彼は、うったえどころのない、泣くに泣かれぬ気持であった。
順吉が囹圄(れいご)にあって後もやはりそうだった。おちかはあとにもさきにもただの一度しか彼を訪ねては来なかった。そのせっかくの一度の折は、情が迫って言いたいことも言えずに帰らなければならなかった。帰って行く母の後ろ姿を見て、順吉は入所後はじめて涙をながした。涙を見せまいとしてすぐに編笠(あみがさ)をかぶった。彼は昔のように不機嫌な起ったような顔をして母に逢った。この場におよんでさえ、なおもそんな顔を母に見せる自分に順吉は泣きたいものを感じた。互いの深い愛情が、素直に、あけひろげに抱き合うことのできない自分たち親子に彼は宿命を感じた。おちかは二度と会いに来ず、腹では煮えかえる思いをしながら息子のことは噯気(おくび)出さずに暮らして来た。
このみじめな老いた母がいま順吉の前に立っている。過去において棄(す)てねばならぬものはためらうことなく投げ棄てて来た。そのたびごとに一歩前進したとの感を深くした。身につけているものとてむろん多くはなかった。しかし世俗的なものの誘惑は多く、そしてまたそれは取ろうとすれば取れぬものではなかった。いわゆる青春の特権に属するものとも彼は別れた。より真実の青春を生きんがために。最大の軛(くびき)である肉親とのわかれは、この前の時には今日ほどのさびしさではその解決を迫りはしなかった。今はわかれはただの別離ではない。順吉は迷った。しかし何を今さら迷うことがあるというのだ。この問題にたいする彼らの態度を規制する原則というものは、他の問題におけると同じく直線的な明快さで打ち樹(た)てられている。(原文八行欠)
ある日彼阿暮近い銀座の雑沓(ざっとう)のなかをあるいていた。道路の片隅に老婆がひとり、蜜柑箱(みかんばこ)様の箱をおき、その上の台に三銭五銭の玩具(おもちゃ)を並べて売っていた。八ツ口に手を入れ空(から)っ風のなかにふるえていたが、時々おもいだしたように玩具の一つを手に取り、口にあててピーと吹いた。そして行人を見送った。しかし誰も立ちどまる者はない。恐ろしいものを見るおもいで順吉は老婆をふりかえって見た。
おちかは彼女の過去についてはほとんど語らなかった。それだけにまた母の不幸な生涯わけても自分の出生以前の母について順吉は想像し、そこで必ずつき当るのは最初の結婚の破綻(はたん)だった。それが何もかもの始まりであると一応は思えたが、そうではなく、その先があった。元藩士の役人の家に生まれながらおちかは眼に一丁字なかった。女子に文字など何するかと彼女の父はいった。おちかの弟の一人が学業半ばに死んだとき、父はおちかたち女の子らを前において、此奴(こいつ)ら束になって死んだ仏に代ればよかった、といった。憎悪(ぞうお)のこもった声の響きであった。おちかの生涯の不幸は、その当時にあって女に生まれたという出生の事実のなかに、すでに刻印されていた。
自分のゆがめられた青春、母の不幸、日々見聞するあらゆる個人の不幸、すべての社会的矛盾、それらをそれの真実の原因にまで追いつめられて行って順吉がつきあたるところはつねに一つだ。諸現象は彼においてつねに一つのものによって統一された。現実は複雑である、現実は割り切れぬものと人はいう。しかしながら仔細(しさい)に見れば割り切れぬと見える現実は実はおのれ自身の姿をもって見事に割り切って見せているのだ。ただ何人にもそれが見えるというわけにはゆかぬ。現象の本質的でない意味をあれこれと誇張しはやし立て、単純なものまで複雑にし、道に迷ってかえって喜んでいる一派を、今日の産物としてあらゆる方面に順吉は見出さねばならなかった。横行しているものはそれでなければ、土足で踏みにじるようなやり方で現実を割り切って見せている一つの勢力だった。――母の不幸の真の原因を思い、それの除去の道を思えば思うほど、新しい社会への翹望(ぎょうぼう)は、順吉の胸に燃えるのだった。真実に母を愛する道にこそ向え。百万のおちかとおなじみじめな母の歓喜の日に向って歩きつづけよ。
