瞋恚に対する了簡の事
瞋恚といふは◦我に背けると思ふ人に対して妄りに遺恨を挿み◦鬱憤を散ぜんとする事なり。此科の病に対する良薬として◦あぽすとろ◦ゑへぞ四ツに◦汝等が中より◦嗔り◦憎心◦悪口◦諍ひ◦悪心等を退けよ。柔和愛憐を本として◦我等を赦し給ふ御主 きりしと に対し奉りて◦互ひに赦しあへと宣ふ者也。又*さん◦まてうすをもて◦兄弟に対して嗔りを為すべき輩は◦じゆいその時◦御糺明なくして叶ふべからずと宣ふ也
一ツ茲に観ずべき事あり。諸の鳥類畜類は◦生れ付より敵を防ぐ道具を帯する者也。或は角をもち◦或は蹄をもち◦又はあぶ◦蜂◦嘍蚊の類までも◦人を喰ひ血をあやすくちばしを持といへども◦人は生れ付より互に無事を保つべき為に◦他に仇を為す道具を持事なく◦御作者よりあかの裸に作り給ふ者也。然るに仇を為すべき事を企て◦憤りを散ぜん為に◦身に持ざる刀杖を求め◦恚りの火を燃す事◦生得の道に◦如何ほど違ひたるぞといふ事を観ぜよ
二ツには◦他に不会し◦憤りを散ぜんとする事◦偏に荒き獣の類なりと心得よ。偏に龍虎◦獅子王の荒き事を学びて◦汝が貴き仁の位を失ふ者也。*ゑりあのゝ記録に見ゆるは◦或時獅子王◦狩人より疵を蒙りて逃たる事あり。一年過て後◦其国の*じゆうばと申帝王の御狩の時◦件の獅子に疵を付たる人供奉りければ◦忽ち彼獅子王是を見つけ◦狩場に群りゐたる人数の中をかけ破り◦彼人に向ふといへども◦万民防ぐによしなくして◦終に彼人をかみ殺し◦散々に引裂しと見へたり。誠に憤の深き人は此畜類に異ならず。智恵を持たる人間の身として◦恚りを治むる心のなきには非ずといへども◦只身の瞋恚に引れて◦畜類と等くなり◦あんじよに異ならざるあにまを打捨て◦浅間敷進退となる事◦如何程の無道なる者とか思ふや
爰に◦人に依て云べきは◦嗔りの焰の盛なる時は◦更に是を治め難しと。汝よく観ぜよ◦御主 ぜすきりしと 汝が為に為し給ふほどの御事◦如何計の事とか思ふや。汝が堪へ難しとする瞋恚の苦しみよりも◦尚限りなき御苦患を凌ぎ給はずや。御敵に対して御血を流し給ふにあらずや。然るに汝◦今又◦科を以て◦日々に御敵の行ひををなし◦御恩を仇にて報じ奉るといへども◦御柔和の御上より御憐みをたれ給ふのみならず◦御身に立帰り奉る時は◦又量りなき御慈悲を以て汝を請取給ふ者也。汝は敵の科に対して◦閣べき謂れなしと思ふや。然らば でうす は汝が科を◦何たる謂れありてか御赦しなさるゝと思ふや。身の上には御慈悲を希ひ奉り◦他人に対しては◦私の憤りを散ぜんとするや。相手に対しては赦すべき道理なしといふとも◦尊き御教の道を以て汝が方よりは赦すべき道是多しと思ひ◦別して御主 きりしと に対し奉りて◦閣べき事肝要なりと思へ
三ツには汝が憤りを散ぜんとする間は◦でうす も又汝が修善の捧げ物を◦曽て御納受なさるゝ事あるべからず。故に*さん◦まてうす五ヶ條に見へたる如く◦兄弟に背く事ありと知らば◦先行て入魂して◦其後に捧げ物を奉れと宣ふ者也。爰をもて◦他人と中を違ふ事大なる逆罪なりと聞へたり。入魂せぬ間には◦でうす へ御中を違ひ奉る同前なるが故に◦汝が諸行◦皆以て御主の御内証に叶ひ奉る事あるべからず。是を指て*さん◦げれごうりよ◦柔和をもて人の科を堪へずんば◦我等が善根一ツとして徳となる事あるべからず◦と宣ふ也
四ツには◦汝が敵は誰ぞと云事を観ぜよ。必◦善者か悪人かなるべし。善人を敵とするにをひては◦でうす の御親みにて在ます善人を◦敵として憎む事大きなる身の仇也。縦ひ又◦善人ならずといふとも◦他よりかけし恥辱を妄りに報ぜんとする事◦私検断なるがゆへに◦他の科を罰するには非ずして◦却て其身に非道の罪を行ふ者也。加之◦汝は彼に報ぜんとし◦彼又汝に報ぜんとするにをひては◦此等の敵対◦浮世にたゆる事あるべからず。*さん◦ぱうろ此道に勝て運を開くべき道を教へ給ひて◦ろまのす一に◦只善を以て悪にかてと也。是即◦人よりしかくべき仇をば恩をもて報ぜよとの儀也。幾度か汝が上に人の科を科にて報じ◦一度も負けじとするが故に◦却て拙く負るのみ也。それといふは我身の妄りなる憤りに取伏られて◦恚りの心に負る者也。誠に是に勝べき道は大なる城を責落すよりも尚其力入る事也。我身の憤りを治め◦法度に隨ひ◦瞋恚の猛火を消す事は◦城を責落すよりも尚強き利運也。是を隨へ治めずんば◦甚しき敵となりて◦汝をいつも責伏べし。痛ましき哉◦智恵の眼つぶれて此悪に募るといへども◦更に弁る事なし。其故は人として憤を散ぜんが為に◦他の科を報ずるに其謂れありと思ひ◦瞋恚の計を以て其身をさし悩ますといへども◦覚ゆる事なく◦憲法の道と心得◦悪に善の彩をして忖る也
