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礼部志稿解題
 
 明治四十五年春、余は京都帝国大学より派遣せられて奉天の秘庫に史料を採訪せり。其の主なる目的は清朝の根本史料を得るに在りて、明治三十八年発見以来、未だ遂写の機を得ざりし満文老檔を写真せしことは、最大事業たりしも、其以外に於て、文溯閣の四庫全書中に存する未流布の珍書を遂写することをも、亦之を力めたり。乃ち写字生十数人を傭ひ、富岡謙蔵君主として之を監督して、数種の書籍を辺鈔せしが、礼部志稿百巻は実に其の一なり。

 礼部志稿は明の泰昌元年の官修にかゝるも、其の編修の任に当れるは、兪汝楫一人にして、兪氏は其の凡例によりて見るも頗る識見ある人たること明かなるを以て、全書の体制要領を得、四庫全書総目提要にも、称賛の詞を吝まざりし程の名著なり。

 其の凡例は一、溯初制、一、理条貫、一、慎稽攷の三項に分ち、溯初制の項には明会典が毎類の首に国初諸籍の文を列し、次には乃ち後来の憲令を載せ、本末燦然として睹オープンアクセスNDLJP:239 るべきを称して、此書も一に其の義例に遵ふといひ、理条貫の項には、典故の編は蒼萃に急ならずして、貫通に急なり、広博に急ならずして、提挈に急なるを以て、定局、布列、載筆ともに提綱挈領に意を用ひたりといひ、慎稽攷の項には旧聞を網羅することは、独り掛漏を恐るゝのみならずして、誤謬を攷正することも亦編摩の第一義なりといひ、詞林の鉅公より累朝の金匱石室の副を請ひ得たる外、当事の名公より本曹の掌故諸牘を示されたれば、参互攷訂、余力を遺さずといへり。

其の編次は大要左の如し。

 第一巻より第六巻に至るを聖訓とし、洪武年間より隆慶年間までの詔勅を挙げ、

 第七巻は建官にして、礼部の組織を述べ、

 第八巻は総職掌とし、

 第九巻より第廿四巻までは儀制司職掌とし、

 第廿五巻より第卅四巻までは祠祭司職掌とし、

 第卅五巻より第卅八巻までは主客司司職掌とし、

 第卅九巻第四十巻は精膳司職掌及び司務庁職掌とし、

 第四十一巻より第四十四巻までは歴官表とし、

 第四十五巻より第五十巻までは奏疏とし、

 第五十一巻より第五十八巻までは列伝とし、

 第五十九巻より第八十巻までは儀制司の事例備考とし、

 第八十一巻より第八十九巻までは祠祭司の事例備考とし、

 第九十巻より第九十二巻までは主客司の事例備考とし、

 第九十三巻は精膳司の事例備考とし、

 第九十四巻より第百巻までは総事例備考とし、

 四庫全書総目提要には之を評して釈菜、薦舉諸詔の如きは明実録の載せざる所たり、祈雪、建宮諸訓は嘉靖祀典の未だ録せざる所たり、王妃の冠服、百官の常服及び大宴の楽章は、明史の礼楽志に較ぶれば詳なりとし、貢挙起送の額、誥勅表章の式は明会典に較ぶれば備はれりとし、経筵の侍班員額は明集礼の遺せる所を拾ひ、朝覲、賞賚の諸制は星槎勝覧西域行程の闕けたる所を補ひ、案掌の文なれば稍や冗雑に傷ると雖も、而かも備を掌故に取るは、体例著書と稍殊なり、固より冗雑を以て病とオープンアクセスNDLJP:240 する能はずとなせり。