事実はしかしその時絶望が彼をとらえた。夜、母と二人一つ部屋にいて彼は自分にたいしても母にたいしても残酷な気持ちが湧(わ)いて来るのをおぼえた。自分の両手のなかにはいつてしまいそうな小さな母の顔を順吉は見まもった。彼は自分たち二人が沙漠(さばく)か大洋のただなかに暴風に吹きさらされているのを感じた。母はもはや長く生きぬであろう。そうして自分たち母子が、時と場所こそちがえ、ともに野垂死(のたれじに)の運命にあることを彼はかたく信じた。――するとその瞬間に彼はある一変した心の状態をおぼえた。激情が全く消えて氷のごとく冷やかなものが浸透して来た。静かな、まるで構えをなくした心の状態だった。すべてを投げ出した、またすべてを受け容(い)れる気持だった。同時にそのうつろな心の奥底にかすかながらしんとした力のわくのを感じた。それがたとい絶望や諦念(ていねん)の所産であろうとも彼は今しばらくそのものに頼(たよ)るのほかはないのだった。


年が明けて間もなく、順吉は風邪をひき、床についた。扁桃腺(へんとうせん)が腫(は)れ熱がかなり高かった。島田と会う約束の日のちょうど三日前の発病であったから、彼は不安になり湯たんぽを入れ水枕をして静かに寝ていた。声が嗄(か)れ、唾(つば)を吐くと歯茎から咽喉(のど)からか血が糸をひいてまじって出た。次の朝は夜じゅう寝られなかったので両眼が充血して頭痛がして堪えがたかった。熱は七度九分以下に下らなかった。おちかは心配し、医者を呼ぼうといったが、順吉はとめて何でもないと思い込ませることにつとめていた。彼は心に焦りながら、他方には、これでいいとかえってひそかに案ずる気が起るのをいなめなかった。この偶然の病気にすべてを委(ゆだ)ね、問題の解決をも一任し、成行きに任せようとの心である。約束の日約束の場所に現われなかったならば島田は彼の心が変ったものとしてべつにそれ以上は追及しようとはせぬだろう。彼にそう思いとられることは苦しくはあるが……。
翌(あく)る日も熱は高かった。当日になっても彼はなお心を決しなかった。が、約束の時間がいよいよ迫って来たとき、彼は寝床から静かに起き上った。
おちかが奥から部屋に戻って来たとき、順吉は襟巻で顔のなかばを包み、とんびを着てそこに立っていた。おちかはあっけにとられて彼を仰いだ。
「どうかしたの。え?」
「ええちょっと」声が嗄(しゃ)がれているのと襟巻で包んでいるのとでよく聞きとれなかった。「もうだいぶよくなったし、それにあまり閉じこもってばかりいて辛気くさいんで少しそのへんを散歩して来るんです」
「何をいうんだえ、お前と」と、さすがにきつい声だった。「そんな無茶なことをしてもしもぶり返しでもしようもんなら。たった今まで寝ていたというのに」自然におちかは出口に立ちふさがるような姿勢になっていた。
「なに、いいんです。今晩はよほど暖かだし……それに買って来たい雑誌もあるしするから」
「雑誌ならあたしが買ってくるから」
「お母さんになんかわかりゃしないったら」と邪慳にいい放った。
「じゃあ、紙に書いてくれればいい」とおちかは必死だった。
二人は奥へ気を兼ねて、ぼそぼそとつぶやくようにいいながらしばし争った。ついに順吉は引き止めるおちかの手を払うようにして、廊下の足音を盗むようにしてしかし急ぎ足で裏口から外へ出て行った。
外は寒さがきびしかった。風はなかったが、歩くと頰(ほお)に触れる空気ははがねの薄刃のようにぴんぴんとはねかえって痛かった。彼は興奮していた。出て来るとき母に会ったものか、それとも黙って出て来たものかとしばし迷っていた、そこへおちかが来たのだった。彼は省線のホームに上り、ふと眼が時計に触れたとき、あわて出さないわけにはいかなかった。彼は袂(たもと)をさぐり彼自身のを出して見た。それから見てさえ約束の時間にはもういくらもなかった。しかもそれは駅の正確なものと照し合わすとき五分はおくれているのである。彼は全身がぞくぞくしてきた。戻って外へ出て円タクにしようかと考えた。しかしその瞬間上りが驀進(ばくしん)して来てホームに入った。彼は追いこまれるように車のなかへはいつてしまった。