去ば此悪に対して勝べき料簡といふは◦妄りに我身を思ひ過す大切の根を截るべし。邪なる心の根に斧を下さぬにをひては◦人の纔なる悪言を以ても◦瞋恚の焰に焼かるべき者也。汝生得の恚り深しと知らば◦万事に付て敵のやじりを防ぐ事安し。此覚悟をして汝が心に一ツの事を定めよ。是則◦嗔りの心燃立べき時◦先無言して心を治めよ。縦ひ万事に道理を持といふとも◦汝が心を信ずべからず。為さずして叶はざる事ありといふとも◦嗔りの焰の消へんまではする事勿れ。暫く心を静め◦ぱあてるなうすてる一巻誦間なりとも待べし。*ぷるたるこの記録に◦或帝王心に叶ひたると思給ふ臣下あり。官位を上表して罷り退く時◦帝王へ一ツの諫めをなして申さく◦君もし逆鱗あらん時◦何事にてもあれ宣ひ出さるべしと思召事あらば◦必いろはを一返唱へ給ひて◦綸言を出し給へと奏して去りぬと也。是別にあらず◦恚りの心に起る時◦智恵の眼も塞りて賢き人も愚人となるといふ事を◦知らしめんが為也。去ば事を定め行ふべき為に第一の悪き時分といふは◦恚りの心起る時なりといへども◦人として必瞋恚の心燃る時◦早く行ひ定めたく望む者也。故に◦此砌深く用心すべき事也。酒に酔たる人は本心を失ふが故に◦妄りに事を為すを以て◦大なる後悔の基となる也。その如く瞋恚の焰胸に余れば◦忽ち智恵の眼くもり◦是非を弁へずして今日なしたる事のよきと思ひしは◦明日は大に悪くすまじき物をと思ふ事あるべし。誠に酒と好色と瞋恚の三ツに勝りて◦人を迷はす物なし。其に依てゑけれじやすちこ十九に◦Vinum, et mulieres apostatare faciunt sapientes. Ecclesiast. 19 酒と女は智者の分別を迷はすると宣ふ也。是酒のみに限らず。何れの妄りなる望も◦智者を迷はする者也。又汝に瞋恚の心のをこるにをひては◦忽ちそれを掃はん為に◦余の事を心に思へ。其故はもゆる火の薪を引取れば◦其火忽ち消果る者也。憤りを散ずる事叶はぬ人に対しては◦尚大切に思ふべき事を歎く事◦又よき堪忍の便也。其故は大切なき堪忍は◦遺恨と成替る事多し。又他人の嗔りより退く事◦自他ともに尤よき堪忍の便也。其故は人の憤りを退くにをひては◦其人にも嗔りを止させ◦我も嗔りを起さぬ也。もし又退き難き事ありて返事をするといふとも◦如何にも柔かに答へよ。和なる言葉は瞋恚を砕き◦荒けなき辞は恚りを起すと*さらもんも宣ふ也。
巻末附録「第三 欧語抄」より
- ○あにま Anima 「たましひ」 霊魂
- ○あぽすとろす Apostros 宗徒 聖徒
- ○あんじよ Anjo 「天人」 天神
- ○ゑけれじやすちこ Eclesiástico 集会書
- ○ゑへぞ Epheser 人名〔ママ〕
- ○ゑりあの Eliano 人名
- ○げれごうりよ ぱつぱ〔さん〕 Gregorio Papa S. 人名
- ○さらもん Salomon 人名
- ○じゆいぞ Juizo 「御糺明」審判
- ○じゆうば Juba 人名
- ○ぱあてるなうすてる Paternoster 主祷文 大主経
- ○ぱうろ Paolo, S.
- ○ぷるたるこ Plutarcho 人名
- ○まてうす〔さん〕 Mattheus, S. 人名
- ○ろまのす Romanos 羅馬書
巻末附録「第四 聖書引用文句索引」より
- 184頁 3行以下 以弗所4章31、32節
- 184頁 6行以下 馬瓄5章22節
- 187頁 5行以下 馬瓄5章23、24節
- 188頁 6行 羅馬12章21節
- 191頁 2行以下 集会19章2節
- 191頁 11行以下 箴言15章1節
この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
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原文:
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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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翻訳文:
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この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。
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