 其書の浩澣なると、且つ今日に在りて史家の資料として直接に必要なる部分に緩急あるとを以て、余も未だ全部を通読する能はざるも、其の明代の外国関係を徴すべき項目は、大率之を渉猟したり。其の結果として、粗ば余が此書の価値に関する所見を述べんに、編者が自ら言ふ所の累朝の金匱石室の副とは、即ち明代実録の副本を指せるが如く明代に於ては、詞林即ち輸林院に実録の副本を蔵して、掌故の研究に備へたれば、編者は主として材料をこゝに取り、又所謂本曹の掌故、即ち礼部衙門が自ら管理する記録をも参取したる者なるを以て、其の聖訓の項下に於ても、明の歴朝宝訓の懐遠人、馭夷狄等の項下に載する所と頗る出入あり、儀制司職掌中、蕃国礼の各項、主客司職掌中、朝貢、土官、朝貢通例、賓客、賜諸番四夷土官人等の各項、精膳司職掌中、管待番夷、土官筵宴等の項及び番夷土官使臣下程等の項は万暦重脩の明会典と全然同一にして、珍とするに足らざるも、主客司事例備考中の朝貢備考には、頒朝貢礼、貢使請乞、賜各国、優礼、郎礼、筋各国、封国爵、布文教、各国興継、処番僧、訳職等の子目を有し、其の細目は更に数百条に上り、精膳司事例備考中の筵宴備考に載せたる宴貢使の子目と共に、実に明代外交掌故の大観たり、但だ星槎勝覧、西域行程録の闕を補ふべきのみならず、余が知れる範囲にては、殊域周咨録、五辺典則、西洋朝貢典録、使職文献通編等、最も精詳なる掌故の書にも見えざる重要の材料を包有するを見る。蓋し明代の掌故は要するに実録より備はるなく、明人の私撰せる掌故の諸書は、実録を刺取して之を為せる者多く、此書の如きも、明集礼、明会典等の外に在ては、実録に取る所多きは、疑を容れざるも、其の体例の整然として、検出に便利なるは、実録若くは実録を刺取せる他の諸書に比して、負かに愈れる者あり。又礼部の記録に拠りたる材料は此書の独り豊富にして他書の及ぶべからざる所なれば、単に明代外交史の資料としても、有力なる参攷書たるべし。

 試みに一例を挙げんに、此書の第九十巻に日本番僧価値の項あり、曰く、

景泰三年礼部奏。日本国王有附進物及使臣自進附進物。倶例応給直。考之宣徳八年賜例。当時所貢以斤計者。硫黄僅二万二千。蘇木僅一万六百。生紅銅僅四千三百。以把計者。袞刀僅二。腰刀僅三十五耳。今所貢硫黄三十六万四千有奇。蘇木一十万六千。生紅銅一十五万二千有奇。袞刀四百一十オープンアクセスNDLJP:241 七。腰刀九千四百八十五。其余紙扇箱盒等物。比旧倶増数倍。蓋縁旧日獲利而去。故今数倍而来。若如前例給直。除折絹外。其銅銭総二十一万七千七百三十二貫一百文。時値銀二十一万七千七百二十二両有奇矣。計其貢物時値甚廉。給之太厚。雖曰厚徃薄来。然民間供納有限。况今北辺及各処進貢者衆。正宜樽節財用。議令有司估時値給之。已得旨従議。有司言。時値生紅銅毎斤六分。蘇木大者銀八分。小者五分。硫黄熟者銀五分。生者三分。臣等議。蘇木不分大小。銀倶七分。硫黄不拘生熟。倶五分。生紅銅六分。黄銀三万四千七百九十両。直銅銭三万四千七百九十貫。刀剣今毎把給鈔六貫。鎗毎条二貫。抹金銚毎個四貫。漆器皿毎個六百文。硯匣毎副一貫五百文。通計折鈔絹二百二十九疋。折鈔布四百五十九疋。銭五万一百一十八貫。其馬二疋如衛拉特下等馬例。給紵糸一疋絹九疋。悉従之。

 此の一事は明史日本伝にも之を載せたるも、太だ粗略にして、此書の所載、当時の情偽を尽せるに比すべくもあらず、以て此書の価値の一班を窺ふべし。

 但だ此書は四庫全書に入る時に乾隆帝の定めたる例として、多く外国の地名等を改訳するを経たること、こゝに引ける衛拉特が原と瓦剌とあるべき者なるが如し、余は会典に対照して、其の改訳の頗る多きを見たり。又女直に関することは、全然删除したる者あるも其定例の如し。然るに又当時校訂の臣が不注意の為めに、建州左衛に関する記事、即ち清朝に最も深き関係ある者も、删除に漏れたる処あり。要するに原書が多少の竄改を経たる跡あるは惜むべきも、未だ此の小瑕疵を以て、其大なる価値を軽重するに足らざるなり。

(大正五年一月史林第壱巻第壱号)

 
 

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