激しい鼓動を順吉は感じていた。高熱から来るものばかりではなかった。彼は落着きなくそわそわし疾走する車窓から絶えず外を眺めていた。約束の時間にはついにおくれるだろう……彼はこのせっぱつまった時になってはじめてこの二、三日来の、たった今家を出て来る直前までの自分の躊躇(ちゅうちょ)を、恥をもつて思い返した。取り返しのつかぬことをしたと思った。彼は新宿で降り、円タクを拾った。どのくらいか経って約束の場所に着いた。みだれた呼吸をととのえてドアを押した。にわかにホッとする温(あたた)かさである。腰をかけ雲った眼鏡を拭いて時計を見た。きっちり十分おくれていた。彼は周囲を見まわした。ストーブをかこみ、二、三の男が正月らしいおだやかな顔つきで新聞を見ている。前には給仕女が彼のいいつけを待って立っている。島田の姿はどこにもなかった。
がったりと気が挫けると同時に病んでいるからだの苦しさに気づいた。全身の血が頭にのぼり、こめかみはふくれあがり、眼に入る事物は幾重にも折り重なって躍(おど)っているようだった。咽喉がひりつくように痛んだ。呼吸が切迫してじつと腰かけているにも堪えぬほどだった。上半身を前に折り、眼をつぶって、彼はしばらく一つことをじっとおもいつづけていた。


出て行く順吉を見送りおちかは茫然としてつっ立っていた。息子の行動は不可解な気狂(きちが)いじみたものであった。しかしかねて漠然と感じおそれていたものがいよいよ来たという予感があった。母子二人の生活の破綻のおそれである。どうしよう、といたたまれぬふうであたりを見まわした。誰にでもいい思いきり心のたりたけを訴えたかった。するとその気持が思いがけなく一つの行動をうながすことになった。いおういおうとこの間から幾度かおもいつめ、ついに今までいい出せずにいたことをひさに向っていいだすきっかけが与えられたのである。
三十になる息子を抱(かか)え、いつまでもここにこうして暮しておれるわけのものではなかった。事実一日一日二人はいづらくなっていた。来客があり、順吉の姿をちらと認めて、「ほう、甥御(おいご)さんで。まあご立派な。何お仕事でいらっしゃる」などと語り、奎吾が、いや、と言葉を濁しているのを襖のかげで聞くのは苦痛であった。薄気味のわるい口髭(くちひげ)の紳士が順吉を訪ねた日にはひさの機嫌は眼に見えてわるく、あたりのものに当りちらした。「警察なんぞに用のない家だよ。たかが刑事ふぜいにあんな顔をされるとおもうとわたしゃ癪(しゃく)でさ」それはみんな誰のせいだというのである。つい四、五日前にもひさが何かの拍子に二人の居間に足を踏み入れ、「この部屋も壁が汚(きた)なくなったこと」といい、「こんな部屋でもねえ、景気のいい時には十円の上にも借手があったものさ」と何やら思わせぶりにいうのであった。そういう親の気持はそのまま敏感な子供につたわり、順吉が新しい下駄(げた)一足買って履(は)いても、今年十になる娘の花子に、「おじさんその下駄はうちのおかさんに買っていただいたのでしょう。おじさんはいつまでおうちにいるつもり」とあけすけにいわせるほどであった。そんな子を目の前で見ていて親はべつにたしなめもせず、かえってこまちゃくれた子を利発だとするらしい眼つきになるのであった。たとえそんなことがなくても一日も早くこの家の軒の下は出たかった。いまのおちかの願いはただその一筋道にかかっていた。それにしても肝腎(かんじん)の順吉は一体どんな考えでいるのであろうか。しかし働くにしても先立つものは多少まとまった金であった。その成算が立ってからでなくては順吉には何もいいだせない気がした。幾度か今度こそはと思い詰め、ひさを見るのもそのためだが、いざ面が向き合ったとなるとなかなか言い出せなかった。
おちかはひさが座敷にいるのを知って廊下を行き、そこの障子をあけた。――「おばさん、ちょっと」
おちかはそういう呼び方でひさに呼び慣らされていた。
「ええ?」ひさは顔もあげず、手も休めなかった。ひさは昼に外出し、その時の着物を折り畳んでいた。
「ちょっと話があるんだけれど」としばらくしてまた言った。
「話?」といってひさは顔をあげた。この齢になってまだ白粉(おしろい)を塗っている。それが剝げて、明りをまともに受けている小鼻あたりに汗かあぶらかがにじんでいた。
「なんなの」
「それがすんでからでいいんだけれどね」
「じゃあ、いますむから茶の間に行きます」
「ここの方がいいんだけれど」
おちかは話の内容を女中や子供たちに聞かれたくはなかったのである。ひさはそこではじめておちかのいつもとは少しちがう様子に気がついたらしかった。ひさはだまって仕事の手を進めた。おちかは火鉢の側に来て坐り、埋(うず)み火を起しなぞしていた。ひさは立ってしばらく箪笥(たんす)の環をかたかたさせていたが、たがてこっちへ来ておちかに向い合って坐り、「姉さん、なんなの」といっておちかの顔をみた。
「ほかのことじゃ、ないんだけど」とおちかはうつむいたままいった。炉せんを取って灰をかきならしながら、低い声でぽつりぽつりいいだした。長い間心に思って来たことだが、いざとなってはいうべき言葉にもつまるのだった。前おきのようなことをくどくどいってなかなか本筋にはいっていかなかった。うつむいている、白髪(しらが)をかきあげたうなじが細かったが、そのあたりからひさは眼を一時(いっとき)もそらさなかった。おちかは、結局は、金を貸してくれろというのだ。順吉もおかげで無事に帰って来たし、いつまでもこうしてお世話になっているわけにはいかぬ。しかしなにぶん順吉はああして世間の狭いからだになったし、世の中も変っているしするからすぐにおいそれと適当な仕事が見つかるわけもない、あれもいろいろと考えてはいるようだけれど、――それでそれまでの間が三月になるか、半年になるか、ともかくあたしがなんとかやっていかなくてはならぬ、といって今べつにまだ何も考えているわけではない、眼がわるくなって針仕事はだめだし、どっか場末の町で駄菓子屋でも焼芋屋でもなんでもやるつもり、いずれ順吉ともゆっくり相談はしてみるけれど、何をするにしても差し当ってお金だし、二月や三月のゆとりは見ておかなくちゃならない、たいへんいいにくいことなんだけれど、――
おちかは口をつぐんで火鉢の火をじつと見つめた。
「そりゃ、困るわねえ、姉さん」
ひさはおちつき払って言った。「困る」という言葉の意味がどうとも聞きわけかねるような調子であった。おちかははじめて頭をあげた。
「なにか勘ちがいしてるのねえ、姉さんは、姉さんもここへ来てもうだいぶになるんだから、うちが一体どんなくらしだかたいていわかりそうなものだとおもうんだけど、そりゃ、門戸だけは大きく張っていますけどねえ、なにしろはでな仕事でしょう、出る一方で家ンなかにお金なんぞあるもんですか。借金ばかりよ」ひさはいつの間にか紙巻を取り出して吸っていた。おちかの話の最中から用意していたらしい言葉の調子だった。
「そりゃ、高木さんにいろいろお世話になったことは忘れはしませんけどね」高木はおちかの亡夫米吉の姓である。邪推しているんだ、とおちかは誤解をとこうとする言葉をさがした。奎吾が一本立ちになる時米吉はかなりの金を都合してやった。それはそのままになっている。それを今さら持ち出すつもりはないと、おちかがいおうとするのをおさえて、「そんなことよりねえ、姉さん」とひさがいいだした。あらたまった調子である。
「順吉さんの心がけですよ、大事なのは。それがまず第一ですよ。親の眼から見りゃ、どうか知りませんけどね、わたしたちの眼から見りゃ、順吉さんはあれでまだまだちっとも折れてなんかいやしませんからね。どうですか、あの眼つきや、ものの言いっぷりは。あれが一体相当の教育ある常識ある人の態度ですかね。あんな風じゃ、まだまだだめ、どこへ出たって。順吉さんさえまもとな人間になりゃ、何も姉さんが駄菓子屋になるの、焼芋屋になるのっていいださなくたってすむこってすよ。あたしたちだって順吉さんのためにはどんな肩身の狭い思いをしたり、冷汗をかいたりしているか知れやしない、角袖にはしょっちゅう家ン中をじろじろのぞかれるしさ、外聞がわるいったらありゃしない、甥御さんはどちらへおつとめで、と人に聞かれたってまさか、牢屋(ろうや)から出て来たばかりです、とも答えられやしないじゃないの。あたしたちはまだいいが、これが武夫の勤めている学校の方へでも聞えて、そんな従兄弟(いとこ)があるってことが知れて、武夫の今後に何かの差障(さしさわ)りでもなきゃいいがと、ほんとに気が気じゃありませんよ」
思いもかけない方向に話はとめどなく滑(すべ)り出して、話をもとへ戻そうとするてがかりをおちかはとらえることができなかった。
「姉さんがわるいんですよ。今さらこんなことをいったってどうにもなりゃしないけどね、わたしたちがいったでしょう、順吉さんを学校へなんかあげるのはやめた方がいいって。物事はなんでも無理ってことはしないもんだ、順吉さんも小学校を出たらすぐにわたしたちがすすめたとおり、どっか堅い店にでも入れて実業方面に向けたらよかったんです。それが上の学校へ行くという、そんなら商業か工業へ行ったらいいというのを中学から大学とそんな身分ちがいの無理をのぞんでさ。はじめっからうまくいくわけはないじゃありませんか。今みたいになるのもみんな……」
自業自得さ、といいかけてさすがに口をつぐんだ。しかし自分の言葉の調子に乗ってひさの舌はさらに廻転(かいてん)しつづけた。
「順吉さんもほんとに生まれかわってなんでもやる気なら、そりゃわたしたちだって少しは力になってあげますよ。なにしろまだまだ苦労が足りないんだ、しなくてもいい苦労はしてるけどね。なんでもやってみたらいいんだ、ちつと世間を知るためにね、保険の外交員でも、万年筆売りでも、――場合によっちゃ土方でもさ」
「お前」とおちかがいった、ひさは自分が呼ばれたのかどうかを一瞬あやしんだ。姉が自分をこのように呼ぶ呼びごえは遠い昔のものである。
「お前、順吉に土方をしろとおいいかえ?」
声がふるえ、紙のように白くなった頰がいつか濡(ぬ)れていた。


月の末に母子はわずかばかりの手廻(てまわ)りの荷物をまとめ、その家を出て、下谷(しもや)初音(はつえ)町のある青物屋の二階に引っ越して行った。順吉が学生時代長く住んで記憶に残っている町である。順吉はあの夜、万一を予期して約束の場所になお二十分ほども待ったが、島田はついに姿を見せなかった。家へ帰って廊下を来ると座敷からひさの甲高いこえがきこえた。ゆん吉はそこにちょっと立ちどまった。ひさの相手が母であることはすぐに知れた。順吉は部屋へ帰って布団を敷き、薬をのんで横になった。なかなか寝つかれなかった。しばらくするとおちかが帰って来た。順吉が寝ているのを見てほっとしたらしく顔を見てみたが、順吉は眼を閉じていてあけなかった。掛布団の裾をなおしなどしていたが、間もなく明りを消して自分も寝た。寝返りをうち向うむきになったかとおもうと、かすかにすすり泣くこえがきこえてきた。闇のなかに眼をひらいて順吉はそのすすり泣きを聞いていた。そのうちに彼の考えはきまったのである。
青物屋の二階へ移って少しおちつくと、順吉はかつて彼が憎悪の念をこめて軽蔑した小説家の高山や、学者の杉村を訪ねた。そして筆の上で何らかの仕事を見つけてくれと頼んだ。彼らは快く彼を迎えた。
「今のような時代だ、まア焦らずじっくり腰をおちつけてやるんだね」
と、そんなふうにいって、彼ら自身の喜びであるような、当然の帰結に出会ったような安堵(あんど)したいろを見せるのであった。そしていろいろと心配してくれた。
「君ぐらいロシア語がたっしゃなら仕事はいくらだってあるよ。――おれもあんときもう少しロシア語をやっときゃよかった。もうドイツ語だけじゃ間に合わんからね」
杉村はそういって手帳を繰りながら、ある出版屋で彼と落ち合う日時をきめるのだった。きめてから、「ああそれからおれの方の雑誌にもそのうちなんか書いてくれよ。原稿料はお話にならんけどね」とつけ加えた。
順吉は二階の六畳の窓の下に小さな一閑張りの机を据えて、粗悪な原稿紙にインクをにじませながらせっせと書いて行った。おちかが女中なみにもらっていた給金のなかから少しずつ溜(た)めて来た金と、順吉が五年間の労役によって得た金の残額とがすべてだった。それがまだあるうちんいどうでも最初の仕事を仕上げてしまわなければならなかった。はじめ神経が荒れている感じで困ったが、少し書いているうちに、調子づいて来た。久しぶりに開いてみる洋書の紙やインキから来る一種の香気が彼の神経を鎮めてくれた。活字が快く眼にしみて、耳遠くなっていたロシア語のいいまわしがしだいに親しみ深いものになって来た。それらの言い廻しのなかには一種の感慨なしには口に出来ぬものがあった。生活のための闘いという感じも手伝って彼は元気に仕事をつづけた。二月の夜の寒気も苦にならず、毎晩一時二時までも仕事をした。
しかし、二度目の仕事を引き受けて来てそれがまだいくらも進まなかったある日、彼は突然ペンを投げ出してしまった。そして二度とそれを取ろうとはしなかった。何もせずに、十日近くを過した。
かつて来たのとはまた別個な精神の苦痛がふたたび彼を襲ったのである。第一回目の仕事のほぼ完了まぎわに早くも一つの疑念もしくは不安が彼に来たのであった。あるときふと、彼の脳裡(のうり)に、現在そういう仕事をしている自分というものの姿がじつにはっきりとした形でうかび上ったのである。それは現在の自分の生活の反省というような時間をかけた経路で来たものではなかった。実に突然、感じの上に来たのだった。それだけにまたそれは強く真実なものだった。彼は自分によって書き綴(つづ)られている紙の上の文字を見た。それらの文字どもは一つの(原文七字欠)ていた。つぎに彼は現にそれらの文字を書きつらねている自分の手を見た。この手は単に一箇の伝道の機械にすぎぬというか?彼の手を離れるやいなやそれらの言葉は一人歩きをはじめる。手はもはや無関係であり、何らの責任をも負うものでないというのであるか?(原文八字欠)と現在の自分との関係を彼は思わないわけにはいかなかった。かつて高山や杉村に対して向けた疑惑を、今や自分自身に対して向けずにはいられなかった。そして彼はふたたび筆を取れぬというおのれの感情をいつわりごまかすことはできなかった。
残った最後の十頁(ページ)ばかりはまるで駈(か)け足で逃げるようにして、ともかくもその仕事だけは仕上げて持って行って杉村の好意で即座に半金は受け取ることができた。しかしこうして杉村や高山らと接触の面が深く広くなるに従って彼らから示される感情には堪えきれぬものがあった。彼らは彼にたいして親切だった。しかしそれは好意以上もしくは以外のおのだった。彼らは順吉が彼らの生活圏内に入って来たことを自分たちのために喜んでいるのだった。ふたたび行動の世界に戻って行くかに見えた、そしてそれを見ることは彼らのおそれであった順吉が自分たちのところへやって来たときに彼らは安堵した。そうして自分たちの現在について一層の確信を持った。「やっぱり君でも、な」とにやにや笑いながら肩を叩きに来る感じだった。それを承知でこっちも調子を合わせているような自分の姿は見るに堪えなかった。たがいに馴(な)れ合いで穢(けが)し合ってる感じだった。
彼は自分を支えていた平俗な考えが脆(もろ)くも崩れ去ったことを知った。翻訳でもやって食おうと彼は考えた。だが一度落ちたものには、単なる生活の手段と思えたものさえもつめたく顔をそむけるのだった。自分は一体どこまで押し流されて行くのであろう。
ある日順吉は健康を理由にして二度目に引き受けた仕事の断りを書いた。テキストを出版屋まで送りかえすために郵便局まで行ったその足で団子坂下から肴(さかな)町へ通ずる道をあるいて行った。道の途中に昭和堂という古本屋があった。主人は順吉の学生時代からの古い顔なぞみで、今度こっちへ移ってからも、よく顔をおぼえていたので時々立ち寄っては話していた。今も店へはいって行くと彼は堆(うずたか)く積んだ書物の向うに坐り、一冊ずつ取っては見返しに鉛筆で何かしるしをつけていた。
「まアお掛け」と親しみ深い顔を向けて座蒲団を押してよこした。
順吉は積んである書物のなかから手に取って漫然と繰りひろげて見たりしていた。
「左翼の本は売れなくなったのかね」
「ああだめになったねえ。固(かた)い理論ものはいいが、アジ・プロものはてんでだめだね」
「おじさん、このごろでも本郷へ毎晩夜店を出してるの」
「いや、小僧がいなくなったもんで、手が足りないんで、今はやめてるよ」
「出ようとおもえばいつでも出れるんだね」
「ああ、そりゃ」
「僕を一つあそこに出れるようにしてくれないかね」
「何をいってる」と笑って仕事の手をやめ顔をあげたが、意外にまじめな顔にぶつかて笑いを消した。ああ、と瞬間にすべてがわかった気がした。新聞やその他で始終見聞きしていた「赤」の崩れがこんな身近かにもあったかとちょっと暗い気持がした。
順吉はもとよりざれ言をいっているのではなかった。そして事実彼は十日足らずのうちに昭和堂の主人の世話で本郷通りの本屋の夜店のなかにまじった。
翻訳書の印税としてはいった百円足らずの金のうち六十円ほど残っていた。その金をふところに順吉は昭和堂について古本の市場へ行った。六十円の金で何ほどの本が買えるものでもない、三流四流どころの「ゴミ市」のなかからいくらかましな書物を選(よ)ってどうにか品物を揃えるのほかはない、昭和堂がすべてそれを親切にやってくれた。「本郷てとこは固い本の客が多いからゴミ市ばかりじゃ無理だね」といって一流どころの市へも二度ほど連れて行ってくれた。振り手が本を前に口上をいうと競(せ)りがはじまる。四方から早口に声がとんでいかに心をこらしていても順吉には聞きとれぬものがあった。ましてそのなかに自分も割ってはいるなどということは今日明日のこととはおもえなかった。振り手がそれを一々さばいて落し主のところへぽんと投げてよこす。書棚(しょだな)や机の上で眺めるときとは書物というものがまるで別な感じで眺められた。十五、六の小僧が一人大人の間から顔を出して立て続けに早口にいって二十円三十円という本を落しているのを見ると、敵(かな)わないという気がした。買った本は持ち帰ると、一冊一冊レッテルを貼(は)って、昭和堂に教えられて売価を記した。ものによっては倍儲(もう)かるものがあり、一割しか儲からぬものもあった。書物の足りない分は、昭和堂が店の本を貸して補充してくれた。古物商の鑑札が下りるまでは昭和堂の店の者ということにして夜店に出るのであった。
三月の末で日中は春の近さが感じられたが日暮れからは急に気温が下った。順吉は昔田舎にいた当時着古した、片方の肘(ひじ)が抜けてしまっている洋服を着、鳥打帽を冠(かぶ)り、板草履(いたぞうり)をはいて、ビール箱に詰めた本を荷車にのせて本郷の夜店通りまで引いて行った。指定の場所に本をならべて店の恰好(かっこう)をつくっていると、「やあ、早いね」と昭和堂がにこにこしながらやって来た。如才なく両隣りの仲間に順吉を紹介し、何くれとなく気を配り注意をあたえて行った。
学校が休みなのと寒いのとで人通りがまばらで客も少なかった。客が立つと順吉はわざとその方を見ないようにしていた。客は二、三冊本を抜いてパラパラとめくって見るとすぐに去るようなのが多かった。それでも九時半ごろまでに二、三冊金高にして二円八十銭売れた。「不景気だね、やっぱり四月にならなきゃね」隣の男がそんなふうにいって話しかけて来たりした。ぼつぼつ帰り支度をしているものもある。寒いし、初日ではあるし、彼ももう帰ろうと思っていると若い男が二人連れで、これを買ってくれとまだ新しいかなり大部な本を一冊持ち込んで来た。順吉は面喰(めんくら)ったが、かねて聞かされていた買い値の標準を頭のなかに思いうかべて、一円二十銭で買うことにした。
翌朝、順吉かたがた礼を述べに行って、昭和堂にそれを見せ、買値をいうと、彼は一眼見て、「あ、こりゃ」といった。
「これがそれ、れいの数物(見切品)っていう奴(やつ)なんだよ。これは昨日、市場へ出たばっかりなんだ。よく話をしておかなかったのがわるかったがね、この出版屋のものは注意しなくちゃいけないんだ。こいつをごらん」奥附のところを見るとなるほど青い小さなゴム印が捺(お)してある。「畜生、新米だと見て、引っかけやがったんだな」と自分のことのように口惜しがった。
このような生活にはいる以外に道はなかったか、またこのような生活がいつまで続くか、ともに順吉自身にもわからぬことであった。彼はつきつめたところ自分の今後については何らの見通しをも持つことができあかった。彼はまだ生きねばならなかった。今死んではいられなかった。そして生きるからには第一義的な生活において生きたかった。しかし彼はその道を見失った。学者にも小説家にも詩人にも絵かきにも俳優にも翻訳家にも、彼らにはみなそれぞれにそおものとしての第一義的な生き方というものがあろう。高木順吉は最初から(原文二字欠)の人として出発し、その道を進んで来た。そして今彼は転換せねばならない。しかし新しい道はすぐには来ない。彼は迷えるものの姿である。単に食を得る手段ではなく、積極的に社会に働きかける生活の門は、彼の前にもいくつか開かれてはいる。彼自身が望みさえするならばそのどれかを人は通してくれるだろう。が、彼はあえてくぐり得ないのだった。彼は彼の何をもって社会に相渉(わた)ろうとするのであるか。彼は杉村や高山なることを欲しなかった。しかもなお生きねばならぬとすれば、今のところ結局あらゆる知識的な仕事から手を引いて生きるのほかはない。生活を単に食を得るための手段にしてしまうのほかはない。こんな生活は第何義的生活であろうか。下の下まで堕ち抜いた感じだが、しかもなおそこからふたたび這(は)い出し、起き上って来る時は望めぬものであろうか。望めるとも、望めぬともどっちともいえる。内と外とのあらゆる条件によってそれはきまることである。ただ彼としてはどのような場合にも、自分に納得のできぬ働き方はできない。このような消極的な態度によって、おのれのささやかな真実を守ろうとすることのなかに、彼はかすかな光りを見ている。闇のなかに見得る一条の微光である。ここにおいて彼はある一つのことに思いあたり、心の疼(うず)くような羨望(せんぼう)の感にとらえられたのだった。彼は自分とおなじようなものでありながら、その帰って行く先がたとえば村の家であるような、生涯に根をおき、働く人々と直接結びついた生活にある人々のことを思いだしたのである。彼ら自身が働く人々の一人一人なのである。彼らにあっては道はおのずから開けるだろう。彼らの日常生活そのものが、彼らの傷を癒(いや)し、彼らによみがえりの力を与える。
感動のない無表情な冷淡さで重い足取りで順吉はこのような生活を引きずって行った。
四月にはいって、春らしく暖かな日が毎日よく続いた。母子(おやこ)が借りている二階は南にガラス戸が開いて陽(ひ)が部屋の中ほどまでも射(さ)し込むのだった。その春陽の一ぱいにあたるところに襤褸(ぼろ)切れを持ち出して、おちかは一日じゅうあれこれといじくりまわしていた。年寄りというものはみなこのような仕事を好むものらしい。着古した着ものやそれをほどいた襤褸切れのなかにこめられた過去の生活の匂いをなつかしむのであろう。おちかは幸福そうに見えた。心が和(なご)んでいることがその姿からもうかがわれた。順吉とともに住めることがもはやたしかである以上、あとはただ成行きのままと思い諦(あきら)えているのであろう。順吉が夜店商人にまでなったと知った時にもおちかはべつに驚かなかった。不満もなかった。日のぬくもりのなかに肩をまるめ、老眼鏡をかけ、おぼつかなげに針を持つ手を動かしながら、遠い昔をおもうもののように時々おちかはうたった。


やまがだ やまがだ
山で育でだ黒猫コ
抱いだり負(おう)たり
飯(まま)食(か)せて
それでも泣げば
チャペ無理だ チャペ無理だ


そういう母の姿を順吉はじっと見まもっていた。母が心の平和を得ていることを彼は知った。彼が子供のころ、母はもっとも機嫌のいい時に限ってこのうたをうたった。そして叔母の家に母子がいた期間中、彼は一度もそれを聞かなかった。彼は満足している母を見ることを涙して喜んだ。しかしながら何ものにも代えがたく愛する老いた母に、依然として重い軛(くびき)を感ずることからはついにまぬがれることができなかった。この矛盾から逃(のが)れて母を見得る日の到来を母の生存中に望むことは不可能であろうか。
日が落ち、街に灯がつきそめて、順吉が車を引いて出なければならぬ時が近づいていた。
 

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